100.怒りの平手打ち
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「しかし、一段落したと安心したのもつかの間……悲劇はまだ終わらなかった。その後、長男たちも次第に性根を腐らせていったのだ。一位貴族や大公家の当主という絶大な地位と権力は、人の心に眠る欲や澱みを容易く揺り起こす」
震えるような高嶺の声に、明香は発しかけた問いを呑み込んで聞き入る。
「長男たちの奥に隠れ潜んでいた醜悪な本性は、徐々に肥大し露出して来た。加えて己の子が奇跡の御子となったことで、彼らは完全に増長し、悪い方に変容していった」
代々天威師が頂点に立ち、初代からの意思や在り様を堅実に継承していく皇家と帝家とは違い、宗基家とノルギアス家は聖威師ですらない人間が当主となることもある。
人は神よりもずっと移ろいやすく、負に傾きやすく、そして邪に呑まれやすい。
皇家と帝家も目を配ってはいたが、宗基家とノルギアス家もまた慈しむべき臣下である上、個々の伝統を持つ独立した家門であり、加えて家や家人の尊厳もある。また、天威師は多忙であり、単純に時間が足りない。ゆえに、彼らの一挙一足一動や家庭内のことまで細かく注視し把握することは難しかった。
「それでも最後の線は踏み外させぬよう、可能な範囲で立ち回っていたが――それも限界になりつつあった。宗基家の場合は現当主を見れば分かるだろう」
「はい……」
散々な悪評にまみれ、それに相応しい狡猾な邪気を放つ豪栄を思い出すと、頷く以外にない。
「私は先代ノルギアスの方が許せません。あれは5年前に、既に一線を大きく超えている」
綺羅が絞り出すように呟いた。高嶺が歯を食いしばって同意を示す。
「ああ、私もだ。ショアーコンの長男――先代大公テイヤー・ノルギアス。私たちはあの男を永遠に許すことはない。5年前のあの件が起こった後、私たちは内密に先代について調査し、彼の腐った行いを把握した。メイリーアン嬢への偏った教育も、産後弱った彼女の母に十分な治療を受けさせないまま死亡させ、強制的に転生させたことも」
二人の全身から、今まで見たことがないほどの激しい憎悪と憤怒が閃いていた。
(ノルギアスの先代って……メイリーアンさんのお父君だよね。半年くらい前に死亡したっていう)
それと入れ替わりに、ライハルトが大公位を継いで現在に至るはずだ。
「ああそうだ、5年前あやつは……先代大公は珠歩兄上を――!」
高嶺が悲痛な声を上げかけた時、再び殿舎の内から耳障りな怒号が響いた。
『あれはあなたの自業自得だ! 魅了の力を持つ皇家の御子ならば、己の父親の心くらいしっかりと繋ぎ止めておけば良かったのだ!』
皆が一斉に押し黙り、声が炸裂した方角を見る。
(さっきと同じ声……)
明香が眉を顰めた時、綺羅が独りごちた。
「宗基家の当主ですね。蒼月皇陛下の気配もいたします」
(そうだ、豪栄さんの声だ! 陛下も中にいらっしゃるの? でも、今の台詞は……豪栄さんは自分の父親がしたことを知ってるんだ。知っててそんなこと言うの?)
もしや、突如として記憶が流れてきたのはそのためか。豪栄の言葉で、白珠の思い出の箱のふたが開いたのかもしれない。思い出したくもない辛い記憶の入れ物が。
『ふん、結局は金の方を取られてあっさり見捨てられるとは、何ともまあ哀れなことだ』
血涙を流す記憶を抉るように、心ない大声は続いている。
「……」
明香はゆらりと立ち上がり、地を蹴ると一目散に殿舎目掛けて駆け出した。中に走り込むと、目を血走らせて叫ぶ豪栄と、こちらに背を向ける凛とした後ろ姿が見えた。褐色の翼がはためいている。
「黙れ! お前など……夫以外の男に肌を曝した売女が!」
ぶちっと、頭の中で血管が切れる音がした。ぎゃあぎゃあと喚いている痩せぎすの男目掛けて疾走する。
『お嬢様方はいい子ですね』
『人に対して乱暴な振る舞いをしてはいけません』
『自分より立場の弱い者、下の者に対しては、常に慈心と寛容を持って接するのです』
沁み入るように静かな声音で諭してくれた、初等教育の教師の言葉が蘇る。あの教師は白珠が操作していた形代だったという。つまり、あれは白珠の教えなのだ。
(ごめんなさい陛下。私、今だけ……今だけは悪い子になります)
心の中で謝りながら、豪栄の眼前で大きく手を振り上げた。
「ふしだらな女め! お前の子らとて、本当は橙日帝との子ではないのでは……」
「黙るのはあなたでしょう!」
止まらない暴言を吐き続ける男に、手を振り抜いて平手を食らわせる。ばちんと大音量が弾け、豪栄の体が捻れるように渦を巻いて吹き飛んだ。
「この大馬鹿野郎!」
思い切り叫んだ声は、白目を剥いて背中から壁にぶつかった男に聞こえただろうか。
明香は荒い息を吐いたまま、床を削りながら倒れ込んだ男を見据えた。天威師の腕力を解放して打てば、豪栄の首から上を爆散させかねない。理性をかき集めて手加減しながら叩いたため、最悪でも脳震盪化気絶くらいだろうが――。
殿舎の中にはしんと沈黙が降り、不穏に羽ばたいていた褐色の鳥も静止している。
(もう一発くらいなら……)
そんな思いが込み上げた時、追いかけて来た高嶺がそっと明香の肩を掴んで止めた。
「明香、気持ちは分かるがそれ以上はいけない。気持ちは分かるが二発も打てば手が穢れる。気持ちは分かるが」
続けて入って来た綺羅と秀峰がひそひそと囁いている。
「3回言った……」
「高嶺も本音では宗基当主を殴りたくて仕方がないのだろう」
「……」
秀峰が泰斗の皮を脱ぎ捨てて素に戻っているのを確認した白珠が、微かに眉を動かした。が、言葉を口にする前に、室内の空間が揺らいだ。
「明香ー!」
「明香っ」
濃縮した砂糖水のように甘い声を上げながらテアとミアが現れ、明香を両側からぶちゅっと抱き締める。
「も、もがっ……」
「可哀想に、明香! 私の可愛い明香の手がこんな汚らしいものに触れるなど耐えられない!」
「うふふ、今から私が明香の代わりに殴ってやりますわよ。何十発でも何百発でも全力で」
明香を力強く抱擁し、髪に口づけを落としながら口々に語りかける姉妹に、高嶺が遠慮がちに声をかけた。
「あの、義姉上方……」
だが、続いて出現したローアンとソフィーヌが、続く言葉をそっと代弁する。
「あのぅ、明香姉様が潰れていますよ。顔も真っ青ですが」
「天威師が全力で殴れば、一発で世界が吹き飛んで真皇族が泣いてしまいますわ」
テアとミアがはっとした顔で明香を離し、窒息と圧死を免れた明香はぜぃぜぃと息を吐いた。
(し、死ぬかと思った……)
恩人たちに礼を言おうと視線を巡らせると、ローアンは一直線に綺羅に駆け寄り、とろけそうな眼差しと声で宝玉への挨拶をしていた。
「ああ綺羅、会いたかったよ。怪我してない?」
呆然とそれを見ている明香に、隣に立ったソフィーヌが声をかける。
「帝家の者と、その宝玉である皇家の者がそれぞれ一定数以上おり、かつ十分な時間が取れない時には、宝玉への挨拶は己の対にのみ行うのです。帝家の全員が自分の宝玉全員に挨拶していれば、大渋滞になってしまいますので」
「ああ、そうなの……」
今からこのような調子で、遷都が完了して合流したらどうなるのだろうか。遠い目で考えていると、テアとミアが明香から離れ、白珠の前に歩み寄ると帝国式の礼をした。
「義母上、到着早々に騒々しくしてしまい、申し訳ございません!」
「お義父様の命により馳せ参じました。畏れながら、皇宮特別区の神器の様子を確認させていただきたく」
ミアの言うお義父様とは、橙日帝のことだろう。ローアンとソフィーヌも白珠に向き直って拝礼する。
「こちらの様子は、真帝族全員が遠視にて視認しております」
「ただ、神器に関しては直に確認した方が望ましいとのことで、私どもを遣わされたのでございます」
(真帝族全員ってことは、お義兄様やおじさんたちも視てて下さってるんだ)
皆が見守ってくれていると考えただけで、ぐっと安心感が増した。
ローアンとソフィーヌが、共に神妙な顔を浮かべて明香に視線を向ける。そして、揃って頭を下げた。
「過日は申し訳ありませんでした」
「神布について、私たちは偽りを申し上げました」
(ああ、あのことね)
明香は小さく微笑む。
「二人は高嶺様と義兄様を庇おうとしたんだよね」
帝国人の一家として明香の生家と斎縁家の近くに住んでいたローアンたちは、泰斗に扮した秀峰とも交流がある。明香の言う『義兄様』とは秀峰のことであると分かるはずだ。
「はい……。僕たちは秀峰従兄様が神布を入れ替えたことを知っておりました。あらかじめ高嶺従兄様から聞かされていましたので。けれど、父上と叔母上は念話も通じぬ神域に行っておりまして、入れ替えた事実を共有できていなかったのです」
「ですから、正直にあの布は神器ではないと答えてしまわれましたの。そちらの方が正しいのですけれど……混乱させてしまい、申し訳ありませんでした」
そのまま話を聞くところによると、どうやら至高神は地上にいる天威師の様子を見守っており、時にはあの虹色の領域に喚ばれることもあるらしい。今回はアドルフとクルーセラが召喚に応じて赴いており、早く還って来いと要求する祖神を宥めている内に、かなりの日数が経ってしまった。
ようやく地上に戻ることになった際は祖神たちが送ってくれたが、皇族にも報告を上げるつもりだと伝えたところ、皇宮にある分庁の塔に降ろされたそうだ。
あの時、謙帝たちが塔にある玉座の前で拝礼していたのは、自分たちを送り届けてくれた祖神の御光が玉座に降りていたからだ。ただし祖神たちは、至高神の神威が降りて来たことで神官府が大騒ぎにならないよう、力の気配を徹底的に抑えて気取られぬようにしてくれていた。
そして、御光が消えると同時に橙日帝から遷都の儀の日取りに関する緊急連絡が入り、跪いた体勢のまま報を聞き終わった直後、今度は明香が入って来たのだという。
明香があの部屋に入る寸前、何か懐かしい気配を感じた気がしたのは、極限まで抑えていた祖神たちの力の残り香を僅かに察知したからだ。
そのような経緯を恐る恐る説明するローアンとソフィーヌが、揃ってしゅんと俯いている様が少し可愛くて、明香は思わず噴き出した。
「そうだったんだ。……うん、いいよ。こうしてちゃんと説明してくれたんだし。どんな思惑が混じり合っていても、私は皆を信じるって決めてたから。だって皆、この人は信じていいんだって思える人ばかりだもの」
「明香!」
心配そうな様子でやり取りを見守っていたテアとミアが、目に見えて安堵した表情になる。白珠も僅かに愁眉を開いているようだ。ローアンとソフィーヌがほっと肩の力を抜いた。
「ありがとうございます。そう言っていただけて……とても嬉しいです」
「本当は、こちらにはラウお従兄様方がお越しになる予定だったのです。ですが、軽くでも話をした方がいいからと私たちに譲って下さったのですわ」
明香に偽りを述べたことを気にしている様子を見て、少しでも早く話ができるようにと役目を交代してくれたのだという。
「私の不注意でそなたたちにも迷惑をかけてしまった。すまない」
「真帝族まで巻き込んで気を遣わせてしまい、申し訳なかった」
秀峰と高嶺が、ローアンとソフィーヌに謝罪する。白珠も口を開いた。
「神布を入れ替えるよう命じたのは私だ。そなたたちには世話をかけたな」
兄妹は慌てたように、高嶺たちに向かって首を横に振った。
「いえ、そんな。会議の時に何度も過分なお言葉をいただきましたのに。父と叔母も、自分たちの方こそ申し訳ないと申し上げておりましたでしょう」
「既にお伝えしておりますように、私どもへの謝罪など不要でございます。こちらも咄嗟のことで、事前に念話で確認でずに独断で行動してしまいましたので」
その会話を聞いた明香は内心で頷く。
(あ、やっぱり遷都の儀の会議で話してたんだ)
遷都の義についての会議には、高嶺とラウたちに加え、アドルフやローアンたちも参加したはずだ。その際に神布の話も出て、皆で情報を共有して謝罪し合っていたらしい。
再度目礼したローアンが、つと表情を改めて述べた。
「――現在、僕たちを除く真帝族は、帝城の特別区の神器に対処しております。それがひと段落しましたら、すぐにこちらに合流いたします」
明香の心臓がどきんと跳ねた。
(橙日帝陛下――お義父様と会えるんだ。でも、さっきから神器、神器って言ってるけど……どういうこと?)
ここで口を挟んで聞いてもいいだろうか。一瞬ためらった時、床で伸びていた豪栄がうぅんと呻き、頭を振りながらのろのろと身を起こした。
ありがとうございました。




