17.蒼き龍が翔ける
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神と高嶺が話す以外は全てが息を潜めている中で、その音は思いのほか大きく響いた。高嶺の懐から落ちた扇が床に落ちたのだ。明香はひやりとしたが、すぐに扇を拾った高嶺は動じた様子もなく謝罪する。
「申し訳ございません。畏れ多くも四大高位神様方のお言葉を賜っている最中に、大変な無作法をいたしました」
だが、最高位の神々たちは機嫌を悪くした風もなく、光をふわりふわりと揺らしながら応じる。
『いやいや、構いませぬ』
『謝罪などされずとも良いのですよ』
『扇は壊れておりませぬか』
『新しいものを差し上げましょうか』
水神、風神、火神、地神が口々に言った。明香は安堵と驚愕を同時に覚える。神の前で無礼をしても、当然のように赦される。それどころか、敬い気遣ってもらえる。これが、神々に愛される天威師の特権なのか。
「多大なるご温情に心より感謝いたします。……また、畏れながら四大高位神様方に申し上げます。こたびの招請は、覚醒したばかりの紅日皇女があなた様方をお慕いする余り、心がはやって喚びかけてしまったもの。尊き御身のお時間を頂戴してしまいましたことを心よりお詫び申し上げます……」
そう告げた高嶺は、そこで微かに表情を歪めた。先程と同様、虚空に視線を投げ――身動ぎしようとたところで、どこからか美しい声が降ってきた。
『お待ちなさい、高嶺。手出しは不要よ。そのまま静観しておいでなさい』
「っ……」
瞬間、動きかけていた高嶺がぴたりと止まる。
(殿下、どうなさったの? 今の声は何……どこから聞こえたの?)
四大高位神の声ではなかった。明香が視線だけを動かして辺りを探っていると、赤光が大きくなり、火神と水神の声が答えた。
『何を仰います、藍闇太子様。そのようなことお気になされますな。我々も姫君様とお話し致したかったゆえ、お呼びいただいて嬉しく存じました』
『真皇族方がお健やかに在られることは我らにとり至上の喜び。今後ともぜひ――』
その時、その声を遮るように、ドタドタと騒がしい足音が響いた。
「お待ちください、殿下……殿下は現在謹慎中で……」
「うるさいわね、どきなさいよ!」
言い争う声が聞こえたと思えば、乱暴に扉が開き、花梨が駆け込んで来た。
「ちょっと、何事なのよ! すごい神威が神官府に降り注いでいるわよ!」
例の揉め事はつい昨日のことなので、明香は反射的に肩をすぼませる。高嶺がすぐにやって来たことからも、高位神が降臨していることは御威を持つ者ならば察せるのだろう。だが、急いで入って来たのは二人とも同じなのに、所作や動作から滲み出る気品や風格は全く違った。高嶺には洗練された優雅さと高貴さがあったが、花梨はひたすらにバタバタと騒々しく忙しない。
(同じ太子なのにこうも違うんだ……)
「まさか四大高位神がそろってるの?」
花梨が四色の光を見て大きな目を見開き、ぐるりと室内を見渡し……一人立っている明香に気付いた。
「あなた……」
(うわ、見つかっちゃった……)
そろりと目を逸らす明香に、花梨は眉を吊り上げた。
「あなたね、何をぼーっと突っ立っているのよ! 相手は四大高位神よ。礼を取る必要がないのは天威師くらいのものよ」
太子殿下はきちんと礼を尽くしていますけど……と、言葉にできない反論を飲み込んでちらりと高嶺を見遣ると、言いたいことを察した花梨が声を尖らせた。
「高嶺お兄様は生真面目なのよ! こちらは天威師なのだから、頭を下げるのは神の方なのよ。だから堂々としていればいいのに、陛下と同じで変なところに気を遣うから。親子そろって天威師の自覚に欠けているわ」
手を一閃し、金の扇を取り出すとハラリと広げて言う。
(た、太子殿下、太女殿下がすごく失礼なこと言ってるんですけど!)
とても神を尊ぶ皇族とは思えない発言に、神官たちが唖然としている。焦った明香は高嶺を見るが、高嶺は無言で花梨を睨むばかりであり、何も言葉を発さず微動だにもしない。
(……太子殿下?)
だがよく見ると、漆黒の双眸の奥に苦悶のような感情が浮かんでいる。どうしたのだろうかと思わず目を凝らし――明香は小さく息を呑んだ。
(え――)
よく見れば、膝を付いた体勢で固まっている高嶺の全身を、黒い紐状の光が縛り上げている。四肢や胴、頭部や喉まで体中が搦め捕られており、動くことも声を出すこともできずにいるようだった。
(な、何あの黒いの!? 皆には見えてないの? ……四大高位神様方も?)
全き天威師である高嶺が完封される事態など、起こり得るはずがないのに。深みのある玄の輝きは、しっかりと高嶺を拘束して離さない。
『こら、やめなさい。もういいだろう、僕の宝玉』
別の声が響いた。同時に、粉雪のような光が高嶺を取り巻いて煌めき、玄い光が消失する。瞬間、高嶺が動いた。
「最高神たる四大高位神と言えども、結局は至高神の下に控える神じゃない。至高神の一員である天威師ならもっと毅然と――きゃあ!?」
ぺらぺらと喋っていた花梨の真横に現れると、頭を抑えて体ごと床に押し付けるようにして強引に平伏させる。
「痛い、離してよ!」
「黙れ」
心臓を握り潰すような冷たい声音で言い捨て、高嶺は神々の光に向けて叩頭した。
「誠に申し訳ございません」
『いやいや、藍闇太子様には怒っておりませぬよ』
火神が丁寧かつ静かな声で返す。他の三神は無言だ。だが、明香は無意識のうちに跪拝を取っていた。
分かってしまったのだ。今、四大高位神は非常に気分を害していると。ただ、その怒気が大きすぎて、人間の器では正しく知覚できないのだ。
最初に声が聞こえた時は、大気が重みを増すという形で威圧を認識できた。あれは、神々がこちらに伝わるよう、あえて神威を加減してくれていたのだ。一見無反応に見える今の方が、よほど危険だ。人には察知できない次元で、神が怒りを発しているということなのだから。
高嶺も分かっているのだろう、纏う空気が険しくなっている。
「何よ……私は日神の愛し子よ。四大高位神だからって無礼だわ」
花梨がやや押されつつ口の中でもごもごと呟く。
『……何と愚かな』
水神がポツリと呟き、明香の全身が凍る。これはまずいと、本能が告げている。高嶺が目を細め、静かに口を開いた。
「申し開きもございません。全て私の監督不行き届きゆえ、責めは私一人にお与えを……」
――その時、高嶺の言葉をかき消して、壮大な波動が湧き上がった。
皇宮のある一点を基点に生じた力は円状となって広がり、一瞬の後、美しい蒼色の龍が本殿から空に翔け上がった。清冽さと優美さを湛えた燦然たる気が皇宮に満ちる。
(何……すごく綺麗な気)
肺腑の奥まで浄化されるような澄み切った気迫が、不安と恐怖を洗い流していく。体だけでなく心をも余すところなく清められる思いがして、明香は大きく息を吸い込んだ。四大高位神たちがころりと機嫌を反転させる。
『おお、これはこれは蒼月皇様!』
『どうなされましたかな?』
『ほぅ、我らと空を散策なさりたいと』
『喜んでお付き合いいたしましょう』
地神、風神、水神、火神がそれぞれの光を揺らめかせながらうきうきと上機嫌な声を出した。
『我らは蒼月の君様のお誘いを受けましたゆえ、これにて失礼致します。藍闇太子様、紅日皇女様、話せて楽しゅうございました。またお会い致しましょう』
水神の言葉と共に、四色の光は再び帯状となって天井に消えていき、空へ昇る。銀の月が浮かぶ上空で優麗な長駆を揺らめかせていた蒼龍の元に飛んで行くと、龍と光は戯れるようにして絡み合いながら飛翔し、雲間に消えて行った。
跪拝の形を取ったまま首だけ動かした明香は、教導室の窓から見えるその光景を呆然と眺める。
(蒼月皇って……今の蒼い龍、陛下なの?)
龍の姿を取る神は、月神の他にも水神など複数がいる。だが、月神が転身する龍は他の龍とは別ものであり、星屑のごとく煌めく虹色の燐光を纏っているとされる。闇神の麒麟と日神の鳳凰も同様で、その体躯は虹色の光を帯びていると言われる。
虹色の輝きを纏えるのは至高神のみ。そして遠目ではあるが、先程の蒼龍は、昼の陽光と青空の中でもはっきり分かるほど美しい虹色の輝きを纏っていた。
(うん、今の龍はやっぱり陛下だ。陛下は蒼月神様だもの)
そう考えた時。パンと乾いた音がした。花梨が高嶺の頰を引っ叩いたのだ。
「何をするのよ! いくら太子だからって無礼が過ぎるわ! 私は日神様の……」
「自分が何をしたか分かっているのか」
氷のような声音が、キャンキャンと喚く声を断ち切った。
「四大高位神様全柱の怒りを買うところであった。陛下が気を引いて下さらなければ、都が――いや、この国ごと滅ぼされていてもおかしくなかったのだ。おそらく天威でこちらの様子をご覧になっておられたゆえ、動いて下さったのだろう」
龍と神々が昇って行った空を一瞥し、鋭い視線を花梨に戻す。
「そもそもそなたは謹慎中だ。にも関わらず、いきなり宮から駆け出してこちらに向かってくるとは。近くにいなければ神の気配にもろくに気付かぬ技量だというのに、遠く離れたそなたの宮からこの神官府の異常を察したのか」
(あ、何か気にしているような感じだったのはそれでか……)
高嶺は、幾度か虚空を見遣ったり、何かを気にするような素振りを見せていた。皇宮には彼の天威が張り巡らされているため、花梨の動向を遠視で把握していたのだろう。そして、どうやら神官府に駆け込んでくるつもりだと察知し、何らかの対処しようとした。
――だが、四大高位神ではない謎の声と黒い光によって言動を封じられ、身動きできなくなってしまった。ゆえに花梨を止められなかったのだ。
(何だったんだろう、あの声と光。誰も気付いてなかったみたいだし――太子殿下をあっさり抑え込むなんて)
疑問に思う明香だが、さすがにここで割り込んで問いかける勇気はない。
「そうよ。神官府の方から大きな神威を感じたから気になって来たのよ。太女として当然の行動よ、皇宮の一大事かもしれない時に謹慎なんかしていられないでしょう。ふふ、ついに私も神の気を感じられるようになったということね」
つんと顎を反らして得意げに言う花梨に、高嶺が端正な顔を顰めた。
「……本物が目覚めたゆえ、そなたまで引きずられて感覚や身体力が増大しているのか」
「太子殿下、四大高位神様方がご自身と繋がる神威の御光を下ろしてお声を届けるなど前代未聞にございます。おそらく神官たち全員がお声を聞き取れていたはず。常はそのようなことはなく、高い御威を持つごく一部の者にしかお声は聞こえなかったのですが、こたびは……」
佳良の言葉に、高嶺は首を横に振る。
「いや、前代未聞ではない。皇帝陛下や私がお声を聞く際も、御光が下りて来るだろう。他の皇族の場合も同様だ」
「それは……そうでございますが。しかし、現在の皇族方は全員が天威師であらせられますゆえ、前提が違います。こたびは殿下がいらしていない時分から、御光は下りておりました。それに、聞き覚えのない皇女様の御名まで呼ばれておいででございました。紅日皇女とは一体……」
この場の皆が抱いているであろう疑問に、高嶺が即座に答えた。
「紅日皇女こそが20年前の神託で告げられた子であり、真の日神様の愛し子だ。今まではゆえあって市井に身を投じていたが、このたび全き天威師として覚醒し、皇宮に戻った。ゆえに本日付にて、正式に皇女に冊立することとなった。そして紅日皇女はここにいる」
花梨が言葉も無く絶句し、神官たちにざわめきが走り、佳良が目を見開いて明香を見た。
「それは……もしや――」
当の明香は目をぱちぱちと瞬かせている。
(え、何でこっちを見てるの?)
加えて、何故か高嶺までが視線を向けて来た。
「紅日皇女はそなただ、斎縁明香。改めて言おう。そなたは我が皇家の血筋。そして徴を発現させ、天威師となった。ゆえに本日付けで、そなたは皇女の身分を取得した」
ありがとうございました。




