ライオン少女と自分の旅
自分はダメな人間だ。ダメな人間はこの世界にいてはいけない。もし、ダメな人間がダメな人間と恋に落ち、ダメな人間を産んだ場合、ダメな連鎖を断ち切ることができない。
ダメな人間は死ぬしかない。勝手に死んで行くしかない。死んでいくべきなのだ。殺されたといえ文句は言えない。それは社会善に繋がるのだ。
0
輝き続ける街の明かりは、夜であってもうっすらと雲が見えるほどに明るい。
そんな色の薄い夜の中、新宿の高層ビルの屋上に、女子高生が一人立っていた。
屋上から見下ろすオフィスビルや繁華街の灯は、キラキラと魅惑的に輝いているというのに、彼女の瞳はどこまでも黒く深い。
夜の闇を割いて11月の冷たい風が彼女の髪をなびかせようとも、彼女は寒そうにもせず、唇を力一杯噛み締め、悲しいようでもあり、堪えているようでもあり、諦めているようでもある表情を浮かべ、ただ遠くを見つめている。
女子高生が一人、夜のオフィスビルの屋上にいる。それだけでも「異様」だが、それ以上に彼女の持ち物が「異様」だった。
それはフェルトでできた着ぐるみ用のライオンの頭だった。
他にバックなどはない。それだけを足元に置いて、ただただ夜の街を眺めているのだ。
夜空よりも黒い目で、街を見つめていた彼女は突然、顔を苦痛にしかめたかと思うとうずくまり、左手首を抑えた。呼吸も荒く、眉は寄り、全身は強張っている。
左手首を抑えた右手の指の間からは生ぬるい血液が、地面にポタリポタリと落ちて行く。
どんなにどんなに抑えようとも、一度破られた血管の流れは、本来流れるべき道を外れ、外へ外へ流れ続けた。
血は流れ続け、彼女の足元は赤い色で染まっていった。セーラー服も所々が赤く染まる。
それでも、彼女はなんとか立ち上がると血のついた手でライオンの着ぐるみを被った。
それもまた、さらに「異様」な光景だった。左手から血を流し、セーラー服を着てライオンの被り物被った女子高生。
ただ、誰もそんな「異様」を見ることはなかった。彼女以外の人は、彼女が見つめていた街の灯りの中にいる。
被ったお面は今、そんな「異様」な彼女がどんな表情をしているのかを隠してしまった。
それでも笑顔ではないだろう。彼女はまだ左手首を真っ赤に染まった右手で抑えている。
彼女は屋上につけられた手すりを超えると、もう一歩でも歩けば地上へ真っ逆さまに落ちてしまうところで止まった。
フェルトでできた目はまだ街の灯りを眺めている。
そして、彼女は意を決したようにジャンプすると、高層ビルの屋上から地上へと落ちていった。
1
村田つぼみが目を覚ますと、見覚えのない真っ白な天井があった。
自分はどうやらいつものベッドで寝ていないらしい。だが、なぜそうなのか、つぼみには記憶がなかった。
首を動かし周りを見ると、左にはターコイズブルーのカーテンがあり、右にある窓からは雲ひとつない青空が見える。
「病院?」呟いた自分の声は掠れ、弱々しかった。
「なんで、こんなとこに。」
つぼみが起き上がろうとすると頭に激痛が走った。
「あああ。」ズキンズキンと棍棒で打たれているような痛みがつぼみの頭を襲う。
つぼみは声にならないうめき声をあげうずくまった。
病院ということはナースコールがどこかにあるはずだ。激痛が走り続ける頭の中でも、何とかつぼみはものを考えた。
しかし、目覚めてからまだ間もないつぼみには頭の激しい痛みの中ナースコールを探すことはできなかった。
ただただ、頭を抱え、治るのを待った。
意識が飛びそうなほどの痛みも、頭を動かさないでいると、だんだんと、痛みは引いていった。
なぜ自分は病院にいるのか。なぜ頭がこんなにも痛むのか、つぼみは思い出せなかった。
確か、昨日はいつもと同じように会社に行き、いつもと同じように深夜に帰ってきたはずだ。いや、終電に間に合わなくて会社に泊まったような気もする。
会社にいたのならなぜ自分は病院にいるのか。倒れでもしたのだろうか。
つぼみは頭を刺激しないように気をつけながら、再び仰向けになった。
すると、今度は不意に左手にもぞもぞとした痒みが襲った。右手で掻こうとすると、左手首に巻かれた包帯が邪魔をして掻くことができない。
左手首に包帯。
つぼみは目の前にかざして見た。自分の左手首に包帯がグルグルと厳重に巻かれている。
つぼみは思い出した。
・
病院で目をさます1日前、つぼみは、いつもの平日と同じようにクールエージェンシーでイラストレイターとして働いていた。
クールエージェンシーはイベントの企画から運営、Webの制作までを手がける広告代理店だ。
美大を出て新卒で入社。まだ一年目のつぼみはその日も、いつもと同じように徹夜明けだった。
「おい、お前。この後の資料まだできてないのか?」後ろから何かの資料を丸めた冊子でつぼみは頭を叩かれた。ポンッと乾いた音が響く。
つぼみの上司、飯田忠が後ろで腕を組み、立っている。
手には週刊誌が丸めて握られている。どうやらつぼみはそれで叩かれたらしい。
髪は若干の茶色、髭を蓄え、パーカーにジーンズという飯田忠の出で立ちは、絵に描いたようなクリエイティブ職の姿だ。
「すみません。」つぼみは謝った。
本当に、謝る必要があるのかはわからなかったが、こういう時は一応謝っておいたほうがいい。
「今何やってんだ。」飯田はつぼみのパソコンを覗き込んだ。
タバコを吸ってきたらしく、ニコチンの嫌な香りがつぼみの鼻に押し寄せる。
「ロックの登竜門のロゴを新しくするということで、今、候補を3つほど作っています。」
「てめえ。あだそんなとこやってんのか。クソトロいなほんと。」飯田はまた週刊誌でつぼみの頭を叩いた。
頭は痛くはないが、つぼみは顔をしかめた。頭以上に心が痛んだ。
「いいか、お前、ロゴなんか時間かけるな、適当に作るか、クラウドソーシングにでも出して、安く外注しろ。」
「でも、クライアントさんが、うちで作って欲しいということなので。」
「お前が作ったって、素人がつくたって大してレベル変わらんだろう。バレねえならいいんだよ。」飯田忠は苛だたしそうに、自分の時計を見た。
ブランドに詳しくないつぼみにはその価値がわからない。だが、以前彼がその時計は、海外で活躍している日本人サッカー選手が普段つけているのと同じ時計だと言っていたので、安くはないのだろう。
「いいか。お前はデザインも大してできない。臨機応変な対応もできない。女なんだから体を使えって言っても仕事を取ってこれない。向いてないんだよ。この仕事。辞めちまえ。」
「すみません。」つぼみは俯き、小さな声で答えた。
飯田忠が立ち去ると、つぼみは途中まで作っていたロゴを見つめた。
龍と虎がギターに巻きつくようにデザインされたロゴは今流行りの平面的なものではないが、かなりいいできだと思っていた。
だが、線が細かいロゴは今はあまり流行らない。
四角や三角や丸を使ったシンプルなアプリのロゴのようなものが今では人気があるのだ。
しかし、つぼみはそういうロゴを作るのが苦手だった。学生の頃から授業中に漫画を描いていたこともあって、線を多用する線画がつぼみは得意だった。
ただ時代が求めているのはシンプルなデザインだからしょうがない。
今までも、飯田をはじめとした先輩に、求められるモノを作れないのならプロじゃないと何度も言われてきた。そして、つぼみもそうだと思っていた。だからこそ、うまくできない自分に腹が立った。
ため息を吐き、マウスを動かし、タブを変えた。ブラウザを開きクラウドソーシングサイトを検索する。
「いいのかな。」つぼみは周りに聞こえないようにつぶやき、またため息を吐いた。
つぼみの携帯電話が鳴る。表示には大崎真司とある。
「はい、つぼみです。」
「早く会議室Aにこい。」イライラしているような声が聞こえる。
「えっ?」つぼみは会議の予定を忘れていたかと思い、焦りながら手帳を開いた。だが、2時に会議の予定はない。
「あの、何の会議でしょうか?すみません、今日の予定に入ってなかったものですから。」
「うっせえな。先輩が来いつってんだから来いよ。」そう言われると、電話は一方的に切られた。
つぼみはまたため息を吐き、周りを見ながら立ち上がる。幸い飯田忠は自分のデスクで何か電話をしている。つぼみがどこかに行くのを目にしても文句を言いに来る暇はないだろう。
足早に5階の会議室へ向かう。途中で見落としはないかと手帳再び確認したが、やはり今日の二時に会議の予定は入っていない。
だとすると。
つぼみはこの後の展開を想像して憂鬱になった。
大崎真司が突然、つぼみの電話を鳴らす時には、自分の仕事がうまくいかず、つぼみに責任を押し付けたい時なのだ。
今までもつぼみは、大崎のミスを三回も被っている。
ガラス張りの会議室の前に行くと。中では仏頂面をした中年のクライアントと大崎真司が向かい合って座っている。
ドアをノックし、室内にはいる。
「君か。会議には遅れてくるし、真司くんから私に連絡するのも怠ったらしいじゃないか。」中年男性はつぼみに挨拶する暇も与えすに口を開いた。
「そんな簡単な連絡もできないのか。君は。」
つぼみは立ったまま、すみませんと頭を下げた。
予想はしていたが、当たってしまったらしい。
どうやら今回、自分は先輩への連絡を怠ったとして怒られるようだ。どうせホウレンソウがどうのこうのと話されるのだろう。
「本来は僕から連絡すべきだったのですが、こういう電話も後輩にとってはいい経験だと思い、任せてみたらこんなことに。」真司は口角を少しあげて言った。
つぼみの心はモヤモヤとした霧がかかった。真司からつぼみにそんな指示は全く出されていない。
第一、この会社はプロジェクト単位で動くので、自分が関わっていないプロジェクトリーダーから指示を出されるはずはなかった。
なんで私がこんな役回りを。つぼみは新卒で入社した新人だからといえ、考えずにはいられなかった。
「突っ立てないで早く座れ。」中年クライアントは続けた。
「いいかい。真司くんは悪くない。社会人として後輩を思うのは大事なことだ。それだというのに君は先輩からの指示を全く忘れて、ウチにも迷惑をかけてるんだ。まだ一年目のペーペーがいつまでも学生気分だからダメなんだ。」つぼみが座ってからも説教はネチネチと続いていた。
このクライアントの怒りに本来関係ないはずのつぼみの心は、クライアントから向けられた理不尽な怒りのせいで、さらに靄は濃くなっていった。
最初は少しの靄もいつの間にか、目の前にかざした手すら見えなくなるように、つぼみの心も、日々のこんな仕事でどんどんと靄は濃くなっていった。
それでも、つぼみは肩をすくめ、時々小さくうなずきながら、すみません。と言い続けた。
「いいか。お嬢ちゃんが働いてるクールエージェーンしってのは、大きい会社だろ?なら、その会社にふさわしくならなきゃダメだ。真司くんを少しは見習え。」
責任をつぼみに押し付けているということなど、全く知らないクライアントは、真司との間にそれなりの信頼関係を築いているようだ。
高級なキャバクラで接待でもされたのか、そのあと、高級ソープをつけてもらったのかは知らないが、真司から接待と称して、色々ものを与えられているのだろう。つぼみが働くこの会社ではそういったことが当たり前のように行われていた。
「真司くん。もうこんなことは無いように。」クライアントは今度は大崎に向いて言った。
「ええ、もちろんです。あの、お詫びと言ってはなんですが、今夜ええ、お食事でもいかがですか。」真司はニヤニヤ笑いをながら言った。
つぼみはやっぱりな、と心の中で思った。お食事と称して、性欲をアテにした接待だろう。
「ああ、そう。まあそれならお願いしますよ。」クライアントは頷いた。仏頂面のままではあったが、かすかに口角が上がるのをつぼみは見た。
「じゃあ私は行くから。真司くん後で連絡よろしくね。」
そう言うと、クライアントは、立ち上がり、会議室から出て行った。
結局、つぼみはあのクライアントがどういうプロジェクトを行なっているのか全くわからないままに会議は終わった。
クライアントが去ると、大崎真司はヘラヘラと笑い出した。
「いやー。あの親父がエロじじいで助かったよ。」
「そうですか。」
「この間、接待で連れて行ったキャバクラでお気に入りの娘ができたみたいでな。噂じゃあ、プライベートでも行ってるらしい。大して金もらってないだろうから、接待で連れて行ってもらえたら、嬉しいんだろうな。見栄も貼れるし。まあ、俺も経費で遊べるしラッキーだよ。お前もエロ親父相手には体をもっと使ったらいいぞ。一発やらせれば今回のことも許してくれるだろうしな。その書類シュレッダーにかけよ。」真司はそう言い、つぼみの背中を叩くと立ち上がり、会議室から出て行った。
つぼみは、今日何度目かわからないため息を吐いた。
飯田忠、大崎真司に言われたことで、嫌なことを思い出した。
つぼみがクールエージェンシーに入社して、入る前の印象と一番
違っていた点は、仕事の激務ぶりだけではなく、接待についてだった。
今時、性接待のようなものが行われているなんて、全く考えてはいなかった。
とはいえ、それは性接待や枕営業という形ではここでももちろん存在していない。
ワンナイトラブとか、一夜の恋といった、いくらかマシな言葉を被って行われる。
相手もそれを表立っては望まない。ただ、仕事終わりに食事を共にして、お酒が入っていい雰囲気でそのままホテルへ。
つぼみはずっと、それが嫌で、接待の場に行っても最後は断り続けていた。
ただ、そうすると周りに比べて自分のプロジェクトが思うように進まないことがあり、どんどんと会社に居場所がなくなっていった。
だから、一度だけ、ちょうど今ロゴを作っているプロジェクトのクライアントと一夜を共にした。
もちろんそれが接待だとは言っていない。
ただ、イベント運営にどの広告代理店と提携するのかを選ぶコンペの、ちょうどその結果が出る前日にその責任者とセックスしただけだ。
そして、結局つぼみはそのプロジェクトを得ることができた。
だが、その時のことを今でも思い出して気持ちが悪くなる。
すき焼きを食べた後にセックスをしたからか、始終その男の口からは醤油と酒が混じったような匂いが放たれていた。
好きでもない男に、ただ腰を振られる。気持ち良くもないのに、相手に納得してもらうために何度か気持ち良さそうに喘ぎ声もあげる。
つぼみは首を振り、嫌な記憶をかき消した。
昔のことを振り返っている時間はない。一分一秒でも早く、自分のデスクに戻り、仕事を続けなくては。
立ち上がりテーブルに置かれたままになっている書類を見た。
それで初めて、あのクライアントが大手食品メーカーの営業部長で、春に新しく発売される商品のPRイベントの会議だったことを知った。
2
昼間に比べ、深夜になるとキーボードを叩く音がいもうるさく聞こえる。
周りで作業してる音が少ないからなのか、それとも疲労から神経が敏感になっているのかわからないが、自分でキーボードを打つ音でさえ神経を刺激する。
パソコンの画面に小さく出ている時計を見ると、もうすでに夜中の2時半を過ぎている。
それでも、周りにはまだ残業している社員がつぼみ以外にも数人いた。この職場では終電で帰れることはほとんどなかったのだ。
いわゆるブラック企業と言ってしまえばそれまでだが、この会社では皆、残りたいから残るし、やりたいからやっていると言うスタンスなのだ。
つぼみも最初の頃は、そう言った社員がかっこいいとさえ思っていた。
人が何かに一生懸命な姿はかっこいいものだ。
ただ、実際は新卒サイトの動画で描かれるような人は、一人もいない。
皆ただただ虚ろな眼をパソコンの画面に向けていた。
つぼみはメールボックスを開いた。クラウドソーシングから、何軒かエントリーを受けたことと、その画像が添付されたメールが届いている。
つぼみはそのいくつかを見た。
音符をデザインしたもの、ギターをデザインしたもの、門をデザインしたもの。どれも単に四角と丸と三角を組み合わせただけの、今風のシンプルなものだ。
だが、つぼみにはどれもイマイチに思えた。
ありがちすぎる。やはり自分がデザインしたい。だが、そんな暇はもうない。
「いやー今日も徹夜だな。」飯田忠がつぼみの隣に腰を下ろす。なんだか顔は嬉しそうだ。
「徹夜ついでに俺の仕事もひとつやっておいてくれ。メールしたから、資料は添付してるし。じゃ俺は帰るから。可愛い彼女が家で待っててな。」
女性のつぼみにそんなことを自慢されても、仕方がないが、飯田はいつも誰かに何かを自慢せずにはいられないらしい。
一週間ほど前、モデルと合コンするのだとつぼみの隣の男性社員に自慢していたから、恐らく、その中の誰かとうまくいったのだろう。
「はい。」つぼみは、パソコンの画面をぼんやりと眺めながら答えた。
メールを開くと確かに、来年の国際的なスポー大会のPRイベントの企画書が入っていた。
どうやら原案を考えておけと上から言われたことを、つぼみに丸々押し付けたらしい。
今日はもう帰ることと睡眠を諦めていたし、仕事がどんどん増えるのは慣れていたはずだというのに、つぼみの肩はさらに重くなった。
「じゃ頼んだぞ。明日俺、来るの遅れるけど、朝までにはメールしといてくれ。」飯田忠は立ち上がると意気揚々とオフィスから出て行った。
つぼみはしばらく画面を眺めていたが、頭は縄に縛られているように、ジンジンと痛むばかりで何も考えを浮かべない。
ロゴもいい案が浮かばない。企画書もいい案が浮かばない。こんな頭では何もいい案が浮かぶはずはないのだ。
だが、周りはうまくやっている。なんて自分はダメなのだろう。
つぼみの脳は眠りたいらしく、どんどん脳内に睡眠に入るために必要なホルモンを分泌している。
それが、邪魔をして、理性はまだ寝てはいけないと思っているというのに、冷静な判断能力がどんどん失われていく。
つぼみは何とは無しに「自殺」と検索した。
検索結果を見ると、いくつかの悲惨なニュースや自殺対策のためのページがヒットした。
貧困から一家心中をし、遺体で発見されたという記事、いじめに耐えきれなくなり、校舎から転落死したという記事。
つぼみは、イジメ自殺の記事をクリックした。どうやら、まだ学校側はイジメがあったかどうかは調査中らしい。
調査も何も、イジメがなければ学生が、学校で自殺することなんてまずないだろう。つぼみはため息を吐いた。
どうやら自分より不幸な人はこの世の中にまだ沢山いるらし。仕事があるだけでもまだマシなのかもしれない。ただ、つぼみは会ったこともないその自殺した生徒や一家心中をした人に、ある種の憧れともいえるシンパシーを感じた。
少なくとも、その人たちは、自分の置かれた苦しい世界から脱することはできたのだ。
「帰ろ。」つぼみはそう呟くと、いそいそと荷物を持って立ち上がり、パソコンの電源を消した。
他にオフィスにいる数人の同僚は特につぼみの様子に気にかけることはない。
皆それぞれの作業に忙しかったり、イヤホンをつけ聞こえていなかったりする。
つぼみはエレベーターホールへ向かう途中、廊下から見える街の夜景を見た。地上40階にあるつぼみのオフィスからは新宿の夜景が見渡せる。ほとんどのオフィスビルが黒く塗られたように、明かりを消しているが、所々に明かりが灯っている。さらにその奥には住宅街の明かりが見える。
宇宙から見れば東京の明かりは一つの小さな明かりでしかない。
そして、その巨大な明かりの中の、小さな一つ一つの電球や蛍光灯は様々な人を照らしている。
テレビを見ながら家族団欒をしている人、一人でコンビニ弁当を食べている人、病に伏して今にも死にそうな人、生まれたばかりの子供、テレビゲームをする人。そして仕事をしている人。みんな明かりを作る一要素になっている。
「もうやめればいいのに。」つぼみはつぶやいた。
誰かが、綺麗な夜景というのは、残業する人のお陰で見れると言っていたのを、つぼみはぼんやりと思い出した。
本当にそうだと思う。もちろん街灯や家庭の暖かな光が夜景を作ることもあるだろう。
だけれど、オフィス街の場合、夜景を作っているのは残業をしている人だ。
特に好きでもない人や企業のために、特に自分のことを好きではない人とともに、本当に自分を愛していてくれた人とは仕事の忙しさから別れながら、それでも人は生きていき、人は働いている。
生きるために働くのではなく、働くために生きている。
つぼみはまたため息を吐いた。
3
「ただいま。」つぼみは小さい声で言った。真っ暗に静まり返った家の中から「おかえり。」という返事はない。それに、つぼみも「おかえり。」を期待してはいなかった。
同居してる60歳を過ぎた母はもう随分前から寝ているだろう。ただ「挨拶は大切にしろ。」と父親に言われていた癖がまだ抜けないから、言う必要のない「ただいま」をつぼみは今も続けていた。
靴を脱ぎリビングへ行くと倒れるようにソファに横になった。
暗い居間の中、つぼみは携帯の電気をつけた。
ブルーライトを含んだ光が、疲れ切ったつぼみの顔をぼんやりと暗闇に浮かべる。
SNSを開くと、友人や大して話したことのない「友達」の楽しそうな投稿が、疲れたつぼみの脳みそを通り過ぎていく。
みんな充実しているようだ。ある人はプロポーズされ、ある人は美味しかった食べ物を投稿している。海外旅行、海水浴、カフェ、パフェ。
自分はこんなに頑張っているのに、誰にも評価されない。
そんな風に劣等感を感じながらも、つぼみはスクロールすることを止めることはできなかった。
そして大学時代に付き合っていた人が結婚したということを知った。
真ん中でその人がつぼみに向けていたのと同じ笑みでこちらを見て写真に写っている。
隣には白いウエディングドレスを着たその人の妻となるであろう人がいる。
つぼみの体は疲れ切っていたはずだというのに、心臓はドクドクと鳴り、眠気を帯びていた目は、どんどんと冴えていく。
つぼみは他の写真を見ようと思ったが、押しかけた指を止めた。
そして、そのまま携帯の電源を切った。
見ない方がいいだろう。見てもいいことなんてないのだから。
つぼみを照らしていた光が消えると、暗闇がつぼみの体を覆う。 タイピング音も、テレビの音も、人の話し声もない。まだ暗闇に慣れていない目に映るものもない。どこまでも黒いだけだ。
つぼみは、元彼が結婚したと言う投稿を見て動揺した心臓を落ち着けようと、何度か深呼吸し、目を閉じた。
すると、自分以外に世界から消えてしまったような、世界が遠くなったような、不思議な感覚がつぼみを包んだ。
痛んだ脳みその縛りも、だんだんとほどけていった。
こうしていると、自分が今までいた、色彩のある世界よりも、この真っ暗闇の無の世界がひどく優しい居場所のように思えた。
自分がまだ生きていると分からせてくれるのは、たまに家の前を通る車の音だけだ。
少しの間、限りなく黒い世界を楽しみ、つぼみは体を起こした。
居間から出て、隣の和室の電気をつける。途端に色を帯びた、いつもの景色がつぼみの目に広がった。
そこは仏間だった。仏壇の中にはつぼみの父親の写真が置かれている。
「ただいまお父さん。」つぼみは仏壇に手を合わせた。父親が亡くなってからのつぼみの習慣なのだ。つぼみはぼんやりと写真たての中で微笑む父を見た。
「お父さん。そっちはどんな感じ?」つぼみが問いかけても、父親はいつもと寸分たがわぬ笑顔をつぼみに見せるだけだ。
「私、何考えてるんだろう。」つぼみは首を振って、立ち上がると風呂場に向かった。
すでに湯ははってある。母がいつも入れておいてくれるのだ。
つぼみは服を脱ぎ、ふと思い立ち洗面台の下をゴソゴソと探した。
父親が使っていた髭剃りの刃がまだあるのではないだろうか。
つぼみの母親はまだ、父親が使っていたものを片付けられないでいた。靴箱には父親の履いていた靴が、クローゼットには着ていた服が今までと同じようにある。もう二度とそれを使う人が現れないと言うことを知っていながら、それに争うように「今まで」を変えていなかった。
父親は今の人にしては珍しく、シェーバーではなくカミソリを使って毎朝ヒゲを剃っていた。
お金のない頃からずっとそうしていて、その習慣が抜けないと言っていた。ある程度自由に使えるお金が増えてからも、値段の高いシェーバーに交換することはなかった。
やはり母はまだここも整理をしていないらしく、使われていないカミソリの刃があった。袋を開けると、綺麗な刃が灰色に輝いている。
つぼみはそれを持って風呂場に入った。いつも通り頭を洗い、体を洗う。疲れきった体に水が上から下へと流れていくと、それに誘われて体の奥からもブワッと疲労感が湧き出てくる。
ふと見ると、水に赤い血が混ざっていることに気がついた。足を見ると肢体から少しだけ血が垂れている。どうやら生理が始まったらしい。おそらく先ほど脱いだパンツにも血がついていたのだろうが、あまりの疲れと考え事をしていたせいで気がつかなかった。
いつもならこういう時は湯船には入らないが、今日は違った。まだ本格的に始まってはいないし、それにこれから血をながすのに、この程度の血を気にする必要はない。
湯船は追い炊きをしなかったためか少し冷たくなっていた。湯に入って大きく深呼吸をすると、つぼみは父親のカミソリを右手に持ち左手の手首にそっと当てた。
とりあえず、刃を横に当ててみる。だが、以前何かの小説で、本当に死ぬ時は横ではなく縦に切るのがいいと書いてあったのを思い出し、太そうな血管の上に刃をそっと下ろしてみた。
まだ実際に切ったわけではなく、ただ刃を手首に当てているだけなのに、つぼみの体は強張り、腕に力も入らない。
胸はドクドクと早鐘のように鳴っている。体のいろいろな器官からそんなことはよせという信号がつぼみの脳へと届けられた。
つぼみは、一旦刃を離し、もう一度深呼吸をした。
自分は本当に死にたいのだろうか。
どうやら、自分の体はまだ死にたくはないらしい。
それはそうだ。まだ二十六歳の若い体は、いくら日頃の残業や土日出勤でくたびれていようとも、まだ死に対する拒否反応を示す力ぐらいはある。
考えてしまってはダメだ。こういうことはもっと衝動的にしなくてはいけない。
あるいは、自分は本当はまだ生きたいのではないだろうか。
そうなのだろう。自分は死にたい、この世の中を放棄したいということ以上に、今の仕事から逃げたいという思いが強いはずだ。それなら、もっと他の方法があるはずだ。辞職するとか、今の不法労働の状況を公的機関に訴えかけるとか。
でも、自分の次の就職はどうだろう。一年も持たないで仕事を辞めた自分を雇ってくれる会社はあるのだろうか。
いやまずないだろう。ある程度名のある大学を出たつぼみではあったが、一年も保たないで、会社を辞めた人を欲しがる企業はいないだろう。少なくとも、今まで出会ってきたクライアントを見てきてつぼみはそう思った。
それに万が一にも採用してくれるところがあったとしても、それは今自分が働いているデザイン会社と比べると、小さな会社でつまらない仕事かもしれない。
小さい会社でつまらない仕事で、今と同じぐらい働かされるぐらいなら、まだ今の会社の名前が入った名刺を持っていた方がいいかもしれない。
広告業界でも一目置かれたクールエージェンシーの名刺は友人に対するマウンティングには少なくともかなり役立つ。
でも、もうその会社にいることには耐えられない。
つぼみの思考は、なかなか結論を得ないまま、くるくると周り続けた。
この会社を辞めること。それはそんなにシンプルな話ではない。大学からの友人は自分がクールエージャンシーに内定が決まった時、ものすごく驚き、讃えてくれた。
しかし、内心では悔しがっていたことだろう。
つぼみは他に高校や中学の時の同級生のことを思い浮かべた。
内定が決まった後に、昔のクラスのグループラインで上がってくる飲み会開催のお知らせには、普段は参加しないつぼみも積極的に参加した。
そこでは決まって就活の話になったので、つぼみは自分が内定した会社を自慢げに話した。
それに対して、同級生たちが入社した会社は、どこも地方の名前も聞いたことのない中小企業。
つぼみは密かに同級生たちのことを見下していた。
自分が今、その会社を辞めたら、もう友人たちには会うことはできない。辞めた、なんてとても言えない。
でも、それでも、死ぬのは止めよう。つぼみは結局そう考えた。
一旦この仕事は辞めて、なんとかまた就職活動を頑張ろう。
自分に責任を押し付ける上司、仕事をどんどん押し付け、残業をしてもしても片付かない仕事。
好きでもないし、相手も特に私にして欲しいとは思っていないクライアント。そして、飲み会と称して行われる接待。
つぼみはまた、あの時のことを思い出し顔を歪めた。
口から吐かれるアルコールの匂い、ジョリジョリとしたヒゲの感触。結婚が決まったらしい元彼としていたセックスとは全く違ったただ精子を出させるための行為。
だんだんと頭がぬるい湯船にものぼせてきたのか、ガンガンとし始めた。
それでも、それでも、死ぬことはできない、と思った。
今まで辛いことや、苦しいことはたくさんあったが、自分はそれでも死ぬことはできない。友人は失うかもしれないし、元彼はもう戻ってきてくれない。それでももう一回ゼロから頑張ろう。
心臓は頭がもう死ぬことを諦めたとわかったようで、ドキドキと早鐘のように鳴るのを辞め、身体中の器官も安心したように強張るのを止めた。
少しでも寝なくては。
いや、今日はもう寝ることはできない、山のような仕事が残したまま、会社を後にしてしまっていることを思い出した。
明日会社でなんと言われるだろうか。つぼみは今日と同じような明日を想像して再び死にたくなった。
やっぱり明日が嫌だ。明日が嫌だから死のう。
つぼみは、手首を縦に切り湯船につけた。
4
病院ってなんで白いんだろう。つぼみは冴えてきた頭で、真っ白な見知らぬ天井を眺めながら考えた。
葬式は黒だ。結婚式は白。生まれるというのはどうだろう。赤ん坊と言うぐらいだから赤いののだろうか。この世の中は死ぬ時以外は常に色に満ちていた。
自分は。つぼみは首を曲げ見知らぬ空を眺めた。少し寝た後で、さっきまで晴天だった空はなくなりどんよりとした雲が広がっている。
自分はまだ色のあるの世界にいる。それが曇天のように灰色であろうと色がある。自殺できずに、今もまだいる。
つぼみはホッとしてため息を吐いた。生き残ったと言うことよりも、もうあの飯田忠に押し付けられた仕事はする必要がないということに安堵した。
自殺未遂を起こすぐらいなのだから、もう会社にも行かなくていいだろう。
一方的に辞職届を送ればいい。引き継ぎがどうのと向こうが言ってくるかもしれないが、精神的にどうとか、鬱でとか言えばなんとかはなるのではないだろうか。
一度会社から少しでも離れてしまえば精神的にも楽になり、会社に対しても強気に出れる気がしてくる。
会社にいる時からそうなればいいのだけれど、一人の時と、群れに混じる時とでは感情が大きく異なってしまう。
「失礼しまーす。」声が聞こえた、初め自分に向けられているものだと思ったが、隣でカーテンが開く音がしたのでどうやら自分に向けられたわけではないようだ。
「失礼しまーす。」また別の声が聞こえた。今度は自分のカーテンが開けられた。
「あっ気がつかれましたね。大丈夫ですか?頭痛くない?」ベテランな雰囲気の看護婦が入ってきた。
「だ、大丈夫です。」言って、すぐに寝ているだけなら大丈夫だが、少しでも頭を動かすと痛みがすることを思い出した。
「あっ。いや、たまに頭が。」
「痛いでしょう。そりゃあ、気を失うぐらいに頭を打ったんだから。先生からお話は聞きましたか?」
「いや。」
看護師は会話をしながらも忙しそうに、つぼみの点滴をチェックする。
「あら、そう?先生もう少ししたらくると思うから。その後で夕ご飯にしますね。」そう言うと看護婦はカーテンをしめた。同じ声が向かいのカーテンを動かす音がしたので、今度は向かえの人の点滴でも見ているのだろう。
つぼみは特に眠くもなく、ただぼんやりと灰色の空を眺めた。久々に人間に出会い、事務的な会話ではあったがつぼみは嬉しかった。
「こんにちは。」不意につぼみの横で声がした。カーテンを開ける音も病室を歩く音もしなかったので、その存在がつぼみの横の椅子に座っていることにも気がつかなかった。
医師だろうと思い振り返ったらそこにはライオンの頭のかぶりものにセーラー服という異様な出で立ちの女子高生が座っていた。
つぼみはただただ目をパチクリとさせた。自分はまだ眠っていて夢を見ているのだろうかとさえ思った。
「あ、あの、。」
「こんにちは村田つぼみさん。元気?」ライオンの被り物は無表情だ。フェルトでできた目からも何も伝わってこない。
「げ、元気ではないです。」
「そう、そうよね。」ライオンは頷いた。喜んでいるのか悲しんでいるのか、声も被り物を被ったようにどこまでも平坦だ。
「あの、ど、どなたでしょうか。」つぼみは聞いた。
「ライオン。」
「ら、ライオン。」つぼみは、どなたか、と聞いたが、名前というよりは自分とはどういう関係の人なのか、なぜここにいるのか、なぜライオンの被り物を被っているのかを知りたかった。だが、その答えは得られなかった。
「あの、なんでしょうか。」
「あなたはしなくていけないことがあるの。」
つぼみはライオンの体の特徴から、誰か予想を立てようとした。体は細くセーラー服が違和感なく馴染んでいる。足も綺麗だ。どう考えても男性ということはない。女性だとしたら誰だろう。声からして若いというのはわかるがそれが高校生なのか20代なのかは判断することはできなかった。セーラー服をきているあたりから女子高生なのかもしれないが、つぼみにはお見舞いに来てくれるような親しい女子高生の知り合いはいなかった。
「あのね、あなたの隣のベッドで寝ている沢村権蔵さん。あの人はこれから病室を抜け出すの。あなたもついて行って、彼のことを助けてあげて。」
つぼみは目をパチクリしながらライオンのフェルトでできた目を見つめた。それしかできなかった。
「じゃそういうことだから。」ライオンは立ち上がる。
とほとんど同時につぼみの前のカーテンが開いた。
「こんにちは。つぼみさん。よかった目が覚めましたね。」見るからに医師という若い男がカーテンから入ってきた。眼鏡をかけ、白衣を着ている。
つぼみはハッと横を見るがライオンはもうすでにそこにはいなかった。
かすかにライオンがいた方からシャンプーのような香りがした。
「大丈夫ですか。ちょっと見させてもらいますからね。」医師はつぼみの顎を抑えて目をライトで照らした。
「うん。大丈夫そうだね。一応CTはとって早めに結果は出してもらうようにするんだけど、予約が多くてCT検査は早くても明日の夜になるから。」
今までずっと起きていたはずなのに、ライオンが去り目の前に医師がいると夢から突然覚まされたような感覚になった。
「名前、住所は言えるね。」
「はい、村田つぼみ。住所は東京都品川区です。」
「番地も言える?」
「はい。」つぼみは番地をスラスラと答えた。自分が生まれてから、今まで育った家だ。
大学は茨城の美術大学へ行き一人暮らしだったが、それ以外はずっとそこで過ごしてきた。忘れるはずはない。
「うん。えっと、なんでここにいるかはわかっているかな。」
「あっ。えっと。」つぼみは自分が自殺しようとしたことを思い出しなんと答えていいか考えた。
「風呂場でころんだんだよ。腕の切り傷はその時にかみそりで少し切ったみたいだよ。傷は深くないから跡も残らないとは思う。」医者が考えているつぼみに言った。
「転んだ。・・・。そう、ですか。」腕を切り水につけた後の記憶がうまく思い出せない。
「うん。転んだ瞬間のことは忘れているかもしれないね。脳に異常がないような場合でも強い衝撃を受ける直前の記憶を忘れることはあるから。」
痛すぎて、死ぬのをやめて立ち上がり、そのまま滑って転んだのだろうか。いまいち思い出せなかった。
「お母さんに感謝しなくちゃだよ。風呂場ですごい音がして、つぼみさんのこと見つけてくれたらしいから。」
「そう・・・ですか。」
つぼみはその光景を考えて見た。生理の血と腕の血が混ざった水が流れる風呂場に倒れる娘。近くにはかみそり。
もともと気が弱く、父が死んでからはほとんど外に出ることがなくなり。家の中にこもりっぱなしの母はとても驚いたことだろう。
「お母さんに、意識が戻ったことは病院の方から連絡しておくけど、携帯電話があるなら、自分でもしておいていいよ。心配してるだろうから。じゃ、なるべく頭は動かさないようにして。」
「はい。あ、あの。」
「ん?」
「幻覚って見ることありますか?」つぼみは聞こう躊躇ったが、聞いた。
この後もずっとあのライオンを思い出してモヤモヤするよりはいいだろう。
「幻覚?」医者は少し戸惑ったように笑った。
「見ないと思うけど。何か見た??」
「いえ。・・・。ただちょと聞いて見ただけです。」
「何かあったら言ってね。」
医者はカーテンを揺らし出て行った。つぼみは医者がいなくなるとまたライオンが出てくるのではないかと思い身構えたが、出てくることはなかった。
あのライオンの着ぐるみを身につけた女性。彼女は何者なのだろうか。
ひょっとすると、つぼみが入院していると知った友人が驚かそうと思いあんな格好をしてきたのかもしれない。
だが、つぼみには生憎、そんなことをしてくれるような友人は思いつかなかった。
誰かが、私以外をそうやって驚かそうとして、病室を間違えたのかもしれない。
でも、彼女は「村田つぼみ」と名前を言っていた。それにあの声の雰囲気からして人間違えなどではなさそうだ。
考えながら、つぼみは携帯を手に持ち、メッセージアプリを起動した。
いくつか仕事内容のメッセージが来ている他に、母からも「起きたら連絡ください。」と来ていた。
つぼみは「起きました。大丈夫だよ。ありがとう。」と書き、送信を押す。
だが、少しして、画面上に「メッセージは送信できませんでした。」という文字が浮かんだ。
もう一度送信を押すが、なかなか送信されない。
「ん?どうしたんだろう。」充電はまだ53%も残っている。
「なんで送れないんだ。」つぼみは試しに他のアプリも開いて見た。
SNSアプリを開くと「インターネットに接続していません。」と表示された。
「えっ??」携帯をよく見ると「圏外」の文字が表示されている。
「えっ?ここ、圏外なの?」横になったままでは空しか見えない、つぼみはそんなに田舎にいるのかと思った。
でも、今時の日本でインターネットに繋がらない田舎なんてほとんどないはずだ。
それに田舎に病院がないから都会に運ばれるのならまだしも、自分が倒れたのは品川区で、圏外になる病院があるようには思えない。
自分はどこにいるのか気になり、つぼみは再び体を少しだけ起こして見た。頭に痛みが走らないか恐る恐るではあったが、痛むことはなかった。
外を見ると、どこまでも街並みが広がっている。厳密にどこかはわからなかったが、おそらく東京都内の病院だろう。6階ほどの高さだろうか、つぼみがいるとこらからは通り向かいのスーパーが見える。
つぼみはもう一度携帯を見た、やはり圏外だ。電源を一度落としてもう一度つけたりしたが圏外は治らなかった。
ナースコールで看護婦さんに聞いてみようかとも思ったが辞めた。母には病院から連絡をすると言っていたし、いつも携帯が突然鳴る生活をしていた自分にとっては、圏外だと、なぜだか落ち着くのだ。病院にいるからと言って、多田や飯田から突然電話がかかってこないとは限らない。
「てめえの自己管理能力のなさのせいでこっちは仕事が増えて大変なんだよ。新人のくせに偉そうに休みやがって。」だいたい飯田忠が電話をかけて来て言いそうなことはわかった。
着信履歴を見ると実際飯田忠から二回電話が鳴っている。
電話が着ているということは、圏外ではなかったということでもあるのだろう。少し待ったら繋がるかもしれない。
携帯を置くとつぼみは眠くなって着た。気絶しても眠気は取れないのだろうか。そうだとするともう48時間近く寝ていないことになる。
つぼみはゆっくりと目を閉じ、灰色の世界から夢の中へと落ちていった。
5
つぼみは枕元で母の声と先ほどの医者の声を聞いた。目を覚まそうと思っても、つぼみは夢の世界と現実世界のちょうど中間にいるような感覚で、起き上がることができない。脳は動いているのに体は金縛りにでもあったように目覚めようとはしなかった。
「あの、やっぱり娘は。。。」母の声には力がない。声のトーンからは悲壮感が伝わってくる。
「ええ、手首の傷は擦り傷ぐらい浅いのですが、こんなところに傷ができるのはリストカットぐらいしか考えられませんから。」
「そう・・・ですか。」
お母さんごめんなさい。つぼみは心の中で思った。自分は会社を辞めたかっただけなのだ、でも辞めることが、逃げることがあれこれと考えてしまいできなかった。
そして、逃げるために自殺未遂をしたのだ。もっと楽な性格だったらどんなに楽な人生を送れただろう。
「お仕事は何をされていたのですか?」
「広告系ということは聞いていますが、詳しくは・・・。」
「なら、かなりの激務でしょうから、疲れが溜まっていたのかもしれません。」
広告業界に入ったのは、自分が心から入りたいと思ったからではない。なんだかとてもキラキラして見えたからだ。
つぼみの中学高校時代はとてもつまらないものだった。クラスカーストの最下位グループにいたつぼみは、同級生たちが、部活や恋愛を楽しむ姿をいつも羨んでいた。そういう人たちは皆キラキラと輝いて見えた。
でも、どうすれば自分がそういう風になれるのか、どうすればいいのかわからなかった。
いつもあれこれと考え過ぎてしまい、結局何も行動することができないのだ。
就職というのは、キラキラするグループに入るための切符のように感じた。学校では一度地味なグループに入った人間はいつまでもそこから這い出ることはできない。
だが、就職はそうではない。キラキラしたグループに入るためのテストがあるのだ。それが就職試験なんだとつぼみは考えた。
だから、つぼみは、勉強に励み、高校の同級生のいない大学に進学しデザインを学んだ、そしてクールエージェンシーというキラキラして働いている人が沢山いる会社に就職した。
教室で椅子に座り、友達がいないのを隠すためにうつ伏せに眠るふりをしていた自分を、何か探し物をしているといった雰囲気だが、実際には、何も探していないでただカバンをガサゴソするだけで孤独な昼休みの時間を潰していた自分を供養できると思い、クールエージェンシーに入社した時には飛び跳ねて喜んだ。
「そうですね・・・。」現実の世界で母は頷いている。
つぼみは夢と現実の間で霞む目で母を見た。
母は父が亡くなってからずいぶん老けた。これからは自分が働いて母を楽にさせてあげたいと思っていたが。結局親孝行をする前に会社を辞めてしまった。またゼロから頑張って、母を楽させてあげたかった。
「もう会社は辞めさせます。」
母もつぼみの内定を喜んでくれた。いらないと言ったのに、内定が決まった次の日の夜ご飯はすき焼きだった。
その時はまだ生きていた父も嬉しそうにしていた。つぼみが小さかった頃の話を楽しそうに話した。
照れ臭かったが嬉しかった。
そんな母は今ではつぼみがこの会社を辞めることを望んでいた。つぼみはなんとか起きようと、声を出そうとしたが、結局できなかった。最後には現実の夢との間で揺れていた天秤が、夢の方に大きく傾き、つぼみを再び眠りの中へと落として行った。
もう母の声も医師の声も届かない夢の中で、つぼみは車の後部座席にいた。
運転席には父親がいる。高速道路なのだろう、つぼみはすごいスピードで通り過ぎていく街並みを眺めた。
6
何かが倒れる音でつぼみは目を覚ました。母も医者の姿も消えている。つぼみは眠ってしまっていたようだ。さっきは起きて母には会うことができなかったというのに、今はすっきりと目を覚ますことができた。
病室内は真っ暗だ。どうやら夜らしい。枕元に置かれた電子時計を見と3:34と表示されている。
「くそ。」隣からイラつくような声が聞こえた。何やら取り外しているようなカチャカチャという音も聞こえる。
つぼみは何だろうと思い、カーテンを少し開けて見た。すると隣のベッドから老人が立ち上がり、荷物をまとめていた。近くには点滴が倒れている。どうやらつぼみを起こしたのは、この点滴が倒れた時の音らしい。
あっ、ひょっとして脱走。
「あ、あの。」つぼみは声をかけると、老人がぎょっとしてつぼみのことを見た。
「あの、大丈夫ですか?」
「何が、。」老人は少し驚いたようだが、ぶっきらぼうに答えた。その間にも荷物をまとめている。
「それ、」つぼみは老人の傍に倒れている点滴を指差した。
「ああ、大丈夫。」
「あの、脱走、しようと思ってるんですか?」
老人はギロッとつぼみのことを見る。
「止めるんねえで。」
「いや、あの。」
「何や。」老人が動きを止めてつぼみのことを見据えた。
「一緒に来い。」老人は頷いて言った。
「えっ。あ。はい。」
動いて頭が痛くなりはしないかと思ったが、大丈夫そうだった。
眠りについた後では、あのライオンも夢だったのではないかと思えた。でも、どうやらライオンが言ったことは本当のことだったらしい。
「お前さん。ちょっと隣の病室行って誰かのナースコールば押して来い。」老人がつぼみのカーテンを開けて言った。
「えっ??」
「この病院はどう逃げようにもナースステーションの前を通らなくちゃいけねえ。だから、ナースの目を他に向けなきゃいけねえんだ。幸い夜勤のナースは2人しかこのフロアにおらんから、ナールコールが鳴ればそのうち1人は引きつけられるだろう。」
「そ、そうですね。」
「そしたら、早く良行け。」
「あ、はい。」
つぼみはそそくさと隣の病室へ行く。どのカーテンも閉まり静かになっている。つぼみは一番そばにあったカーテンを開けてみると、中の老婆は眠りについている。
なんでこんなことをしているのかという気持ちや、関係ない他人のナースコールを押すことに罪悪感もあったが、それ以上になぜかつぼみの心は「やらなくてはいけない」と感じていた。
つぼみがナースコールを押すと、ピピッという音がして緑色のライトが点滅した。
つぼみは急いで元いた病室に戻る。老人はすでに準備を済ませてドアから廊下をのぞいている。
「うまくやったか。」
「多分。」
つぼみは自分の荷物をまとめた。途中で携帯を見るがまだ圏外のままだ。
母はつぼみが自殺未遂をしただけでもかなり落胆していたというのに、脱走までしたら余計に傷つくかもしれない。
そう思うと、訳のわからないライオン女子高生に言われ、初対面の老人について行くのはおかしなことのように思えた。
ただ、それでもつぼみはなぜかあのライオンの言うことを無視することができなかった。恐怖心があってのことではない、なぜだか、つぼみの心はもうこの老人と行こうと決めていた。
行きたい、行こう、行かなくてはいけない。心の中では色々な感情がつぼみのこの行動を肯定していた。
廊下から小走りの足音が聞こえる。看護婦が隣の部屋にやってきたようだ。
「いくぞ。」老人が小声で囁く。
「「う、うん。」老人が走り出す。後ろからつぼみも慌ててついて行く。
ちらっと隣の病室を見ると、つぼみがナースコールを押したベッドから看護婦の声が聞こえる。
「おい止まれ。」ナースステーションの手前まで来ると老人がつぼみを手で制した。
「背を低くして進むぞ。」
「あの、もうそろそろナースコールのナースも戻って来ちゃいます。」つぼみは心配そうに後ろを向いた。
患者が押したのではないということを知ると、不思議がりながら看護師は戻って来るだろう。そうしたら面倒なことになる。
「急ぐぞ。」老人は背をかがめたまま、ナースステーションの前を通り、階段を降りて行く。つぼみもそれに続く。
なんとかバレていないようで無事に階段を降り、夜間通用口から外に出た。
外に出ると霧雨が降っていたが、気にすることなく老人はぐんぐんと歩いて行く。
「あの、どこに向かうんですか?」つぼみは後ろからついていく。
「金はあるか?」つぼみが質問したはずなのに質問を返された。
「す、少しなら。」母がつぼみの着替えなどを詰め、枕元に置いていてくれたリュックサックの中には着替えの他に携帯電話とサイフが入っている。
「そうか。それならなんとかなるだろう。」
「って、私が払うんですか?」
「ツケといてくれ。これから向かうところに行けばなんとかなるかもしれん。」そういうと急ぐような足取りで再び歩き始めた。
「だから、どこに向かうんですか?あと、お名前はなんていうんですか?」
「ああ、悪かったな。まだ自己紹介もしていなかった。沢村権蔵だ。これから墓参りに行く。お嬢さんも暇なら来い。」権蔵は立ち止まると振り返り、つぼみに言った。
6
つぼみは権蔵とともに東京駅にいた。
やはり都内の病院にいたようで、病院の最寄駅だった用賀から始発が出るのを待って、東京駅に来ていたのだ。
「さて、確かもう北海道まで新幹線で行けたはずだよな。」権蔵が駅の時刻表を見ながら言う。
権蔵は着替えを持っておらず、駅ナカのキオスクで東京土産のティシャツを買っていた。
TOKYOと胸に大きく書かれたその服は日本人が着ると、ちぐはぐな感じがした。だが、それでも入院服のままよりはマシだろう。
「ええ、確か函館までは行けたと思います。」
「なら十分だ。函館まで二枚買ってこい。」
「やっぱり、私がですか。」
「もちろんそうだ。俺は金を大して持って来てねえって言ってるだろう。さっきここまで来る切符だってお前が買っただろうが。ケチケチすんな。」
「はい。まあ返してくれるのならいいんですけど。」つぼみは口を尖らせ、窓口の方へ歩いて行った。
時間は朝6半時。まだ人は疎らだが、もうすでにスーツを着たサラリーマンもチラホラと歩いている。寝起きだからなのか、みんな一様に顔色が悪い。
この中のほとんどの人は通勤している人だが、徹夜明けで、一旦シャワーを浴びるためだけに帰ると言う人もいることをつぼみは経験から知っていた。
少し前、と言うか一昨日までの自分もそういう世界にいたのだから。
周りを見ると、自分が元いた世界とはもうすでに離れてしまっていると胃うことを実感した。
自分は少し前まではこのスーツを着た人々と同じように働き、労働力を会社に提供する代わりに賃金という対価を得ていた。だが、今の自分はそうではない。
たまたまベッドが隣だった老人と墓参りに向かっている。自分が自殺未遂さえしなければ、今もこの人たちと同じように、何かのために働いていたのだ。
チケットは並ばずにすんなり買うことができた。
「8時20分の新函館北斗行きです。」切符の一つを手渡した。
「おう、ありがとうな。向こうに行ったら返すから。」
「あっ、そういえば向こうに住まいがあるんですか?」
「いや、住まいは静岡だ。」
「えっ、じゃあ北海道にはご家族でも?」
「ああ、まあそんなところだ。」権蔵は言いにくそうに、口を新一文字に閉ざしている。
「誰のお墓参りに行くんですか?」
「誰のって、そりゃあ、俺のあれだ。女。」権蔵は小指をちらりとつぼみに見せて笑った。
「あっ、奥さんですか。」
「おう。まあそんなところだ。そんなことよりお嬢ちゃん。お嬢ちゃんはなんで入院なんぞしていたんだ。」
「お風呂で転んで頭を打ってしまって。」つぼみは頭を触った。
そういえば一度激痛が走って以降、一度も痛みは感じていない。病院を抜け出して大丈夫か心配だったが、どうやら大きな問題はなさそうだ。
「嘘つけ。」
「えっ?」
「いいかい。そんなことはしちゃ行けねえ。」権蔵はつぼみの目を見据えて言った。権蔵は自分の左手首を叩いた。
「わかってるぞ。」
「は、はい。」見透かされている。つぼみはただただ頷いた。
「まだ二時間ぐらいあるな。どこかで暇でも潰すから。車内で待ち合わせにしようや。」そう言うと、権蔵はそそくさと改札を抜け、どこかへ行ってしまった。
つぼみは権蔵の後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
あの老人が、いくらお金を払ってくれているからとはいえ、つぼみのことを受け入れ、旅のお供にしているのは腑に落ちなかった。一体なぜ初対面の老人とこんなことになっているのか。つぼみは自分の奇妙な数時間を思わずにはいられなかった。
自分とあの老人との間を歩くスーツ姿の数は数分前よりもかなり増えていた。だんだんと通勤ラッシュに近づいていっているのだろう。
権蔵が見えなくなってからも、自分とはもう関係のない世界に生きる人々をしばらく見ていたが、不意につぼみは自分が空腹だと言うことに気がついた。
そういえばしばらく何も口にしていない。会社から帰り、何も食べないで風呂場で転倒したのだから、もうかなりの時間何も食べていないだろう。
点滴によって外から入れられた栄養分によってのみつぼみの体はなんとか動いていたのだ。
つぼみは改札を抜けるとエキナカにあるキヨスクでパックに入ったおにぎりとグミ、それと水を買った。
会社から解放されたと言うのに、自分が無意識のうちに会社にいる頃に時間がない中で立ち寄ったコンビニで手にしていたものと同じものを選んでいたことに、少し悔しさを感じた。
まだ電車の時間まであるから、東京駅に集まったいろいろなレストランの中から、好きなものを選んで食べることもできる。
権蔵の交通費まで出さなければいけなくなったが、趣味に使う暇なく働いていたつぼみには、年齢のわりには高額な貯金があった。
贅沢して何か食べようか。
しかし、朝早くまだ空いていないお店が多かった上、空いているお店があっても、なんだかピンと来なかった。
結局いつもと同じ、パックに入ったおにぎり、グミ、水という組み合わせだ。
特にすることも、みたいものもないので、駅のホームに行きベンチに座って、おにぎりを頬張った。国産米使用とパッケージに書かれている。
福島産だろうか。放射能の問題があって以降、表では風評被害をなくそうというコピーを打っておきながら、その一方で福島産の農作物を安く買い叩き、安さが売りのチェーン店やこうしたおにぎりに使われているということをつぼみは知っていた。安いものの影には涙を流す人がいる。
つぼみはキラキラしている広告業界に勝手に憧れて、その中身を知って勝手に失望していたとも言える。
世の中から見たらこんなにちっぽけなつぼみが勝手に憧れようが、勝手に失望しようが知ったことではない。そんなことに関係なく世の中はクルクルと回っていく。
つぼみが例え自殺に成功していたとしても世の中は何も変わっていないだろう。関係があるのは母と数人の友人ぐらいで、他の世の中にはなんの影響も与えることなく、ひっそりと死んでいく。
こうしていると、自分の仕事というのは本当に重要なことだったのかわからなくなってくる。一体自分は誰の為に頑張っていたのだろうか。
「国のためじゃない?」
「国?そんな戦争じゃあるまいし。」
「でも、このサラリーマンが何かのために身を粉にするのは戦争の時に国のために身を粉にして働いた構造に似ていると思わない?」
「うーん。いや。」いつの間にか、頭で考えていたことが会話になっていることにつぼみは気がついた。
驚き、隣を見ると、ライオンが座っていた。
「あ、あなた。」
「つぼみ。ありがとう。権蔵さんに付き合ってあげて。」
「ありがとうって。あなたが言ったんでしょう。」
ここまでも何度も思い出したが、なんとなく夢の中の存在のようになっていたライオンがまた現実に現れつぼみは目をパチクリしながら見た。
相変わらずライオンの着ぐるみからは何の表情も伝わってこない。つぼみはライオンの体を見た。先ほどは驚きすぎて見きれなかったところまで見て、誰なのか理解しようとした。
セーラー服の胸元には真っ赤なリボンがある。その下にはふっくらとした胸があるが、特に大きいわけでも小さいわけでもない。半袖の服から伸びる腕はほっそりとしていて白い。短めのスカートから伸びる脚もほっそりとしている。
体だけ見れば世に溢れるアイドルの体つきの平均といったところか。
「まだ、慣れない?」ライオンは驚いて口をアグアグさせているつぼみを見て可笑しそうに笑った。いや、顔はフェルトでできており笑ったかはわからないが、かすかに笑った声が聞こえた気がしたのだ。
「ねえ、なんで私をここに連れてきたの?」
「うん。お願いばかりじゃ可哀想だから、少し説明しなくちゃいけないと思ってね。」
向かえのホームに電車が到着した。まだピークからは程遠いいが、座ることもできないぐらいには混んできたようだ。
「あのね。これからつぼみには〈かもしれない自分〉を助ける旅をしてもらう必要があるの。」
「〈かもしれない自分〉・・・?」
「そう。〈かもしれない自分〉。何も難しい話じゃないよ。考えてみて。例えばあの人。」
ライオンはそう言うと、ちょうど電車から降りてくる一人の男を指差した。
「あの人。年齢は大体つぼみと同じくらい。なんだかものすごく疲れているとは思わない?」
つぼみはその人をじっと見た。確かに前を見ないで下を向いてゆっくりと歩く姿からは、猛烈社員といった雰囲気は感じない。疲れ切って、エネルギーを感じない。
「あの人はもしも性別が違った場合のあなただということはできない?」
「う、うん。まあ。」つぼみはライオンの言いたいことがわかったような、よくわからないような気がした。
確かに仕事に向かうのが辛い時、自分も下を向いてトボトボと歩いていたかもしれない。これから始まる1日を思い、心が荒んでいたかもしれない。
「今度はあの人。」
ライオンは一人の中年女性を指差した。この時間には珍しいタイプの女性で、サラリーマンといった感じではない。身なりのいい服装をしている。どこかに遠出するのだろうか、手は大きめのスーツケースを引きずっている。
「あの人はこれから新幹線で昨日生まれた孫に会いに行くの。」ライオンはなんでも知っているかのようにスラスラと話す。
「あの人はあなたが結婚してあの人ぐらいの年になったあなたかもしれない。つまりあの人も〈かもしれない自分〉なの。」
「はあ。」つぼみは余計にわからなくなった気がした。
「いい。なんで人は障害者を助けると思う?バリアフリーなんてしないでそういう普通よりも劣った存在はどんどん消して言った方が、人口が増加してパンクしそうな地球にとって都合がいいじゃない。」
「なんでって。そ、それは・・。そんなことできないよ。」
「道徳的に考えたらね。でも、障害のある人とか仕事しない人、能力が人より劣る人は、みーーーんなまとめて死んだ方が、社会としては生きやすい世の中にナルトは思わない?」
「・・・でも。」
つぼみは考えてみた。確かに障害の人が減れば社会福祉のための税金も減るだろうし、世話をする人や介護をする人の労働力を他の産業に当てることもできる。でも、やはり道徳的にそれはいけないことだと思った。ただ、「道徳的にいけない」。ということを、どういう言葉にしたら論理だって説明できるのかわからなかった。
つぼみの少ないボキャブラリーでは口を何か言いたげにモゾモゾと動かすだけで精一杯だ。
「〈かもしれない自分〉だからよ。」ライオンが話し始めた。
「自分もいつか、病気や事故で障害をおう〈かもしれない〉、年をとって孤独で辛い〈かもしれない〉、いろんな事情で働けなくなって貧困に陥る〈かもしれない〉。そんな〈かもしれない自分〉を助けるために福祉とかは存在しているの。他人のためなんかじゃない。それで、あなたは今、〈かもしれない自分〉を三人助けなくちゃいけないの。」
「なんで?」つぼみはなんとなくわかってきた。ただ、最後の自分が「三人助けなくちゃいけない」というのだけはわからなかった。
「それは行けばわかるよ。」
ライオンはそういうと立ち上がった。ホームにはちょうどつぼみと権蔵の乗る新幹線が入って来るところだ。
「じゃ、またね。」そういうとライオンは突然走り出し、線路に飛び降りた。
だめ。つぼみは急いで立ち上がったが、ライオンが飛び降りた線路に新幹線が入って来る。
つぼみは思わず目を閉じた。何を考えているのか。ライオンは新幹線に轢かれて自殺しようとした。
しかし、周りからは何も聞こえない。人身事故なら周りから悲鳴や、新幹線の急ブレーキの音でも聞こえてもいいようだ。
恐る恐る目を開けてみると、新幹線は何事もなかったかのように停車位置を守って停車していた。特に駅員がオロオロとしているようでもない。新幹線に早速乗り込む乗客もいる。
ライオンが飛び降りたあたりにもその先にも血はない。人が引かれたような跡は何もなかった。
「お、オバケ、なの?」つぼみはつぶやいた。
お化けなのだろうか。でも、こんな朝から現れることなんかあるのだろうか。それにつぼみがテレビなんかに植え付けられたお化けのイメージからは随分とかけ離れていた。
「おい。」不意に後ろから声をかけられ、つぼみはびっくりして後ろを向いた。
「何、そんな驚いてるんだ?顔面蒼白だぞ。」権蔵が怪訝な顔でつぼみを見ていた。
どうやら自分は顔面蒼白らしい。だが、それもそうだ。病み上がりにあの衝撃は強すぎる。ライオンの存在も、線路に飛び降りたことも、それにそこに死体もなく消えてしまったことも。
「い、いや。なんでも。」つぼみはなんとか答えた。
「これに乗ればいいんだろう。」
「えっ?」つぼみは自分の目の前に、鮮やかな水のような色の電車を見た。ライオンを轢いたはずの電車だ。
その電光掲示板には「新函館北斗」の文字が映し出されている。
「はい。これです。」つぼみと権蔵は新幹線に乗り発車するのを待った。




