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さよなら、ライオン。①  作者: コトバト
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さよなら、ライオン②


 つぼみは新幹線で権蔵の隣に座り、すぐに後悔した。権蔵からは老人特有の匂いがする。

 二人ということで席を隣にして買ったが、そうする必要はない。昼過ぎに新函館北斗に着くまでは、一人でゆっくりと過ごすのもアリだった。それなのに会ってまだ数時間しか経っていない老人の加齢臭に耐えながら函館まで行かなくてはいけないのだ

 でも、どうせ隣になったのだから権蔵から聞き出したいことも沢山ある。つぼみが加齢臭から逃げられないのなら、権蔵もつぼみに質問攻めにされても逃げられないのだ。

 つぼみは権蔵に聞きたいことが沢山あった。お墓参りに行く理由。誰のお墓参りなのか。なぜ北海道なのか。権蔵はどういう人なのか。

 返すとは言われながらも、今はつぼみのお金をアテにして旅ができている権蔵なのだから、色々と聞く権利ぐらいはあるだろう。

 これから函館までの時間を寝て過ごそうとしていた権蔵は最初それまでと同じように、ケムに巻こうとしていたが、諦めたのかポツポツと自分のことを話し始め、だんだんと、自分に語るような口調で熱心に自分のこと、そしてこれから墓参りに行く一人の女性のことを話した。

 その女性は権蔵の妻ではなかった。


 権蔵は1960年代。ちょうど日本が高度経済成長の時代に突入した頃、国鉄の社員として働いていた。後半は営業になったが、その頃は車掌の見習いをしていたという。

 その頃はまだ二〇代も半ばだった権蔵は仕事も熱心にこなしたが、プライベートでも時代の盛り上がりも手伝って、あっちで酒を飲み、こっちで女を買うような暮らしをしていた。

 経済はどんどん上向いていく。自分の給料も確実に増えていく。だから稼いだお金を貯めることもなく、お金を色々なところで使い続けた。

 そんな時だった。会社の寮があった町田の繁華街で、一人の娼婦と一夜を共にした。

 なんてことはない。いつも翌日が非番か午後からの出社の時は町田か、新宿まで行って女を買っていた。今では咎められるかもしれないが、その頃は他の同僚も、居酒屋に行くのと同じように、そういった所へ出かけていた。そうした態度が男らしいとさえ言われた。

 だが、その日はいつも通りには終わらなかった。

 その娼婦に権蔵は本気で恋をしてしまったというのだ。

 とはいえ甘酸っぱさに満ちた一目惚れというわけではない。部屋で待っていると来た女をただただ抱いただけなのだ。

 だが、その女の体の気持ち良さがいつもとは全く違っていた。一回だけと決められていたにもかかわらず、権蔵はその女性に三発も一度も抜かないで出した。

 まだ若かったとはいえ、一日働いた後の出来事だ。そんなに回数をこなせることは意外だった。

 つぼみはそう権蔵が淡々と話していると、だんだん恥ずかしなり、顔を赤らめた。周りの他の乗客の耳も気になるが、自分から聞いた手前、言葉を途切らせるわけにもいかない。

 権蔵はその商売女に、今までそういう女に抱いたことのない感情を持った。

 今までは、精子を出すと、満足してそれでお終い。体の関係になった二人はもう二度と会うことのない関係へと戻って行く。それが「いつも」だった。

 だがこの時は「いつも」とは違った。

「俺以外とはもうするな。」権蔵はそう思い、そして、三発目を彼女の中へ出してから実際にそう言った。

「何言ってるの?これが私の仕事だから。」とその名前もまだ知らない女は微笑んだ。

 笑うと細くなる目や鼻、八重歯が覗く口はどのパーツを見ても平均的だが、顔のバランスからなのか、それともこういう仕事からくるものなのか、彼女の顔の肌は荒れ、全体的に見てもあまり綺麗とはいえなかった。

「なあ、結婚しよう。俺と暮らそう。」それでも権蔵は詰め寄った。

「何?お客さん。」彼女は少しおびえた顔をした。

「なあ、君もこんなところで仕事するのは嫌だろう。俺は国鉄の社員だから、決して裕福というわけではないけれど安定して人並みの生活は送らせれるぐらいのお金はある。」権蔵はベッドの隅にクシャリとと脱ぎ捨てられていたズボンから社員証を出すと彼女に見せて言った。

 そして権蔵は、まだ名前も知らないその女性の手を取り部屋を出た。

 昔からこうと決めればそうせずにはいられない人だったらしい。老人になっても、病院を抜け出すほどの行動力がある人だ。若い時ならそれぐらいやりかねない、とつぼみは思いながら聞いた、

 女性は服もまだハダけたままで外へ出た。店には食事をご馳走になると言ったらしい。

 ただ、もちろん権蔵のことを信用しきってはいなかった。それでも、彼女もその暮らしに満足していたわけではないだろうから、ついて行ってみたのかもしれない。

 もしくは、つぼみもこの老人に「来るか?」と言われて首を横に触れなかったように、何か魅了的なものがこの人の中にはあるのかもしれない。

 ただ、それとライオンが関係しているのかは、つぼみはわからなかった。

 権蔵はその日、自分の住んでいる会社の寮に行き、彼女の中に再び四発注ぎ込んだ。しかも、また一度も抜かずにだ。

 翌日は午後からの出社のため、午前中はもう一度彼女の中に出し、その後は、二人で今後どうするかを話した。

 そして、初めて彼女の名前がハナということ、生まれが北海道だということ。いつか母親のいる北海道に戻って暮らしたいということを聞いた。

 権蔵は真面目に今後のことを話している時のハナのことを今でも夢に見るという。

 権蔵は、もう彼女のことを他の男には取られたくはなかったが、それはただ肉体の相性からくるものだけではないと言った。肉体の相性だけなら、また「買い」に行けばいいだけのことだ。

 そうではなく、本当に惚れてしまったのだと熱心に口説き続けた。

 ハナは権蔵のことを受け入れてくれたのかというと、それでも、まだまだだったという。

 ただ、あの仕事を辞めるきっかけにはなったのかもしれないと思うとは言ってくれた。

 ハナからすれば権蔵の身元が分かったとはいえ、まだ心から気を許すことができないのは仕方がない。だから、権蔵は社員寮でハナと暮らしたいと提案し、ハナが嫌になれば出て行けばいいと言った。

 権蔵はその日会社に行くと、北海道への転勤願いを出した。

 自分で希望を出すというのは異例のことだった。ただ、北海道では石炭の生産もまだ行われており、より多くの人を求めていた。それで、権蔵はハナを連れ、北海道に転勤することにしたのだ。

 権蔵にとってはせめてもの誠意だった。

 それを伝えるとハナは嬉しそうに笑ってくれた。

 転勤までの一ヶ月は権蔵の人生の中でもっとも輝かしい時期だったと言う。

 絵に描いたような幸せ。権蔵にとってはそれがハナとの日々だった。

 仕事が終われば酒も飲みにいかず、家に帰り、ハナが不器用に作った料理を食べた。

 最初はあまり美味しくなかったと言う。ニンジンが硬すぎたり、味噌汁がしょっぱすぎたり、薄すぎたり。

 ただ、それでも、権蔵にとってはそんな日々が幸せだった。どんな飯屋よりも、人参が固かったり、味が濃かったりするハナが作った料理が一番美味しかった。

 ハナもそうやって暮らして行くうちにだんだんと権蔵に心を許していった。

 休日には二人で一緒に映画を観に出かけたり、デパートでパフェを食べて帰ることもあった。

 二人がデートしている時にたまたま出会った同僚からは、こんなに可愛い彼女がいて羨ましいと言われて、ハナが顔を赤らめることもあったという。

 しかし、その幸せは長くは続かなかった。

 ハナは北海道に移るとすぐに自殺してしまったのだ。

 それを話す権蔵は、甘酸っぱい思い出を話す時のニヤニヤ笑いとはうって変わって、言葉数少なく、途切れ途切れにしか言葉を続けられないようだった。

 ハナの自殺からもう何十年も経っていると言うのに、まだその時の感情を整理できないでいるらしい。

 ハナが自殺した原因になったのは、ハナの母の死だ。

 しかもその原因はハナにあった。

 ハナはとある会社の事務員として働くために東京へ出た。父を早くに無くし母子家庭だったハナは自分が就職してから、母に毎月、仕事に出なくていいだけの額を仕送りしていた。

 自分の手取りの中から払うそうしたお金のために、ハナ自身は、あまり同年代の人と同じようにきらびやかな服装をすることはできなかったが、それでも、母の助けになっていると思うことが幸せだった。

 だが、ある日ハナは会社をクビになる。権蔵も花がなぜクビになったのか詳しいことは知らないと言う。

 だが、花は仕送りを止めることはできないと思った。今まで女手一つで、安い仕事を長時間こなしながら養ってきてくれた母に、会社にクビになったなんてことは言えない。

 そこでハナは自分の唯一の資産である「若い体」を売ることにした。

 幸い、体は売っても消えて無くなるわけではない。減るものでもない。ただ、心のどこかが痛むだけで、それさえ我慢できれば、学の少ないハナでも、なんとか仕送りの金額を変えないで工面することができた。

 だが、それもどこで誰に見られたのか。ハナがそう言った仕事をしていることを、ハナの叔母が母に伝えたのだ。

 それからしばらくして、母は自分がいなくなればハナはそんな仕事をせずに済むと考えたのか、首を吊って見つかったという。

 ハナは北海道に帰って初めて母が死んだことを知った。もう死んで一回忌を終えた後だったという。

 近所に住む叔母の家にハナはなぜこんなことになったのか聞きに行ったが、叔母ははぐらかすばかりで答えない。

 ただ、ハナはその裕福ではなかったはずの叔母が身につけているブランド品の数々をを見ると何かを察した。

 おそらく、ハナからの仕送りのことを叔母は知っており、それを止めないためにハナに母の死を言わなかったのだろう。

 一度夜のそういう商売に身を落とした女が、生まれ故郷へ戻って来ることはあまりない。

 それならこれからも母が生きていることにしておけばバレないで甘い汁を吸うことができる。そんな風に考えたのかもしれない。

 ハナはその後ただただ泣いていた。権蔵はただそばにいて、背中をさすることしかできなかったと言う。

 権蔵にはハナとハナの母との関係は想像することしかできない。

 でも、それでも、一人で自分を育ててくれた、ハナにとって唯一の家族が、こんな風な最後を遂げたということは、どんなに辛いことなのかは推し量るしかなかった。

 ハナはただただ悲しがった。悔しがった。

 そうして何日かが過ぎ、ハナも首を吊って死んだ。

 短いメモのような手紙が傍に落ちており、震える字で


 権蔵さん、家族になれなくてごめんなさい。少しの時間でしたが楽しかった。ありがとう。私よりも素敵な人を見つけて幸せになってください。


とだけ書いてあったと言う。

 それから数日が過ぎ権蔵は仕事を辞め東京に戻った。





「まだ籍を入れる前だった。俺はもう家族だと思ってたんだが、ハナはまだ家族になったつもりではなかったらしい。」権蔵はそういうとしばらく口をつぐんだ。

「そう、ですか。」つぼみもそう言ったきり口をつぐんだ。

 権蔵の話は信じられないようでもあったが、その語り口は真実を語るものだった。

 言葉にも重さがある。この時つぼみは知った。つぼみが会社でともに働いていた同僚の口から発せられる言葉の重みとは全く違っていた。

 それは人生を長く営んでいるからこそ出せる重みなのかも知れないし、あるいは、自分にとって大事なことだからこそ出せる重みなのかもしれない。

 にしても自分の周りでは最近「自殺」というのがなんだか多いような気がする。それは自分が自殺未遂をしたからだろうか。

 ライオンは〈かもしれない自分〉を救う旅だと言っていた。権蔵だけでなく、ハナも〈かもしれない自分〉なのだろうか。

 自殺未遂をした人は自殺をした人が残した人を助けなくてはいけないのか。そんな話は聞いたことがない。

 つぼみは権蔵よりは、ハナと共通点が多いと思った。

 女性だということ。仕事のために、体を使ったこと。父がすでに亡くなっていること。自殺しようとしたこと。

 権蔵から話を聞けば、この旅の理由、ライオンの存在を理解するヒントになるのではないかと思っていたが、聞く前以上にわからなくなってしまった。

 権蔵は喋り疲れて眠ってしまったようだ。

 今はちょうど福島のあたりで、北海道まではまだ遠い。

 自分も本来なら、まだ入院している身なのだから、寝ようと思い、まぶたを閉じたが、どうにも眠れない。

 後ろの座席に人がいないことを確認して、リクライニング倒して見ても、どうにも眠れない。

 ふと思い立って携帯を見たがまだ圏外のままだ。

 つぼみの斜め向かいのサラリーマンはずっと携帯電話でゲームをしているようだから、この地域が圏外というわけでもないのだろう。

 それに、東京駅でも圏外だったことを考えると、つぼみが携帯を開くときにたまたま圏外の場所にいたのではなく、携帯そのものが壊れてしまったようだ。

 函館の駅に行ったらさすがに電話しなくてはまずいとつぼみは思った。母は心配で捜索願を出しているかもしれないし、病院にも迷惑がかかっているだろう。

 駅なら少なくなったとは言え公衆電話がまだあるだろう。

「どうだと思った?」つぼみが通路を挟んだ隣の席から声をかけられた。

 そこにはライオンがいた。

 驚いたが、それ以上にホッとした。やはり轢かれてはいなかったようだ。

「権蔵さんのこと?」

「ええ、そう。どう思った?」

「ハナさんが可哀想だなって。自分の体を売ってまでして稼いだお金が、親戚の叔母のブランド品に変わっていたんだから。」

 喋っている途中で自分が独り言を言っている変な人に見えないか心配になった。

 今までライオンと話していたのは、他人がそばにいない時だった。

 だが、権蔵は寝息を立てて眠っており、斜め前のサラリーマンも携帯ゲームに疲れたのか、首を折って眠っていた。

「うん。ハナも可哀想なのだけど、権蔵さんは?」

「う権蔵さんも。権蔵さんはハナさんの家族になろうとしていたんだから、お母さんがいなくなっても、もっと権蔵さんを頼って欲しかったんじゃないかな。」

 権蔵はハナが自殺したことについて話す間、ずっと苦しそうだった。特にハナが書いて残したメモを話す時には、それ以上どうすれば深くなるのかというほどに、眉間にシワを寄せていた。

「そうだね。」ライオンは頷いた。

「〈かもしれない自分〉っていうのは、権蔵さんなの?それともハナさん?」今度はつぼみが聞いて見た。

「両方。」ライオンはフェルトでできた目でつぼみを見た。

「でも、それなら私はどうやってハナさんを助ければいいの?」

「出会い方はどうであったであれ、運命っていうのが本当にあるのなら、権蔵さんとハナさんは運命の出会いだっと思わない?」ライオンはつぼみの質問に答えないで続けた。

「まあ、そうだと思う。」確かに甘酸っぱい少女漫画のような出会いではなく、風俗店内での出会いではあるけれど、それもまた運命と言ってしまうこともできるだろう。

「愛ってすごいよね。心を軽くしたり、傷つけたり、寄り添ったり。実際、権蔵さんはハナさんが亡くなった後、思い出の美唄で暮らすのは辛らすぎて、東京に戻ってきたんだけど、それもまた愛の副作用だよね。」

「そう・・かもしれないね。」

 愛の副作用。ライオンは権蔵が思い出の多い地で暮らすことが辛く、ハナの面影のない場所へと戻ったことをそう言った。つぼみは愛に副作用があるなんてことは考えたことがなかった。

「なんでそんなに権蔵さんのこと詳しいの?」

「私。なんでも知ってるから。」ライオンの顔は見えない。しかし中から聞こえてくる声はセーラー服のイメージと違わない、若い女の子の声だった。そんな若い女の子が権蔵のことを詳しく知っているというのは、不思議でしかない。

 さらに、愛について語るというのも奇妙な感じがした。今時の女子高生は愛について語ったりするのだろうか。

 つぼみの頭の中には、このライオンがお化けだという、非現実的な結論が、最も現実的に思えた。

「おばけなの?」つぼみは実際に聞いてみた。足はあるし、光に照らされて影もできている。自分が知っているようなお化けの特徴は、彼女からはみられない。それでも、聞かずにはいられなかった。

「おばけ?うーん。おばけ。ではないかなあ。」ライオンは首を掲げて考えている。チラッと見えた首は若い。

「でも、お化けとも言えるのかもしれない。」

「なんなの?お化けであってお化けでないなら。」

「ライオンだよ。何回も言ったでしょ。」ライオンは何が面白かったのか、お面の中でクスクスと笑った。

 つぼみはライオンの笑い声を聞いたのは始めてだった。

「そんなことより、ハナさんと権蔵さんを幸せにしてあげてね。」

「うん。まあやれることはやるけど。何ができるのか。」

「いてあげるだけでもいいの。一人より二人の方が気が紛れて、勇気が出るなんてことあるからね。」

 つぼみは頼りなさげに頷いた。

「ハナさんの罪ってなんだと思う?」

 つぼみは考えた。罪?なんだろうか。

 自殺したことだろうか。権蔵を一人にしたことだろうか。

 でも、ハナよりも叔母やハナをクビにした会社の方がつぼみには罪深く感じた。

「ハナさんは仕事が忙しくて、辛くて自殺したじゃない。そこはつぼみと違うところだよ。見下されて最底辺の仕事をしながらでもお母さんのことを思い続けて、最後はお母さんが亡くなって自分も耐えられなくなって死んだ。そのお母さんは、娘にそんな仕事を辞めさせたくて自ら死んだ。お母さんは娘を守りたかったんだよ。ということは」

「彼女はお母さんがなんとしても守りたかったものを自分自身で奪ってしまったのね。」

 ライオンはこっくりとうなずいた。

「泥棒みたいなものね。見て、もうすぐ青函トンネルだよ。」

 つぼみは外を見た。途端に明るかった外の風景が暗闇になり、電車内に響く音も変わった。

 そして、振り返るとライオンはもうそこにはいなくなっていた。

 またライオンがいた方からはほのかにシャンプーの香りがした。

 




 つぼみはライオンに言われたことをゆっくりと頭の中で考えて見た。

 自分は「かもしれない自分」を助ける旅というのに出されている。

 そしてその「かもしれない自分を救う旅」最初の目的人がこの権蔵という人だ。

 でも、なぜ自分はこんなことをしなくてはいけないのだろう。自殺未遂をしたらこういう罪滅ぼしをしなくてはいけないのだろうか。

 そんな話は一度も聞いたことがない。

 つぼみは答えが出ないことはわかっていながら、何度も何度も同じようなことをグルグルと考えた。

 考えて結論が出なくても、考えずにはいられなかった。

 つぼみは思い出したくないことを思い出すことにした。

 入社して5ヶ月目。試用期間の3ヶ月が過ぎ、配属が決まりほとんど帰ることもできないほど働き始めていた時のことだ。

 つぼみと同期の人はもうすでに、半数以上が辞め、残りの半数は自らクライアントから仕事を取り担当するほどバリバリ働いていた。

 しかし、つぼみはまだ一つも自分の仕事を見つけてはいなかった。

 ただただ、プロジェクトの中で、ただただ言われるがままに、ロゴを作り、パンフレットをデザインした。

 そうした作業が好きだったはずなのに、ダメ出しされ、けなされ、何度作ってもシュレッダーにかけられるのをみていて、だんだんと好きだった作業も嫌いになっていった。

 焦りに焦っていた。先輩からもこんなに遅いのはつぼみが初めてだと言われた。

 おそらく、新人はすぐに辞めて欲しい人とずっと続けて欲しい人とに意識的に会社の方で篩い分けていたのだろう。

 そして会社にとっても辞めて欲しい人であったつぼみは、ほかの同期の人以上に仕事を押し付けられていた。

 せっかく、憧れのキラキラした世界に入ることができたというのに、自分はまだダメなまま。つぼみはずっと劣等感を抱きながらもなんとか一日一日をこなしていた。

 そんな時だ。

「女は体を使えばなんぼでも契約取れるんだからいいよな。」と飯田忠に言われた。

 つぼみは頭の中が真っ白になった。

 疲れていたからかもしれないが、それ以上に今時こんなことを言う人が本当にいるということに、そしてその人が自分の直属の上司だということに驚き絶望したのだ。

 ただ、つぼみもこの業界に入って半年ほど。多くはないが稀に営業目的のそういったことが行われていることに、なんとなく気がついていた。

 先輩の女性はそれを営業目的とは言わない。「クライアントのおじさんがセクシーだった。」とかいう言葉で紛らわせ、なんとか自分を納得させようとしている。

 きっと枕営業をしている自分を肯定したかっただけなのだろう。

 つぼみはそんな風習を嫌悪し、自分はそうはならないと固く誓っていたが、早々につぼみはその考えを諦めた。

 自分もクライアント欲しさに一人の中年男性に抱かれた。

 その人はイベント会社に勤めるマネージャー職の人だった。今までも、クールエージャンシーにデザインやHPの作成といった仕事を依頼してきていた。

 その時はロックの登竜門という、人気若手インディーズバンドが出演する人気イベントに関するプロジェクトを、いろいろな制作会社にプレゼンしてもらい、どの制作会社と進めるのかを決めるコンペの時だった。

 つぼみはなんとしてでも、その契約を取れと言われ、その男性を食事に誘った。

 営業とは別にプライベートでお食事しませんかと誘い、つぼみが決めたお店でその人がお金を払った。暗黙の了解でそうなっているのだ。

 その時、つぼみは大好きなすき焼きを食べれるお店を選んだ。

 すき焼きだなんて図々しいと思われるかもしれなかったが、これから体を好きでもない男性に差し出すのだから、その前に自分の好物ぐらい食べたっていいだろうと思ったのだ。

 だが、むしろその後その男性とした行為の途中で、その男の口から臭ってくるすき焼きが消化されているような匂いや酒の匂いで、つぼみはすき焼きが嫌いになった。

 ハナはどうだったのだろう。つぼみは考えた。

 商売女を好きでできる人はいないだろう。だからこそ権蔵からの申し出は驚きこそすれ、付いていったのだ。

 自分が一度だけだがしたことは、ある意味ではお金のためだ。そう言う意味ではハナと自分がしたことは継続性があったかどうかが違うだけで、全く違ったことではないのだ。

 それにつぼみはそこらへんから、当時付き合っていた彼氏と会うことも嫌になり、と言うより、どういう顔をして会えばいいのかわからず、そのうちに別れてしまった。

 つぼみはため息をはいた。

 その彼も今では結婚してしまった。

 自分は一体なんのために頑張っていたのだろう。今日、朝サラリーマンを見ながら思っていたことを再び考えた。

 なぜ、愛する人を失ってもまだ、会社という居場所にしがみついていたのだろう。

 つぼみとハナが違う点もある。ハナは仕事の辛さから自殺したのではない。彼女は自分のせいで家族が自殺したことに気に病み自殺したのだ。愛していたお母さんとと同じところに行こうとした。

 それに比べ、仕事から逃げたかったという自殺理由は、いささか子供染みた我儘のようにも思えた。

 ただ、つぼみも父と同じところに行きたいという望みがあったから自殺した。ハナがもし母と同じ所へ行きたいと望んだのなら、自分と自殺した理由は似ている。

 つぼみはライオンというよくわからない案内人に導かれているとはいえ、この旅が自分の再スタートのいいきっかけになるかもしれないと思い始めていた。

「そんなことはない。」権蔵が起きて言った。

 つぼみは権蔵を見た。

「何がですか?」つぼみは聞いた。寝ぼけているのだろうか。いきなりそんなことはないと言われ、つぼみは少しだけ戸惑った。自分は心の中であれこれと思っていただけで、言葉にはしていない。

 しかし、権蔵は再び花を見据えて言った。

「そんなことはない。ハナは確かに父親と同じところへ行きたかったのかもしれない。でも同じところなんてありはしない。死んだらそこはお終い。無しかない。」

 つぼみは自分の心が読まれたことに驚き何も言い返せなかった。この二日間は驚くことばかりだ。

「いや。なんか。お前がそんなことを考えてるんじゃないかと思ってな。」

 権蔵はふっと笑い、恥ずかしそうにした。心の中を読めたわけではないのだろうか。

「そんな夢を見たんだ。老人の寝ぼけだとでも思ってくれ。」

「・・・はい。」つぼみは頷いたが内心はドキドキしていた。夢で見たと言っていたがたまたまだろうか。

 ライオンも先ほど、つぼみの心を読んだように話していた。まだライオンという「奇妙」な存在から、発せられた「奇妙」ならかろうじて受け入れられたが、権蔵はそうではない。

「あの、死んだら無なんですか?天国とか地獄とか、極楽とか、そういうのは。」つぼみは聞いた。

「ああ、まあ実際に死んだことはないからわからなけど、無なんじゃないかなあ。天国だって地獄だって、宗教だって、人間が考えたことだろう。死んで無になることが怖いやつが、なんとか死を肯定するために作ったものだろう。だから俺は無だと思っている。」権蔵はきっぱりと言った。

「そ、そんな。なんかでもそれじゃ寂しいじゃないですか。」つぼみは食い下がった。それではハナが報われない。ハナのお母さんも、私の父も。無なのだろうか。

「まあな。だけど、いいんだ無で。ないか有るというのは辛すぎる。」

 権蔵がそう言うと、電車はちょうどトンネルを抜け、眩しい光に包まれた。




10


 浩介は屋上で一人袋に入ったパンを食べていた。工場で大量生産されたパンは浩介の口に何も伝えない。必要以上に濃い味付けをされパンに挟まれた焼きそばでさえも、浩介にとっては何を食べているのかもわからないほど味がない。

 楽しいご飯というよりは午後からの学校を乗り切るための燃料補給といったほうがよかった。

 それでも他人の目を気にせずに昼休みを過ごすことができる屋上は、浩介にとっての避難場所だった。

 本来屋上への出入りは禁止され、屋上へと続くドアには鍵がかかっていた。

 だが、浩介は職員室から屋上のドアの階段を盗み、合鍵を作って昼休みには毎回来るようにしていた。

 行動力がある方ではないし、見つかって怒られる可能性も高い

 だが、あの圧倒的に孤独な教室で昼休みを過ごすよりは、周りに人がいない所に一人でいるほうが随分と気が楽だったのだ。

 それに昼休みに浩介がいなくても気にする同級生など誰もいない、誰も浩介に関心なんて寄せてはいなかった。

 焼きそばパンを食べ終わると、ゴミをポッケに押し込み、イヤホンを耳につけて立ち上がった。

 屋上から町並みを眺める。イヤホンからは浩介の好きなバンドエレストの楽曲が流れている。

 学校生活の中で唯一ホッとできる時間だ。

 学校の前の道を何かの作業車が走って行く。

 斜めにあるスーパーには数は少ないが、車が止まっている。主婦とみられる人が出てきてはスーパーに入っていく。

 学校の屋上から見下ろす町並みには、ありふれた退屈な日常が広がっていた。

 ただ、と浩介は思う。ただ、学校という、閉ざされた小さな世界から見ると目の前に広がるだだっ広い日常がとても魅力的で、今すぐにでもそちらに飛んで行きたくなる。

 あと十分ほどするとチャイムが鳴る。座学の授業が始まるならまだいいが、今日はよりによって体育だ。

 前回の授業では二人一組にならなくていけない場面があった。あたり前のように一人残された浩介は、体育教師に言うと「誰かに混ぜてもらえ。」と言われた。

 浩介は結果はわかっていたが、誰にお願いしても入れてはくれなかった。浩介の呼びかけに答えてくれる人さえいなかった。

 だから結局一人でバレーボールをポンポンしていた。そしたら体育教師に怒られた。

 ただその教師は何も解決してくれない。ただ浩介を攻めるだけだ。

二人一組をせめてて出席番号順にしてくれればいいのに。決してそうはしてくれない。

 おそらく出席番号順だと浩介と組むのが、体育教師が顧問を務める野球部のお気に入りだからだろう。

 浩介はまたそんなことがあるのかと思うと憂鬱でため息をついた。

「世の中はこんなに広いのに。」浩介はだだっ広い住宅街と、どこまでもつまらなく続いていく空を眺めた。

 でも、今の自分はその世界に行くことはできない。学校という小さな世界で小さなカーストの最底辺で日々を過ごすしかないのだ。

 浩介はフェンスを登って、外側へと降りた。足を校舎の外へ出してぷらぷらさせる。

 高いところが決して得意なわけではないが、その時は特にドキドキはしなかった。

 このままうっかりでも落ちた方がこの後の体育の授業よりも随分楽なのではないだろうか。そんな風に思うと面白くなった。

「ダメ。」浩介は後ろから声がして、どきっとしてそちらをみた。

 フェンスの向こうにはライオンの着ぐるみの頭をつけ、体はセーラー服という女子高生がいた。

 誰だろうか。

 浩介はこの屋上に自分以外にいるといるということ、そしてその生徒が奇妙な格好をしていることを理解しようとした。

 女子高生の服装はセーラー服だ。自分の学校は女子生徒もブレザーだから、違う学校の生徒だろうか。

「死んだらダメ。もう少ししたらあなたのことを助けてくれる人が来るからそれまで待っていて。」彼女はフェンスを軽々と超え、こちらに来ると浩介の手を握った。

 女の子との触れ合いに慣れていない浩介はドキドキしたが、その子の顔はフェルトでできたライオンの下で見ることはできない。

「あ、あの、誰ですか?」浩介は目をパチクリさせながら言った。

「私はライオン。」そういうと女子高生は少し恥ずかしそうに笑った。

「ごめんね。それしかいうことはできない。でも、明日にはその人を連れてこれると思うから、少しだけ待っていて。」

「は、はい。」浩介は立ち上がり、フェンスを越え、元いた場所に戻った。

「ありがとう。今日の体育二人一組はないと思うよ。」今度はライオンがフェンスの向こう側から言った。

「そう、なんですか。あの。」浩介は聞きたいことがたくさんあったが、それをどう言葉にすればいいのかわからなかった。

 チャイムがなった。

「さ、行って。大丈夫。」

「あ、はい。」浩介はドアの方へと歩いて行った。

「あの。」なぜ次の時間が体育だとしていいたのか、なぜ二人一組がないと言い切れるのかを聞きたくて振り返った。

 だが、もうすでにそこにライオンの姿はなかった。

 屋上には隠れる場所はない。そこで初めて浩介は自分がイヤホンをしたままだったことに気がついた。イヤホンには音楽が流れていたはずなのに、いつのまにか止まっている。

 浩介は少し怖くなったが、少年漫画の主人公のような不思議な出会いを思うと、それ以上にワクワクした。

 これから何か本当に変わって行くかもしれない。




11


 つぼみと権蔵はJR北海道で美唄に向かっていた。結局到着した新函館北斗駅でも母に電話をすることができなかった。公衆電話を見つけることができなかったのだ。

 それに、一生懸命探せばあったのかもしれないが、つぼみは探しもしなかった。

 公衆電話から電話をしてもつながらなかったらと思うと怖くなったのだ。そんなことは普通に考えればあり得ないが、これだけ不思議なことが起きている数時間を考えると、あり得ないことではない。

「もうすぐですね。」

「ああ、そうだな。」岩見沢を過ぎて、もうすぐ美唄だ。権蔵の顔も心もち厳しさを増している。緊張しているのかもしれない。

「権蔵さん、今まであまりお墓まいりにこなかったんですか?」

「・・。思い出すからな。」そう言ったきり口を閉ざした。

 新幹線に乗っていた時に比べると、口数が少ない。

 つぼみはお腹が空いたことに気がついた。権蔵と話すことを諦め函館の駅のホームで買いまだ食べていなかったイカめしを開けた。蓋を開けた途端に、甘い醤油の香りがつぼみの鼻を満たした。

 北海道らしい食べ物だ。もうすでに切れていて食べやすくなっている。つぼみは一つ食べた。

 本当に美味しかった。いくら工場で作られたようなイカめしだからとはいえ、もち米の柔らかさと、イカの食感、それに染み込んだ、甘じょっぱい味付け。

 つぼみはちらっと権蔵のことをみた。つぼみがいかめしを食べていることに気も向けないで何か考え事をしている。

「権蔵さん。お腹すかないですか?」

「ああ、そうだな。美唄に行ったら美唄焼き鳥おごってやるから、あまり食べすぎるな。」権蔵はボソッと行った。

 つぼみはイカめしをもっと食べたかったが、もう一切れだけ食べ蓋を閉じた。

 もっと早く行ってくれれば開けずに済んだのに。

「美唄焼き鳥ってどんなのですか?普通のと違うんですか?」

「いろんな鶏肉の部位が串に刺さってるんだ。それがハナは好きだった。なんだかお得な感じがしていいって。」

「思い出の味なんですね。」

「まあそうだな。」権蔵は恥ずかしそうに頬を掻いた。

「こっちに着てすぐ、ハナの母さんが無くなったのを知ったから、あまりこっちでの暮らしはいい思い出がない。でも、ハナが死ぬ前には、励まそうと思ってな、一緒に焼き鳥食べに行ったりして。その時はハナも俺の話を聞いてくれて、楽しかったな。」

 権蔵は話しながらも、自分の頭の中に浮かんで来るハナとの日々を思い出しているようだ。

 苦しい思い出が詰まった地が近づくに従って権蔵の顔が険しくなっていたので、少しでもいい思い出を思い出せたのならつぼみは嬉しかった。

 美唄に着くと、想像よりも近代的な駅舎がつぼみと権蔵を迎えた。ただ駅員は一人もいない。

 駅舎の大きさと無人駅というギャップが田舎に来たなとつぼみにに思わせた。

 外に出ると閑散としている。

 お店ともなく、ただただ広い道路に、たまに数台の車が通って行くだけだった。

「お墓まではどうやっていくんですか?」

「タクシーを拾うしかないな。それよりあそこにいくか。」権蔵が指差す方を見ると、駅から少し離れたところに「美唄焼き鳥」と書かれた旗が店の前で寂しそうに揺れていた。

 あまりにも旗は頼りなさげで、民家と同じ外観をしていたので、つぼみはその店を見落としていた。

 店に入ると、炭火のいい香りがつぼみの鼻をくすぐった。

 口の中は反射的に唾液が分泌し、すでに食べる準備を整えている。

 つぼみと権蔵は、美唄焼き鳥を塩で4本だけ注文した。少しは金があるからと、ここは奢ってくれるらしい。

 出されたのは卵、砂肝、モモ、皮が一つの串に刺さった焼き鳥だった。

「美味しそう。」つぼみは早速口に運んだ途端、炭火焼の香りと、鶏皮の香ばしさが、つぼみの口の中に広がった。

 とても美味しい。しかも、皮の次は砂肝、その次はモモと一口ごとに部位が変わるので、飽きることなく楽しむことができる。

 確かにこれはハナがいうようにお得な感じがする。

 権蔵は一口食べると、一つ頷き、そのあとも黙々と食べ続けていた。つぼみは権蔵の目頭が赤くなっていることに気がついたが特には触れなかった。

 思い出の中には忘れられない匂いもあれば、味もある。きっと今、権蔵は思い出の中のハナを考えているのだろう。邪魔してはいけない。

「自殺なんかしちゃいけねえ。自殺なんかしたら、残されたやつは一生、その思い引きずって生きていかなきゃいけねえんだ。」権蔵は、言った。

 ポツリポツリとではあるが、今までの思いを言葉にし、つぼみにそして自分自身に伝えようとしているかのようだ。

 不意に話し始め、独り言のようでもあったが、つぼみはただただ聞いていた。今の自分には聞くことしかできなかった。

「つぼみ。俺は、頭の中にでっかいコブがあるんだ。それがいつ爆発するかもわからない。それが爆発した時が俺の終いだ。それがわかった時、すごくすごく嬉しかった。やっとこハナさんと同じところへ行けるって。だけど、ふと思ったんだ。自殺したやつは天国へいけねっていうじゃないか。じゃあ、俺がたとえ極楽に行けたとしても、あいつはどこにいるんだろうって。さっきは無だなんて行ったけど、俺はもう一回あいつに会いたいんだ。」

 権蔵はそこまで言い涙を一滴だけ流した。

 月日を積み重ねた人の言葉というのは、重みがある。

「だから、俺は、自殺しようとしたんだ。」

 権蔵は続けた。

「でも、やり方も知らねえ。ハナみたいに首を釣ろうにも、ロープの結び方も知らない。だから睡眠薬を買って飲んだんだ。でもダメだった。死にたくなかったんだろうな。少なめに飲んじまった。俺は公園で飲んで倒れたんだ。だからすぐに誰かが救急車を呼んだ。俺は死にたくなかったんだ。でも、これでハナと同じ罪になったんじゃないかと思う。自殺未遂も自殺もきっと同じ罪だろう。」

 権蔵は少しこっぱずかしそうに笑った。

「アホ見たいだろう。」

 つぼみは権蔵にかける言葉がなかった。ただ、首を横に振った。 

 この老人は自分にいろいろなことを話して聞かせてくれたが、まだ知り合って、たかだか二日だ。

 一緒にいた時間なら会社の同僚の方が圧倒的に長い。だが、その同僚や先輩の誰のことよりも、この、ハナという一人の女性をずっと愛し続けた男のことを知っている。つぼみは何だか不思議な気がした。時間というのはただ流れているだけではなく、時々に重さや密度を変えているのかもしれない。

「いくか。」そう言うと立ち上がり、本当に会計をしてくれた。

「はい。」つぼみと権蔵はお墓へと向かった。




12


 お墓は駅から車で十分ほどの丘の上にあった。あたりには住宅もない。山の中に小さな墓地がポツンとあるだけで、入り口には「熊注意」の看板があるほどだ。

 権蔵は着くとタクシーを帰させた。長くなるから帰っていいと。タクシーは最初、ここら辺でタクシーを拾うことは難しいから、長くなっても待っていると言っていた。

 しかし、権蔵の頑なな態度に、最後は戻ることにした。心配してか、呼び出しの電話番号を書いたメモを持たしてくれた。

 携帯が壊れているつぼみは不安だったが、権蔵の言うままにした。

 権蔵は墓地に着くと、ハナの納骨以来来ていないと言うのに迷うことなくハナの墓を見つけた。墓標を見ると、眠っているのはハナだけではないようだ。

 母親や父親。それと10年ほど前に亡くなっている人もいる。ハナの叔母だろうか。

「やっとこ来れましたね。」しゃがんで手を合わせ終わった権蔵につぼみは声をかけた。

「ああ、やっとこ来れた。」権蔵はそういうと墓石に寄りかかって座った。

 本来は花でも用意しておけば良かったのだろうが、権蔵とつぼみは何も用意していなかった。本来供え物を置く場所に寄りかかって座る権蔵は、権蔵自信が供物であるかのようだった。

「つぼみ。ありがとう。おかげでここまでこれた。お金のこともそうだけど、第一、ここまで来る勇気がなかった。」

「でも、私お金払ったぐらいで特に何も。」

「それでいいんだ。一人よりも二人の方が心強い時がある。ありがとう。そろそろ、お前は次の人のところに行かなくちゃ行けないんじゃないのか?あのライオンと。」

 権蔵はそう言った。

「あの、ライオン。って。権蔵さん。見えていたんですか?」

「ああ、まあな。俺とお前以外には見えていなかったみたいだけど。」

「でも、何も会話を。」

「したさ。だからお前をこの旅に連れて来たんだ。」

「・・・。」

 確かに、権蔵がつぼみを旅に誘うのは、いくらお金が無いとはいえ奇妙なことだった。だが、不思議と権蔵とライオンのつながりについては何も考えなかった。

「いくよ。」つぼみは後ろから声をかけられ、振り返った。そこにはもう見慣れたライオン姿のセーラー服の女子高生が立っていた。

「いくってどこに?」

「二人目の〈かもしれない自分〉を助けにいくの。」

「で、でも。」つぼみは権蔵を振り返った。権蔵は、目を閉じて墓石に寄りかかっていた。口元は穏やかに笑っている。

「権蔵、さん?」つぼみが問いかけても権蔵は動かない。

 つぼみは権蔵のそばに寄り、肩を揺すった。何だか嫌な胸騒ぎがした。

「権蔵さん!」耳元で大きな声を出すが権蔵はピクリともしない。揺すっても目を覚まさない。

 つぼみはライオンを振り返った。

「どういうこと!?」

「次の人のところに行くよ。」そういうとライオンはつぼみの手を無理やり握った。その途端つぼみの視界は真っ白になった。


 それから少しして、一台のタクシー運転手がお墓へ来た。少し前にここまで連れて来た老人と女性の二人組が大丈夫かやはり心配になったのだ。

 クマも出ると言うのに、あんな軽装でお墓で何をしているのか。

 車を駐車場に止めお墓の中へ行くと、一つの墓に寄りかかるようにして眠る老人を見つけた。女性の姿はない。

 

 それが、つぼみがここをライオンとともに立ち去ってから、ちょうど二時間後のことだった。




13


 田村浩介はまたフェンスを越えて、だだっ広い日常が広がる街並みを眺めていた。

 いつもはフェンスを越えることはあまりない。万が一にでも、外の人に見つかったら大騒ぎになるからだ。

 ただ、今日も昨日と同じようにしていればライオン女子高生に会えるような気がしたのだ。

 だが、もうすでに、昼休みが終わるまであと五分ほど。もうそろそろ教室に戻らなくてはいけない。来たとしても長く話すことはできない。

 そもそも、あのライオンは自分がここから飛び降りようとしたことで、脳が興奮して見せた幻影なのかもしれない。

 最初、浩介は自分が少年漫画の主人公のような出来事にこれから巻き込まれるのではないかと思いワクワクした。実際体育も二人一組はなく、ライオンの言っていた通りだった。

 自分にはこれから、めくるめく大冒険が待っているのかもしれない。その案内人があの「異様」な格好をしたライオンなのだ。

 高校生にしては、幼稚な妄想かもしれないが、考えずにはいられなかった。

 だが、今日、改めて屋上に来てみると、あの存在は浩介が作り出した幻想のようにしか感じない。

 浩介はフェンスを越えて戻り、ドアへと進んだ。次の授業は美術だ。木版画作りで彫刻をしている。浩介は作業そのものは嫌いではなかったが、上手くできたと自分で思ったところで褒められることはない。共有できない喜びはより孤独を浮き立たせるからあまり好きではなかった。

 ドアを出ようとドアノブに触ると、ビリっと静電気が起きた。

 すると後ろで突然話し声がした。

 浩介は嬉しさで顔を少し赤らめながら後ろを向いた。

 そこにはライオンの少女だけではなく、20代半ばぐらいの女性もいた。浩介に構うことなく話している。

「ここどこなの??権蔵さんは?」女性はライオンに向かって言った。

「一人目はあれでおしまいよ。次は二人目。彼。」ライオンはそう言って浩介のことを指差した。

 女性は浩介を見た。浩介はこのぐらいの年齢の女性と関わったことがなかったのでどうしていいかわからず、目をそらした。あまり女性に見られることに慣れていなかった。

「この人を救うの?」女性はライオンに向かって聞いた。どうやら、ライオンが言っていた浩介を助けてくれる人というのはこの女性らしい。

 だが、この女性からは特に少年漫画に出てくるような要素は感じない。ライオンの「異様」な姿とは打って変わって、ありふれた女性だ。

 むしろ、その人もなぜだか狼狽えているようですらあった。

 女性が近づいて来る。

「あの。名前は?」

「田村浩介って言います。」

「あ、あの。何か手伝えることはある?」

「え?」浩介ははなんて答えたらいいのかわからず、モゴモゴとした。少なくとも期待していたような展開にはならないようだ。

「えっと。助ける。んーと。」

 浩介は自分が学校で居場所がないこと、このあとの授業に戻りたくないこと。そんなことを言うのでいいのだろうかと思い、自分が妄想していた世界との落差に勝手に落ち込んだ。

 チャイムが鳴った。浩介は途端に現実に戻されてさらに、絶望的な気持ちになった。

「あ、あのこれから授業なので。」浩介はそう言うとドアに手を伸ばした。今度は静電気は起きなかった。

 だが、階段を降りようとすると後ろから手を掴まれた。

「あなたひょっとしてイジメられてる?」女性が浩介の手を握りまっすぐに見つめて言った。

 浩介は頷いた。


     ・


 浩介は昼休みが終わっても屋上にいた。隣にはつぼみが座っている。授業をサボるのは初めてのことだ。

 ライオンは気がついたら消えていた。

 浩介は最初、つぼみと名乗ったその女性は自分が想像していたような人ではなく頼りなさげに見えたが、喋ってみると自分の話を真摯に聞いてくれて、とても嬉しくなった。

 少なくとも自分の担任や親よりは自分に寄り添ってくれるような気がした。

 少年漫画のような展開ではなかったが、友達のいない浩介には、話を聞いてくれるだけでも嬉しいのだ。

「浩介くんは、なんで学校に来るの?」

 それは浩介が学校で友達が一人もおらず、昼休みには伏せて寝たふりをしているか、カバンをガサゴソと何かを探しているふりをしていると話した時だった。

 そういうことも、他人に話したのは初めてだった。母親にすら浩介は学校でのことを話していない。

「そんなにつまらないなら高校に来ないって選択だってあるよ。今はフリースクールとかだってあるし。それに、中学とは違って、高校は義務教育じゃないんだから。」

「な、なんでって。」

 浩介は顔を伏せて考えた。

 自分はなぜ学校に来るのだろう。学校にはなぜ行かなきゃいけないのだろう。

 フリースクールというのはどうやって入学すればいいか知らないし、値段が高そうな印象がある。母子家庭で貧しい浩介には選択肢にならない。高校が義務教育じゃないからと言って、退学したところで就職先はないだろう。だが、その答えのどれもが的確にはマトを得ていないような気がした。

「なんでって、学校があるから。かな。」浩介はそう答えた。というより、そう答えることしかできなかった。

 つぼみは声を出して笑った。浩介は誰かに声を聞かれないかと思い心配になった。すぐ下は授業中の教室があるはずだ。

「ね。そうなんだよね。山があるから山を登るって登山家は言うらしいけど、学生は学校があるから学校に行くんだよね。」

 浩介は自分でもなんだか変なことを言ったような気がしてモゾモゾした。

「でも、それって間違いなんじゃない?学校があっても学校に行かなくていいんだよ。会社があっても会社に行かなくていいし。」

「・・・。」

「この世はさ、広いんだよ。実は、私、最近変なことが立て続けに起きてて、でも、そのおかげで気づいたことの一つが、世界は自分が思っている以上に広いってこと。会社だけが世界だけじゃないし、学校だけが世界じゃないんだよ。」

「・・・。学校だけが世界じゃない。」浩介は自分が言って欲しかった言葉をつぼみが言ってくれているような気がした。

「そう。確かネットの高校もあったよね。いろんな形の高校生活があっていいと思う。みんな違うんだから、みんな同じじゃないのは当たり前だよ。自分がいたくない世界に何も無理してずっといる必要はないよ。」

「でも、母親が。」浩介は母親のことを考えた。

「お母さんとお父さんはどう?浩介くんが学校がツラいってことは知ってるの?」

「・・・。いや何も。言ってない。」

 浩介に父親はいない、母親が一人、シングルマザーで浩介のことを育ていた。

 高校受験の時には、浩介が県内でも上位の高校に合格し、中卒の母は手を叩き、涙を流して喜んだ。だからその母を悲しませたくないというのも、浩介が学校に通い続けている理由の一つだった。

 浩介はそのことをつぼみに話した。これもまた、今まで誰にも話したことのないことだったが、なぜだがこの出会ってまだ十分ほどしか経っていない女性には話すことができた。

「そうか。」つぼみは特に慰めるでも励ますでもなく、短く頷いた。

「そうなんです。それにフリースクールとかって結構高いんですよね。うち、お金ないし。」

 つぼ

みは頷いき、何かを考えているようだった。

 沈黙が流れ、浩介は空を見た。浩介の口から出る暗い話とは打って変わって、秋の空はどこまでも青く高い。

「よし。浩介くん。何か好きなものはない?」つぼみが口を開いた。

「す、好きなもの?」

「そう、音楽とか、映画とか、食べ物とか。」

 浩介は好きなものと言われてすぐに、ついさっきまで聞いていた、バンドのことを考えた。バンドだけではない、浩介は音楽、特にロックミュージックが大好きだった。

「あ、あの。あるんですけど。」

「何?好きな人とかでもいいよ?」

 浩介はクラスの女子のことを考えた。確かに可愛い子はいるが、向こうからすれば浩介と付き合うことはありえない。だから、浩介も無駄に傷つくことを恐れて好きにはならないようにしていた。ただ、それでも「好きな人」と言われて瞬時に思いつく人が一人だけいた。だが、浩介は首を振ってその人の残像を消した。

「あの、歌手になりたくて。」

 親や教師に進路相談などで聞かれた時はいつも公務員と答えていた。ただ、今はそんなことを言う必要はない。浩介は自分の夢をはじめて人に伝えることができた。

「歌手??」つぼみは一瞬驚いた顔をした後にニヤリと笑った。

「いいね。いいね。なんか、わかった気がする。どんな音楽を聴くの?」

 浩介は歌手になりたいと言ったら、普通は馬鹿にされるものだと思っていた。だが、つぼみはそんなことを気にするでもなく、なんだかとても嬉しそうに笑っている。

「あの、ロックバンドとか、なんでも割と聞きます。最近だとエレストとか。」

「あっ!ひょっとしてエレファント・ストーンズ!?!?!?!」

「ええ。」

「そうか。やっぱりな。」そういうとつぼみは楽しそうに声を出して笑った。

 浩介はつぼみが何が「やっぱり」なのか、何がそんなに面白くて笑っているのかわからなかった。

 ただ、自分のことを馬鹿にしている笑い方ではない。

 いつも浩介は同級生と話すことはない。だが、何か話さなくては行けない時や、周りで自分のことを馬鹿にしている時に同級生の口は気味悪くニヤリと歪む。なんとなくだが、長年のいじめからそういうことばかり気がつきたくないのに、気がつくようになったのだ。

 だが、つぼみからは、全くそういう感じがない。雲ひとつない空のように笑う。

 自分の母は仕事に追われているせいか、引きつったような笑顔しかできない、教師や同級生達も皆何かしらを気にしているような笑顔だ。こんなに自由な笑顔は初めてだった。

「浩介くん。デビューしようか。」楽しそうにニヤニヤ笑いを続けながらつぼみは浩介に言った。




14


 いつもは学校という小さな世界にいる時間に外の世界に出ると、学校の行き帰りで毎日見る光景も、いつもよりも明るく、色鮮やかに見えた。知っている景色も、いつもと違う時間に見ると違った景色になる。

 浩介は五時間目が終わると教室に戻り、カバンを持って学校を抜け出した。

 二人で一緒にいるところを教師に見つかったらまずいと、つぼみも一人でなんとか外に出てきた。

 途中声をかけられたらしいが「具合悪くなって保健室に寝ている生徒の母だと言ってごまかした。」らしい。それを聞いて浩介は面白くて笑った。

 浩介が教室に戻った時には、複数の目が浩介に向けられた。だが、誰も話しかけては来ない。

 浩介が五時間目の時間にどこにいたのか、授業をしにきた教師にでも聞かれたのだろう。だが、誰も浩介には声をかけなかった。この後も浩介が学校からいなくなってしまえば、教師から聞かれることは間違いないのに、今まで陰口の対象でしかなかった浩介にはどうやって話しかけたらいいのかも、同級生達は忘れてしまったようだ。

 こういうときに卑怯なのは教師たちでもある。浩介が学校からいなくなっていて、もし浩介が自殺するようなことがあれば、責任を受けるのは担任や授業を担当した教師たちだろう。その人たちは日頃から、浩介へのいじめを知っていながら何も対策をしなかった人たちだ。

 だが、おそらく、自分に責任が来そうだと知れば、浩介の同級生たちを激しく非難するだろう。

「なぜ、誰も浩介がどこに行ったのか知らないのか。」「なぜ誰も五時間目に戻って来たときに聞かないのか。」そういった、ことを怒り口調で言うのだろう。自分自身の浩介のいじめを黙認していたと言う責任は棚に上げ、いい気なものだ。

 浩介がいなくなった理由は、きっと同級生や教師からすれば自殺ぐらいしか考えられないだろう。

 だが、実際は、浩介にとっても予想外であるように違っていた。

「なんか、ワクワクするね。」学校を抜け出し、駅に向かうつぼみは楽しそうにしている。

「あ、あの。つぼみさんって何者なんですか?怪しんでるわけではないんですけど。」

 浩介は、隣にいる女性にとても惹かれていたが、どういう人なのか、名前しか知らなかった。

「私?ああ、私はね。えーっとなんていうか。」つぼみはふと我に返ったように首を傾げた。

「まあ、助ける人というかなんというか。」

「助ける?僕をですか?」確かに、ライオンも「助ける」と言うことを言っていた。だが、どうやってだろうか。今日の午後の授業からは助けてはくれたが、そういうことなのだろうか。

 浩介はずっと誰かに「助けて」欲しかった。だが、誰に「助けて」といえばいいのかわからなかった。

 教師ではない。親にも言えない。相談できる友人もいない。だけれど「助けて」ほしい。圧倒的なまでに冷たい孤独から。

 だから、いくら少年漫画のような展開ではなかったとは言え。つぼみが「助ける。」と言ってくれたことは本当に嬉しかった。

「うん。まあ。浩介くんだけじゃないんだけど。」

「はあ。」

「まあ気にしないで。それより浩介くん、楽器は何かできる?」

「一応ギターなら弾けます。うち金ないから中古で買ったボロボロのアコギですけど。でも、バンドとか組んだことないです。」

 浩介はいつも昼休み焼きそばパンを機械的に口に詰めながら、エレストの音楽を聴いていた。

 エレストは大学の同級生で結成された三人組のバンドだ。ただ、浩介はそれに憧れながらも、金銭的に大学に進学することはできないで、友達もいない自分は一生バンドを組めないのだと思い、バンドの演奏を聴くのが辛くなる時もあった。

「そうか。私ドラムできるから、この後スタジオ行って一回合わせようか。」

「えっ?」

「実はね。明日、優勝すればデビューが決まるっていう、ロックの登竜門って大きなイベントが渋谷ネクストってライブハウスで開催されるの。それになんとかして出よう。」そう言うつぼみの目はキラキラとしている。

「それってエレストの。」

「そう。エレストがデビューを決めたやつ。四年前だっけ?」

 浩介は興奮した。わけがわからなかったが「出る」と言う一言だけで興奮した。

「でも、エントリーしていないし。」

「大丈夫。」

「えっ?」

「でも。ただその代わり、バンド名はもう決められてるけどね。」つぼみは言いながら、何かイタズラでも仕掛けようとしている少年のように笑った。

「?」

「メソポタミア太郎と仲間達。」

「メソポタミア太郎と仲間達。」

 浩介はつぼみの言葉に、ただオウム返しすることしかできなかった。

「そう。変な名前だよね。でもそれしか手がない。というか。そういうことなんだと思う。ライオンが私をここに連れてきた理由は。私が救うことができる〈かもしれない自分〉は浩介くんなんだってことが。」

「はあ。」

「まあ、気にしないで。私もさっきまでは自分がどうしていいのかわからなかったし、人について行くばっかりだった。でもハナっていう女性から勇気をもらえた気がする。」

「ハナ。」

「そう、私の名前はつぼみでしょ?なんだか他人事には思えなくて。それに他人じゃないくて、〈かもしれない私〉だしね。」

「?どういうことですか?」

「浩介くんは気にしないで。」つぼみはまた楽しそうに笑った。

 浩介はつぼみが時々、浩介には訳のわからないことで楽しそうにしたり、何か考えている風でだったり、納得したように頷くことが気になった。だが、何か色々考えているのだろうと思い、あまり詳しくは聴いてみないことにしていた。

 きっとその方がいいだろう。

「あれ。」つぼみは急に歩くのをやめた。顔はさっきまでの笑顔とは対照的に、眉にシワがよっている。

「どうしたんですか?」浩介は何かまずいことがあったかと、内心オドオドしながら聞いた。」

「ここってどこ?東京近い?」つぼみは聞いた。

 浩介はそんなことかと笑い出してしまった。なんだか色々な感情が混じった笑いだ。

「ここは町田ですよ。一応は東京です。」


   ・


 平日昼間の電車内はほとんど人がいない。密閉された空気が春のように温められ、穏やかで静かな時間だ。

 つぼみと浩介は、のんびりと小田急線に乗り、渋谷に向かっていたが、のんびりすると余計なことまで頭で考えてしまい、ソワソワし始める。

 まだ一度も母に連絡していないのだ。ひょっとすると今頃、捜索願が出されて、つぼみと権蔵のことを探しているかもしれない。

 しかも、その権蔵が北海道美唄市の人が滅多にこないようなお墓で死んでいたとしたら。

 今頃自分は容疑者として追われているかもしれない。今なら東京駅から北海道に向かうつぼみと権蔵の姿は防犯カメラに間違いなく写っているだろう。

 つぼみは今、自分がひょっとすると追われる身だということを考えると恐ろしくなった。

 ただ、乗りかかった船だ。もう止めることはできない。それにロックの登竜門はつぼみがずっと担当していた案件だ。使いたくはないが、使おうと思えばコネも使えるかもしれない。そうすれば、浩介を助けることができる。それで、ライオンのいう〈かもしれない自分〉を救う旅の二人目は終わる。

「つぼみさん?」浩介がつぼみが少し深刻そうな顔していることに気がつき聞いてきた。

「大丈夫ですか?」

「ああ、うん。」

「気分悪いですか?」

「いや。大丈夫。浩介くん、気がきくね。」

「いえいえ。ただ、人の表情には過敏になんです。」

「そっか。あっ、楽器どうしようか。家よてこなかったね。ドラムは多分レンタルがあるとして。ギターは買おうか。」

「えっ。でも、お金ないし。」

「大丈夫。優勝賞金100万円だから。それが入ったら返してよ。」

 つぼみはどうやらもう優勝したような気らしい。だが、浩介は自分もロックの登竜門に出られるということにワクワクした気持ちが時とともに収まり、今では不安な気持ちが心を灰色にしていた。

 自分はギターが弾けると言っても、独学でやっていたに過ぎない。歌だってうまいのか下手なのかすらわからない。

 それにバンドをやったこともない。つぼみはドラムだと言っていたけれど、今日合わせて明日の本番で間に合うのだろうか。

 いや、間に合うはずはない。ロックの登竜門はインディでもある程度活躍しているバンドが出るイベントだ。

 浩介は立ち読みした音楽雑誌に特集が組まれていたのを思い出した。

 自分なんかは場違いなのだろう。笑われるかもしれない。ど素人がそんなところで音楽をするなんて。

 電車は浩介とつぼみそれぞれの思いを乗せながら、世田谷の住宅街の中を走って行く。つぼみは権蔵のことを考えた。

 権蔵が死んだことは何と無く気がついていた。

 権蔵を助けれたのかはわからない。だが、権蔵とハナの話を聞き、つぼみ自身は自殺しようとしたことを後悔した。

 だから、権蔵を助けると言うよりはむしろ、権蔵との短い旅の間に、自殺しようとしていた自分の心が救われたような気もした。

 あるいは、それがライオンが望んでいたことでもあるのかもしれない。

 権蔵にありがとうと言われ、ライオンにはこれでよかったと言われ、つぼみは少し清々しい気分になれた。


   ・


「はい?」電車の音と混ざり合い、つぼみの声は浩介にはうまく届かなかった。

「〈かもしれない自分〉でこの世の中って満たされていると思わない?」つぼみは浩介を見て言った。今度は電車の音を超えて、まっすぐに浩介の耳に届いた。

「かもしれない自分。ですか?」

「そう。例えば、あれ。」つぼみは雑誌の吊り広告を指差した。芸能界のスキャンダルを書いた見出しの中に、生活保護不正受給についてのタイトルが書かれている。

「生活保護。あれって、今のところは私にしても、浩介くんにしても関係のないことでしょう?でも、勤めている会社が倒産したりして、収入が突然なくなることは、可能性は低いにしてもゼロではないでしょう?今は日本の代表的な企業だって倒産する時代だしね。」

「そ、そうですね。でも、うち、金ないからあまり遠い存在には感じないですよ。」

「うん。そうね。でも、大企業に勤めている人からしたら、自分がそんな状態になることを想像することも難しいよね。私も働いているときは考えなかったもん。強者は弱者の気持ちになることが難しいというかね。」

「そう、かもしれませんね。」浩介は同級生のことを考えた。同級生は浩介ことをクラスカーストの中で一番下の存在としか見ていないだろう。

 自分は教室の中の匪賊なのだ。クラスの中心的人物は浩介の気持ち、本当はこんなのが嫌だということ。「おはよう。」と言ってくれるだけでも嬉しいということ。二人一組みの時に「入れて」とお願いしたら入れてくれること。大したことは望んではいない。でも、強者は弱者のことを知らない。匪賊は人間ですらないのだ。

 自分のことは嫌いでも構わない。ただ、否定だけはしないでほしかった。

「でも、今は良くても将来的、例えば年をとればそれだけで、ある意味では弱者になるわけだし。年をとった時のかもしれない自分のために年金とか、福祉とかってあるわけでしょ。だからもっとみんな優しくなれたらいいのにね。」

「自分のことでいっぱいいっぱいなんですよ。」

 浩介のクラスでも一人元々カーストの上位の集団にいたが、その中でもリーダー格の人に嫌われ、クラス中から無視され浩介と同じ匪賊に落ちた人がいた。浩介は自分と同じ身分に仲間ができたことを密かに喜んだ。

 ただ、その人にもプライドがあるらしく、浩介には話しかけはしない。匪賊は匪賊の中にもさらに小さなカーストがあるのだ。

 その人は結局、帰宅部の集まりの中にアイドルのオタクキャラとして入ることでおさまった。

「つぼみさん。優しいんですね。」

「いやいや。私も昨日まではこんなこと考えなかったから。無職になったおかげだよ。」つぼみは少し恥ずかしそうに笑った。



15


 渋谷東口を出て少しの所にある楽器屋で、浩介にアンプにつなげることのできるアコースティックギターとつぼみはドラムのスティックを買った。

 学生以来握っていなかったスティックの感触はとても懐かしく、しばらく忘れていた楽しさを思い出させた。

 自分には知らない世界だけではなく、忘れていた世界もあったのだ。

 楽器を買うと、店員に教えてもらった最寄のスタジオに行き、早速リハーサルに望んだ。

「そういえば浩介くん。オリジナル曲はある?」

「えっと。」浩介にはすでに、ノート5冊分くらいのオリジナル曲があった。ただ、そのどれもが誰にも聞かせたことはない曲だ。つぼみに聞かせることもとても恥ずかしかった。

 それはいじめを告白することや、自分の夢を告白すること以上に内面をさらけ出すことのように浩介には思えた。

「一応、あります。」

「聞かせてもらえる。」つぼみが嬉しそうに笑っている。つぼみの笑顔を見ていると何も心配いらず大丈夫なような気がしてくる。きっと歌が下手でも、歌詞が気持ち悪くても、つぼみは馬鹿にしないでくれるだろう。

 浩介は自分なりにいいと思う何曲かの中から、特にこれだと思う曲を弾き始めた。


「黒い髪に、

 黒い目に

 黒いまつげに

 赤い唇。

 僕を惑わす。」


 簡単なコードに合わせて歌う。いつも母がいない時に歌っているが、そのどんな時よりも緊張する。声が震え、自分の声はこんなにも奇妙だったかと感じる。

 それでも浩介は歌い続けた。


「あの群れは

 言葉を失った人の群れ、

 街を彷徨い歩く。

 だから、僕は

 君をイメージして。

 自分は違うと、

 言い聞かせて。

 あなたが笑っていてくれることを

 今は信じるだけ。」


浩介は鼻から息を大きくすい続けた。次がサビだ。


「だから、嘘でもいい。

 いいから僕を愛して。

 嘘でもいいから僕を

 愛していると言って。」


このフレーズを思いついた時、浩介はとても嬉しかった。自分の言いたい言葉を見つけたと思った。

 浩介は続けて、二番も最後まで歌った。途中までは恥ずかしさで、声が震え、声の大きさも大きすぎたり小さすぎたりとして、顔はどんどん赤くなっていくのを感じていた。

 ただ、その間も、微笑みながらドラムセットに座って聞いていてくれるつぼみを見ると、自然とリラックスし、二番を歌う時には、いつも家で歌っているような気持ちで歌えた。

「すっごく。いい。いい。ちょっと浩介くんすごいよ。」歌い終わるとつぼみは、目を丸くしながら嬉しそうに拍手した。

 お世辞で言っているようではなかったし、お世辞でも嬉しかった。

「今のはなんて曲名なの?」

「あっ、『嘘でもいい』かなって。まんまなんですけど。」

「いいよ、いいよ。大抵『ありがとう』とか『さよなら』って楽曲はサビの最初がありがとうかさよならだから。オーソドックスな方がいいよ。ロックの登竜門はオリジナル曲3曲なんだけど、あと二曲ある?」

「はい。一応。ノート5冊分くらいはあります。」

「そんなに!?!?」つぼみは笑い始めた。「ならデビューしてからも当面の間は困らないね。」

「デビューってそんな。」

「あといい感じの曲2つお願いします。」

 浩介は再び、他の自分でも気に入っている曲を演奏した。

『何色』と『夜更けにカモミール』と名付けた曲だ。

 『夜更けにカモミール』は浩介が翌日の学校のことを考えると眠れない日に、寝静まった母を起こさないように弾いてできた曲だ。


「そうじゃないの。

 わからない人ね。


 夜が怖くて、

 泣いてるんじゃないの。

 

 明日。今日と同じような明日。

 それが、怖くて泣いているのよ。

 ただ、過ぎていく、

 日々の中に溶けていく思い。

 

 揺れる膿んだままの僕に

 少し争う夜更けにカモミール。」


 その頃、母が風邪をひかないようにと毎日カモミールのお茶を飲んでいたからこの歌詞が浮かんだのかもしれない。

 その時寝ている部屋の天井には紐がかけられ、一回煎じただけでは勿体無いと、ティーバックが乾燥させられていた。

 浩介の曲作りはいつも適当にコードをかき鳴らしながら、それに合う言葉を探してゴニョゴニョ言うところから始まる。

 だから浩介も曲をどうやって作ったのかと言うのがわからないままにだんだんと出来ていく。

 パズルのピースがはまるように、うまく見つからないフレーズにぴったりはまる言葉が不意にハマる瞬間が浩介は好きだった。

 『何色』は、他の曲以上にシンプルなコード進行の曲だ。


「祭りの後の静けさは

 いつもよりざわめきます。


 友が言ったことは全部

 嘘だと信じたい。

 


 僕らの代わりはいくらでも

 また生まれてくるらしい


 だけど僕にとってあなたの

 代わりなど他にいないから


 青空は青空なの?

 もしも、僕が見ていない

 青空なら。


 桃色は何色なの?

 もしもあなたが、

 いない、春なら。」


 『何色?』は「青空は青空なの?」と言う問いから入るサビが気に入っている。

 高校一年の頃にたまたま転校生が浩介の隣の席に来た。中学の同級生も多くいく高校だったので、その頃から孤立していた浩介ではあったが、その人は何も知らないで話しかけてくれた。

 次の授業はどんな先生なの?浩介くんは何か部活とかしてる?そんな当たり障りのない会話も、会話というだけで浩介はたまらなく嬉しかった。浩介は久しぶりに学校で「会話」というのを楽しむことができた。

 ただ、それも長くは続かなかった。浩介が嬉しそうにしているのが気に食わなかったのか、転校生も無視されるようになった。

 そうして転校生も浩介とは関わらない方がいいのだと察した。浩介が話しかけてもうなずく程度で、向こうから話しかけることはなくなった。

 その時、単純な話ではあるが、自分に話しかけ、自分の話を聞いてくれた彼女に好意を持っていた浩介は、数日の間に変わってしまった彼女の態度に落ち込みこそすれ、それでよかったのだとも思った。

 匪賊と関わり匪賊に落ちるよりは、匪賊と関わることなく、平民でいる方がいい。その人に好意を持っていたからこそ、浩介から関わることもやめた。

 一人でいることに慣れはない。ただ、それでも転校して来たその人よりは、浩介の方が孤独の冷たさには馴染みがあったしなんとか耐えることもできた。

 ただ、一度二人でいることの楽しさを感じてしまった浩介の心は再び孤独へと戻ると、以前以上にそれが冷たく感じてしまった。期待は外れると絶望に変わってしまう。

 ただ、話しかけてくれなくなっても、浩介はその人のことを知らず知らずのうちに目で追ってしまった。なんとか居場所となるグループを見つけたその人は色々な人に平等に笑顔を振りまく素敵な人だった。

 周りの目を気にして浩介のことを構わなくなったとはいえ、同級生がいないところでは、挨拶をしてくれていた。

 たまに目があうと、笑いかけてくれような気もした。

 だが、ある日浩介のそんな気持ちを知ってかしらずか、クラスのリーダー格の少年が他のグループメンバーにその子の処女を奪ったということを浩介のそばで話していた。

 どうやら二人は付き合ってもいないのに、その少年の家でセックスをしたらしい。

 まだ昼休みに屋上に行くようになる前のことだ。浩介はいつものように寝たふりをしていたのだが、その話を聞いてからというもの、うつ伏せのままの浩介の心臓はドクドクと鳴り、脇汗はたれ、頭は締め付けられたように傷んだ。理性だけではなく身体中全てがその人が言っていたことを拒んだ。

 ただ、浩介はその姿を想像せずにはいられなかった。授業中も、休憩時間もずっと彼女が、リーダー格の少年に犯される姿を想像し、苦悩した。

 帰ってからはただただ疲れ切るまでオナニーをした。

そして彼女は、転校して来た当初は黒髪でメイクもしていなかったというのに、だんだんとクラス内カーストを登っていくに連れ、メイクは濃くなり、髪は茶色がかっていった。

 『何色』はそんな時期に作った曲だ。

「いい歌。両方とも、浩介くんの想いがこもってるね。」つぼみはそんな浩介の気持ちなんぞ知らないだろうに、そう言い微笑んでいる。

「は、はい。」

「じゃあ、私、今のにドラムを合わせるから。」

「でも、歌とギターとドラムだけで大丈夫なんでしょうか。ギターソロとか作れないし。」

「うん。まあバンドとしては確かに寂しいかもしれないけど、シンガーソングライターにドラムって言うんなら、まだ大丈夫でしょ。ただね。実はそれでも、問題が一つあって。」

「?なんですか?」

「私たちがなりすますメソポタミア太郎と仲間達って確か、エレクトロデュオとして登録されてたの。だから、登録と違うことして大丈夫かなって。」

「えー!エレクトロって真逆じゃないですか。」浩介は驚いて言った。

「そう。だから、方向転換したという理由で出ようかなと。」

「だ、大丈夫ですか。そんなので。第一なんでメソポタミア太郎と仲間達になりすましができるんですか?」

「ああ、私、仕事辞める前このイベントに関わっててね。出演者が決まった後に、このバンドが出場辞退したのよ。音楽の方向性の違いで解散したとか言ってね。でも、イベントの出演者としてもうポスターやらチケットやらプリントした後だったから、一応、参加するテイで進めておいて、当日は急遽出演を取りやめたってことにしようってことになったの。」

「じゃあ、それじゃあメソポタミア太郎と仲間達として行くと怪しまれないですか?解散してるはずなのに。」

「怪しまれるとは思う。だけど、仲直りしたからとかいえばなんとかならないかな。それなら、音楽の方向性が全く違っても辻褄があうでしょう。どっちかがどっちかに合わせたんだなって主催者は考えるかもしれない。」

「そうですかね。」浩介は不安に思った。そんなことで騙せるのだろうか。だが、バレる危険があったとしても、浩介はロックの登竜門に出場したかった。

 少し前までは、出場することなんか、夢にも思っていなかったが、今では、ロックの登竜門で優勝することが、小さな世界から大きな世界への切符のように思えた。

「行くよ!」つぼみはドラムのスティックを打ち鳴らし、浩介は慌てて演奏を始めた。




16


 浩介はつぼみが探してくれたカプセルホテルにいた。シャワーに入り、ロビーにあった公衆電話から母に電話をし、今日は友達の家に泊まると言い後は眠るだけだ。

 母親は少し心配していたが、友人と遊びに出かけることも少ない浩介に、そうした友達がいるのを知って嬉しくもあるようだった。「いい友達がいて良かった。向こうのご両親にもよろしく言っておいてね。」そう言うと電話を切った。

 一畳ほどの眠るだけのスペースに収納されたように横たわる浩介は、ここ数時間と同じように心臓がドクドクと鳴っている。今日自分の身に起きたことが現実のことのようには思えない。

 もし、自分がバンドの登竜門で勝者になって、デビューが決まったら。

 そうしたら、芸能活動を拠り所にし、あまり学校に行かずに済むかもしれない。

 それだけではない。歌手デビューが決まった浩介を同級生たちはどういう風に見るだろう。

 浩介はクラスの小さな世界に作られたカーストから飛び立ち、同級生とは違う世界に行く。

 そ子からなら浩介は今までの劣等感を補ってあまりあるほどの優越感を感じることができるかもしれない。

 なんとかして勝ちたい。この自分の状況を脱するために。

 つぼみさんは、またいついなくなるかわからない。来た時も突然だった。いなくなる時も突然かもしれない。

 それまでになんとかして自分の居場所を見つけなくては。

 これが。これがもし漫画なら。自分は優勝してデビューすることができるだろう。

 でも、もし、もし、ダメだったら。

 あのイヤラしく醜く、汚い小さな世界に戻らなくてはいけない。

 自分は長い間、その小さい世界で生きてきた。

 浩介は同級生のこと、担任のこと、あの女の子のことを考えようとして首を振った。

 何も今考えることではない。

 これからステージで歌うまでの間だけは広い世界のことを考えてもいいだろう。あの小さな世界を忘れてもいいだろう。

 浩介は自分がステージの上で歌う姿をイメージした。もうそこには学校の友人によって構築されたカーストは存在しない。

 学校内カーストのない外の世界。それが浩介が望んだ幸せだった。


     ・


 つぼみは浩介と同じカプセルホテルに泊まっていたが、女性専用の階にいた。

 その共用スペースで、他の宿泊者がつけたバラエティ番組をただ漠然と眺めていた。

「なんだか、すごく平和。」

 テレビの中ではタレントが、世界の面白動画を紹介している。猫やおバカな挑戦を撮影した動画、子供、あわや大惨事のハプニング映像。

 その番組を酒とポテチを食べながら見ている太り気味の女性。もう彼女は痩せることは諦めているのかもしれないし、ダイエットの小休止として今日はポテチとお酒を飲んでいるのかもしれない。

 それはつぼみにはわからなかった。

 ただ、少しだけ普通のカプセルホテル共用スペースの景色と違うことがあった。つぼみの前に置かれたものだ。

 それは彫刻刀だった。つぼみが、スタジオで浩介と音合わせをしている時に、浩介が床に置いたカバンからたまたま見つけたものだ。

 最近、自分の周りでは自殺に関することが多い。浩介も万が一にもこれでつぼみと同じように腕を切ることが無いようにとふと思い抜いておいたのだ。

 緊張しているだろう。ナイーブになってもそんなことをさせるわけにはいかない。

 つぼみはしばらく美大の頃から握っていなかった彫刻刀を眺めた。高校の彫刻用のセットなのだろう。6本が一つのケースに入ったそれはどこか懐かしい。

 彫刻刀をバックにしまうと、再び、何も考える必要のないテレビ番組を見た。

 テレビの隅に表示されている時計は21:34だ。

 病院で寝ていたのがわずか一日前とは思えなかった。

 夜中に病院で起き、権蔵と北海道に向かい、函館に着いたのは正午を少し過ぎてからだ。その後美唄に向かい着いたのは四時に近かったはずだ。それから権蔵とお墓に行き、浩介のところへ連れてこられた。

 浩介のところへは昼休みの時に来たと言うことは十三時くらいだろう。

 ただ、そう考えると、一日の時間の辻褄が合わない。ライオンは時を遡ることさえできるのだろうか。

 そうなのかもしれない。ライオンはつぼみを連れて、北海道から町田の学校まで瞬時に移動できたのだから、時を遡るぐらいできても不思議ではないような気がした。不思議な存在が不思議なことをしても不思議には感じない。

 それに、もしそうでなかったとしても、ライオンの存在や行動は登場した時からつぼみの理解を超えている。答えが出ない問いを考えるだけ時間の無駄なのだ。

 つぼみは買っておいたペットボトル入りの水を飲んだ。太った女性はテレビの番組に飽きたのか、備え付けの週刊誌を読み始めている。

 つぼみは少し外を歩くことにした。シャワーを浴びた後に街を歩くことはあまり好きではなかったが、なぜだか今日は夜風を浴びたい気分になった。

 ホテルを出て少し歩くと渋谷の駅前に来た。人混みの中に混じりながら進む。駅へと向かう人や、逆方向へ進む人。サラリーマンのような人から大学生のような若者。なんの仕事をしているのかわからない奇抜な髪型の人もいる。

 皆街灯やそれ以上に光るネオンサインや飲食店の看板、デパートのショーウィンドウから漏れる光、ヘッドライトにテールランプの光に照らされていた。

 つぼみは駅から電車に乗り新宿へ向かった。

 特に用事があったわけではない。自分が自殺未遂をするきっかけになった会社を、外からでも今の気持ちで眺めたいと思ったのかもしれない。

 新宿に着くと、オフィス街の方へと向かう。

 9時を過ぎた新宿はオフィズ街へと向かう人よりも、駅の方へと向かう人が大量にすれ違って行く。

 通り過ぎて行く人々をつぼみは眺めながら進んだ。

 この人たちは、昨日もこうやってここに来て、帰り、明日もこうやってここに来て、帰る。おそらく一年後も、おそらくそのあとも。

 それはもちろん幸せでもある。

 仕事をしてお金を稼ぎ、結婚して、郊外に家を買い、新宿に満員電車に揺られながら通う。

 そんな、「普通」の生活を送れたらどんなにいいだろう。しかしその「普通」の生活は「普通」ではない。

 むしろ「勝者」の生活だ。

 今、世の中には、敗者が溢れかえっている。つぼみの働いていたオフィスから二百メートルほどのところにもホームレスが集まって暮らしている。

 そうした目に見えた弱者だけではなく、仕事のない人、体の弱い人、心を病んだ人。そう言った人で世の中は溢れている。

 だから「普通」は今や「勝者」なのだ。

 つぼみは自分が働いていた会社の入っているオフィスビルについた。

 もう中に入るための社員証は持っていない。下から眺めると、まだ会社の入っているフロアの電気はどこも消えていない。きっと一昨日のつぼみに変わる誰かが今もあそこで働いているのだろう。


「こんばんは。」つぼみは声がして隣を向いた。

 そろそろ来る頃だろうと思っていたので特に驚きはしなかった。

「会いたかった。」つぼみはライオンを見て言った。

「私に?」ライオンは少し驚いたようだ。

「うん。久しぶりに登って見ようか。」

 つぼみは都庁の上の方を指差しながら言った。すぐ近くにあるつぼみの会社のフロアとは反対に、都庁ではほとんどの階の電気が消えていた。それでも、最上階だけは、まだ煌々と電気がついている。

「うん。」ライオンは嬉しそうに頷いた。顔は相変わらずわからない。だが、きっと嬉しいだろう。

 都庁に入ると、なぜだかいつもいる警備員はいなかった。テロ対策強化中と書かれた看板だけが、文字の意味を成せないままおかれていた。

 ロビーに他の人もいない。

 先ほどまでいた新宿の街中とは打って変わって、世界にはつぼみとライオンしかいないかのようだ。

 しかし、電気は点き、エレベーターも動いている。全ての人が消えてしまったわけではないようだ。

「もうそんな被り物やめたらいいのに。私あなたが誰だか、わかっちゃったよ。」つぼみはエレベーターに入ると言った。

「・・・。」ライオンは無言でつぼみを見つめている。

「ダメ。」今までで一番小さい声でライオンはつぶやいた。

「そっか。取っていい時期が来たら見せてね。それに私もまだわからないこともあるし。」

「何?」

「んー。もう少し私も自分で考えたい。というか、まだ答えは知りたくないしね。」つぼみは自分で考えても答えは出ないことは知っていた。だが、まだ答え合わせはしないで考えていたかった。

「そっか。」ライオンは頷いた。沈黙のままエレベータは最上階についた。

「誰も、いないね。」つぼみとライオンは誰もいない新宿都庁の最上階に来た。土産屋に店員もいない。

「誰もいないね。」

「なんか、人類がパッと消えちゃったみたいだね。」

「うん。でもちゃんといるみたいだよ。」ライオンは窓まで来ると、はるか下に見える車を指差した。

 数台の車が信号待ちをしている。信号が変わると、動き出した。ヘッドライトとテールランプの光。

「ほんとだ。綺麗だね。」

 つぼみは目の前に広がる夜景を見た。

 眠らない街新宿の明かりや、目を少しずらせば住宅街の中に広がる家や街灯のオレンジ色の明かりが見える。

「ちゃんと暮らしてるねー。」

「高いところにいると尊大になるのはその人がまだ3階ぐらいの高さだからだ。もっともっと高く登ると人は謙虚になる。」ライオンはつぶやいた。

「懐かしいね。」つぼみは目を細めた。

「うん、お父さんがよくここに連れて来て言ってくれたね。」

「あの時は、意味がよくわからないけど、今ならよくわかる。私の会社にいた人はみ〜んな偉そうにしていたけど、まだ3階ぐらいの高さでしかなかったのよね。」

「うん。」

「でも、今なら許せる気がするな。三階の高さから私のことをけなしていた人のことも。」つぼみはそう言って笑った。

「つぼみは私にこの景色を見せたくて、連れて来てくれたの?」ライオンはフェルトでできた目で街並みを眺めながら聞いた。人間なら街の明かりが反射して、瞳の中もキラキラと輝くかもしれない。

 だが、フェルトでできた目は光を吸収するばかりで反射することはない。

「んー。どうだろう。そんな気もするけど、わからない。本当はこんなところプラプラしてたらダメなんだけどね。なんてたって明日は浩介くんの晴れ舞台だからね。」

「うん。」ライオンは頷いた。

「ねえ、浩介くんは〈かもしれない自分〉なんだよね。浩介くんの話聞いていたら、中学の頃教室に自分の居場所をどこに求めればいいかわからないで昼休みには一人で絵ばっかり描いていたこと、思い出しちゃった。」

「嫌な思い出?」ライオンは聞いた。

 つぼみは少し考えた。自分の青春がどこにも居場所がなく、常に寂しさと孤独感を抱えて凍えていたこと。一人でひたすら絵を描いていた昼休み。

 嫌な思い出なのは間違いない。ただあるいは、それで良かったのかもしれない。

 高校から遠い、知り合いの誰もいない大学に進学を希望したのは、ここから抜け出したいという気持ちをバネにしてのことだった。

 倍率も高く難関大学だったが、ストレートで合格することができた。もしも充実した高校生活だったら、その大学に入学することはできなかっただろう。

 その大学ではデザインを学んだ。数人の友人もできた。誘われ、バンド活動もした。楽しい日々だった。絵に描いたようなキラキラとしたキャンパスライフを少しでも送ることができた。

 だが、充実した大学生活を送っても、中学、高校と植えつけられた劣等感はっともっともっとキラキラした存在になりたいと、つぼみに望ませた。

 そしてつぼみは、今デザイン系の業界の中心的企業である会社に入社し、激務の果てに自殺未遂をした。

 中学、高校時代にもっと充実した日々を送っていれば、その大学に入ることもなかったかもしれない、そうすると、クールエージャンシーに入社し自殺未遂をすることはなかったかもしれない。

 でも、つぼみは一人で絵を描いていた日々を否定したくはなかった。そのおかげで、つぼみは美大に進学することができ、大企業に就職することができた。内定通知が来た時には涙を流して喜んだ。最後の結果がどうであったにしろ、その時は嬉しくて仕方がなかった。

「どうだろう。わからない。」つぼみは答えた。

「そう・・・。」フェルトでできた目は何も感情をはらんでいない。

 それでも、最近は少しずつ、ライオンの感情がわかって来ていた。

 「つぼみ。見せたい景色がある。」ライオンはそう言うとつぼみの手をとった。つぼみの目の前は白くなった。




17


 翌日、浩介とつぼみは渋谷にあるキャパ500人ほどのラウイブスタジオにいた。つぼみは寝不足なのかあくびばかりしている。そんなのでこれからのパフォーマンスに影響がないのかと、心配そうに見る浩介もまた目が赤く、あまり寝ていない。

 つぼみと浩介は、スタッフや搬入作業員が忙しそうにトラックからガヤガヤと荷物を下ろしている間を抜け、参加者受付に向かった。

「こんにちはメソポタミア太郎と仲間達です。」

「あっはいメソポタミア太郎と仲間達さんですね。お待ちしていました。どうぞ。」つぼみが声をかけると、受付の若い女性は愛想良さそうにつぼみと浩介に出場者と書かれたパスを渡した。

 どうやらスタッフ用の出場者リストにも書かれていたらしい。つぼみが言っていたように、一応は出る程で進めているようだ。

 それに、おそらくバイトの若い女性は、メソポタミア太郎と仲間達が辞退していることを聞かされていないのだろう。

「出場者の皆さんは同じ楽屋となってしまっていますので、ご了承ください。リハーサルは出場順にスタッフがお呼び出しします。それぞれ30分ずつのリハーサル時間となりますのでお願いいたします。」

「はーい。」つぼみは嬉しそうに返事をした。

 浩介は、意外にもあっさり入れたことに驚いたが、ひとまずは、ここで出場を諦めずにすみホッとした。

 このままうまく進めば出場できる。出場者と書かれたそのパスは首にかけた実際の重さ以上に、浩介の肩に重くのしかかった。

 本当に大丈夫だろうか。朝から足の震えが止まることはなかった。

 怖い。怖い。逃げ出したい。浩介の心の怯えた部分がずっと叫んでいた。

「大丈夫でしたね。」

「ああいうのは、下請けの子だと思うから、あまり知らないんだと思う。でもまだ油断は禁物。これから、メソポタミア太郎と仲間達が来ていることを知ったイベント会社の責任者とか、メソポタミア太郎と仲間達を知ってる他のバンドが、怪しむかもしれないからね。」

「そ、そうですね。」

 浩介は緊張で、上唇と下唇がヌチャヌチャとくっついたり離れたりした。先ほどからこまめに水を飲んでいるが一向に良くならない。それでいて尿意だけはどんどんと溜まっていく。

 本当に大丈夫だろうか。怖い。怖い。逃げ出したい。

「つぼみさんリハーサル。どうしましょう。」

「しない方がいいかな?」

「そう思います。」

「多少変に思われても、今、エレクトロじゃないのがバレるよりはいい。リハは断ろう。」

「そうですね。」

「音楽性を方向転換したっていう設定は、いざという時まで取っておこう。今怪しまれて、調べられでもしたら困るし。」

 浩介は頷いた。その方がいいだろう。

 控え室に向かうまでのステージ裏の細い廊下の壁には、浩介には意味のわからないスケジュールが書かれた紙や知らないバンドのステッカーで埋め尽くされている。紙、ステッカー、楽器、何かを擦ったような傷跡。床や壁だけではない、あまり高くはない天井でさえ、浩介を囲う全ての物がいつもの世界とは異なっていた。

 学校はバラバラの個性を持って生まれてきた個体を、同じ個性に統一するための空間だ。それに対して、ここは、それぞれの個性が存分に、伸びやかに存在している。浩介にはそんな風に見えた。

 ただ、そうした世界に憧れていたはずだというのに、実際にそうした世界を目にすると、個性を統一かする世界しか知らなかった浩介の心は縮み上がってしまった。

 喉は渇き、足は震え、声を出すと震えていた。心が目に見えるものなら、それもまた小さくなり震えているだろう。

 本当に大丈夫だろうか。怖い。怖い。逃げ出したい。

「あっ。ここだよ。」つぼみと浩介は「出演者楽屋」と書かれたドアの前にたった。中からは笑い声が聞こえる。つぼみはそっとドアを開けて中をみる。

「これはダメね。」

 つぼみはそう言うとそっとドアを閉めた。

「何でですか。」浩介もドアをそっと開けて見た。

 中には男性女性問わずつぼみと同い年ぐらいの男女が、楽しそうに語らいあっている。

 20人ぐらいだろうか、それがバラバラに話す集団を何個か作っている。同じバンドで話していると言うよりは、違うバンドと話していると言う雰囲気だ。

 どう見ても、全員顔なじみといった感じだ。

 やはり、ここまでは順調でも、浩介とつぼみがこのバンド仲間から見たらメソポタミアと仲間たちじゃないということがバレてしまうだろう。そうしたら、音楽の方向性を変えるなどということ以前の問題だ。そもそも人が違うのだから。

 やっぱりダメだったのだ。

「いや、でもそうですよ。この出場者さっき外のポスターで見たんですけど、ネオキスとかカコノモンダイイマとか、インディ業界の中心的人たちですよ。みんな知り合いに決まってますよ。」浩介はそのまましゃがみ頭を抱えた。

 無理だったのだ。そりゃ、そうに決まってる。

 このままだと出場したところでメソポタミア太郎と仲間達じゃないということがバレてしまう。

「浩介くん。何とか本番まで隠れよう。で、本番を乗り越えたら、まあ後はなるようになる。」つぼみはそう言い、しゃがんでしまった浩介の背中を叩いた。

「いや、もう、いいです。」浩介はうずくまっている。「もう無理なんです。いい夢を見せてもらいました。」ぬっと立ち上がるとつぼみに背を向けて歩き始めた。

「浩介くん。どこいくの?」

「帰ります。ここは僕のいていい世界じゃないんです。」

 自分の世界はあの学校の中に作られた、小さな世界なのだ。

 小さな世界で匪賊として孤独に震えている。それがきっと自分にはふさわしい。こんな所にいては、ダメなのだ。

 浩介は、足早にライブハウスを後にした。

 つぼみが追ってくるかもしれないと思ったが追っては来ない。つぼみもきっと、実際にこの現場に来て、自分たちはどんな無茶なことをしようとしていたのか知ったのだろう。

 ライブハウスを出ると、霧雨が降っていた。傘は持っていなかったが、気にしなかった。

 土砂降りの雨ではないし、雨に濡れたい気分だった。

 雨は優しい。青空は明るすぎて浩介は苦手だった。それよりも、痛みも、悲しみも、弱さも受け入れてくれるような雨が浩介は好きだった。

 時計を見ると15時だ。夕方には町田に変えることができるだろう。

 誰も自分のことを待ってなどいない世界へ帰ることができるだろう。でも、待っていなくても自分がいるべきとされた世界へ帰ることができるだろう。

 本当にいいのか。(何が?)

 逃げ出していいのか。(いいんだ。ここはいるべき世界ではない。)

 いるべき世界はどこ?(小さな世界。)

 それはどんな世界?(誰も自分のことなんか待ってはいない世界。)

 誰も待ってないのに戻るの?(待っていなくてもそこにいるべきだとされている。)

 誰に「いるべき」だとされているの?(・・・。)

 誰に「いるべき」だとされているの?(・・・。)

 誰に「いるべき」だとされているの?(・・・。)

 (恐らくは、自分自身に。)

 いやな世界からは逃げ出したっていいんじゃない?(わからない。)

 憧れている世界に行けるのならそこにいていいんじゃない?(そうかもしれない。でも、僕はそこにいてはいけない。)

 なぜ?(そこにいるべきだとされていないから。)

 誰に?(・・・。)

 誰に?(・・・。)

 誰に?(・・・。)

 (恐らくは自分自身に。)

 日曜日の渋谷は人でごった返していた。その中を浩介は肩をすくめて歩いた。

 悶々と心の中で続く自問自答は一向に回答を見つけられなかった。あるいは、もうすでに回答を見つけているというのに気がつかないふりをして質問を繰り返しているのかもしれなかった。

 だが、それは浩介にはわからなかった。わからないフリをした。

 

     ・


「君が浩介くんだね。」

 駅に着く直前。浩介は肩を叩かれた。

 後ろを振り返ると、そこには青白い顔をした中年男性が立っていた。

 息を切らしているから浩介を急いで追いかけて来たのかもしれない。でも、誰かは浩介にはわからなかった。

「あ、あの。」

「メソポタミア太郎と仲間達の変わりじゃなくて、田村浩介としてエントリーさせてもらったから。」その男は、そういうと、なぜか周りをキョロキョロと見渡した。大の大人が何かに怯えているようですらある。

「えっ?あの。どういうことですか?」

「田村浩介として出場してほしい。そのままだよ。俺はこのイベントの一応は責任者でね。本来はこんなことしちゃダメなんだけど。まあ今回はしょうがない。特別。」

「な、何で。」

「まあ、それは言うなって、言われてるんだよ。じゃそういうわけだから。それじゃ。あっこのことは他言無用だよ。」浩介にそういうと男はライブハウスの方へ走り去って行った。

 去って行く途中も周りをキョロキョロと見ている。誰かを探しているのだろうか。

 浩介はあまりのことにぽかんとした。

 日曜のごったがえした渋谷の駅前で立ち止まっている浩介を、通行人は邪魔者そうに見ながら通り過ぎていく。

 それでも、浩介は前にも後ろにも進むことができなかった。

 追ってくるのはつぼみだと思っていたのに、来たのはこのイベントの責任者という男だ。

 何が何だかわからなかった。しかも、田村浩介として出場できるなんて。

 浩介は戻ることにした。とりあえずとつぼみにどういう展開でこうなったのか聞かなくては。

 つぼみは浩介が逃げ出したことを怒るだろうか。まずはそれを謝らなくては。

 ここまで来れたのは、つぼみのおかげだ。

 葉っぱで作られた船を川に浮かべると、勝手に流れていくように、浩介はつぼみという流れに乗ってここまで来れただけだ。

 自分は何もしていない。それなのに、怖さから、つぼみを裏切るようなことをしてしまった。

 浩介はライブハウスに戻り、つぼみを探した。

 しかし、元いた通路にも出演者控え室にも、どこにもつぼみの姿はなかった。

 トイレでも行っているのかと思い、通路でしばらく待ったが、つぼみは一向に戻って来ない。

 リハーサルの時間が過ぎても、観客の入場が始まっても。1組目のバンドの演奏が終わってもつぼみは戻って来なかった。




18


 臼田武蔵は廊下に、一人で立っている村田浩介の姿を廊下の端から眺めた。細い通路だ、なるべく邪魔にならないようにと、肩をすぼめている姿は本当にロックの登竜門に出場させて大丈夫なのだろうかと心配になるほどに頼りない。

 あの少年はどうやら死んでいないらしい。実際に足を動かして歩いている。蛍光灯に照らされ影ができている。

 だが、久しぶりに会ったつぼみも足があった。声も雰囲気も生きていた時のそれと同じだった。

 村田つぼみが交通事故で亡くなったため、ロックの登竜門の担当者を変えたいという電話がクールエージャンシーからあったのは一週間前だ。

 仕事の付き合いもあったし、一度だけではあるが肉体関係もあった。葬儀に参加しようと思い、クールエージャンシーに日取りを確認したが、葬儀は親族だけで行いたいという意向だと言われた。

 それきりで忘れていた。

 だが、そのつぼみが先ほど目の前に現れた。

 そして、田村浩介という少年をエントリーしなくては、自分に性接待されたと通報すると脅した。

 つぼみからは、その時の証拠となるような写真も見せられた。

 自分は同意の上、むしろつぼみが誘ってそうした関係になったと考えていたが、問題が起きるのは面倒だった。

 ただ、もし、これがつぼみが生きていてされるのなら、応じることはなかっただろう。

 あくまで同意の上だったと言い張れば、会社も問題にしないはずだ。そんなことは今までも何度かあった。

 ただ、今回はそうではなかった。事情が違う。

 つぼみはもうすでに死んでいるのだ。

 脅されたこと以上に、目の前のつぼみが恐ろしく、首を縦に振ることしかできなかった。

 不意に携帯の着信音がなった。

 着信を確認すると、多田と書かれている。

「はい。臼田だけど。」

「もしもし、臼田さん。多田です。電話いただいたようで。」

「あのさ。ちょっと聞きたいことがあって電話したんだけど。」

「なんですか?今日ロックの登竜門ですよね。うちのヘマしました?」

「いやいや。そうじゃなくて、あの、村田つぼみさん。この企画の担当してくれてた。なんでこのイベント直前に辞めちゃったんだっけ。」

 電話越しに多田はしばらく沈黙した。

「もしもし。」

「はい。ああ、村田つぼみね。いや、辞めたんじゃないですよ。交通事故で死んだんです。なので急遽担当を変えて、そちらに行かせてますんで。あれ?誰かから連絡きませんでした?」

「えーと。亡くなったんだよね。それいつ?」

「一週間くらい前のことですかね。」

「そうか。ありがと。」

「いえ。どうしたんですか?」

「いや。なんでもない。ちょっと登竜門が実際に始まって、そう言えばなんで辞めたんだっけとな思ってな。そうか辞めたんじゃなくて亡くなったんだ。」

「ええ。」

「ああ、じゃあどうも。」武蔵は、そういうと電話を切った。

 やはりだ。やはりつぼみは死んでいる。

 じゃあ、一体自分の目の前に突然現れて、あのエントリーしていない少年を出場させろと言ったあの人は誰なのだろうか。

 お化けというのだろうか。

 そんなことは考えづらい。

 ただ、色々論理的なこと、現実的なことを考えようとしたが、そのどれもがあり得なかった。そして、お化けだという最も非現実的な回答が、頭の中で現実的な回答のように響いた。

 細い通路を通って、成田里見が近づいて来る。急遽つぼみの代わりとして適用された、小柄で可愛らしい人だ。ただ、皮膚の荒れを必死に隠そうとしているのか、年齢の割には化粧が濃い。

「あの、武蔵さん。リハ、全員終わりました。」

「ああ、そう。ありがとう。」武蔵は顔面蒼白のまま、呆然と返した。

 今、自分はまともに仕事できるだろうか。自分が体だけ楽しみ捨てた女の霊が、まとわりついて離れない。

「あの、武蔵さん。今日終わった後のお食事。すき焼きに連れて言っていただけるなんて楽しみです。」

 里見は小さい背を伸ばして、武蔵の耳元で囁いた。

 武蔵が見ると、ほのかに微笑んでいる。

 本当に心からは楽しみだとは言っていないだろう。つぼみの時もそうだ。あの時もつぼみは食事に誘うと嬉そうにしたが、それは本心から来るものではなかっただろう。

「ああ、うん。」うまく断ることもできずにぼうっと頷いてしまった。

 これから審査員なども来る。そして観客の入場し、本番が始まる。しっかり応対しなくてはいけないのに。

 突然吐き気を催し、武蔵は男子便所にむかた。




19


 本番が始まる少し前。浩介は裏口から外へ出て、つぼみの姿を探そうと思った。

 だが、窓がなくいつも蛍光灯に照らされている室内にいて気がつかなかったが、外はもうすでに暗くなり、建物の周りには長蛇の列ができていた。

 浩介は早々につぼみを探すことをやめた。

 自分はこの列を作る一人となるのではなく、この列を作っている人たちの目的なのだ。

 そう思うと体も心も震えた。今はつぼみがそのうちに戻って来ることを信じ、自分の準備に集中した方がいいだろう。

 浩介はもう細い廊下にいることをやめ、控え室に入った。

 他の出演者たちも、ゲラゲラと話すことをやめ、各々自分の楽器を持ったり、周りの目など気にせずにボイストレーニングをしている。

 皆、必死なのだ。

 浩介は空いている椅子に座ると、つぼみが買ったギターを持って、新しい曲を書き始めた。

 なぜだか、今曲を作るべきだと思ったのだ。つぼみとライオンとの不思議な日々を歌いたいと思った。歌うべきだと思った。

 幾らつのコードに合わせて浮かんで来る歌詞を当ては前ていく。シンプルでいて、周りを共鳴させるだけの力をもつ言葉を探しながら歌う。

 本番直前に新しい曲を作っている自分はとても浮いているだろう。だが、気にしてはいられなかった。自分はきっとこれを歌う必要がある。

 なぜだか浩介はそう考えずにはいられなかった。

 

     ・


 ステージ脇に行くと本番の熱気が伝わって来た。暗転すると上がる歓声。出場したバンドへの声援。中にはブーイングが起こることもあった。

 出場者11組のうち浩介は8組目だ。

 膝は震え、脇から汗が垂れるのを感じる。

時計を見ると9時になろうとしている。日曜9時。

 浩介は目を閉じ、いつものこの時間の自分を想像した。

 いつもはまた明日から始まる一週間を想像して、同じように膝は震え、脇からは汗が垂れていた。

 どうかどうか、日曜日が終わらないで欲しいと祈った。だが、浩介の、神に向けられたものなのか、はたまた仏に向けられているのかわからない日本的祈りはどこにも届かず、いつも決まって月曜日が訪れた。

 だが目を開けると、そこはいつもの日曜とは異なっていた。

 ステージの脇から見る世界は、スポットライトの光に満ち、ベースの重低音が重く、ギターがうねるように響いている。

 新しい世界。小さな世界から、ここは新しい世界へと繋がる道だ。

「お次7組め、ザ パラダイスの皆さんお願いいたします。」スタッフが呼びかけ、ザ パラダイスの4人が浩介の脇を通りステージに向かう。全員緊張した面持ちだ。

 すれ違うように6組目の出演者がステージ脇に帰って来る。

 1組の持ち時間は20分。つまり、浩介は20分後にはステージの上にいるのだ。

「浩介くん。」不意に声をかけられた。つぼみの声だ。だが、振り向くとそこにはライオンが立っていた。ただ、いつもと違って、その服はセーラー服ではない。つぼみが来ていた服を着ている。

「緊張してる。」ライオンは言った。

「あ、はい。もちろん。」浩介は頷いた。そこにいるのがライオンなのかつぼみなのかわからない。

「大丈夫?」

「ええ、あのつぼみさんは。」

「あー。えーと。もう浩介くんは大丈夫だから次の〈かもしれない自分〉を救いに行ったよ。」

「そう。ですか。」

「浩介くん。ダメでも落ち込まないでね。」

「はい。大丈夫です。ありがとうございます。なんだか新しい世界を見れた気がします。」

「よかった。いい。学校に行っていると朝から晩まで学校。そこだけが世界の中心みたいに感じるじゃない。でも、そうじゃないよ。そこだけが世界じゃない。」

「うん。」

「つぼみさんのこと聞いてもいいですか?」

「うん。私にわかることなら。」

「あの、なんでつぼみさんは僕のためにこんなことをしてくれたんですか。」

「あのね。こういうと浩介くんは嫌かもしれないけど、罪滅ぼしなの。私も自殺しようとしてね。それは罪なことなの。だから、私はかもしれない自分を3人助けなくちゃいけないの。それで、その二人目が浩介くんだった。なんで浩介くんなのかは私もわからない。でも、私も高校の頃浩介くんと同じように学校に居場所がなくて、一人で教科書の隅で絵ばっかり描いてた。」

「そう。ですか。」

「うん。」

 少しの間浩介とライオンは沈黙した。ステージでは演奏が続けられているが、ベースの重低音もドラミングも、ギターの響きも、ボーカルの声も今の浩介の耳には届かなかった。

 会話がなくてもライオンはまだ横にいてくれた。

 浩介はライオンが横にいるだけで心が落ち着いていくのを感じた。目を閉じればタンポポが咲く春の野原に座っているようにさえ感じる。

「お次8組目の方用意お願いします。」

「はい。僕です。」浩介は目を開け言った。

 7組目のメンバーがステージ脇に戻ってくる。

 浩介は歩き出たが、思い立ち振り返るとライオンに向かった。

「あの、つぼみさん。本当にありがとうございました。」浩介は頭を下げた。」

 ライオンは何も言わずに頷いた。

 

ステージは脇から見ていたのとも違う眺めが広がっていた。自分が今までみたどの光景とも違う。

 人の熱気で満ちた空間はこんなにも熱いのか。浩介は持って来たペットボトルの水を飲む。

「続いてはシンガーソングライターの田村浩介。現役高校生の一匹狼がロックの登竜門に殴り込み。体ひとつ、ギター一本でどんなパフォーマンスをしてくれるでしょうか。それではどうぞ。」

 観客が拍手をする。誰も浩介のことを知らないからか、歓声もブーイングも起きない。

 浩介は目を閉じ深呼吸をした。大丈夫つぼみが見てくれている。なぜライオンの被り物をしたのかはわからなかったが、あれは間違いなくつぼみだ。

 目を開けマイクに向かうと浩介は歌った。

 人で満たされた黒い空間に自分の声が、ギターのコードが響き渡る。初めての経験だが、浩介は突っ走るように歌った。

 もう止めることはできないし、どんなに下手でも誰にも止めることはできない。

 観客は初めて聞く歌、初めての歌手にどうのっていいのかわからでいる。でも、それでもいいのだ。浩介は構わず歌い続けた。

 『嘘でもいい』『何色』を歌い三曲目に先ほど書いたばかりの新曲『さよなら、ライオン』を歌った。


「あなた一人でどこどこ行くの?

私、元気だよ。

一人よりの二人の方が

気がまぎれるよ。


誰も知らない

いくら学んでも

誰にもわからない

いくら稼いでも

私が誰かも

あなたは誰なの?

そこがどこかも


私が吐いた息が

あなたと混じって消えていく

思い出を一人で抱え

あなたどこへ向かうの??


永遠なんてないってことは

みんなわかってる

だけど終わりは今日ではないと

みんな信じてる


今では愛しい

あなたの怒りも

光る涙も

いつもの声も

もちろん笑顔も

髪の匂いさえ

どここへ消えたの?


私が吐いた息が

あなたと混じって消えて行く

小さな世界を飛び出して

そうだ。さよなら、ライオン。」


 歌詞はこれだけだ。コードも5つしか使わないシンプルな歌だ。他のバンドがギター、ベース、ドラムを使って波をつける中、この曲にはメリハリがない。それでも浩介は歌った。

 つぼみはまだステージ脇にいるのかはわからない。恐らくはいないだろう。それでも、届けばいいと思い歌った。

 そして、浩介は歌い終わりステージを去った。




20


 大橋美奈がその人がいつも教室の隅で一人寝たふりをしている田村浩介だと気がついたのは、1曲目が始まって少し立ってからだった。

 8組目の紹介アナウンスを聞いた時にはまさかそれが、自分と同じクラスの「田村浩介」だとは夢にも思わなかった。

 だが、出て来てスポットライトが当たると、なんとなく見覚えを感じた。

 そして歌い始め、その声を聞き、確信に変わった。

 最初はたどたどしく歌っていたが、一曲目も後半になると、綺麗な歌声で観客を魅了し始めた。

 今までのバンドのパフォーマンスと比べると、ギターと歌だけというギャップはあった。それでも、その静かな状況を楽しませてくれるようないい歌と歌声だった。

 歌詞は全部を追うことができたわけではない。

 だが、そのどれもが、ズキズキと美奈の胸に響いた。

 恐らくは友達もいないで、一人教室の隅で過ごす中で培った感受性なのだろう。

 曲が進むうちに観客も浩介の世界に魅了されているようだ。先ほどまで縦に跳ねていた観客の中には、横に揺れている人もいる。

 3曲を歌い終え、ステージを去る浩介に観客は拍手を送った。美奈も浩介に精一杯の拍手を送った。

 学校なら浩介はシカトしなくてはいけない。拍手なんてできない。だが、今なら同級生たちに見られることもないだろう。

「あんなキモいやつに拍手するなんてキモい。」「キモすぎるからシカトする。」

 そんな風に言われることを心配する必要もない。

 いや、でも。美奈は思った。

 明日学校に行ったら周りの目など気にしないで、浩介の机に行き、このステージのことを言おう。周りになんと言われても、周りにも浩介がどれだけすごかったか話そう。

 それで自分が転校して来て何も知らなかった時に、浩介と話してしまった時のように、周りからシカトが始まるかもしれない。

 でも、構わない。

 浩介は3曲目の最後に「小さな世界を飛び出して」と歌っていた。

 転校して来たクラスの雰囲気にはうんざりしていた。優越感と性欲だけで構成されたような、他人を蹴落とすことばかりを気にしているようなクラスが嫌になっていた。

 そうしよう。

 それに自分がそうすることで何かが変わるかもしれない。


     ・

 

 全てのグループ演奏が終わると、出場者が出演順に並んだ。

 浩介は8番目だ。背の低い美奈は背伸びをして、人と人の間からなんとか浩介のことを見た。

「では早速。今回のグランプリ。の前に3位と2位の発表に参りたいと思います。」壇上に司会役の人が上がり、場を盛り上げる。

 出場者全員を写している明かりが消え、暗転した。

「それでは発表いたします。3位ザ・パラダイス、2位田村浩介!!!」

 会場から「おお。」という地響きのような歓声と拍手が巻き起こった。

 あの、田村浩介が2位。優勝はできなかったが、ものすごい結果だ。

 浩介とザ・パラダイスのメンバーが前にでる。田村浩介は少し悔しそうではあったが、学校では見せたことのない笑みを浮かべ、清々しそうでもある。

「それでは審査員より、それぞれに感想と記念品の授与になります。」

 壇上にエレストのボーカリスト梶隆太が登場すると、会場から今日一番の声援が飛んだ。美奈もなんとかみようと小さく飛び跳ねるが、なかなか見ることができない。

 美奈は最近エレストの音楽にハマり、そこからインディロックシーンに興味を持っていた。

「はい。ありがとうございます。紹介に預かりましたエレストの梶です。」パンクバンドなのに話は低姿勢だ。それもまた人気の理由の一つだった。

「えっと。まず三位のザ・パラダイスの方々。うねるようなサウンドと1980年代のイギリスのレイブみたいなサウンドは本当に素晴らしかったです。おめでとう。」

 また会場から歓声が上がる。

「次は田村浩介くん。えっと。今回はロックという括りがあったのでこの順位になりましたが、詩の世界観、音楽性どれをとっても素晴らしかったです。デビューは1位だけということだけど、今回は2位も考えていいと思います。おめでとう。」

 そう言い、浩介に記念の盾を手渡していた。浩介は嬉しそうに記念品をもらい握手をすると、前を向き満面の笑顔で声援に応えた。

 秋のどこまでも高く広い青空のように自由な笑顔だった。




21


 自分はダメな人間だ。ダメな人間はこの世界にいてはいけない。もし、ダメな人間がダメな人間と恋に落ち、ダメな人間を産んだ場合、ダメな連鎖を断ち切ることができない。

 ダメな人間は死ぬしかない。勝手に死んで行くしかない。死んでいくべきなのだ。殺されたといえ文句は言えない。それは社会善に繋がるのだ。

 つぼみは高速道路の片隅で一人しゃがんでいた。ヘッドライトの明かりがつぼみを照らしては通り過ぎて消えて行く。

 つぼみは死ぬ前の人生の走馬灯を見ていた。

 流れては消えて行く車の光の数だけ、26年の生涯の中でも色々な感情もつぼみの中に起きては消えていた。

 それを全て見なくてはいけなかった。


 その時つぼみは、まだ幼稚園に通う幼児だった。

 お昼の時間。彼女の横に座る女の子が、つぼみの好きなキャラクターが描かれたお弁当箱を持っている。つぼみはそれが欲しくて、欲しくて、たまらなかった。

 しかし、何度親に頼んでもつぼみに買ってはくれなかった。たかだか1000円ほどの買い物だ。

 それでも買ってはくれなかった。

 つぼみは毎日キャラクターの何も描かれていない、ピンク一色のつまらないお弁当箱を使っていた。

 つぼみは可愛いお弁当箱を使う女の子がたまらなく嫌いだった。

 ある時、幼児のつぼみはお腹を壊してトイレにいた。

 誰にバレたのかはわからないが、戻ってみると、同じ組の男子に「うんち、うんち」とバカにされた。

 子供同士のたわいもない遊びのように大人には見える。だからなのか、幼稚園の先生も注意をしない。

 つぼみはこの教師の馬鹿さに悲しくなった。

 子供は傷つかないとでも思っているのだろうか。

 つぼみは深く深く傷ついた。

 それから数年が経ち、あのつぼみのことをイジメていた男児は、小学校中学校でも不良への道を着実に進み、19の時に付き合っていた彼女を妊娠させ、そのまま結婚した。

 相手はつぼみが欲しかった弁当箱を使っていた女の子だ。

 つぼみはそれを聞いた時に、嬉しかった。

 結婚と妊娠を祝福して嬉しかったのではない。

 小学校、中学校でカーストの上位にいた人間が将来することといえば、己の性欲に従い、早くに子供を作り、それでいて学もないから大した仕事につけないで、一生キラキラと輝くこともなく、土手の隅で枯れる名もなき雑草のように消えていくことだと信じていた自分の予想が当たりそうだと思ったからだ。

 その男の子は仕事は長距離トラックの運転手をしていた。

 特に知識のないそうした人間は、トラックの運転手か大工仕事の下請け、鳶職などをして消費されては消えていく。

 そのなんとも惨めな人生を思うつぼみは嬉しかったのだ。

 そうした人を見下していた。

 その時のつぼみはそういう人間は全員死んだ方がいいとすら思っていた。

 早くに自分の人生を諦め、今後も生きながらにして死んでいるような人生を歩む人は、もう死んでいるのと変わらないのだから、すぐにでも死ぬべきだとさえ思っていた。

 人生を惰性と周りの世界に合わせながらでしかいられない人間ならいなくなった方がいい。

 それにそういう人間がいなくなったところで悲しむ人間は家族や恋人ぐらいなもので、とりあえずは涙を流す友人もいるかもしれないが、3日も経てば平然と暮らしているだろう。

 そんな少人数の悲しみよりも、そういう人間が消えることで間接的にこの社会にもたらせられる、有用なことの方が多いはずだ。

 つぼみはそんなことを、早々と就職や名前も知られていないような三流大学に推薦で受かったという同級生を見ながら考えていた。

 それはちょうど高校3年の頃のつぼみの心のようだ。

 自分は頑張っているのに、周りは楽をして幸せを手にしたように見えていたのかもしれない。

 ただ、高校生のつぼみはどうすることもできなかった。センター試験直前の模試で受験予定の大学の判定がDだと出た時、つぼみは放課後の学校で4階から飛び降りた。


 そこで一旦、つぼみの走馬灯は途切れた。

 と同時に、つぼみは全身が痛むのを感じて身をかがめた。高いところから落下し、全身を打ち付けたような痛みだ。悲鳴ともいえないうめき声が出た。

 車の明かりが、つぼみを照らしては通り過ぎて行く。女性が一人首都高の脇で倒れ呻いているのを見れば、夜だとはいえ誰かが通報しても不思議ではない。

 だが、そうした救いの手は誰からも出されない。

 それは誰も自分のことを見れないからだということをつぼみは知っていた。


 つぼみの人生が終わる直前の走馬灯はまた始まった。

 大学時代。つぼみは軽音サークルにいた。大学に入ってすぐの時、同じ軽音サークルで4年生だった先輩と付き合った。

 告白したのは彼からだ。

 大学生らしく休日は決まって彼の家でセックスをした。朝から晩んまで。寝て起きればセックスをした。つぼみは初めてを彼に捧げてもいた。

 その時も痛がるつぼみに優しく接してくれた。権蔵の言う絵に描いたような幸せの日々はつぼみにとっては、彼との日々かもしれない。

かなりいい雰囲気で付き合っていられた。

 ただ、その彼が卒業すると状況は変わった。その彼が突然別れを切り出したのだ。

 ケンカをしたわけでもない。なぜそんなに突然別れを切り出すのかと聞いてもはぐらかすばかりだ。

 やはり社会人と大学生とのカップルは難しいのだろうか。諦めて、別れを受け入れた。

 だが、その彼はつぼみの後輩、新しく入ってきた1年と付き合い始めていたことを数ヶ月後に知った。

 どうやら、OBとして週末の練習に来ていた時に知り合ったらしい。

 その空間につぼみはいたと言うのに全く知らなかった。

 つぼみはその後輩を見ると彼のこと、彼とのセックスのこと、そして彼がこの後輩とセックスしている時のことを考えずにはいられなかった。

 耐えられなくなりそのサークルを辞めた。

 劣等感がつぼみの心を染めた。なんとか止めようとしても、劣等感は色を濃くしていくばかりで、一向に薄まることはなかった。

 気持ちを切り替えようと、就職活動に必要そうな資格の勉強をした。英語、 SPI、ビジネスマナー。

 だが、それでも、ふと気がつけば、その彼のこと、その女子大生のことを思い出さずにはいられなかった。

 自分は傷つかられた。だから、自分もその二人を傷つけたいと心から願った。

 だが、とつぼみは思った。彼は浮気したわけではない。結局後輩の女を選んだのは事実なのだ。自分は負けたのだ。

 つぼみの傷つけたいと言う欲望と劣等感は混じり合いさらに心を深い色に染めた。

 そして、つぼみは大学の図書館のトイレで首を吊った。


 再び、走馬灯は止まった。

 その瞬間高速道路でうずくまるつぼみの首にも激痛が走った。全く忘れていたような記憶の、しかも思い出したくない記憶の痛み全てを集めたような痛みがつぼみを襲った。

 痛みで目がチカチカとする。通り過ぎて行く現実の車達の光の中、つぼみは声にならない呻き声をあげた。

 つぼみは高速道路の方へ這いずり進もうとした。長い長い走馬灯を見続けるよりもいっそ轢かれてでもして死にたかった。

 だが、どうにも体は言うことを聞かない。その場にうごめくだけで、進むことはできなかった。

 つぼみは仰向けになり、真っ暗闇を見た。

 あと、どれくらいでこの苦痛に満ちた走馬灯は終わるのだろうか。あと自分はどれくらいの痛みを受ければ許してもらえるのだろうか。何に自分は罰せられているのか。神?仏?つぼみは考えた。

 いや、考えることすらできないほどの痛みの中で、色々な単語がつぼみの頭にかろうじて浮かんでは消えていっただけだ。

 その中でつぼみは認識した。そうだ。自分は自分に罰せれているのだ。


 つぼみは風呂場にいた。どうやら、ここで死のうとしているらしい。仕事で何か失敗でもしたのか。いや、つぼみはこの景色を最近見たことがあった。ああ、そうか、腕を切るのか。

 つぼみはこれが現実だと知った。今までの走馬灯でみた映像は、確かに途中までは間違いのない記憶だが、最後、自殺する場面だけは異なっていた。

 その瞬間どれもでつぼみは自殺どころか未遂すらしていない。

 ただ、そういった感情。「もう死にたい。」という感情を抱えていたに過ぎない。だから、なぜ走馬灯の中の自分は何度も死ぬのか不思議でならなかった。

 だが今度は違う。自分はこの自殺で実際に死んだのだ。病院に運ばれたけれど、命を救われることはなかったのだ。

 つぼみは、左手に痛みが走るのを想像して身構えた。

 走馬灯の中のつぼみは手を切った。

 

 走馬灯は終わった。

 つぼみは全身を強張らせたが、左手にそれまでのような激痛は走らなかった。それどころか、今までの痛みが蓄積した体の痛みも、どんどんと引いて行くのを感じた。

 それでもつぼみの呼吸は荒い。

 なんとか目の焦点があってくると、目の前にライオンが立っているのが見えた。ライオンの左手からはポタポタと赤い血が垂れている。

 ああ、そうか。

ライオンが最後は痛みを被ってくれたのか。

「浩介くんに会えた?」ライオンは左手から滴る真紅の血を気にすることなく今までと変わらないような声でつぼみに聞いた。

 浩介。

 つぼみはなんとか体を起こして、その懐かしく感じる名前を楽しんだ。今日のことだと言うのに、あまりにも遠い記憶のようにすら感じる。

「うん。ありがとう。お面貸してくれて。」つぼみは座ったままに言った。痛みは全身から消えたとはいえ、体は汗をかき、膝は震え、腰に力が入らず立つこともできなかった。

 痛みが去ってもこの後にやってくる死がつぼみを震えさせるのだ。

「今見たのって、走馬灯?」

「うん。」ライオンはうなずいた。

「やけに長いのね。」

「そう言うものもあるの。」

「じゃあ私。」つぼみはそこで言葉を切った。

 これ以上聴きたくはなかった。じゃあ、私。

「何?」

「私。死ぬの?」言った途端に涙が溢れた。

 ライオンには頷いて欲しくなかった。死にたくなかった。まだこの世の中に居たかった。

 優越感と劣等感で満たされたこの世の中に、綺麗なものなどほとんどなく、汚くうごめく人だらけのこの世の中にまだ居たいのだ。

 心は叫んだ。生きたい。

「うん。」ライオンはまたいつもと変わらず頷いた。フェルトでできた目からは涙が流れることもない。

 初めてこんなにも生きたいと思った時に自分は死ぬ。なんとも皮肉な運命につぼみは涙を流した。

 自分はまだ23歳なのに。あまりにも、あまりにも早すぎるじゃないか。

 自分よりも不摂生な人はたくさんいると言うのに、なぜ自分なのか。自分よりも歳をとっている人がたくさんいると言うのに、なぜ自分なのか。

「じゃあ、この数日のはなんだったの?権蔵さんは?浩介くんは?それに私普通にご飯食べたりだってしたよ。」

「うん。普通に過ごしてた。それはでも贖罪の旅なの。だからできたこと。もうあなたの肉体は朽ちてしまっている。今のあなたは肉体ではない。肉体と魂の中間のような存在。もう死ぬだけだし。厳密に言えばあなたはもう死んでいる。現実世界では葬式も火葬も済んでるんだよ。」

「そんな。。。。」

「つぼみ。何か最後にある?」

「ないかって何よ!私は死んだらどうなるの?何もないの?何も残らないの?このまま消えたら無になるの?」

「それは私にもわからない。私もあなたと一緒に消えるから。もしかしたら何かあるのかもしれないし、何もないかもしれない。」

「そんな。」

 つぼみはそれまでの走馬灯が今度はものすごい速さで駆け巡るのを感じた。今度は嫌な思い出ばかりではない。楽しかった思い出、心が温かくなるような思い出、愛されていた思い出、何かを愛した思い出、成功、失敗、勝利、敗北、友情、裏切り。

 そのどれもが、自分いとって悪いことでさえもつぼみは愛しく感じた。

 

「いや。」つぼみは首を振った。いや。この世界から離れたくない。無になんて行きたいくない。

「つぼみ。これはあなたが望んだことなの。」

「そうかも。そうかもしれないけど。」だけど。

 つぼみは必死になんとかならないかと探した。

「あなたは?あなたはそれでいいの?私が死んで。あなたもいなくなって。」

「構わない。私はあなたの一部。それも、あなたが自殺した時に、心の中で一番最初に死んだ場所にいたあなた。」

「もう話すこともできないし、笑うことも、こうやって泣くこともできないんだよ!」

「それでいいじゃない。私はもうそれもできない。」

 つぼみは体育座りになりしばらく泣いた。ライオンも横に座った。車が、二人の姿を照らしては通り過ぎていく。家路を急ぐ人も入れば、どこかへ向かうために急ぐ人もいる。だが、その誰もがつぼみとライオンを見ることはできなかった。

「つぼみ。あなたは子供の頃、寝つきが悪くて、よく夜眠れないと言ってお父さんのこと起こしたね。お父さんは仕事で疲れているのに、つぼみの好きだった車に乗って、つぼみがあの背の高い道路に行きたいって言うから、高速に乗って、しばらく走ってくれた。あなたはそうしてるうちに寝てしまった。高速に行きたかったのは、高い建物の上から見えるような景色を見れるんじゃないかと期待してたから。でも、実際には壁で囲まれて思うような景色はあまり見えない。見えてもすぐに通り過ぎてしまう。それで、高速道路をただただ見ていたはずなのに、目がさめると家のベットで眠っていたでしょう。今回もそうかもしれない。眠るようなものかもしれないよ。」

 つぼみはただただ、泣いた。涙が枯れても鼻水が出た。

 「誰も。誰も。悪くないのかもしれない。みんな必死にやってて、それでいてたまに何かを見失うのかもしれない。」つぼみは呟くように言った。

「うん。」ライオンは再び頷いた。

 つぼみは口をもぞもぞと動かした。なんとか言葉を出そうとしている。でも、それを言えば終わってしまう。終わらせたくないからなかなか言えない。

 つぼみはふとと思い立ち、バックを探した。バックは近くに転がっていた。中にはつぼみの母が入れてくれた着替えと携帯、財布、それと彫刻刀が入っている。

 つぼみは彫刻刀のケースから、特に鋭い刃を持つものを抜いた。

「何するの?」ライオンは聞いた。

「私の人生。」つぼみはそう言うと高速道路の壁に力を込めて彫刻刀で文字を削り始めた。

 コンクリートでできた壁はなかなか、木工用の彫刻刀を受け入れない。

 それでもつぼみは何度も何ども、彫刻刀でコンクリートに傷をつけ続けた。

 曲がっているところは、上手く出来ずカクカクといびつな形になった。

 途中で滑って、彫刻刀がつぼみの指を切った。生きている時と変わらず、痛みがして血が流れた。つぼみは嬉しかった。きっと最後に感じる痛みだ。

 何度も何度も傷をつけていると、なんとか読めるようになった。つぼみは言った。

「大丈夫。もう、行けるよ。」

 つぼみとライオンは消えた。



 高速道路のコンクリートの壁には傷つけられ、何とか読めるような字で「村田つぼみ」と掘られていた。







    終わり


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