第一階層 一日目
見知らぬ機械や見知らぬ大地に、日向陽介は戸惑う。
水も食料も見つけられずにいた。
第一階層
一日目
書いてある文字は殆ど読めないが、翻訳機のイヤホンからは日本語でアナウンスが聞こえる。
半透明で紺色をした床からは、下の階層が見え、ここはまるで雲の上の別天地だ。
アナウンスで知ったのだが、ここ宇宙港と隣接する第三階層中央都市区がこの星で一番近代化が進み、華やいでいるそうだ。言わば東京だ。飛行機かなんかで空を飛んでいけば第三階層の居住区や商業区等にも移動出来るそうなのだが、そこには俺が行く意味はないだろう。
知り合いを増やすとか仕事を探すとか、そんなことをする前にしなくてはいけないことがある。それは、水と食料を確保することだ。
周りを見回しても川や池といったものは見当たらない。空港内にそういったものがないのと同じなのだろう。飲食物を全く見かけなくもないのだが、ジュースと思ったらガソリンだったなんてことになったら、何も出来ないまま破産してしまう。
生活補助のような制度が充実していれば別だが、そんなところをプティリに知られて笑われたりするのは御免だ。
といったわけで、俺の足はメイン階層エレベータへと向かっていた。まずは自然が多く、惑星の地表にあたる第一階層で水を口にし、喉の渇きを癒したかった。
なあに、時間はいくらでもある。
ゆっくりすればいいさ。俺は宇宙旅行を満喫するのだ。
階層エレベータは薄く青い光を発している。宇宙人が入った瞬間に消えたのを見ると、瞬間物質移動装置なのだろうが、いざ、そんなものが目の前に現れたとき、躊躇なく飛び込める奴がいるだろうか?
俺達人間の脳に何らかの影響を及ぼすかもしれないし、上半身と下半身が別々のところへ行ったらどうする。
それに……そうだ、停電だ。もし俺が入った瞬間に停電やトラブルが起きたらどうなるんだ。この近代化が進んだ中央都市区も電気の様なエネルギーを利用しているのが見て分かる。この瞬間物質移動装置にもコードのようなものが差し込んであるのだ。
「駄目だ。俺には入れない」
これが夢だと誰かが証明してくれれば別だが、プティリも他の宇宙人もそんな素振りすら見せない。
……夢だったら、追いかけてくる怖い宇宙人とかがいるだろうし、高いところから急に足を滑らせて落ちたりもする。大体はそこで目覚めるのだが、――なぜ何も起こらないんだ。これでは、今この状態が現実なのだと認めるしかないではないか。頬っぺたを何度つねったか分からない。
「どうしたの、乗らないなら先に乗るよ」
頭だけが現実逃避していた俺を誰かが呼び返す。見ると、床に緑のベトベとがへばりついていた。俺にとってこのベトベトは今や数少ない顔見知りだ。
「お、おお、ベトベトじゃないか。俺はこれに乗っても大丈夫なのかなあ。脳が死んだりしないだろうか」
「ベトベトって言うのは私のことね? 可愛いニックネーム着けてくれてありがとう。これに乗って制御が 出来なくなるほど君の制御装置は繊細じゃないよ」
「制御装置? 脳のことか」
「そう。君の体を構成している物質原子はかなり大きい部類に属している。単純な物は壊れにくいからね」
「……」
もしかして、バカにされている? こんなベトベト野郎に?
「この移動装置を開発した宇宙人は優れた文明を持っているはずさ。だったらその文明に辿り着いていないものの安全くらいは当然確認済みさ」
ベトベトはゆっくりその装置に入っていった。そして音もなく瞬時に消え去った。みをもって安全性を実証してくれたのかも知れない。
「くそう、ベトベトが入れるなら俺だって入れるさ」
一呼吸すると、その装置へと駆け込んだ。
目の前が急に開けた大地になり、勢い余って数歩飛び出したところで足元に不快感を覚えて立ち止まった。
「うわあ。やめて、助けて!」
その声にドキッとして飛び退くと、さっきのベトベトを踏んでしまっていた。靴裏には緑のゼリー状の物がベッタリと着いている。
「うわ、ええっと、大丈夫?」
靴の付着物を地面にこすりつけながらそう言った。
「大丈夫なものか! 何も見えなくなっちゃったじゃないか。痛い、痛いよ」
そんな大袈裟な。覗き込むと黒い卵の様な物が数個割れて砕けている。
「ご、ごめん。見えなかったんだ」
「これだから低知能生物は困るんだ。他の宇宙人のことなんて考えてもいやしない。自分サイズのことしか考えていない!」
少しムッとした。確かに俺が悪かったのだろうが、踏まれるのがいやならなぜ地を這いつくばっているんだ。
「低知能生物に踏まれるのが嫌なら、何なりと対策くらい出来るだろ。飛ぶとか、姿を変えるとか」
「……」
ベトベトは何も言わなくなった。怒っているのか、考えているのか分からない。
それどころか……。
「おい、大丈夫か、死んだんじゃないだろうな」
「死にかけたけど死んでない。一週間もすれば元通りに再生するからもういいよ。どこでも行ってくれ」
「あ、ああ。すまなかった。お大事に」
それだけ言うと足早にエレベータ前を後にした。ベトベトがこれからどうするのか分からないが、振り返ったりしなかった。
上空に雲の様に浮かぶ大陸は第三階層と第二階層なのだろう。
どうやって空中に浮かんでいるのかは分からない。先程降りてきたエレベータは真っすぐその浮遊大陸へとつながっている。エレベータは丸い一本の棒の様な物なのに、その細さで折れもせずに第二階層までつながっているのが不思議でならない。
もしかすると、俺が蹴ったりすれば折れてしまうかもしれない。さっきのベトベトに重傷を負わせたように、俺はこの星では怪力低知能生物なのかもしれない。
「プティリは俺のことをどう思って見ていたんだろうか」
気が付くとプティリのことを考えていた。
人間同士が会話をしてもお互いの気持や考えが伝わり難いことがある。宇宙人同士のやり取りとは一体どんなものなのだろう。文化や歴史の違いなど、人間における人種の違いとは格が違う。翻訳器があって言葉は通じても、お互いの気持ちなどは何一つ理解出来ないのかも知れない。軽く翻訳器を指で擦りながら足取りは重くなっていた。
三十分位歩いただろうか。
遠くのエレベータはもう見えない。それに代わり周りは木々の様な植物で覆われていた。
その植物には果実がたわわになっている。均等に並んでいるのを見れば、それらが誰かの手によって植えられたものだと容易に推測出来る。
取って食べようか、それとも止めておこうか俺は悩んだ。地球上で悪いことが、この星で悪くない道理がない。近くに宇宙人や家屋の様な物は見当たらないからバレないだろうが、地球では推測出来ない防犯装置があるかもしれない。
しかし、それでも俺は……その果実に手を伸ばした。
「禁断の果実に手をつけるのとはわけが違うんだ。いつかは食べないと死んでしまう」
喉の渇きが俺を焦らせていた。
果実を一つ取ると、皮もむかずにかじりついた。
次の瞬間。口が硬直して動かなくなってしまった!
口に入れた果実が、地球上では類を見ないくらい苦かったのだ。
「ぐ……ぐぐ……」
――声が出ない。
渋柿を口一杯に頬張った苦い経験を思い出した。
開かない口からかろうじて唾を吐きだし、さらに人差し指を突っ込んで口から果実をかき出した。
飲み込んでいたら死んでしまったかもしれない――。
「ヂグジョウ!」
唸り声を上げてその場にしゃがみこんだ。
熱や発作はない。胃や腹も痛くならないのは救いではあったが、自分の安易さに嫌気がさした。果実の色や形が、南国のフルーツにあってもおかしくない姿をしていたのだ。誰が俺を責められよう。
数時間後、既にホームシックにかかっていた。
いや、ホームではない。アースシックだ。地球であればどこでもいいから帰りたい……。
あれからいくつかの果実をほんの少しずつ口に入れてみたが、どれも同じであった。食べられるものすら見つからない。口はショボショボになり、目にはクマが出来ている。喉の渇きもそろそろ限界だったが果実はもう口に入れたくない。
水が欲しい。
ゴクゴク飲み干したい。
昔、学生時代には水道の蛇口から水を腹一杯になるまで飲んだ。飲んだ直ぐ後から汗が噴き出し、学校の貯水タンクが空になるまで飲める気がした。
この星ではまだ水を見ていない。宇宙船から広い海の様な物は見えたがここからは全く見えやしない。近くに川が流れているかもしれないが、水の流れる音など全く聞こえない。
絶望感に足を引きずりながら歩いていると、目の前に毒々しい色をした果実がぶら下がっている。見た目ではとても手を出そうとは思わない。しかし、俺はここで食べられる食料を確保しなくてはならないのだ。
一息吐くとそれをもぎ取り、まず臭いを嗅いだ。すると、なんとその果実からは皮を剥いた桃のような甘い香りが鼻を貫いた。その匂に体全体が興奮を覚える。腸内が活性化したのか、胃がキュルキュルと音を立て始めた。
皮を千切るように剥くと、透明な汁が手を伝って流れ落ちる。これまでにこれほど果物が美味しそうに見えたことはなかった。思いっきりそれを頬張った。
う、美味い!
やっと見つけた!
まだ飲み込んでもいないのに次の果実に手が伸びる。そしてまた皮を剥こうとした時、周りを見渡した。
食べ物を確保出来たと感じた時、冷静さを取り戻した。
この果実は今までのと味も香りも全く違う。盗まれないように何か罠が仕掛けられているかもしれない。
周りに怯えながら木の実を食べる猿のように次の果実を口にすると、察した通り、罠に掛かってしまった。
「……っんぶ!」
胃がしゃっくりを起こしたように痙攣し、朝から食べたもの全てを吐きだした。
先ほどまで渋くて開かなかった口が、今は胃袋まで吐きだすかのように大開きとなり、口の両端が裂けそうになる。
「ガハッ、ガッハ。クソッ」
胃の中の物を全て吐き出すと、今度は胃液を吐きだした。――苦く、口に刺さるように痛い。
体は一気に寒気を覚え、目の前が急に夕方のように色褪せていき暗くなる。自分の嘔吐物の上に顔から倒れこんだ。真っ暗になり息をするのもままならない。
徐々に苦しさが薄らいでいく――。
……これで、ようやく帰れる……のか……。