10.紅色の訓示
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「お前たち、斎縁泰斗を百叩きにしてろくに礼も取れぬ手足を叩き折ってしまいなさい! それから飢えた獅子を入れた檻に放り込んで生きながら食わせるのよ!」
可憐な唇から迸る凄惨な言葉に、さすがに周囲が動揺した。一人の青年が口を開きかけたが、その前に女官が青ざめつつも言葉を発した。
「で、殿下、なりません。それは余りにも法外な処遇では……」
「あら、私の判断に文句があるというの? 真皇族は超法的措置だって自由に取れるのよ。皇族への不敬は極刑、そうでしょう。……お前、名前は何だったかしら?」
凍えるような目で睨まれ、女官は頰を上気させて縮み上がる。
「あ、いえ……その……こ、この者は蒼月皇陛下の専属職人です。陛下のご許可無しに生命を脅かすことはできません」
狼狽のためか、空を覆う夕焼けのためか、顔を真っ赤にしながらのしどろもどろな返答であったが、皇帝を持ち出されたことでさすがの花梨も一瞬押し黙った。舌打ちしてから渋々と言う。
「……まぁ、確かにそうね。なら指を切り落とした後に鞭打ち百回の刑にするわ。それなら死には至らないでしょう」
明香は信じられない思いで花梨を凝視した。
(ちょ……うそでしょ!? 死ななくてもそんなの一生ものの大怪我じゃない!!)
そもそも細工職人にとって、指を斬られることは死も同然だ。
「今すぐこの無礼者の指を全て落としなさい! 私のための小物一つも作れない指など不要だわ!」
怒鳴りつけた花梨は、しかし、再び泰斗を見ると急に猫なで声になった。
「――けれど、私は情け深いのよ。最後の機会を与えてあげるわ。今すぐ私に誠心誠意謝罪し、今後一切逆らわないと誓うのならば、生涯私に絶対服従することを条件に指を切ることも許してあげる。そして私付きの使用人にしてあげるわよ」
勝利を確信してにたりと笑う顔は、美貌の皮でも隠せないほどの醜さを内側から滴らせていた。
(もう義兄様は自分に逆らえないって、分かって言ってる……!)
明香の胸に凄まじい怒りが押し寄せる。
「もちろん、今後は陛下ではなく私の専属になりなさい。陛下には自分からそれを願い出るのよ。ふふっ、馬鹿ねぇ。素直に栄誉を受けていれば太女の男妾になれたのに。意地を張るからこうなるの」
勝ち誇った顔で胸を張る花梨に、しかし、泰斗はいささかも怯んだ様子を見せずに言い返した。
「お断りいたします」
今度こそ、花梨は目を剥いた。喉をひくつかせ、理解できないというように愕然と泰斗を眺める。
「に、義兄様……」
思わず声を上げかけた明香だが、地を這うような花梨の声がそれを遮った。
「……もう一度言ってごらんなさい」
「何度でも申し上げます。私の答えも意思も変わりません――お断りいたします」
凛呼とした口調で繰り返し、泰斗はどこか懇願のような響きを帯びた声音で続けた。
「殿下。どうか私の忠言をお聞き下さいませ」
三つ子の従者が総出で抱え込んでも庇い切れなかったのだろう、その額や頬、目元にはざっくりと幾筋もの朱の筋が走っている。
「天威師は神と国と民の全てに大きな影響を与える力を持つ、絶対的な存在でございます。しかしそれは好ましい状態ではない。一握りの限られた超越者がその他大勢に対して一方的に作用を及ぼし、直接的に関わっていない、何も悪事を働いていない無辜の者も含めた世界全体の命運を左右するなど、本来はあってはならぬことなのです」
どのような形態の国であれ、上層や支配者階級に位置する者は、おしなべて圧倒的な力と権限を持つものだ。
だが、それと引き比べてもなお、天威師の権威と影響力は余りに大きすぎる。至高の神に列する天威師には全ての神々が敬意を払い、その意向を尊重するとすら言われるのだから。余りにも規格外な反則札なのだ。
本性が至高の神であるからこそ許される、傲慢な特権。
ぽたぽたと、滴り落ちた鮮血が地面に染み込んでいく。額から流れ落ちる鮮血が目尻を伝っても、泰斗はその双眸を見開いたままだった。
「しかし好ましくなくとも、現実としてそのようになっている以上、それは天威師自身にもどうしようもないことです。ゆえにこそ天威師は自ら己を律し、個を抑え、欲を止め、我を押し秘め、ただ神と世のために在らねばならない」
至高の神に連なる天威師を抑えられる存在などいない。もし抑制となる何かがあるとすれば、それは天威師自身の自制心と自律心に他ならないのだ。
「それが余りにも強大な影響力を持つ者の義務なのでございます。些細な言動が甚大な威光を伴う以上、我欲や私情で動いてはならぬのです。綺麗事であろうと理想論であろうと、下らぬ自己陶酔や自己犠牲と両断されようと、例えどれだけ辛く苦しかろうと、そうせねばならないのが天威師という存在なのです」
澄んだ川から真っ直ぐに流れ落ちる渓流のごとく、淀みない言葉を紡いでいく泰斗に対し、花梨の頬がぴくぴくと動いている。
嫌な予感に、明香の背筋が粟立った。泰斗の言葉は正しいのだろうが、正論を言われると激高する者は一定数いるものだ。
「どうか今一度ご自身のお振る舞いと在るべき姿、そして己が真に為すべきは何かについてご再考下さい。今ならば、今立ち止まって引き返せば、あるいはまだ間に合うやも――」
切実な訴えは、目を血走らせた花梨がだんと足を踏み鳴らした音に遮られる。
「無礼者……無礼者がっ!! 市井人のあなたが皇家を語るんじゃないわよ! 何よ大口ばかり叩いて、何で私の言うことを聞かないのよ!?」
「殿下、おやめ下さい!」
はらはらと見守っていた付き人たちの中から、年若い男性が飛び出して来ると、花梨の背に縋った。先程、泰斗を獣に食わせると言った際に口を開きかけた青年だ。
「もうおやめ下さい、これ以上は、これ以上はいけません!」
主を宥めようとする青年の右の袖口から、ちらりと紫水晶の腕輪が覗く。だが、花梨は青年を振り払って泰斗に詰め寄った。
「この私に逆らったことを後悔するがいいわ!」
叫びながら手を握りしめると、その掌中から眩い光が溢れ、金一色の扇が出現した。金色の羽が何枚も連なって扇の形を作っているものだ。呼吸もままならないほどの重厚な圧が場に満ちる。明香は扇を凝視した。
(何、あれ……。もしかして――神器?)
神が己の神威を練り上げて創り出す宝具を、神器という。天威師と聖威師の場合、寵を受けた神から賜ることがある他、自身の神威でも創ることができる。しかし、地上で人間として生きている間は神性を抑え込んでいるため、現時点の花梨が可能なのは前者のみ。
花梨は日神の寵児、なればあの金一色の扇は、最古の日神である金日神から賜ったものなのだろう。
扇が泰斗に向かって振り下ろされる。
「やめて!」
咄嗟に飛び出そうとした明香だが、体が動かない。紫水晶の腕輪を付けた青年も、苦しげに顔を歪めて硬直している。
(う、動けないっ――神器の圧が強すぎて……っ)
バシン、バシンと音を響かせながら、花梨が何度も泰斗を打ち据えた。肌が切れ、泰斗の頬から額から唇から血が滲む――だが、じっと耐えて跪いたままでいる。
「私は天威師よ! 次期皇帝なのよ! たかが職人ごときが逆らっていい存在じゃないの! あんたは大人しく私の言う通りにしていればいいのよ!!」
烈火のように喚き散らす花梨の顔は、もはや愛くるしさは面影もなく修羅のようになっている。栄生と章波が表情を失くし、地に伏したままであった蘭たちの指がぴくりと動く。
「やめろ!」
が、泰斗の鋭い号令で停止した。
「誰に向かって言っているのよ!」
一方、制止の言葉が自分に向かって放たれたと捉えた花梨は、肩を怒らせてますます逆上した。
「義兄様……」
(動いて、動いてよ私の体、お願いだから……)
明香の目に涙が滲んだ時、不意に胸の奥が燃えたぎるように熱くなった。心臓の鼓動が跳ね、体の奥でぐつぐつと何かが蠢く――とてつもなく大きな力が。周囲にゆるりと風が渦巻き、体がふっと軽くなる。
(動ける――!)
そう察した瞬間、明香は地を蹴って泰斗の前に飛び込み、両手を広げて立ちはだかった。
「明香……」
「何よあなた?」
泰斗が明香を見つめ、いったん手を止めた花梨が誰何する。
「邪魔するんじゃないわよ」
「こんなことはおやめ下さい、太女殿下」
「何ですって」
「何故こんなことをなさるのですか。この者は殿下が慈しむべき民ではありませんか。なのにどうして傷付けるのです」
必死に吐き出した訴えを、花梨は失笑一つで払いのけた。
「慈しむ? 民は皆、我が皇家に仕える家臣でしょう。主君が家来をどうしようと自由よ。臣下を生かすも殺すも主君の心向きのまま、それが主従関係であり上の者が持つ特権なのよ」
「いいえ、それは違います」
明香は花梨を見据えた――真っ直ぐに。
「例え主従関係であっても、上の者が下の者を不条理に傷付けて良いことなんかありません。ちっぽけな民だって一人一人に心があります。怪我をすれば痛みを感じます、血が流れることもあります。辛い時は寂しさや苦しさに苛まれて涙が溢れます。相手に優しくしてもらえれば暖かさに満たされ、むごい扱いを受ければ悲しみに包まれます。尊い身である殿下も、それは同じではありませんか?」
一人一人が生きている。懸命に。それを力ずくで踏みにじるような行為は、例え皇族であろうと許されない。
「当代の蒼月皇陛下は、私たちをいつも護って下さっています。御威や霊具に関すること以外でも、とても多くの面から民のために力を尽くして下さっています」
道路の整備、教育・福祉施設の拡充、困窮者・弱者たちへの援助機関の設置、地域発展のための助成、被災地への物資提供と復興支援、様々な分野の調査研究開発と実験・運用・改良の後押し、悪辣な官吏や業者の取り締まり――。
白珠は数え上げれば切りがないほどの政策と方針を打ち出し、国家の安泰と民の平穏、文化生活の充実と発展に心血を注いでいる。
国に住む者が、毎日きちんと食べられるように。屋根の下で眠れるように。清潔な衣を着られるように。冬でも寒くないように。学びの機会を奪われないように。一方的に搾取されないように。
全霊をもって、広大な国の隅々にまで支援の手を行き届かせている。
また、必要があれば事故や災害の現場に自ら赴いて指示出しや救援活動を行い、その言葉と手で民を直接鼓舞することも珍しくない。
いつだったか、山岳地帯で大規模な山崩れが発生した際には、異変を察知するやいなや龍に変じて凄まじい速さで駆け付け、今にも土砂に呑み込まれんとしていた山合いの街を間一髪で救ったという。
全てを食らい尽くすどす黒い奔流を呆然と見上げていた人々は、蒼き閃光と共に馳せ参じ、寸前まで迫っていた暴威と絶望を吹き飛ばして自分たちと街を守った皇帝に、どれほどの想いを抱いただろうか。
上に在る者がきちんと自分たちを気にかけ、大切にしてくれている。それが実感できたことで、どれだけ安堵に満たされただろうか。
「上に立つ者なればこそ、愛を忘れず不条理を正し、その大きな腕で自分たちを導いて欲しい。従う者たちは皆そう願うはず。皆、太女殿下のお慈悲を待ちわびているのです。日神様の愛し子である殿下は、まさしく国と人々を温かく照らす太陽のような存在であるべきではありませんか。何の力も持たない民草を、ただ必死に生きている者を、雲の上にあるお方が強大な力でねじ伏せ、蹴とばして笑うのは間違っています」
立て板に水のように畳みかける明香に、花梨は呆気に取られている。一歩も引かずに屹立する明香の体は、紅色の夕陽を受けて燦然と輝いているようにすら見えた。この場にいる皆が、その姿に、瞳に、言葉に、魅せられたようにくぎ付けになっている。明香は息を吸い込み、はっきりと告げた。
「太女殿下は間違っています。民はあなたの玩具ではない」
世界から音が消え去ったかのような沈黙が落ちた。ふっと泰斗が微笑む。
「……あ、あんた……」
――やがて、思考が戻って来たらしい花梨の顔が朱に染まっていった。
「よくも、よくも知った風な口を……臣下ごときがっ! 死罪よ! 極刑にしてやるわ!!」
その直後、緊迫した場を切り裂くように号令が響いた。
「太子殿下のお成りでございます」
ありがとうございました。




