第三回想
日向陽介は病院のベッドで目覚め、家族と再会する。
第三回想
「大丈夫? 気が付いた?」
ぼんやり女性の顔が俺の顔を覗き込む。……見覚えのある顔だった。
ツヤのない茶色い髪。また少し痩せたんじゃないか?
「なんだ……お前か」
妻の顔を見て俺が生きていることを確信するのに、数分を要した。
大きな窓からは夕暮れの赤い光が差し込んでいる。アパートの窓よりもえらく大きい。
「……ここは?」
「中央病院よ。あなた昨日交通事故に遭って、ずっと眠ってたんだから……」
安堵の息を吐いて覗きこんでいた顔を遠ざけた。
妻の手には小さな赤ん坊が静かに眠っていた。――俺は病院のベッドの上にいた。
……何か長い夢を見ていた気がする。しかし――それが思い出せない。
大事なことだったような、そうでもないような……。
ベッド横の小さなテーブルにペットボトルの水と紙コップが置いてある――。
「取ってくれないか」
体のあちこちに包帯や絆創膏が張ってあり、頭にも包帯が巻かれていた。
体を動かすとかなり痛むのだが……、エアーバックとシートベルトのお陰で命に別状はなかったようだ。
「はい」
受取った紙コップの水を一気に飲み干した。
水がこんなに美味しいと感じたのはいつぶりだろう……。
何度も一気に飲み干し、気が付くとペットボトルが空になっていた。
「今日、会社の方が大勢見舞いに来たわよ。あと、お義父さんも」
「――何だって! 親父も来たのか?」
部屋の中を見渡すと、お菓子や果物が置かれている。
確か――喧嘩別れをした日の翌々日になるのか……。だが、もっと長い期間が経っている気がする――。
「いつになっても子供が交通事故を起こして心配しない親はいないわ。あなたが目覚めたら謝っておいてくれって言ってたわよ」
「あの親父がか……?」
俺が起きていたら、絶対にそんなことは言わなかっただろうな。
遺産相続のゴタゴタが片付いた頃にでも……また実家に帰るとするか。
「それと会社から青笹さん、宮本さん、田中君と瀬津君……あと横川さんって方も来られたわ」
小さなメモ紙を見ながら言う。
「ああ横川? あいつは同い年だし派遣だから敬語なんて使わなくてもいいぞ」
「あらそうなの? でもお見舞いに大きな果物を頂いたのよ……」
赤ん坊をベビーカーにそっと寝かせ、病室のカーテンの裏へ歩いて行った。
「大きな果物と言えば……スイカか。派遣のくせに気が利く奴だ」
俺の頭も少しずつ機能を回復している。
――メロンはありえない。なんせ俺達は安月給のサラリーマンなのだ。
ところが! 妻が持ってきたのは俺の知らないゴツゴツした塊であった。
「何なんだ! それは?」
「ドリアンって言うらしいの……」
ドリアン? 名前くらいは聞いたことがあったが、こんな大きな物だったのか。たしかフルーツの王子様だったっけ?
「一体どうやって食べるんだ?」
「切ってみるわ」
妻はまたカーテンの裏へ回り込む。
ここは個室で、カーテンの向こうには洗面台でもあるのだろう。
「そう言えば高校生も来たわよ……」
「高校生?」
従兄や親戚にそんな年の子はいない。
「なんでも職場実習でボイラーの教育を受けたことがあるとか言ってたわ」
「ああ、そうか。それなら高専のインターンシップだろ。毎年何人か職場に来るからなあ。教育実習みたいなもんだが、今は皆、真面目な奴ばかりだ」
草食系男子って言うんだろ。しかし、まさか見舞いに来る奴がいるとは。
まあ……俺だって立派な草食系男子なんだがな……。
何か大切なことを忘れているようでもどかしくはあったが……時間だけは十分ある。
大事なことなら時間をかけて思い出せばいいのだし、忘れているのなら、それほど大事なことでもない。
有給休暇だって沢山残っているのだ。
「うわ、くっさーい。何よこれ。硫化水素の匂いだわ」
カーテンの裏からそう聞こえた。
「おいおい、ちょっと待てよ! 硫化水素の臭いなんて嗅いだことないだろ!」
「ないわ。あなたが冗談でよく言うでしょ。それを真似しただけなんだけど、本当にこれ臭いわ」
妻は素早くブツ切りにしたドリアンを持ってくる。顔をできるだけ遠ざけて、皿ごと俺に渡した。
「折角だから一口くらい食べてよ――、くっさ!」
残りは捨てる気なのだろうか……。
異臭とも言えるガス臭が病室に漂う。その匂いでとっさに鼻を摘んだ。
ガス漏れ検知器があれば――誤作動してしまうのではないだろうか?
――すごく心配だ。
鼻をつまんでドリアンを一口食べた。
――!
――初めてフナ寿司を食べた時の比ではなかった。
臭さの性質が全く違う――!
フナ寿司は生臭いような魚臭いような味がしたのだが、ドリアンはガス臭い。硫化水素というか、プロパンガスというか、
……その匂いがなんか、――初めての匂いではない。
口の粘膜では甘いと……嗅覚では臭いと……同時に感じる!
前にも同じような匂いの物を食べたが、臭くて食べられなかった――!
ナポリと同じ名の果物の匂いじゃないか!
「ちょっと、どうしたの。気持ち悪いなら出したらいいのよ」
「……ナポリ」
喉の奥から唸るように名を呼んだ。
あの時、ナポリが食べていた果実、そしてナポリから最後に放たれた匂い。
あれはまさしくこの匂いと同じだった――!
「ナポリー!」
もう忘れかけていた!
一生忘れないと誓ったのに――!
プティリに消さないでくれと断った記憶を――!
ナポリの最後の言葉まで全てを思い出した。目からまた涙がこぼれ落ちた。
俺のせいでナポリは死んだのだ。それでもナポリは一切俺を恨んでいなかった。
嗚咽をこらえて子供の様に――泣いた。
「……いいわよ。あなたコンビニのナポリタン好きだったものね。買ってきてあげるから……ちょっと待ってて」
妻は鞄から財布だけを持って部屋を出て行った。
……わざと出て行ってくれたのかも知れない。
あの数日間はただの夢だったのか!
今となっては何も証となる物は残っていない――!
そう思ったのだが、ふとテーブルを見ると、さっきは全く気が付かなかった証拠の品が揃って置いてある。
翻訳器とIDパス、壊れた携帯が無造作に置かれている。これこそ俺が地球から逃避していた決定的な証拠だ。
「フギャー、フギャー」
赤ん坊が突然泣きだした。
――前はこの声を聞くたびに頭が痛くなったのだが、今日は不思議と新鮮に聞こえる。
手を伸ばして翻訳器を取り、耳にイヤホンをねじ込んでみた。すると――、
「お父さんお帰りなさい。抱っこして!」
――そう聞こえたのだ!
翻訳器が泣き声を翻訳したのだ。
何とか体を近づけ、我が子を抱っこしてやると、
「わーい、ありがとうお父さん。無事に帰ってこれて良かったね」
――しっかりとそう聞こえた。
またしても泣が滲んだ――。
翻訳器を耳から外すと、いつもの大きな泣き声へと変わった。
泣き声の意味を知り、これまでの自分の言動が恥ずかしくてたまらなくなった。
「ごめんな。お父さんは今までお前が泣いてる意味が分からなかったんだ。必死に話していたんだな。もう大丈夫だ。もう翻訳器なんかいらない」
しばらく抱っこしていると、息子は安心した顔を見せてまた眠った。
「お待たせ。あらあら、いつもだったら大泣きするのに今日は気持ちがよさそうね」
腕の中で息子は気持ちよさそうに眠っている。
「そりゃそうさ。なんせお父さんが無事に帰ってきたんだからな」
妻は呆然とする。
――何か悪いことでも言ったかな?
「無事ですって? 全然無事じゃないでしょ!」
久しぶりに妻と食べるコンビニのナポリタンは胃袋に沁みた。
病室から見える夕焼けは……目に沁みた。
数日後、退院して自宅療養となった。
その頃には俺の宇宙土産は全く機能しなくなっていた。翻訳器は聞こえなくなったし、IDカードは表示していた文字が消え去っていた。
どちらも特定された惑星地軸から移動することにより発電するシステムと聞いた覚えがある。惑星オートゥエンティーから738億光年も離れているから仕方がないのだろう。
宇宙土産はこの二つしかない。夢だったような半月の宇宙旅行をも、いつかは忘れてしまうのかも知れない。
今は覚えているが、時が経てばナポリのことも忘れてしまうのだろうか……。人間の思考回路は次のことを憶え、考えていくために大事なことでも忘れるようにできているのだ。
感傷に浸っていると、買い物から帰って来た妻が突然靴も脱がずに問い掛けてきた。
「あなた! ローンで一体何を買ったのよ! 百万円も何処で何に使ったのよ!」
隣にまで聞こえる大声だ。
――しまった!
そのことについては――全く忘れていた!
出来れば忘れたままにしておきたかった――。
「――え、さあ? 一体なんて記入されているんだ」
「現実逃避代って何よ? 悪徳商法にでも騙されたんじゃないの? それとも実家に帰るなんて嘘ついて、どこかで豪遊してきたんじゃないでしょうね!」
俺はまた現実逃避したくなるような衝動を必死に抑えた。
プティリの声が耳元から聞こえてきそうだからだ――。
頭を抱える。
さて、なんと言い訳すれば妻は納得してくれるだろうか……。