十六日目
日向陽介とナポリは、秘書フィルムを手に入れるため、宇宙港総管理ビルへ乗り込む。
陽介は統括者室で見つかってしまい、絶体絶命の危機が二人を襲う。
十六日目
窓をコッソリ円型に切り取り、鍵を開けて入るのは地球上の空き巣と呼ばれるコソ泥のやり方で、宇宙では常識外れなのかも知れない。
ナポリが大型筒状の重火器で爆音を上げて窓を破壊したとき――そう思った!
耳を手で覆ったが、間に合うはずもない――。
「よし、予定通り電源は落ちている。さあ早く行け!」
「何だって! 聞こえない!」
耳はキーンと悲鳴をあげたままだ――。
ナポリはしかめ面と舌打ちをすると、両手で俺を掴み上げ、破れた窓から中へ投げ入れやがった!
――女のくせに、なんて馬鹿力だ!
「いいか、50分経つか私が阻止出来なくなったら照明弾を使う。トカゲ種は数分間何も見えなくなるから全速力で戻ってこい!」
「――だから聞こえないって!」
口をモゴモゴ動かすナポリにまた俺はそう言った。
ナポリはにっこり笑顔で建物の奥を指差した。行け! と言っている。
迷うことなく建物の中を走り出した――。
――目標は統括者室の秘書フィルムーー!
ナポリの扉を破壊する音は全てのトカゲ種に聞こえた。
トカゲ種はビルに入るものと、這いつくばって登るものに別れて、内と外からビルを上がってくる。その数は――およそ千匹以上!
ナポリは窓から少し離れたところで単車を浮遊させて待機しているが、粒子アナッサのインビジブルモードで、姿は全く見えない。
「一匹たりとも通しはしない――」
長いライフルのスコープを覗き込み、最初の獲物を一発で確実に仕留めた。
俺は、複雑なオフィスの廊下を――迷うことなく走って行く。何故なら、前に農園監視マシンのドラムカンにもらった地図フィルムには、ご丁寧に建物内の見取り図までもが鮮明に表示されているからだ。
農園監視マシンのドラムカンは、統括者側の宇宙人が作ったロボットだった。まさか俺がこの地図フィルムを持って、宇宙港総管理ビルなんかに侵入するとは思っていもいなかっただろう。126階に統括者デスクがあるのが分かったのもそのフィルムのお陰だった。「統括者室」と日本語で表示されている。
他のトカゲ種が一階から順に上がってきたとしても、この広いフロアだ。数時間はかかるだろう。なんせ、一フロアが東京ドームくらいの広さがあるのだ!
俺の手には懐中電灯と銃が握られている。もちろん撃ったことなどない。
不安がる俺にナポリは言ってくれた……。
「電源が落ちているならセキュリティーは動作しない。誰とも出くわさないことを祈っていろ」
そんな無茶な!
――そう思っていたのだが……126階に潜入すると、全くの無音で逆に気味が悪かった。
ナポリの銃撃音も聞こえない。
トカゲ種の足音も聞こえない。
聞こえるのは俺の呼吸だけだ。
「はあ、はあ、はあ」
随分走っている気がする。
廊下がまるで迷路状に張り巡らされているのは、こういった襲撃を予測していたのだろうか? 壁を破れるような重火器があったとしても、とても数十発では足りない。かれこれ走り出して十五分が経過していた。
ナポリは大丈夫だろうか……。
誰もいない廊下を、今は歩きながらそう考えた時、ようやく――辿り着いた!
「統括者室――か」
懐中電灯で照らすと、扉にそう書かれている。何の疑いもなくその部屋へ入った。
普段は分厚い扉で閉ざされているのだろうが、今日は全ての扉が開いている。停電時は安全確保のために開く仕組みなのだろう。
「――!? これが統括者デスクか」
クリスタルを思わせるような室内に、灰色に塗られたデスクが一つ置かれている。
その大きさは俺の両手を一杯に広げなくても収まる程度のもので、机の両側には三段の引き出しがついている。思った以上にデスクは小さく……ショボかった。
部屋の半分ほど占める社長クラスのデスクを想像していたのだ。
「まるで係長のデスクじゃないか……」
そう呟くとさっそく引き出しを引いて中を探した。
無造作にあらゆるフィルムや文房具っぽいものが詰め込められている。机の上も乱雑だが、重要書類であればそんなところに放置するはずがない。よって後回し。
右側引き出しを全部見た時点で時間は30分経っていた。俺の持ってきたフィルムに0時30分と小さく表示されている。
「落ち着け、落ち着け、帰る時間を考えると、丁度半分経過。ってことは、帰りは来る時以上に走らないと……セキュリティーで焼け死ぬ?」
それはなくても閉じ込められるのは確実だ。手には汗が滲み、フィルムが手から逃げる。
喉もカラカラで額から汗が吹き出て机に点々と落ちる。
時間が刻一刻と過ぎていく――。
両方の引き出しを全て調べ終わると、机の上のフィルムを調べ始めた。
「ああ、ああー、もう時間がない!」
意味もなく足踏みをする。まるでトイレを我慢している姿だ。
どれだ、一体どれなんだ!
俺はその時ハッとした――。
「ここに書いてあるフィルムは日本語じゃない!」
翻訳されていない! 俺には読めない字ばかりだ!
……ということは見つけようがないじゃないか――!
愚かであった――。
焦りと興奮でそんな初歩的なことを考えもしなかったなんて!
秘書フィルムが暗号化されていたり、翻訳して表示されていなかったら、見つけられるはずがないのだ!
ナポリですらそのことに気付かなかったのか? 奥歯が割れそうなくらい食いしばったが――。
手をピタリと止めた。
まだ絶望した訳ではない。
――潜入して以来、俺以外が立てる物音を初めて聞いた――
何者かが廊下を歩く音。
明らかに近づいてくる音。
――瞬時に机の裏へと隠れた。
俺の装備は手製の黒い全身タイツ。ナポリのように防弾ウエットスーツを着ているわけではない。
この部屋を通過して隣の部屋へ行ってくれる……分けがない。淡い希望も虚しく、足音は部屋の前で一旦止まると、こちらへ近づいてきた。
――心臓はドンドン音を立てる。吐きそうになるのを手で押さえる。
向こうはまだこちらには気づいていない。
チャンスは一度きり。そっと銃のセーフティーロックを解除した途端、部屋中が真昼のように照らされた。
「――!」
ま、眩しい! 暗闇に馴れていた目が、眩しさに視力をすべて奪われた!
これでは相手が全く見えない――。
光化学兵器なのだろうか! トカゲ種は光に弱いとナポリは言っていたが――。
「こんなところで何をしているんですか、陽介さん」
声にも口調にも聞き覚えがある。
「もしかし、もしかして、プティリ……さんですか!」
銃を構えたまま俺は机から少し顔を出す。
そういえば、足音はヒール特有の音だった! 何度も聞いている音だったのだ!
まだ眩しくてしっかり顔まで確認出来ないが、そこには人間の女性が立っていることだけは分かった。
「ここは立ち入り禁止です。射殺されても文句言えませんよ」
いつもの優しい口調でそう言う。俺は銃をプティリに突き付けたままであった。
「た、助けてくれ。見逃してくれ」
そう言ったのはもちろん俺の方で……、お互い全く正反対の台詞を言っていた。
「命が惜しかったら……もっとそれらしいお仕事をしてくださらないと……」
俺が命乞いをしたのは自分のしていることが正しくないと自覚しているからだ。
プティリは少し首を横に倒し顎に人差し指を当て何かを考えている。見れば手には何も持っていない。光化学兵器と勘違いしたのは部屋の照明であった。
つまり、プティリは丸腰だ――。
この銃でプティリを撃てば、この場を逃げ出せるのだ!
――出来るのか――?
それは現在のために未来を捨てることになるのではないだろうか……。
出来るはずが……なかった……。
トカゲ種ならともかくプティリは人間だ。何の罪もない魅力的な女性だ。
一瞬たりとも殺す気になんかなれなかった。
銃を下げて立ち上がった。――交渉の余地が……あるかも知れない。
「陽介さんは、ただの実行犯ですよね。真の犯人は別にいるんでしょ」
「あ、ああ」
ナポリのことだろうか、それとも懸賞金の払い主のことだろうか。他の同業者やトカゲ種も同じものを狙っているのなら、真の犯人は後者だ。名も知らない宇宙人だ。
「陽介さんは今日、一人で来た分けじゃないんでしょ。その人は本当に信用できますか?」
「な、何を言い出すんだ……」
プティリは少し笑顔である。
「前にお話したナポリさんのことですけど、人間じゃなかったんでしょ。もしかすると犯罪者かも知れませんよね」
考え込むプティリの目は笑顔だが、いつもより鋭く見える。
「それは……」
そうだろう。犯罪者だ。トカゲ種を今も何百匹と殺しているはずだ。
この統括ビルにも穴を開けた。しかし……妙だ。ナポリのことを俺は一度もプティリに話した覚えがない。指名手配中だったとすれば密かに捜査が進んでいたのかも知れないが。
静かな部屋の中で貴重な時間だけが過ぎ去っていく。
プティリはポケットから小さなシールを取り出した。
「前から怪しいとは感じていましたが、一度調査して決定的な証拠を抑える必要がありそうですね」
うん、とプティリは一度頷く。
「これは発信器です。見つからない様に彼女の肌に張り付けることができますね」
手渡そうとする。
「出来なければ、お、俺は死刑か?」
「まさかあ」
プティリは驚いたようにそう言って、その可能性を否定する。
「そんなことはしませんよ。でも、協力して何らかの証拠が取れれば陽介さんが地球に帰れる日はうーんと近づくと思います」
初めてプティリの提案を聞いたあの車の中を思い出す。
あの時も甘い言葉使いに乗せられたんだ……しかし……。
「ナポリさんと一緒にこの星でトカゲ退治を続けたいと願っているのなら別ですけど」
――それを言われると今は……辛かった。
生死をかけて俺が求めているのは、お金じゃない。地球への帰還なのだ。
その近道はナポリではなく、目の前にいるプティリだということは容易にわかる。しかし、
――ナポリを裏切るのか?
この数日間のやりとりを思い出す。髪を切った感触は今でも指先に残っている。
無言でそのシールの様な発信器を受け取った。――まだ貼ると決めたわけではない。
「今日ここで、私に会ったことは内緒ですよ」
唇の前で人差し指を立てて、内緒って顔をする。
「……わかった。やってみるよ」
まずはここから生きて帰るためそう言うしかなかった。
一度は貼ろう。そして、ナポリが仕事に出る前にこっそり剥がせばいいのではないだろうか。貼るだけ貼ったが剥がれてしまえば仕方ないだろう。
我ながら思わずにやけてしまうような悪知恵だ。
小さな磁石が着いたようなシールをポケットに仕舞うと、持って来た懐中電灯を拾い上げて部屋を出ようとした。
「陽介さん。大事なものを忘れてますよ」
プティリは机の上から一枚フィルムを取り上げ、こちらに差し出した。
「これが皆さんの欲しがっている秘書フィルムです。いつも机の上に置いてあるんです」
読めない字がぎっしり書かれている。
「え、いいんですか? 統括者に怒られますよ」
「盗まれたなら仕方ないと思うでしょう。さあ、もう時間がありません」
「ありがとう」
このフィルムが本物かどうか怪しいものだ。俺は部屋を出る前に振り返った。
「そう言えば、どうしてプティリさんはここにいるんですか。宇宙船は昨日飛んでいったはずですけど」
「少し調べものがありまして。私、仕事はあまり早くないんです。それなのにビルの電源が急に落ちてしまって、もう嫌になっちゃいます」
困った顔をしてまた笑う。あんまり仕事に精を出すタイプの人ではなさそうだ。
別れの挨拶を告げると、来た道を全速力で引き返した。もう時間は十分しか残されていなかった。
侵入した窓のところへ戻ると、ナポリも気が付いたようだ。窓から数メートル離れたところの空間に単射が見える。
「アッパ、無事だったか!」
「ああ、なんとか。フィルムも手に入れたぞ。本物かどうかわからないがな」
そう答えると、ナポリは手榴弾の様なものを取り出した。
「眩しいから直視するなよ」
ヘルメットの黒いシールドを下ろしながら、その手榴弾を下に落とした。恐らく照明弾なのだろう。
――ピカッ!
本物の照明弾なんてどんなものなのか想像していなかったのだが――、真夜中が真昼、いや、真っ白になるなんて思ってもいなかった!
照明弾が光っていると言うより、空間自体が光っているようだ。眩しいなどというものではない。全てが真っ白でそこにナポリと単射が浮かんでいるのだけが見える。
「足元に気をつけろ! 落ちるぞ」
「おっと」
足元はビルの廊下から真っ白の空間へと代わっている。上下左右全て真っ白。いくら何でも、この照明弾は威力がハンパじゃない! やりすぎだ!
ナポリがビルに接近してきたその時、目の前の真っ白な空間から蜂の巣の様なものが姿を現した。
ちょうど足長蜂の巣のように六角形がぎっしり詰まっている。一体これは何なのだろうと触ろうとした瞬間。
「馬鹿アッパ! よけろ!」
ナポリの怒号にビックリして横へと飛び退いた。
一瞬前まで俺が立っていた空間を煙の帯が何十本も飛び交い、廊下の突き当たりを文字通り穴だらけの蜂の巣にしていた。
ナポリが自分の銃をその白い空間に突き刺し連射する。
銃の先と銃弾は空間に吸い込まれたように――見えない!
一体何がどうなっているんだ? そう言おうとしたとき、目の前に大きな黒い単射が現れ、一気に炎上してビルの下へ落ちていった。――一瞬の出来事であった。
「早く乗れ。あと2台、別のやつが来る」
走ってビルからナポリの単射へ飛び乗った。
「お待たせ」
「遅かったから死んだのかと思っていた。出すぞ」
全力でナポリにしがみついた。
粒子アナッサを展開し、街中のビルを縫って高速で飛ぶ――。
俺が出すスピードの数倍は出ているだろう。ビルは下からではなく、横からも建っている。上下左右に絶叫マシンのように小刻みに方向を変える。
「何でこんな危ないところを飛ぶんだ!」
「追っ手をおびき寄せるのよ。ビルでトカゲ種を退治している間に粒子アナッサに特殊な粒子を混ぜられたわ。インビジブルモードはもう約に立たない。トカゲ種と違ってあと二匹のライバルは第二階層まででも追ってくる。完全に振り切るか、倒すしかない」
ナポリの頭にはフィルムを差し出す選択肢など完全にないようだ。
「しかし透明な敵をどうやって倒すんだ。待ち伏せしているかもしれない」
「いずれはフィルムを手に入れるため姿を現す。待ち伏せはあり得ない。なぜなら――」
ナポリは細かい障害物は気にせずに突撃する。粒子アナッサに接触し、砕けて飛び散る。
「ライバル同士も先に奪わなければ意味がないのだ。指をくわえて待っている分けにはいかない」
振り向くと、小さな障害物が微妙に軌道を変えている。まるでそこには見えない何かがいるようだ。
「ナポリ! すぐ後ろにいるぞ。ついてきている」
「知っている。距離も把握できた。もう一台も同時に仕留めたかったがもう街を出てしまう。仕方ない」
ナポリは単射を急に減速させる。俺は想像を超える力でナポリの背中に押し付けられた。もっと加減してくれという声すら出せない――。
次の瞬間。俺の体に何か太い物が巻き付き、同時にまたしても蜂の巣状の銃の先端が粒子アナッサ内に姿を現した。
「――危ない!」
そう叫んだ瞬間、蜂の巣状の先端から合計51発もの銃弾がナポリの体に発射された。避け切れない!
「キャアー!」
――最初で最後の悲鳴を聞いた。
ナポリの体に全弾命中し、その衝撃で単射から弾き飛ばされ、ビルの谷間へと落ちていく。
「ナポリー!」
そう叫んだが、俺の手はその蜂の巣状の銃を掴んで引き寄せ、相手の粒子アナッサ内へ自分の銃先を押し入れて連射していた。
「さっさとくたばれ!」
「ギュボ、ギュボ」
粒子アナッサが突然真っ赤に着色し、巻きついていた太いタコ足の様な物がダラリと落ちた。
単射のハンドルを握ると、一発体当たりを食らわせ、落下するナポリを追った。
弾かれた敵の単射は盛大にビルに突撃し、大爆発を起こした。
ナポリは重力に身をゆだねていた。
「もっとスピードは出ないのか!」
問いかけに単射のパネルに『不可』と表示されている。音速を超えない? 原因はローバッテリーであった。
これではナポリに間に合わない! ビルの下まで落ちていく――。
「ナポリ!」
叫んだとき、――俺の視界から突然ナポリが消えた。
遠く離れて見えなくなった分けではない。……最悪の事態が起こったのかも知れない。背筋に寒気が走った。
『――フィルムを渡せ。さもなければ88603421の命はない』
粒子アナッサを通り越し、聞いたことがない声が聞こえる。
「誰だ、どこから話している。それより、ナポリは無事なのか。生きているのか!」
単射の前方約百メートルのところに、突然もう一台の単射が姿を現した。
俺の乗るものより一回り大きく、大きな二つの円筒状重火器が左右に備わっている。
『私は2982198。お前の単射の前方から話している。お前が呼ぶナポリこと88603421は無事だ。生きている。返して欲しければ着いてこい』
男でも女でもない声だ。
単射の通信装置に交信をしてきているのだ。
「待て、もう俺の単射はそれほど飛べない。近くにしてくれ」
『よかろう』
そう言うと単射は第三階層端の青く透き通る地面へと着地した。俺はそいつから少し離れたところへ単射を止めた。
その宇宙人は、俺やナポリと同じ人間の形をしていたが、サイズが違う。大男で身長は俺の倍くらいある。
防護服を着ており、闘って勝てそうな相手ではない。
「話は簡単だ。フィルムをよこせ。そうすればナポリを返してやろう」
片方の腕でナポリを抱えてそう言う。
ナポリが声に反応したのか、ピクリと動いたのが見えた。
「ナポリ、大丈夫か!」
「何度も言うが、大丈夫だ。この種の生物は蜂の巣バルカンを一発くらった程度では死なない。目が覚めると厄介だ。早くしろ!」
俺だけが生き延びてフィルムを持っていても全く価値がない。読めもしないフィルムなんかくれてやっても構わないのだ。しかし、こいつは本当にナポリを返してくれるのだろうか。
宇宙人との取引なんて、信用できるものか!
――くそっ!
「俺は一体どうすればいいんだ!」
「フィルムを渡せばいい!」
そういう意味ではない!
俺の自問自答に勝手に答えるな!
「お前こそ先にナポリを放せ!」
言い終わるのと同時に、その宇宙人はナポリを無造作に地面に落とした。
「ナポリ!」
「放せと言ったから放した。大丈夫だ。この程度で死なないとさっきも言っただろ」
宇宙人の言うとおりであった。ナポリはゆっくり体を起こし立ち上がったのだ!
ナポリは生ていた――。
良かった。本当に良かった!
さすがに体を左右に揺らしながら、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
「アッパ……渡しちゃダメだ。絶対にダメだ……」
胸の辺りを押さえてこちらへ歩いてくる。
「さあ、そちらの要件を果たした。早くフィルムを渡せ!」
宇宙人2982198は堂々と立っている。俺たちが逃げても十分仕留められる自信があるのだろう。
「フィルムを渡したって、俺たちがここから逃げる間に追ってこない確証がない」
「そんな確証など不要だ! 宇宙の神に誓ってそんなことはしない。私は嘘などついたりする低知能生物ではない」
宇宙の神に誓ってだと? 信じられるものかそんなこと。
どうやってこの場を逃れようか考えていたとき、ナポリが俺のところへ辿り着き、体を預けてきた。
「……奴を殺せ。銃を使え」
相手に見えないように俺にそっとナポリが銃を手渡した。
一か八か。――外せば命はないだろう。
この星での常識……他の宇宙人の命ほど安いものはない。
俺はナポリを助けるため――引き金を引いた。
銃先から甲高い音が一瞬し、集束レーザーが敵の体中央に直撃した。
「ば、馬鹿な!」
その敵はそこに立ち尽くしていた。まだ倒れない。
俺は何度も引き金を引いた。何本ものレーザーが体のあちこちを突き刺す。
「な、何故だ。俺は要件を果たした。なのに、なぜ……」
まだ倒れない。するとナポリは俺の手から銃を取り上げた。
「この星では正直者が真っ先に死ぬのよ……」
ナポリの放つレーザーは、人間でいう眉間を確実に捕らえた。
敵の宇宙人は空を向いて呟いた。
「覚えておこう。では、私は正直者では――なかったようだ!」
様子がおかしい!
こいつは先ほどから何発もレーザーを体に浴びているのだが、よく見ると服が焦げているだけだ。
倒れるどころか――こちらへ向かって歩いてくる!
「何こいつ! 光化学兵器が効かないわ!」
「――だったら仕方ねえ!」
俺はその宇宙人に殴りかかった。俺の銃は先程、銃弾が尽きるまで使い切っている。レーザーも効かない。幸い相手は丸腰だ。
「だったらやるっきゃねえ!」
鈍い肉を叩く音がする。
一発でケリが着いた。俺の拳は宙を横切り、相手の拳が的確に俺の額を捕らえた――。
気絶しなかったのが不思議なくらい激痛と振動が頭蓋骨に響き渡る――。
俺は不様に地面へ顔からぶっ倒れた。
「もう一度だけ言う。俺は要件を果たした。フィルムをよこせ。さもなければナポリは返さない」
今度はナポリの方へと大股で歩いて向かう。ナポリはとっさにナイフを抜き、切りかかったが、その宇宙人の動きは早送りのように素早い。
いとも簡単に後ろからナポリの首を片手で絞め上げた。
「――!」
ナポリは声を出せずにもがき始める。もう見るに耐えられなかった。
「やめろー! フィルムは渡す。ナポリを放してくれ!」
その宇宙人は……またしても手を即座に放し、ナポリはまたしても地面にドサッと落ちた。
「だから始めから要件を果たせば良かったのだ。低知能生物とはいえ痛い思いをするのは好まないであろう」
俺の方へ見えないほど素早く接近すると、片手を伸ばし、手をクイクイさせる。
早くフィルムを渡せと言いたいのだ。
……仕方なく……俺はズボンに挟んでいたフィルムを出した。
「や……やめろアッパ……。それだけは……渡すな。わたさないで……」
ナポリは悔しさをあらわにし、今までに見せたこともない痛そうな顔をしていた。
よほど秘書フィルムが大事なのだろう。だが……、
俺にはナポリのほうが大事なんだ……。
こんなロクでもない惑星で出会っただ一人の女性。人間であろうが、宇宙人であろうが、もう関係ない。
ナポリ以上に大切なものなんて……ここにはないのさ……。
「これがそのフィルムだ」
「こ、これは!」
その宇宙人は銀色のキバをギシギシ言わせてフィルムを覗き込んだ。
ナポリは倒れたまま歯を食いしばって俺とその宇宙人を見ている。
「グオオオオオオオー!」
宇宙人は地響きするほどの大声を上げた! そして倒れたままの俺を睨みつける!
「こ、これは地図フィルムではないか。貴様、間違えてこんなものを盗んできたのか!」
「なにー! それは秘書フィルムじゃなかったのか? ああ残念だ、間違えた! なんせ俺はこの星の字は全く読めないからなあ……」
嘘ではないさ。その宇宙人が激怒するのが手にとるようにわかった。殺されるかとも覚悟したが、その宇宙人は激怒していても聞き分けはだけはよかった。
「グググ……確かに……俺は……フィルムを渡せと言った。秘書フィルムでなくても、これで交渉は成立した……グググ」
「あ、ああ。じゃあ俺たちはもう自由だな」
「当然だ。……俺は宇宙の神に誓ったのだ。ナポリと引き換えにこの……地図フィルムは頂く」
ナポリはまだ意味が分かっていない。
「貴様の悪知恵は低知能生物を上回っているかも知れないが、最後に言っておく」
宇宙人は自分の単射にまたがりながら言った。
「正直者は馬鹿を見るが、最後に笑うのも正直者だ。俺は正直者だ。さらばだ!」
宇宙人の……言っている意味は全く分からなかった。しかし、相手が馬鹿正直者だったために俺達が命拾いしたのだけは確かだ。
ゆっくり立ち上がると、ナポリのところへと歩いていった。
「あれほどフィルムを渡すなと言ったのに。バカ!」
ナポリは両手を拳にして、殴りたい衝動を我慢しているように見えた。
「ああ、俺はバカさ。正直者じゃないけどな。それより、早く帰ろう」
黒い上着の下からもう一枚フィルムを取り出した。
「早く帰ってこの秘書フィルムを読んでもらわないと。なんせ、俺はこの星の文字が読めないからなあ」
「アッパ……」
ナポリの手を引き抱き寄せた。
映画であればここでキスの一つくらいするのだろうが……、ナポリの文化にそぐわないかも知れない。とりあえず今は我慢しておくとする。
楽しいことや美味しい物は、後にとっておく性分なのさ……。
フィルムに書かれていたことはナポリを落胆させた。決して偽物ではなかった。
あれから二人で部屋に帰り、ささやかではあるが祝勝会を開いていた。
『この五連銀河に存在するトータル星系に存在価値はない。
大宇宙に付属する生物は多種多様の進化を遂げ、独立する体型や思考回路をもつ。その種類は……星の数ほどある。
それを集約し適合性の研究や調査を容易に行える環境を整えることが目的である。
集約した生物を他の宇宙生物や機械種に楽しんでもらうことで観測料金を受け取り、維持費と報酬とすることを許可する。
くれぐれもこの内容は口外されないよう統括者は監理を徹底せよ』
ナポリが読み上げたが俺にはイマイチ意味が分からなかった。ナポリは少し複雑な表情をしている。
「一体、どういう意味なんだ。これは誰が誰に書いた物なんだ?」
ナポリはフィルムを床に落とすと、立ち上がってキッチンへと向かった。
「統括者を指示をしているさらに親玉がいるみたいね。この五連銀河を統括している人でもいるのかしら。でも、どうでもいいわそんなこと。私達は動物園の動物ってことよ」
「動物園だって?」
地球の動物園なら行ったことがある。色んな動物がいて楽しかった思い出がある。
「でも、他の宇宙人を楽しませるために俺たちがここで飼育されているのだとしたら、なんか、腹が立つ」
誰に対してか分からないが、無性に腹が立ってきた。多分その統括者というのが私腹を肥すためにやっているのだろう。
「だが、何で俺達なんだ。もっと他にも宇宙には色んな種族がいるはずじゃないか。例えばトカゲ種とか」
俺はナポリにそう言いつける。
ナポリは冷蔵庫の前で立ち止まった。
「その通りよ。だからそれを揃えるのに百万もの惑星が必要だったのよ。このトータル星系が」
開いた口が塞がるのに数分を要した――。
この百万あると言われているトータル星系の惑星全てが宇宙人の動物園だって?
どんな馬鹿げた規模なんだ――!
隣の惑星の名はオーテンと聞いたことがある。
この星がオートゥエンティーで人間が生活できる。もし惑星の名が翻訳されているとすれば、オーは酸素濃度を示しているのではないだろうか。
酸素や窒素や宇宙生物が必要な元素濃度少しずつ調整した惑星が百万個並んでいるとすれば、多種多様の宇宙生物を飼育出来るかも知れない。
宇宙船はこの星で生活できる宇宙人だけを収集してきている。
でもプティリはその宇宙船の乗務員になぜ任命されたのだろうか?
「まあ、何はともあれこれで私の仕事も終わったわ。一杯どう?」
ナポリはそう言うと赤いワインの様な液体が入ったボトルと、グラスを二つテーブルに置いた。
「ちょっと待て。シチュエーションとしてはまんざらでもないかも知れないが、せめて着替えてからにしないか」
手の平を見せてナポリの祝杯を制しようと試みた。
なぜなら、ナポリはウエットスーツ、俺は黒色の全身タイツなのだ。汗染みどころか、ナポリには緑色のトカゲ種の返り血が着いている。
「いいじゃない。細かいことを気にしていたら、他の星では暮らしていけないわ」
「ああ、それは十分承知しているさ。だが、せめてシャワーくらい浴びないと」
ポンッ!
俺の恐らくは正しい意見をナポリはワインの蓋を開けて制した。……ところでこの星にワインなんてあったのか?
「おい、それは本物のワインなのか。俺は飲めないんじゃないか」
「色と形が似ていたから買ってきておいたのよ。多分大丈夫」
多分と言うのが……恐ろしい。
実は、何度かナポリの奨めたものを試しに飲み食いしたのだが、全て口に入れることすら出来なかったのだ。しかも、ナポリはきまってそれを見て――笑っていた!
「ハイ、どうぞ」
グラスに赤い液状の未確認物体を注ぐ。もし第三者がこの光景を見ればどう映っただろう。
……ウエットスーツ姿にグラス。まるで海から上がった海女さんの打ち上げだ。
「何はともあれ、お疲れ様。乾杯」
「ああ、乾杯」
ナポリは口をつけてその液体を飲み干す。俺はとりあえずグラスを軽く振って臭いを嗅ぐ。
うっ、揮発性のある有機溶剤の臭いだ。吸いすぎると頭がくらくらする。
せっかくナポリが用意してくれたのだ。舌の先で舐めてみる。
「かーシビレル!」
おっさんか俺は!
「どうだ。飲めないか?」
「うーん、キツイがこれは地球にいた頃飲んだ酒に似ている気がする。テキーラだったかな。飲めなくはない」
ナポリと同じようにグラスを一気に空にした。
胸が焼けるような刺激が今は心地よかった。
俺が平静を保っていたのは、ナポリがあまりにも酒乱だったからだ。
ソファーで片膝を立てて赤いワインを飲み続ける。俺も酔いがまわっていたのだが、ナポリほどではなかった。
「ナポリ、少し飲み過ぎじゃないのか」
綺麗な顔が桜色を通り越し紅色に染まっている。
緑色の髪から少し出ている耳の先が真っ赤だ。
「そんなことはないわよ。こんな水の様な飲み物で私が酔ったりなんかしないわ注げ」
……語尾に命令文が着いている。ため息が出る。
仕方なく赤いワインもどきをナポリのグラスに注ぐと、ナポリはご機嫌のようだ。
酔った勢いでという分けではないのだが、俺は今まで聞きたかったことを聞いた。
「なあ、ナポリは一体いつからこの星へ来たんだ。俺みたいに連れてこられたのか?」
「私が来たのは15歳の時だ。元にいた星である程度成長したものは、他の星へ出稼ぎに出るのさ。デッチボウコウさ、ハハハ」
翻訳機をいじった。『デッチボウコウ』なんて聞いたことがない単語だ。
英語か? 内臓の一部か?
「じゃあ元にいた星ってどこなんだよ。いずれはそこへ帰るんだろ」
「ああ帰る。早ければ次の宇宙船でおさらばさ」
「何だって!」
勢いよく立ちあがってグラスの中身をこぼしてしまい、黒タイツに赤い染みが出来てしまった。
「こーら。勿体ないじゃない。冗談よ冗談。ペットほったらかして帰れる分けないでしょ」
そう言ってまたグラスの中身を飲み干す。しかし、そんな冗談を言う必要はないはずだ。
「俺はまだペットのままなのか」
色々な意味でそう言った。
呆れ。
諦め。
それ以上を期待する本音。
ナポリはそれをどう受け止めたか分からない。
「アッパ……。あなたも私の星に来る?」
「な、何だって?」
「一緒に私の故郷の惑星へ来ると言うのなら、連れていってあげるわ」
ナポリの目は真剣だ。頬はまだ赤い。
この返事一つで――俺の今後の人生を大きく左右に分けると感じた。
俺は考えた。
ナポリにもう嘘を突き通したりする必要はない。
本心が素直に口から出た。
「ナポリ、……ごめん。俺には地球で待っている家族がいるんだ。それは親だけじゃなくて妻と生後三ヶ月になる赤ちゃんだ。つまり俺はもう結婚しているんだ。だから……」
正直に語った。
そう言えば、さっき闘った宇宙人が「最後に笑うのも正直者」と言ったのを思い出す。俺は果たして最後に笑うことが出来るのだろうか。
「それがどうしたの。全く問題ないわ」
それはそうだろう。ナポリにしてみれば俺の家族のことまで気にする必要などはないのだ。
「でも、しいて問題と言えば」
「言えば?」
ナポリの方を見る。俺はテーブルの椅子で飲んでいるからナポリとの距離は数メートルある。
「しいて言えば重力がここの三倍以上あるから、あんたすぐにペチャンコだわ。アハハ、私に埋められたく無かったら着いて来ないことね」
声を立てて明るく笑いながらそう言う。
楽しそうで歯痒い!
「あームカつく! せっっっかく真剣に話したのに!」
馬鹿みたいだ。馬鹿だ俺は。本当に腹が立った!
これじゃ酔っぱらいに酒の肴にされているだけではないか!
「あ、怒った? ごめんごめん注げ」
謝っている意識はこのお方にはないようです。
怒りを大きなため息に変えて口から吐き出し、俺はまたナポリのグラスへワインもどきを注いだ。もう数本が空になっている。
「私だって、ほんとは陽介とずっとここにいたいよ」
ワインもどきをナポリのグラスに注ぐ時、そっと言った。
決して大きな声ではない。俺にではなくグラスに語りかけるように……。
ナポリが初めて俺のことを陽介と呼んだ。
「え?」
「でもね、それが辛いから……別れるのが怖くなりそうだから……そうなる前に私は帰るの」
……ナポリの本音を聞いた。
確かにこの部屋でナポリと一緒に生活するのは楽しい。出来ればずっといたいとも思う。
死にかけることもあるかも知れないが、地球での生活よりも生きている実感を肌で感じ取れる。
俺の心臓が高鳴ったのは酒のせいでは無かった。
「これがツンデレって言うのよね。どう? 私のことが好きになったでしょ」
ナポリが言ったことの意味がよく分からなかった。ツンデレって何だ。山脈のことか? もうそんなことはどうでもよかった。
「あ、ああ。好きだよ。ナポリ」
好きに決まっているだろ。
俺もソファーに座った。
もう互いの距離は数センチしかない。ナポリの横顔がいつにも増して愛しい。俺はそっと唇をナポリの唇へ重ねた。ナポリは何も言わずにそれに従った。
もう感情を制御することは出来なかったのだが、ナポリの型のいい胸に触れようとした瞬間。
「触るな!」
――えっ、だ、駄目なのか――?
一気に酒とテンションが下がる――。
俺の右手は宙で一時停止となった。
「え、だ、駄目なのか?」
思ったことを言葉にするのは大切だ。
「弾丸が刺さったままだ。これには猛毒が全面に塗ってあるからお前みたいなやわな奴が触れば即刻お陀仏だ」
真剣な顔でそう語りながら胸に刺さったままの爪のような弾丸51個を一つずつ丁寧に取り始めた。
見ていてイライラする!
「おあずけ!」と主人に叫ばれた犬の気持ちが痛いほどよく分かった!
「一つずつ取らないで、脱いでしまったらいいじゃないか」
俺の興奮はまだ冷めきってなどいない。ナポリは弾丸を取る手を止めて、冷たい視線でこっちを向いた。視線は冷たいが顔は赤い。
「脱ぐだと? ここでか? 私の裸が見たいのか? お前は何か企んでいるのか? 私は人間ではないと言わなかったか? それでも構わないのか?」
何個疑問を問いかけられただろう。
俺の答えは一つだった。
「それでも構わない」
ナポリは立ち上がると、部屋の奥へと歩き出した。
「シャワーを浴びてくる。少し待ってて」
ナポリのウエットスーツは汗が乾いて白い塩が析出していた。
潤滑油が滴り、ピストンの動きを加速させる。
俺は上に股がり心地好い振動を体で感じる。
一気にフルスロットルへ加速するとさらに振動が高まり、ガクッと大きく動いたのを最後に、エンストした車のように動かなくなってしまった。
「どうしたんだ、なぜ動かない?」
そう言って覗きこむと、操作パネルに「ローバッテリー活動限界」と表示されていた。
「あ、そうか。昨日帰ってきて充電するのを忘れていた」
――俺は朝から単射の整備をしていた。
充電用のプラグを単射に差し込みながら、夜のことを思い出す。まだナポリは上の部屋で眠っていた。
あれから二人は一つとなった。
ナポリは宇宙人ではなく人間であった。
何故なら、逆に人間と違うところが見つけられなかったからだ。外見も内面も全てにおいて。
本人は人間ではないと言い張るが、もうそれについて問い掛けないようにしようと思う。
人とはそれぞれ言いたくない過去を一つは持っている。朝方になるまでベッドで話をしていた。
俺は地球での生活が嫌になっていたことをナポリに話していたのだが、ナポリは上の空で聞いていたのかも知れない。今思い返すと、
「うん、そうなの、へえー」
の三語を繰り返しているだけであった。しかし俺も話の途中で眠ってしまっていた。
単射を磨く手を止めて考えた。
この星にこのままいていいのだろうか?
ナポリはもうこの星にいる必要がないと言っていた。酔っ払っていたとは言え、表情や言葉で分かる。
いつかは違う星へ行ってしまうのだろう。そんな気がする。
だったらその後、俺はどうする……。
一人でトカゲ退治を続けるのか。すぐにくたばってしまうだろう……。
その時、昨日プティリと出会ったことを思い出した。
思いだしたくなかったのだが、地球へ帰るにはプティリに協力するのが一番の近道なのだ。
「どうする」
ポケットから小さなシール状の発信器を取り出した。
黒い小さな物が取り付けてあり、まるでピップエレキテル判の様だ。
ナポリは眠っている。今ならこれを張り付けるのは簡単だろう。
――しかし、俺のために、ナポリを危険な目に合せてしまうのは確実だ。一体どうすればいいのだ――。
ナポリの眠るベッドへと向かった。
手にはシールが持たれている。
この星に俺がいる意味などない。
そのためにナポリを裏切ってしまうが、俺一人で一千万円稼ぐまでこの星にいるなんて到底不可能だ。
ナポリが帰る話なんかするから――俺も焦っていたのだ。
もっと親密に話し合えば良かったのだろうか――?
ナポリがうつ伏せのまま眠っていた。
美しい背中の一番手が届きにくいところへそっと……シールを貼り付けた。
貼り付けてしまった。すると、
「何をする!」
急にナポリが目を覚ました。俺は背筋が凍る思いがした。
「ナ、ナポリ」
ナポリは難なく背中のシールをはがすと、眠そうな目でそれが何かを確かめる。
「これは超小型発信器じゃないの。どうしたのよこんなもの」
悪戯がバレた少年のように俺は怯えながら答えた。
「す……すまないナポリ。実は昨日、統括者の部屋でこれをナポリに張るように脅されたんだ。それで仕方なく……」
話の途中でナポリはそのシールをハナクソの様に指先で丸めて弾き捨てた。
「こんな発信器なら単射に何百個も付けられているわ。でも大丈夫。単射の励磁シールドで周辺の精密機器は一瞬で機能停止するから。完全に壊れてるわ」
「な、なんだ。そうだったのか」
安堵した。
安堵するくらいなら最初から貼らなければ良かったと今は後悔している。
「それより、もう一回しない?」
「いや、止めておこう。俺は一日一善と決めている」
「そうなの? 残念。陽介の遺伝子がお腹の中で暖かいのが心地いいのに」
ナポリは残念そうにまたベッドに横たわった。
「繁殖出来ないのが残念なんだけどね」
顔をベッドにうずめてこもった声で言う……。
一体何と言ってあげれば良かったのだろうか……。
「そう言えば、どうやって秘書フィルムを手に入れたの。その脅してきた奴は貴方を殺さなかったんでしょ」
ナポリがそう問いかけてきた。
発信器は壊れたし、秘書フィルムの内容も確認した今、もう何も秘密にすることなんてないだろう。
「え? ああ。実はプティリと言う人間の女の子に統括者室で偶然会ったんだ。秘書フィルムもその時に一緒に手渡された。だからフィルムが本物って確証は全くないのさ」
「――何、プティリに会っただと?」
急にナポリは体を起こした。
やはりプティリのことを知っているようだ。
「ああ。同じ人間だからナポリもプティリのことを知ってたのか?」
「何? 同じ人間? プティリは人間なんかじゃない! 私と同種の宇宙人だ」
……ナポリもしつこいなあ。
人間と宇宙人をまだ区別し続けている意味が分からない。
「だーかーら。人間なんだろ。プティリもナポリも」
ナポリは首を大きく横に振って言う。
「違う違う違う! 私は前から人間じゃないと言っているだろ。それにプティリが仮に人間に見えたとしても、それは女なんかじゃない。どちらかといえば男のはずだ。指の数や顔の色なんかも全て違っただろ」
そんなはずはない。プティリとコーヒーを飲んだ時、奇麗な指は何本だったか思い出す。
「いや、五本だった。何も違和感なかったから間違いないさ。髪は金髪だが、顔は色白でナポリと同じさ。誰か人違いをしているんじゃないか?」
「それはない。この星で自分に名前などつけている者といえばプティリと陽介くらいだ」
ナポリは突然ベッドを飛び降りウエットスーツを着始めた。
「どういうことか分からないが、プティリがいたとすれば、こうはしていられない」
「何で。ただの女の子じゃないか。それに偽物のフィルムだとすれば取り返しに来たりもしないだろう」
「いいえ、あれは間違い無く本物のフィルム。内容も全て真実よ。重要フィルムには特殊な仕掛けと証明がされているの」
ナポリは浮足立っている。俺の話を理解しようとしていない。
「プティリは宇宙港や統括者側の宇宙人だ。この星で暮らしている低知能の宇宙人とは分が違う。これから少し出てくるが、決して私以外の者を部屋に入れるな。プティリならなおさらだ」
「あ、ああ、分かった」
ナポリは銃と大きな通信機が入ったバッグを担ぐと、部屋の扉を乱暴に開けて出て行った。
背中のファスナーが全開のままだが、慌てているようだから放っておこう。
プティリのことについてもっと早く話しておくべきだったのだろうか――。
数分後、ナポリは帰って来た。
「誰も来なかったか?」
「あ、ああ。プティリがもし俺達の居場所を突き止めたのならここへ来るかも知れないってことだな」
自分が持って帰った発信器が本当に壊れていたのか不安になる。
「居場所ならとっくにバレている。このIDパスは通貨や身分証明になるだけじゃない。位置情報くらい統括者側には丸見えになってても不思議ではない」
ナポリは部屋へ入りソファーに軽く腰掛けた。
「問題はプティリがなぜ本物の秘書フィルムをわざとアッパに手渡したかってことと、壊れるのが分かっているような発信器を持たせたかってことよ」
本物を渡してもいい理由? それは何だろう。
……前から怪しいとは感じていましたが、
一度調査して決定的な証拠を抑える必要がありそうですね……
プティリは確かそう言った。
停電中のビルで部屋の照明を点けて入って来た時。
その秘書フィルムの内容を囮にして何の証拠を抑える?
今までナポリはこの惑星で何をしてきた?
トカゲ退治では全く動じなかったのに、プティリに何をそんなに怯えているのだろう。
そう言えば、……停電中のビルの照明を、プティリは――点けた?
次々と不自然な部分が浮き彫りになる。
考えながら玄関の扉を閉めたまさにその時――、
「こんにちは陽介さん。ちょっと失礼しますよ」
閉め終えた扉と俺の隙間から――プティリが姿を現したのだ!
俺の数センチ近くに空間を押しのけて、出てきたように感じた。
驚き、絶望、困惑、立ち尽くす俺を横切り、プティリは部屋の奥へと入って行く。
ナポリは瞬時に銃を構えた。
すぐに引き金を引かない。話でもしたかったのだろうか。それとも……。
「ナポリさん。やはりあなたがこの星で機密情報を他星系へ異次元通信していたのね」
少し悲しそうな顔をしながらプティリは小さな銃をスーツの胸ポケットから取り出した。
「星系間兵器情報不法取扱いの罪は、私達の法律では死刑になります」
小さなその銃がナポリに向けられる。
しかしナポリは引き金を引かない! 何故だ!
とっさにプティリとの間に入りナポリをかばった。
「やめろ。撃つな!」
声も虚しく無情に発射されたプティリの銃は俺とナポリの体を貫いた。
ナポリが――倒れた。
ナポリが銃を発砲しなかったのは、――俺のせいだ!
プティリを撃ってしまえば――俺が地球へ帰れなくなるのは明白だからだ!
「ナポリー!」
すぐさま駆け寄り、ナポリを抱き起こす。プティリの発した銃弾は俺を貫通したはずなのだが、俺の体はどこからも血が出ていない。痛みも無かった。
「ナポリ、しっかりしろ!」
今まで何発も銃弾なら喰らっているのを見てきた。
特殊なウエットスーツも着ている。
ナポリはタフな種族と言っていた宇宙人もいた。
プティリの持つ小さな銃くらい、どうってことはないはずだ!
そう願ったのに!
見ている間にソファーがナポリの血で赤く染まっていく。
「ナポリー! 死んじゃ駄目だ!」
その血の色は赤から水面に広がる油膜のように美しい虹色へと変わっていく。
「……陽介。私ね、初めから陽介が……好きだったわ」
「しゃべっちゃダメだ!」
血が出てくる背中の部分を抱きしめながら止血するのだが、暖かい虹色の血は止まろうとしない。
「……こんな気持ちになるのは、……生まれて初めて。陽介と二人で過ごした日々は楽しかった。幸せと感じた……」
「だから、もう喋るなって!」
言葉にならない。ナポリの頬や体に涙が点々と跡を残す。
「陽介のおかげで私はここでの任務を果たせた……。ありがと」
強くナポリを抱きしめる。
俺には何も出来ない! 何も出来ない!
「陽介は……地球へ帰りなさい。もう逃げ出しちゃ駄目だからね」
ナポリはそっと目を閉じた。
何度も喉が嗄れるまでナポリの名を叫んだ。
閉じたその目が二度と開かれないのかと思うと、ナポリを抱いて泣き崩れた。
「お気持ちは察しますが、こうするしかなかったんです。陽介さんには協力金として一千万円を振り込みます。地球に帰れますよ」
プティリのその声は俺を心底腹立たせた。
「なんだと……そんな金なんかいらない!」
倒れて全く動かなくなってしまったナポリを腕に抱きそう言った。
「お前達には愛や悲しみがないのか! この星の生き物は命の尊さすら知らないとでも言うのか!」
プティリはそっと銃を仕舞いながら言い返す。
「私だって命の尊さくらい分かります。だからこそナポリさんがしてきたことを許せなかったのです。ナポリさんがこれまでに流出させた兵器情報により大宇宙では何千、何億もの星系で戦争により犠牲者が出ます。それに、ナポリさんもあなたも他の宇宙人と同様に自分の生存のために他の宇宙人の命を犠牲にしてきたでしょ」
プティリは寂しそうにそう呟く。確かに俺もトカゲ種を轢き殺した。
だからと言って、いきなりナポリを殺すことはないではないか!
「もうナポリさんには触らない方がいいです」
「なんだと」
プティリは俺に手を差し伸べる。
冗談じゃない!
プティリの手を掴む気になどなれない!
しかし、つい先程まで美しい姿で横になっていたナポリから物の焼けるような音と異臭が放たれてきた。
「ナポリさんの体はあなた方と形は似ていますが全く違う物質で構成されています。これ以上近くにいては陽介さんが危険です」
ナポリを抱く俺の手をプティリが握ると、ぐっと引き寄せた。俺は抵抗しようとしたのだが、その手を引く力は人間の力などではない! クレーン車のフックで引っ張る様な桁違いの力だ!
プティリの前に引き寄せられた。
「もう振り向かないで下さい。ナポリさんは今の姿を決して見られたくはない。そういう種族です。行きましょう」
振り向きたい衝動をこらえた。
プティリがここで嘘をついているとも思えない。
それがナポリの望みだと言うから……。
部屋には鼻を突くようなガス臭が漂いだした。
この匂いは――記憶にある。
最初にナポリにもらった果物と同じ匂いだ。
この匂いは一生忘れない――ナポリと共に――。
涙を袖で拭きながらプティリに手を引かれ部屋を出た。
自分の情けなさに……涙が止まらなかった。
プティリは何も言わなかった。
プティリに第三階層宇宙港まで連れてこられた。
一千万円の使い道は決まっている。当然地球への帰還だ。ナポリのいないオートゥエンティーに留まる意味はない。
「もっとゆっくりしていかれても構いませんよ」
皮肉なのか本心なのか解らない。この可愛さを装ったプティリも化けの皮を剥がせば他の宇宙人と同じなのかと思うと嫌気がした。
もう何も信じられない……。
「私は宇宙生物ではありませんよ。陽介さんの世界で言う作られた機械に属します。化けの皮なんて被ったこともありません」
あれから初めて口を開いた。
「なんだって? アンドロイドか」
「機械です。ドロイド。ロボット。メカ」
そんな馬鹿な。
機械が人や生き物のように温もりがあるはずがない。それに感情など理解できるはずもない。
「愛や感情が優先するあなた方の思考は十分理解できます。私達はもっと進んだ思考制御を行っています。逆にあなた方には到底理解出来ません」
俺は黙った。
さきほどからプティリは俺の言葉を聞いてもいない。しかし俺の考えていることを全て把握している。把握して俺と会話をしているのだ。
「人の脳波を解析するのも大して難しいことではないのです。前に陽介さんに叩かれましたが、本当は簡単に避けることもできたんですよ」
そう言って少し舌の先を見せる。
そう聞くと、俺はあえて声に出しプティリに質問した。
「一ついいかい。ナポリは君のことを自分と同種族だと言っていたが、一体どういうことだ。ナポリは機械では無かった」
プティリは難しい顔をして答えた。
「ナポリさんにはナポリさんの思い描く姿で私は映ります。陽介さんにも同様です。でも初めにそれが定着するので、それ以後は同じ姿で映るのでしょう」
「しかし、実際に触ったり出来るのは何故です。立体映像ならそんなことは出来ないはずだ」
翻訳器やフィルムを手渡されたときもプティリと触っている。映像であれば物を持ったり接触したり出来ないはずだ。
「立体映像なんかじゃありません。私にとって宇宙人の皆さんの感覚や物理的な力の動きを制御するのはそんなに難しいことではないんです。物理的感覚のある催眠術とでも思って下さい」
「催眠術……」
ここの星に来た当初は、夢であってくれと願っていた。
「辛い記憶であれば、ここでのことは消すことが出来ますけれど……」
プティリが申し訳なさそうにそう進言してくれる。俺の答えは分っているはずだ。
「やめてくれ。俺がナポリのことを忘れてしまったら、ナポリは……」
喉の奥が熱くなる。また涙が溢れてしまいそうだ。
「ナポリさんをそこまで愛していたんですね。ちょっと羨ましいな」
溢れ出た。
この星にない透き通った水を何滴も、何滴も、枯れるまで俺は垂らし続けた。
「陽介さんが帰る場所と時間は、こちらに来る前と同じに出来ますが、それでいいですか」
「何だって? じゃああの自宅への帰りの車に……あの時間に戻れるのか」
「戻れます。今回のあなたの功績により許可されました」
功績と言ったって俺は――。
「いいえ、あなたが発信器を付けたことにより、情報送受信方法と受信している位置を確実に突き止めることが出来ました。今まで特殊な通信装置を使って異次元内で情報を転送してたため、位置が全くつかめなかったんです」
「しかし、渡された発信器は壊れていたらしいし、外されてしまった」
プティリはクスリと笑う。
「ノリの部分が超高性能な発信器だったんです」
「ノリが?」
悲しいはずなのだが……プティリの笑顔に連れられて思わず笑ってしまう。
機械の進んだ思考回路はまんざら嘘ではないようだ。少しでも落ち込んでいる俺を励まそうとしている。
それで今ハッキリと分かった。
目の前にいるプティリこそが統括者であり、ナポリや他の暗殺者に金を支払っていた張本人なのだろう。
プティリはオートゥエンティーだけでなく、このトータル星系を全て制御しているメインコンピューターの端末のような存在で、そう考えている今も俺や他の宇宙人の思考回路を解析し続けているのだろう。
「……端末という表現はちょっと違いますけどね」
ちょっとふくれっ面を見せてそう言う。プライドを傷つけてしまったのだろうか。
機械やコンピューターであれば端末と本体などはネットワークで繋がっている。端末でも本体と同程度の計算や処理が行えるのかも知れない。
「ちがいますよ。陽介さんが話している私が本体です。惑星や宇宙船が端末なんですけど、この際、どっちでもいいですね」
そう言ってまた笑顔を見せる。
「宇宙ではどんな種族であれ、皆が似たようなことをしています。その規模が大きいか小さいかというだけなんです」
百万もの惑星を使った動物園。
その存在価値は高知的生物をただ楽しませるだけなのかも知れない。
呆れてものが言えないのだが、もしかするとプティリの暇つぶしや小遣い稼ぎであってもそれを否定できないのだ。
ここの連中は幸せなのだろうか。
宇宙における幸せの尺度なんてものを俺は持ち合わせてはいない。
地球における幸せの尺度すら、俺は持ち合わせていなかった。
「陽介さん。地球にいる時のあなたの現実逃避力や宇宙に対する好奇心はかなり高かったです。でもあなたは幸せの中心にいてそのことを見失っていたと言っても過言ではありません。自分が一番大変だなんてとんでもない」
「ああ。分かっている」
恥ずかしくてその話はしないで欲しい。
断言できる。今では現実逃避力は最下位だろう。
「どこか遠くへ行きたいと願っていたが、こんなところまで来ないとその間違いに気が付かないなんて……」
変わらなくてはならないのは場所ではなく、自分自身だった。
「それでも。また来たくなったら現実逃避力を上げて下さいね。それか一千万円あればいつでもお受け出来ますよ」
「……ああ。今は一刻も早く現実に逃避したくてうずうずしているよ」
プティリと別れの握手をした。
「最後に……私の肩に手を置いて下さい」
「?」
「目をとじてもらえますか? あと、もう少しかがんで下さい」
言われた通りにする。
プティリを警戒しても仕方がない。キスでもされるのかと思った。
「厳選なる審査っていうのは、私の好みも入っていたんです。人間って素敵ですね」
唇に湿った温かさを感じた。
そっと目を開けると、プティリはそこにはもういなかった――。
宇宙船で帰ると思っていた。
目を開けた瞬間、トンネルが見えた! 走り続ける車の中にいたのだ!
「――うわあ!」
突然の出来事に分けがわからず、60キロ以上のスピードでトンネル入口の壁に直撃した。
……行きの料金が百万円と言うのが宇宙船代であったのに対し、帰りの一千万円と言うのは……転送費用……?
気が遠くなる……。
緑が揺れるトンネル。そこは紛れもなく地球であった。




