妙華
妙華は、このところ、ずっとヤキモキしている。
「全く・・・あいつ・・・見向きもしない。」
妙華が見ているのは、2階の窓。
妙華は、17歳。長安の筆道具店の三人娘の末っ子である。
店は、長安の数ある筆道具店の中でも、老舗の部類に入る。
常に、国内の地方都市や外国から、「見習い」として、十数人の「研修生」を受け入れている。
たいていは、地方の実家や外国の政府から大金を受け取り、「研修」名目で、筆や墨作りの作業をさせる。
しかし、長安研修帰りになれば、それぞれ帰った地で安定した顧客が付くのであるから、お互い様なのである。
たいていの「研修生」は、技術が習得できれば、さっさと帰って行ってしまう。
早く帰って金を稼ぐことの方が重要であるためである。
それでも、「研修生」は、若い男たちが多い。
愛らしい顔と、美しい肢体の妙華に言い寄る者も多い。
ただ、今まで妙華は、そんな地方出身者や外国の男など、全く興味が無かった。
二人の姉は、とっくに良縁を得て、既に子供もいる。
妙華としては、できれば地方出身者や外国の男などではなく、長安に住む男、頭や容姿の優れた男を見つけて、この老舗の筆道具展を存続させなければならないと考えていたのであるが・・・
「おーい!」
妙華は、待ちきれなくなった。
2階の窓に呼びかけて見る。
既に夕焼け空というより薄暗くなっている。
1日の「研修」は、既に終わっている。
「そこの和人!」
「降りてきてよ!」
「私を誰だと思ってるの!」
妙華の声は、次第に大きくなる。
「え?ぼく?」
妙華の声に少し遅れて、2階の窓が開いた。
窓から、いかにも和人風の髪型をした少年が顔を出した。
妙華よりも、少し幼い感じ。15歳か16歳ぐらいか。
あどけない顔ではあるが、美形。
肌もきめが細かく白い。
雰囲気も、どこかしら、おっとりとしている。
「当たり前!この店で和人って、君だけでしょう!」
「いいから、さっさと降りてきなさい!」
妙華の口調は厳しい。
しかし、顔は、真っ赤に染まっている。
和人の少年が階段を降りてくる。
少年の名前は、「史」。姓は「中臣」である。
出身は大和の国である。
遣唐使の大使は、叔父にあたる。
遣唐使船に乗って、この中国、長安にたどり着いた。
正式な遣唐使の一員ではない。
手先が器用なことと、文才を買われて叔父である遣唐使の大使の「特別のはからい」で、遣唐使船に乗った。
幸い、航路も陸路も順調で、すんなりと長安に着き、そのまま老舗の筆道具店の「研修」ということで、住み込んでいる。
「こら!遅いぞ!」
「呼んだら、すぐに降りてきなさい!」
妙華は、相変わらず怒っている。
史は、全く事情が読みこめない。
そもそも、仕事が終わっているし、書物でも読もうかと思っていた矢先である。
「何か用事ですか?」
妙華のケンマクに押されながらも、聞いてみる。
「用事?」
妙華は、用事と聞かれて少し焦る。
用事らしいものは、全くないのである。
ただ、なんとなく史の顔が見たかっただけなのだから。
それでも、呼んでしまったからには、なんとか用事を作らなければならない。
商店街への買い物か、どこか得意先への届け物か、いろいろ考える。
しかし、夜の長安は、物騒である。
不良も多いし、喧嘩が絶えない。
こんな弱々しい和人の史に、そんなオツカイをさせるのは、不安この上ない。
もし、万が一があったら、史の顔を見ることが出来なくなる。
妙華は、必死に用事を考えた。
「あのさ、あなたお茶の入れ方知ってる?うん。知らないだろうから教えてあげようかと思って。」
妙華自身、咄嗟に考えた「用事」である。
しかし、上手な用事であると思った。
これなら、史と安全に長く一緒にいることが出来る。
「えっと・・・」
史は小首をかしげる。
妙華は史の顔をじっと見る。
なんとまあ、可愛い顔だと思ってしまう。
なんとか独占したいと思う。
言い寄ってくる他の研修生なんて、どうでもいい。
ただ、自分に全く関心を示さない史が気になって仕方がない。
「あまり上手ではありません。」
史が、恥ずかしそうに応えた。
「うん、では教えてあげるから、こっちに来なさい。」
妙華は、心が途端にウキウキとする。
ただ、その「お茶の入れ方教室」の結果が、その後妙華にとって悩みの種になることは、この時点では、わからなかった。
妙華は、史と厨房に入った。
もちろん、妙華が史に「お茶の入れ方」を教えるためである。
もっとも、妙華が史を呼びつける理由として、咄嗟に思い浮かんだことではあったが・・
「あのね、中国茶には、とくに決まった飲み方はないけれど、
でも、おいしく飲むためのコツは、やっぱりあるの。
それとね、中国茶の種類ごとに、少しずつ違うの」
妙華は、史を自分の脇に立たせ、講釈を始めた。
史は、黙って聞いている。というより、それ以外は出来ない。
「花の咲く工芸茶とか、薔薇とか菊の花茶、ジャスミン茶、烏龍茶、緑茶、白茶、プアール茶、紅茶いろいろあるけれど、基本は、小さい茶器で、少しずつ熱湯で淹れて飲むと美味しい。それで、煎数を重ねて、味や香りの変化を楽しむの。」妙華
史は、茶の種類の多さに驚きながら、メモを取り必死に妙華の講釈を聞く。
「手始めに、工芸茶なんだけれど、高さのあるガラスのポットをご用意して、ポットに沸騰したお湯を入れ、茶器を温める。茶器を温めるとお花が開きやすくなるからね。
茶器が温まったらお湯を捨てる。
次に、温った茶器の中に工芸茶を一粒入れて、上から熱湯をゆっくり注ぐ。お湯の温度が低いとお花が開きにくくなるので、一煎目は熱湯が基本。
お湯をいれたら蓋をして、ゆっくりと茶葉がひらく開くまで待つ。
1分~3分でお花がきれいに開く。お花が開いたら飲むことが出来るの。」
妙華の講釈は、丁寧である。
実際に工芸茶をいれて、花が咲いた。
史にとっては、初めて飲むお茶である。
母国では、こんなお茶は見たこともない。
そもそも、お茶を飲む習慣すらない。
その他の茶についても、妙華の講義が続けられた。
およそ、1週間ぐらいは、仕事の後、妙華について、お茶の入れ方を習うことになった。
妙華にとっては、史の気を引く手段であった。
そして、その時点の史にとっては、中国茶を学んでいる程度ではあった。
史は、もともと手先が器用であり、味覚も繊細なものがあり、お茶の種類やお茶の入れ方についての習得も早かった。ほぼ2週間で、妙華を満足させる程度の技術となった。
筆道具の主人夫妻、すなわち妙華の両親も、このことを喜び、来客があると必ず史にお茶をいれさせた。
和人の美形の少年が、上手にお茶をいれるということで、話題となり、結果として来店客も増えた。
あまりにも増えすぎたので、筆道具店の一部を改修し、茶店にした。そして、ついには、筆道具の大口納入先の役所や、寺院、富豪から配達を頼まれる際、史の同伴指名があり、お茶をいれさせる等も頻繁である。
ただ、そこまでは妙華も、しかたないと思った。
自分が教えたのだから、誇らしい気持ちもあった。
ただ、再び妙華をヤキモキさせる事態が発生したのである。
今日の史の出向く先は、良家の娘が集まる女学院である。
筆道具も運ぶが、女学院の娘たちの目的は、史。
史が店でお茶を入れはじめてから、女学生たちの来店が増え、筆道具の売り上げも増え、店としても女学院の意向は断れない。
妙華は、何とかして自分も同行させるよう両親に頼み込んだが、「先方の意向」ということで、認められない。
結局ヤキモキしながら、史を見送り、妙華にとって耐えられない程の長い史が帰るまでの待ち時間を味わうことになった。
「ただいま、戻りました。」
相変わらずおっとりした顔で史が帰ってきたのは、午後4時。
出かけたのが、午前10時だからほぼ6時間程度。
長い待ち時間を過ごした妙華は、弾かれたように出迎えに行く。
「うわっ・・・」
史を出迎えた妙華は声をあげた。
「何よ!それ!」
妙華の目に飛び込んできたのは、女学院専用の車と、車に積み込まれた色鮮やかな大量の花。
そして史の鞄からはみ出るほどの、手紙である。
「車で送ってもらって、花をもらって、そんなたくさんの手紙をもらったの?」
妙華はあきれてしまう。
「うん。」
史は素直に応える。
「よくわからないけれど、女学院に筆道具納めて、お茶を入れただけで、いろいろもらった。」
「あのね、花をもらって、手紙をもらったら、お返ししなければならないの。」妙華は、ヤキモキとイライラが同居している。
「そういっても、たくさんだから、すぐには無理。」
史は、少し困った顔。
「少しずつ返すしかないかなあ」
「それも誰からって大変なのよ。」
妙華の応えも本来の自分の心から離れてしまっている。
本当は、自分にだけ振り向いてほしいのに、トンデモナイ事態である。
「手伝ってもらうと助かるんだけど」
史の次の言葉は、本当にマズかった。
史は全く妙華の心を理解していない。
妙華のイライラは頂点に達した。
「パシッ!」
妙華の右手が史の左頬を襲った。
「え?」
あっけにとられる史。
妙華に嫌われたのかと心配になる。
しかし、次の瞬間の妙華の行動は、史にとって全くの予想外でった。
妙華の顔は真っ赤になる。
ゆっくりと史の背中に腕を回した。
史の顔を真っ直ぐに見つめる。
史は眼をそらすことが出来ない。
次の瞬間、妙華の唇が史の唇をおおう。
史にとっては、初めての体験。
何が何だかよくわからない。
トンデモナイ状態であることは理解した。
史の心臓はバクバクと鳴っている。
妙華は必死だった。
「とにかく、この私が最初。」
「他の娘には絶対あげない。」
「この史は私のものにしなければ」
腕の力も強くなるし、史の唇を吸うのも強くなる。
しばらく・・ふたりにとって、ドキドキの時間は数分だった。
「史・・」
妙華はゆっくりと唇を離した。
その顔は、ますます紅い。
はじめて史を抱きしめたことと、史と唇を合わせたこと・・
それが妙華の心を昂ぶらせる。
妙華にとって、この店に来てからずっと、史は、可愛くて仕方がない。
そもそも、一目ぼれである。
史の仕事の間中でも、ずっと一緒にいたい。
史にはずっとシグナルを贈ってきた。
少しはなびくとか、気が付くと思っていたが、史はそんな素振りはまったくない。
それどころか、思いつきで教えた「お茶の入れ方」で、裕福な女学生たちのアイドル化してしまった。
「ウカウカしていると、とられちゃう。」
「こうするしかなかった。」
妙華は、ちょっとした征服感と満足感をもって史を見つめた。
「好きだよ、史」
妙華にとって、これが殺し文句であると確信した。
自信タップリである。
しかし・・・
「え?」
妙華は史の表情の変化に驚く。
「どうして?」
妙華は理由が、わからない。
史は、その顔を両手でおおい、激しく泣き出している。
「史!どうしたの?」
妙華は、あまりの泣き方の激しさに不安を覚える。
史は崩れ落ちそうなるほど、身体を震わせて泣いている。
妙華が支えようとする手も振り払う。
ついには、2階にある自分の部屋にかけのぼり、鍵をかけてしまった。
妙華は、史の部屋のドアをたたいて呼びかけるが聞こえてくるのは泣き声だけである。
妙華はどうしたらいいのかわからない。
その晩は、史のことはあきらめて自分の部屋で眠った。
「明日には、キゲンもなおるかな。ちょっと強引だったからかな。」そんな考えであった。
翌朝、史は泣きはらした顔で仕事場に顔を見せた。
しかし、朝食を含めて、食事を一切口にしない。
筆道具店の夫人がいくら勧めても、断る。
仕事だけは、いつもの丁寧さでやりおえて、そのまま自分の部屋に戻る。
もともと口数が少ない史であるが、この日口にしたのは、出された食事に対して「食べません」の言葉が3回だけであった。
妙華とは眼を合わせようとはしない。
妙華が近くによると、避けるような動きをする。
次の日も、また次の日も同じ状態である。
史は、ますます青白くなっている。
足元もふらついているが、食事をとろうとしない。
言葉も発しなくなった。
馴染みの客にお茶をいれることは丁寧にするが、会話はしない。女学生が店に寄っても頭を下げる程度で、笑顔などは全くない。
そんな日が3日ほど続いた。
そしてついに、史は仕事場で倒れてしまった。
かなり熱も高い。
2階の史の部屋に寝かされることになった。
医師も来て診察をするが、単なる栄養不足が原因である。
解決するには、食事を摂らせるしか方法はない。
しかし、史は一切食事を口にしようとはしない。
筆道具店の主人夫妻、妙華もまったくお手上げである。
そして困ったことに、「和人の史が寝込んでいる」という評判が街に広がり始めたのである。
「あの可愛らしい和人の史が寝込んだ原因は、栄養不足で、筆道具店での食事を食べないらしい。」
「それほど筆道具店が史に与える食事の内容が悪いのか」
「あれほど、史で儲けながら、なんという店だ。」
「それでは、史が可哀そうだ。」
史のもとには、女学生たちをはじめとして、様々な客からお見舞いの「食べ物」が届けられるようになった。
しかし、それでも史は食べようとはしない。
そんな状態も1週間になった。
青白い顔は、生気を失い、手足を動かすことも、ほとんどない。
筆道具店の主人は、ついに観念して史の叔父にあたる遣唐使の大使を店に呼ぶことにした。
信頼されて史を預かった店としては、恥ずかしいことこの上ない。しかし、今日明日の命であれば、そうするしかないとい判断したのである。
遣唐使の大使は、すぐにやってきた。
そして、息も絶え絶えな史を見て、泣き崩れてしまう。
しばらくして、大使が筆道具店の主人夫妻に尋ねる。
しかし、主人夫妻は思い当たることが無いとしか答えようがない。
ただ、隣に座る妙華だけが、表情が変わった。
大使は妙華を別室に呼び事情を聴く。
妙華も、この状態では素直に話した。
大使は、妙華の話に深いため息をつく。
大使の顔は苦悩に満ちている。
何か深い理由があることは初対面の妙華にも理解できた。
「実は・・・」
大使は不安げな妙華の顔を見つめながら語りだす。
「史は、私の甥。
「和国の大和という王城のある都の出身なのです。」
「小さなころから手先は器用でした。」
「ただ、非常に繊細、そう心も身体も・・」
「そんな史の性質を心配して、この唐の国に来ることもためらわれたのですが。」
「史が珍しいことに、どうしても先進の国を見たいと言いだし、彼を鍛える意味もあって、連れてきたのです。」
「しかし、なかなか出発には難儀しました。」
「史が遣唐使の一員になるとわかってからですが・・
史の幼馴染の娘、これも私の一族で上司の娘でありますが、雅と言う名で・・」
「史とは将来を約束された仲なのですが。」
大使の口元がぎゅっと引き締まる。
「毎日、史に逢いにくるようになり、しかも唐行きを反対するのです。もちろん、私の所にも来ましたが。」
「しかし、遣唐使の人選は帝にもお目通しを願い、今更変えられるわけではない。」
「史も出来れば雅も連れて行って欲しいとも言いましたが、それはかなわぬこと。遣唐使の船旅は命がけのこと。」
「雅は異国の地での史の健康や、誰か他の女にとられてしまうことへの不安もあったのでしょう。」
「そんな、すったもんだが続き・・」
「結局史は、唐では筆道具制作の技術習得に専念すること、健康に留意すること・・他の女と関係を持たないことを固く約束して、やっとのことで雅を説得して・・」
大使はそう言って、また深いため息をついた。
「・・・でも、ちょっと抱きしめて、唇をつけただけ・・」
妙華は、大使の話は理解できるが、史がこれほどのひどい状態になるとは、考えられない。
「まあ・・それが史の潔癖さ、若さでもあるのですが・・」
大使は益々苦しい顔になる。
「私も史に伝えていないことがありましてね・・」
「え?」
今度は妙華が大使の顔を見つめている。
大使は困り切ったような顔で語りだした。
「こんな状態の史では、ますます告げることができないのですが。」
「史が唯一心に留めて大切に思っている雅は・・・」
「既に、この世の人ではないのです。」
「え?」
妙華も、どう対応していいのか、わからない。
「大和の国を襲った流行病で、半年前、あっけなく命を落としたと・・」
「ただ、そのことを知ったのは、和国と唐の国との郵便事情で、2週間ほど前ですが・・・」
大使の顔は苦渋に満ちている。
妙華も、ことの深刻さに声が出ない。
しばらくは、二人とも無言である。
やっと絞り出すような声で妙華がつぶやく。
「それじゃ、史が可哀そうすぎる。」
妙華は涙ぐむ。
「この国で、こんな状態になって・・」
「和国に戻っても・・・」
「可哀そうだよ・・」
「あんなにやさしくて、かわいい子なのに・・」
妙華は、激しく泣き出した。
しばらく泣いていた。
妙華の眼は真っ赤に腫れている。
「大使様・・」
涙声であるが、声に張りが戻った。
「史を、回復させます。」
「史のこと、もっと教えてください。」
大使はしばらく考える。
今の状態では、史を動かすことも危険である。
史の命さえ半分以上、あきらめている。
しかし、もしかすると・・万が一の奇跡があるかもしれない。
妙華の眼の奥の光は、かなり強い。
期待はしないが、試してみるのもと思った。
「わかりました。」
「史について、もっと詳しく・・」
大使は、妙華の申し出を受けた。
そして、その瞬間から新たな史と妙華の物語が始まったのである。
妙華の介護は、まさに献身的と言う以外、表現がない。
史に少しずつ水分を摂らせることから始めた。
最初は、ほとんど反応がなかった。
それでも、様々な果物を搾り砂糖を加え、水で刺激が少ないように薄めたものを与えたところ、史の唇が反応した。
それから、本当に慎重に量を増やし、間隔をあけて史に与えた。
2日目には、茶碗半分ぐらいの量になった。
史の眼はずっと閉じていたが、だんだんと開くようになったが、まだすぐに閉じてしまう。
2日目の午後から、妙華は米を柔らかく煮て、少し塩気を効かせたお粥を、与えて見た。
史は、何も問題もなく、お粥を飲みこんだ。
また、時間を空け、水分とお粥を慎重に史に与えた。
少しずつ青白かった史の顔に赤みが戻ってきた。
「史」
妙華は出来る限りやさしい声をかける。
「ごめんね、いきなりあんなことしちゃって。」
少し涙声である。
「でもね、ここで倒れちゃだめよ。」
「待っている人、いるんでしょ。」
「大使から聞いたよ。雅ちゃんのこと。」
「だから、元気になって、和国に帰らなきゃ。」
嘘を言うのも、この状態では、仕方がないと思った。
自分でも悲しかったが、他に言いようがない。
「ごめん・・意地を張ってしまって・・妙華、ありがとう・・」
弱々しいが、史が口を開いた。
史も泣いている。
「うん、後は私に任せて。」
「待っている雅ちゃんのためにも。」
妙華は史の髪をやさしくなでた。
「ありがとう、妙華」
史は泣き出してしまった。
異国に来て、ずっとこらえていたものがあるのかもしれない。その晩は妙華は史の髪をずっと撫で続けていた。
史は、ほぼ1週間で回復した。
その後は、以前と同じように筆道具店で働き、お茶の出前も行っている。
妙華は史に対して過激な行動はとらないものの、しっかりとサポートをすることによって、自分の心を満足させる。
何よりも、史の「ありがとう」という笑顔が大好きである。
ずっと、その笑顔を見ていたいと思う。
史が遣唐使の帰りの便に入り、遠い和国に戻ってしまうまでの期間ではあるが・・
3か月後、史にとっては、ようやくの吉報「和国に帰る日」が大使から連絡があった。
2週間後とのことである。
妙華にとっては、しかたないことではあるが、情けないほど寂しい日々の始まりの宣告である。
そうとはいっても、荷造りに忙しい史を、あまり邪魔するわけにはいかない。
今まで通りの生活を送るしかない。
史に本当のことを言うのも、とても出来ない。
雅が既にこの世の人ではないなど・・
史がまた、どうなってしまうのかわからない。
もう、2度と史のあんな姿は見たくない。
そう思って、妙華は眠れない夜が続いた。
史の出発の前夜も、特に史に対して想いを伝えることは難しい。
「明日、帰ってしまう・・」
「無事に着いたところで、史は・・・雅の死を知る。」
「そしたら、史は・・・」
何度も何度も同じことを考えてしまう。
「でも、私はそれでいいの?」
妙華は、起き上がり、星空を眺め続けている。
妙華にとって史は「どんな状態でも他の女に渡したくない」のである。
たとえ、それが史の許嫁の雅であっても・・
まして、その雅がこの世の人ではないのだから、遠慮することもない。
まだ若い史が一生死んだ雅を想い続けて独身で終える等、あり得ないと思う。
でも、史が和国にいる限り別の女に取られてしまうことになり、とても受け入れられない。
史が、雅の死に絶望して、命を絶つことも心配である。
ちょっと抱きしめて唇を奪っただけで、あれほどの反応をする、超繊細な史なのだ。
決してあり得ないことではない。
「本当の想いを打ち明けても、雅の死を知らない史は、受け入れることもないし」
「この筆道具の店も、両親の世話も・・」
現状では、妙華自身が身動きが出来ないのである。
結局、一睡もできず、史が長安を出発する朝となってしまった。
出発に際し、数多くの女学生が集まってきた。
史は、囲まれてしまう。
とても妙華が近寄れる状態ではない。
結局、また大量の花や手紙、贈り物を積んだ車の前で、史は筆道具の主人夫妻に礼は丁重に礼を言い何かを渡した。妙華は、あまりの女子学生の多さに近寄ることも出来なかった。
そして、ついに長安を去って行ってしまった。
妙華は、ずっと見送っていた。
「もう、二度と会えないのかな」
そう思うと涙が止まらなくなった。
見かねた母が妙華を抱きしめる。
妙華は母の胸で泣き続けるだけである。
「そうなの・・好きだったの・・」
妙華はますます大声で泣き続ける。
「それほど好きなの?」
「うん」
妙華は母の顔を見る。
「大丈夫よ、貴方の心、きっと彼に通じています。」
母は、やさしく妙華の背中を撫でる。
「そんなことないよ。もういなくなっちゃったし。」
妙華は首を横に振る。
「そうかな・・・」
「ちょっと私の部屋においで・・」
母は、妙華の手を引いて、部屋に誘う。
「今日渡しきれなかったって。史も女学生たちの輪の中で身動きできなかったし。」
母は、机の中から一通の手紙を取り出した。
「まあ、変なところでカタブツな史。さっさと直接渡すべきなのにね。」
手紙の宛先は、「妙華」
差出人は当然「史」である。
妙華の手が震える。
「直接渡してくれれば良かったのに」
ブツブツと何回も繰りかえす。
筆道具店の娘としては、はなはだ不器用に手紙を開ける。
「妙華 本当にありがとう。
妙華が一生懸命介抱してくれなかったら、今の自分の命はない。
これから、遣唐使の帰国なので、和国に戻ることになります。
大使から、許嫁の雅のこと、聞きました。
とても、哀しいこと。
しかし、お墓に花を供えないといけない。
そうしないと、気持ちが前に進まない。
妙華 今度は、妙華のために、お茶をいれたいと思っています。
妙華のこと 大好です 史」
読み終えた妙華の顔は、真っ赤である。
「あいつめ・・」
今頃、大好きなんて言われても、まったく・・・
お世辞が上手になったのかと思う。
「あのね、史はお世辞は、下手よ。」
母は妙華の心を見透かしている。
「史は、またお前と逢いたいと思っているの。」
「どんな形になるのかわからないけれどね。」
母は、妙華の瞳を見つめる。
「・・・そうかな・・」
妙華は母の気持ちが読み取れない。
「このお店のことなら、気にしないでいいの」
「2番目の姉さんが、継ぐの」
「既に手続きを済ませたの」
母は、キョトンとする妙華の身体を抱いた。
「サッサと追っかけるなりしたらどう?」
耳元でささやく。
「どうせなら一緒に墓参りするぐらいの強い気持ちを持って。」
「史のお世話を一生するって言ってきなさい。」
母は妙華の背中を撫でた。
「・・うん・・・」
妙華は母の意外な言葉に驚く。
しかし、「今がその時」と感じた。
「行きます。」
今度は、妙華が母を強く抱きしめる。
「うん、それでいい。」
母も涙顔になる。
「ほら、店の前の車に乗って!
貴方の荷物も全部積んである。とっくに準備してあったの。」
「え?」妙華
「グズグズしない!」
母に背中を押され、否応なしに車に乗り込む。
乗り込むなり、車は走りだしてしまう。
「わっ・・・お母さん・・」
何度も振り返る妙華。
いくらなんでも急すぎる。
寂しさもあるし、涙があふれてくる。
次の瞬間懐かしい声が聞こえた。
「妙華。」
背中に手が触れた。
「え?」
妙華は振り向く。
「史!」
史である。
既にいなくなったと思ったのに。
「大使の計らいで、車を調達したの」
「一緒に和国に行こう。」
「大好きだよ、妙華」
今度は史が妙華を抱きしめる。
「わっ・・・・」
妙華は史の胸に顔を埋め泣きじゃくる。
その後、史と妙華を含む遣唐使の一行は無事に、和国の大和に着いた。
史と妙華は雅の墓参りを済ませた後、和国の形式に従って正式に結婚をした。
和国の都で、筆道具店を開き、先端の技術を広げた。
その功績に対して、史と妙華には、帝から特別に官位まで授けられた。
しかし、二人はあくまでも、筆道具店の仕事を行い、折に触れて大和と長安を行き来した。
当然、長安でも結婚式を挙げた。
幸い子供にも恵まれ、二人の子供の一人が、長安の店の後を継いだ。
妙華の両親が喜んだのはこの上ない。
本当に仲睦まじく暮らした後、二人はほぼ同時に亡くなった。
そして、その遺骨は、大和と長安に眠っている。
(完)