いきしろし
三回忌があるので帰ってきなさいと、母親から連絡があったのは、丁度一週間程前の事であった。無理はしなくていいけれど、という付け加えはあったものの、さしたる用事も入っていない休日で、行かない理由は特に見当たらなかった。電車とバスで二時間、実家まで帰るのはそれほど大仕事でもない故、大学に入ってから、三か月に一、二回の頻度で帰省をしていた。実家からさらに車を三時間半走らせた離島に、二年前まで俺の祖母は住んでいた。
空は白に近い青色で、光って見えるほどに澄んでいる。車内は、小さめのボリュームで父親の趣味である八十年代のアイドルの曲が控えめに流れているもののいつものように静かで、ハンドルを握る父親と助手席に座る母親が時々いくつかの言葉を交わす程度だ。俺の隣に座る生意気な弟は耳にイヤホンを突っ込んで何やら音楽を聴いているらしい。
流れていく風景は徐々に都会の街並みから離れてゆき、緑が急速に増えていく。聳え立つビル群は消え失せ、すれ違う車両もその頻度を落としていく。そして唐突に海沿いに出た。中学生までは、長期休暇に入ると家族四人でこの道を辿り祖父母の家を訪ねていた。この風景に対して懐かしさを感じること自体が、既にいくらかの悲しさを含んでいた。変わりゆく風景は段々と滑らかさを失っていく。俺は特に何をするでもなくただ窓の外を眺めているだけであった。
午前中のうちに祖母の家に到着すると親戚が幾人か集まっており、俺は一通り挨拶を済ませてから、まだ時間があることを確認して家の外へ出た。
家は丁度島の中腹に位置しており、海に出るまでは少し歩かなければならない。先程四人で歩いてきた細く曲がりくねった道をまた逆戻りしていく。どうやら弟も俺についてくるようにして家を出たらしい。数メートルおいて足音がついてくる。
この島は全体が古臭いにおいで覆われている。土のにおいでも、木のにおいでも、人のにおいでも、食べ物のにおいでもない。家のにおいであり、生活のにおいである。このにおいは、どこか懐かしく、どこか受け入れがたいものがあった。大袈裟なくらいに傾いた塀や黒く汚れきった薄い木の壁、ヒビの入ったコンクリート、どこかから聞こえてくるテレビの音声、錆び付いた消火栓の看板、細い道を無理矢理走っていく軽トラック。その生活のどれもが、俺にとってはひどく停滞したものであった。
吹いてくる風は依然冷たく、吐く息は白い。春なんて一生来ない気がする。
五分もかからずに海は見えてきた。停泊している漁船は、どの程度今でも使用されているのか、疑問ではあるものの誰かに尋ねたことはない。俺が見る時は、いつでも全ての船が揃っているように見えていた。
海の音だけが響いている。
ふと振り返ってみると弟はまたイヤホンをし、壊れかけたベンチに座って海よりももっと向こう側を眺めているようであった。別に仲が悪いわけではない。普通に会話もするし、俺が実家に帰れば二人してテレビゲームで遊ぶことだって、珍しいことではない。俺はまた海の方へ近づくように歩を進めた。コンクリートの縁ぎりぎりまで進む。あと一歩でも足を踏み出せば凍てつくような水の中で海水浴をすることになる。俺の瞳はただじっと目の前の風景を見詰めていた。
二年前も同じことをした、と、ふと記憶が蘇る。一周忌は丁度俺の受験シーズンと被っていたが、二年前の葬式には勿論参列したし、その時の事はよく覚えている。火葬中、俺は今と同じように冷たく暗い海を眺めていた。空は白く空気は透明に近い。ただ海は暗闇であった。海は空を落とし込んでいる。その二つは決して異質なものなどではなく、むしろ限界まで似通っている。この光景は二年前とちっとも変わっていない。
身長は一センチ伸びた。髪の毛の色は明るく染められて、頭は少しだけ賢くなった。俺は大学に入学し、弟は中学生になった。祖父は元々一日のほとんどをベッドの上で過ごすような生活を送っていたこともあり、祖母の死後、島の外の老人ホームで毎日を生きている。あの家は暫くの間主を失くしている。俺たちは結局は島の外へ帰っていくのだ。あの家には住めない。
俺にはまだよく分からなかった。分からないことが多すぎた。この海の暗さも、空の明るさも、十分には理解出来なかった。
祖母が亡くなったと聞いた時、あまりうまく泣くことができなかった。祖母は、特別優しいわけでも温かいわけでも、厳しいわけでも冷たいわけでもなかった。それでも何故か俺にとっては強烈で、特別だった。他とは比べようのない、唯一無二の存在感を持っていた。だからこそ上手に悲しめない自分が意外だった。もうあの声で俺の名前を呼ぶことも、帰り際にしわしわな両手で固い握手をすることも、あの薄味の豚汁を飲むことも、もう一生出来ないのに、悲しみは胸の中でいつまでもわだかまっている。その悲しみはふと意識した時、思い出したように気管を狭くさせた。
ほう、と一つ息をつくと白い息は揺らめいて空気の中に消えていった。
そろそろ時間であろうと踵を返すと、弟は既にベンチからは立ち上がっており、俺が振り返るのを待っていたようであった。また再び二人で細い道へ入って行く。今度は、ほとんど二人並んで歩いていた。
***
正座なんてそうする機会もないので足はずいぶんくたびれたけれど、法要は想像していたよりずっと早くに終了した。これから場所を移して会食を行うらしい。俺達は後片づけを手伝ってから家を出ることになった。到着した時は見当たらなかった従妹たちは、俺が散歩から帰って来た時には揃っていたが、その後すぐに法要が開始されたためまともに会話を交わしていない。暫く見ないうちに彼等もすっかり大人びてしまっていた。
俺達も食事会場の方へ移動しようということになり、残っていた人々は皆家の外に出る。ふと庭の植物が目に入る。祖母は園芸に凝っていた。無駄に広々とした庭には多くの植物が未だに残っている。草花に詳しいわけでも特に鑑賞する趣味があるわけでもないけれど、何故かスイートピーを大事そうに育てる祖母の姿は強く印象に残っていた。仄かに透き通るようなピンク色は不思議とその場所に馴染んでいた。現在花をつけている植物は見当たらない。春が来たらまた咲くのだろうか。それとももう咲くことはないのだろうか。
「ねえ」
突然後ろから肩を叩かれた。振り返ると伯母さんが立っていた。彼女は祖母の娘であり、きょうだいの中で最も祖母の家の近く――といっても車で一時間はかかるのだが――に住んでいたため、比較的頻繁に祖母に会いに来ていたようであった。
「ちょっとご飯の前にいい?」
さして食欲があるわけでもなく、断る理由はなかった。短くハイと答える。
「今日は遠い所から忙しいだろうにありがとうね」
「いえ」
真っ黒なワンピースに身を包んだ伯母は久しく会っていなかったとはいえ、異常なくらいに老け込んでいるように見えた。微笑みは柔らかく、それでもどこか壊れている。
「あんまり引き留めても悪いから手短に言うけれど、おばあちゃんがアンタの大学合格祝いに時計を買っていたんだよ」
そう言って差し出された手のひらサイズの箱は俺には勿体ないくらい立派なものであった。しかし、祖母が亡くなったとき俺はまだ高校二年生であり、受験勉強さえ始めていなかった時分である。しかも現在は大学生活も一年を迎えようとしている。何故今なのだろうかと考えたが、理由なんていくらでも思い付くし、考えるだけ無駄であろうと思い素直に受け取る。想像していたよりもずっと重量感のあるそれは、ふと何かを連想させた。
それじゃあご飯に行こう、と言って去って行った伯母であったが、俺はなかなか動き出すことが出来ないでいた。やっとの思いで歩き出したその足が向かうのは、食事会場などではなく、またしても海であった。ずしりと重いその箱を持ったまま再びその場所まで歩いた。
辿り着いたその光景は、先ほどよりももっと鮮明で、透明で、近づいて見えた。喧騒から最も遠いところにある。潮騒は耳の奥で音を立て、寄せてくる波は引き返し、次来る波は最早別物である。吐く息は一つ、また一つと空へ吸い込まれて行く。痛烈なデジャヴを覚えた。不可解な自らの心境がうまく噛み砕けないことに、俺は眉をひそめた。
明るく澄んだ高い空も、暗澹とした深い海も、どちらにも親しみを覚えることは出来ない。冷ややかな風が頬を掠めてまた一つ真白な空気を高く運んでいく。俺には分からないことが多すぎる。
どこか遠くで、劈くような硝子の破砕音が響いた。
俺は踵を返し、元の細い道を帰っていった。