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閑話 たった一つ。ただそれだけを、私は手放せない。

それは、ある日の部活帰りの事だった。




年明けに、お母さんと買いにいった制服。

「まだ身長が伸びるかもしれないから、大きめの物にしよう。」


お母さんに言われて素直に頷いたことを、少しだけ後悔している。

幾ばくかの時間が流れ、日の沈みが早くなった今日においても、

伸ばした手を閉じれば、厚い布地が手のひらに収まった。


クラスの子たちは、きっちりと身の丈にあった制服に身を包み、色とりどりのカーディガンを袖から覗かせている。可愛いな。羨ましいな。と思う。

でも、欲しいなあとか、着たいなあっていうのはあんまり思わなかった。


知ってか知らずか、薄茶色のカーディガンをお母さんが買ってきてくれた。

別にいいのに。顔に出てたのかな。

落ち着いた色合いのそれは、私の好みの色だった。


私の体より少し大きめのカーディガン。

その上からブレザーの裾に手を通す。


お母さんが笑った。私も笑った。

着ぶくれしたその姿は、見ただけでぬくもりを感じさせた。


お母さんは言う。


「別にいいのに」


私は言う。


「あったかいからいいの」


今日もそれらを身に着けて、家を出た。





部活が終わって、帰路に就く。

薄暗くなりつつある空の色に、友達と話しすぎたかなあと少し反省する。

いつもと同じ帰り道を、いつもより少しだけ早く歩く。


見渡せば、スーツ姿のお兄さんや、スーパーの袋をもったおばさんが

ぽつりぽつりと歩いている。


コンビニがある交差点を曲がるとすぐに、バスの停留所がある。

そのままもう少しだけ歩けば、私の家だ。



なんだか、停留所の方が騒がしい。

ポロンとスマホが鳴った。無機質な文面。

「外が騒がしいから、気を付けて帰ってね」

た、たん。と指を動かし、送信ボタンに触れる。


交差点を曲がるとそれが見えた。





若い女性が、太ももを抑えて蹲っている。

女性の視線を追うと、停留所の横に男の人と、小さな女の子がいた。


男の人は左手に刃物を持ち、空いた右手で女の子の二の腕を掴んでいた。

血走った目でしきりに何事かを叫んでいたが、聞き取れる単語は一つもなかった。


女の子は、小さな声で、泣いている。


見渡せば、スーツ姿のお兄さんや、スーパーの袋をもったおばさんが遠巻きにそれらを眺めている。

安全なところから、心配している風に、眺めている。



私も、そのうちの一人。



だって、それはしょうがない。

しょうがないのだ。


でも、そんな中に一人だけ、あまり距離を開けずに、振り回される刃物をじっと見ている人がいた。

それに、気がついてしまった。


彼は口元を引き結んでいる。顔だけでなく手先まで青白い。



女の子は今も、途切れ途切れに何かうわ言を繰り返す。



男の人が大声で叫んだあと、切っ先を地面に向けた。

一瞬の静寂。


その時、聞いてしまった。何度も繰り返されるそれを。

おかあさん、おかあさん。だいじょうぶ。おかあさん。



賢くないのは分かっている。

間違っているのも分かっている。

冷静じゃないのも分かっている。


けれど、ひとりじゃない。私ひとりだけじゃない。



彼は、掠れた声を上げて地を蹴った。

力強いとは言えない、腰の引けた踏み込み。

それでも彼は、きっと注意を引いてくれる。


私は静かに、走りだす。

目的地までの距離は短く、それはあっという間だった。

振り上げたスクールバックを右肩に叩きつける。


女の子を、軽く押してやった。ほら、だいじょうぶだよ。

視線を戻すと、血走った目がこちらを見ていた。


あれ・・?


驚くほどに静かだった。トスっと腹部に軽い衝撃。

次いで熱が広がる。


視線を彼に向ける。

彼は、走りだせていなかった。ほんの半歩ほど。ほんの半歩ほどの距離で、地面に腰を落としていた。


それは、しょうがない。

しょうがないのだ。



まだ、女の子の泣き声が聞こえている。



腰から下に、力が入らない。

だから、倒れるように、前へ。

もつれた足は、偶然、男の人の足を踏んだ。



まだ、女の子の泣き声が聞こえている。



力いっぱい、男の人を突き飛ばす。

たたらを踏んだその体は、大きく揺らめき車道を越え、次いで鈍い音が聞こえる。


私は、その場でうずくまったまま動けなくなった。



けれど、いいのだ。



誰も駆け寄ってきてくれない。

みんなが遠巻きにこちらを見ている。



それでも、いいのだ。



ポケットから飛び出したスマホの画面が、視界の中で緑色の画面を映している。

視界がにじんだ。



いいんだ。いいんだよ。だって。

まだ、女の子の泣き声が聞こえている。





願わくば、一つだけ。

ただ一つだけ。







女の子が駆けてきて、大声で泣いてくれたことを。私は知らない。




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