黄泉醜女(ヨミノシコメ)
ふわふわと漂う様な感覚にゆっくりと重い瞼をあけると、目が覚めた風花の視界に飛び込んできたのは巨大な丸岩が鎮座し、朱に塗られた鳥居と岩に掛けられた太い注連縄だった。
(ここ……どこ……?)
着替えた覚えなどないにも関わらず、真っ白な美しい着物の上に、胸下で切り替えた真紅の袴のような物を身に着けている。
袴とは言ったが薄い柔らかな紗を幾重にも重ねたマキシスカートのような衣装は美しく、カッチリした和装よりも麗美な中国の漢服、襦裙に近い。
風花は大きな岩を平らに削り取ったような滑らかな台に寝かせられていたようだ。
両手と両足は縄で固定され動かすことが難しい。
「目が覚めちゃったんだ」
聞こえてきた声に視線を走らせると七歳位の男児がゆっくりと風花の元へと近づいてくる。
「貴方はだれ?」
銀色の艶かな神様は肩口で切り揃えられ、夜空のような深い濃紺の着物を纏った男とも女とも取れる中性的な容姿は神々しく整っている。
「月讀命」
「ここはどこ?」
「黄泉比良坂」
幼児はそれだけ答えると、巨大な丸岩の前に立つ。
「恵比寿!」
「うるせぇな、んなデカイ声で喚かなくても聞こえてるっつうの」
月讀命の声に耳に人差し指を突っ込んだ十二歳位の男児が巨大な丸岩の影から姿を現した。
釣り竿を肩に担ぎ、細身の身体を平安貴族が着ていたような狩衣を身に着けている。
「約束通り生贄の器を連れてきた、姉様の魂を黄泉の国から現世へと連れ戻してくれ」
必死に告げる月讀命に、恵比寿は困ったような顔をしてみせた。
「天照大御神は黄泉国の竈で炊いた食物を食べる『黄泉戸喫』をしちまった。すでに現世には戻れない」
「嘘だ! 恵比寿は自分の力で姉様を連れ戻すと言った!」
「ガタガタ言うな、確かに死者の魂を黄泉の国から釣り上げることは容易い、だがな漁場はその丸岩で塞がれてんだ、俺には開けられねぇ」
釣り竿で丸岩を軽く叩くと恵比寿は忌まわしげに岩を睨みつけた。
「……わかった」
月讀命は丸岩に手を触れる。
「僕が開けるよ」
「だめっ!」
月讀命がそう告げた途端、恵比寿がニヤリと笑ったのを見て風花は思わず声を上げた。
「月讀命君、恵比寿君はなにか企んでる、軽率な事はっ、うぐっ!?」
「たかだか人間の贄ごときが神に偉そうな口を聞いてんじゃねぇよ」
いつの間に移動したのか恵比寿は風花の喉を締め付けるように岩の寝台へと抑え付けた。
(くっ、くる……しい)
あまりの苦しさに生理的な涙が滲む。
「黙って見ていろ……わかったな」
ゆっくりと外された手に激しく咳き込み文句を言おうとした風花は、カッと喉元が熱くなり声が出なかった。
月讀命が丸岩に掛けられた大注連縄に手をかけると、バシッと激しい音とともに大注連縄が僅かに発光し始めた。
その光は鋭い刃となり丸岩を暴くものを拒み牙を向く。
「くそっ、さすが姉様の結界だ……」
白い皮膚に赤い線となって傷がつき、血が流れても月讀命は手を引くことなく大注連縄を解いていく。
「ぐっ、うゎぁぁあ」
月讀命が力を込めて引っ張った大注連縄が丸岩から剥がれると、周囲の温度が急激に下がり出す。
「動けっ!」
丸岩を押すとゴトリと鈍く重い音が響き真っ黒な穴が現れた。
全てを飲み込む漆黒の闇にゾクリと風花の背筋が泡立ち恐怖に身体がガタガタと震える。
(なっ、なにか良くないものが来る)
「ありがとう月讀命」
満身創痍の月讀命は無理に神力を使った影響でまた若返ってしまっている。
フラフラと地面に座り込んだ青白い顔の月讀命を恵比寿は口元を歪めて見下した。
「ふっ、ふははははっ! やったぞっ、ついに……ついに黄泉比良坂が開いたっ」
動けずにいる月讀命を蹴り飛ばした恵比寿は、痛みにのたうち回る月讀命を踏みつけ、黄泉比良坂に近づくと持っていた釣り竿を振り、糸を投げ入れる。
「え……えび、す早く姉様っ……天照大御神を」
「天照大御神が黄泉に居るわけねぇだろバァーカ」
「えっ……」
「この黄泉比良坂を何者も出入りできぬように丸岩で封じ込めたのは天照大御神だ、神である七福神の力ですら暴く事ができない強力な封印」
ゆっくりと釣り竿の糸を手繰り寄せながら忌々しげに舌打ちをした。
「姉恋しさにお前は実に良く踊ってくれたよ」
「騙したのか!?」
キラキラと光る糸が巻かれる度にズルリズルリと地を這いずる音が黄泉比良坂から近づいてくる。
「あぁ、俺の欲しいものは伊邪那美命が黄泉に持っていっちまったからな……おいで……おいで」
黄泉比良坂から黒い禍々しい気を放つ塊が金色の糸に巻きつかれ転がり出た。
「これで……これで俺は半身を取り戻せる」
ゆっくりと塊に手を伸ばし愛しげに抱き上げた。
「水蛭子」
腐敗して蛆が湧き悪臭を放つ遺体となった赤子は閉じていた目を見開くと直ぐさま恵比寿の首に噛み付き、食い破る。
「なっ、なん……で?」
恵比寿は何が起きたのかわからない様子で噛みちぎられた首を押さえる。
恵比寿の身体から溢れ出た神力を取り込み急激に成長していく赤子に戦慄を覚える。
(怖い……明良君助けて……)
水蛭子と揉み合う恵比寿をあざ笑うように黄泉比良坂からは次々と亡者が這い出てきている。
唯一対抗できるだろう月讀命は未だショックから立ち上がれていないのか、地面に泣き伏している。
「風花!」
名を呼ばれハッと振り返れば、会いたかった明良が風花の元へと掛けてくる。
(助かった……)
「お主の身体は使い勝手が良さそうだのう」
黄泉比良坂から現れたのは長い黒髪にぼろ布を纏い顔が爛れた死臭を放つ鬼女が風花の頬を撫でた。
「ひっ!?」
「妾は黄泉醜女愛する者に裏切られた不遇の女達の憎悪私怨の作り出した鬼、お主の身体は妾が貰う」
「いやぁぁぁ!」




