07 義息、街の賑わいに触れる
ばくばくと、激しく波打つ感情と鼓動。
はしり疲れた足で俺は、何とか宿屋の部屋にまでたどり着いた。
飯はどうするのかと問う宿屋の主人を無視して、宛がわれた部屋に転がり込む。
男爵家の部屋と比べようもないほどに質素な部屋だが、馴染みのない部屋は俺を少しだけ安堵させる。
(父の真意など、今更知ったところでなんになる)
水差しから直接水を飲み、口端からあふれ出た水を乱暴に拭った。
(それでもあの男が、母を孤独に死なせたという事実は何も変わりはしない)
―――それでも。
ヴェルナーから聞かされた過去に、確実に少しだけ救われている俺がいた。
父は確かに、母のことを愛していたのだと。
母の死に、あの男は少なからず打ちひしがれていたのだと。
そう分かっただけで、あれほど燃え盛っていた父を恨む気持ちが、急速に萎んでいくのを感じる。
長年抱いてきた思いだというのに、今はもう暖炉の残り火のように小さく揺れるだけだ。
けれどそれを、素直にうれしいとは思えなかった。
むしろ悔しかった。
のけ者にされたような孤独を感じた。
それならどうして、もっと早く言ってくれなかった。
妙薬を探しに行っているのだと知っていれば俺だって、こんなにも激しく父を恨まずに済んだのに。
“恨む”という感情は、気力を激しく消耗させる。
父を恨むことで己を支え、その怒りで今で生きてきた俺は、一体何だったのか。
体を襲う虚脱感に、逆らわず寝台に転がり込んだ。
粗末なベッドは、みしみしと嫌な音を立てる。
―――どうして俺ばかりを、皆のけ者にするんだ。
寝入りしな、そんな子供めいた思いが浮かんでは消えた。
***
翌日は快晴だった。
最低な気分で目を覚ました俺は、とりあえずお湯を貰い体を拭った。
ちょび髭の主人に、部屋であまり騒がしくするなと注意される。
昨夜寝台に飛び込んだ時の事を言っているらしい。
「すまない」
「いや、分かってくれりゃあいいんだが」
この宿屋はまだ新しいらしく、よそ者の主人は俺のことを知らない。
それがこの宿屋を選んだ、最大の理由だった。
「それじゃあ、朝飯出すから、待ってな」
昨夜何も食べずに眠ってしまったので、目覚めて最初に感じたのは猛烈な空腹だった。
悔しさに打ちひしがれていても、腹は減る。
俺の体はいつもの営みを止めようとはしない。
「はいよ」
そう言って出されたのは、固いパンに肉の塊が入ったスープだ。
やけに量が多いので、俺は驚いて主人を見た。
「おまけだ。なにやら大変らしいから」
そう言って、男はすぐに離れていった。
しばらく憮然としながらも、大人しく口を付ける。
肉の油が浮いたスープは、寝起きには少し重かったが旨かった。
朝食を終えて着替えを済ませ、髭を剃ると外に出た。
空は気持ちいいほどに晴れ上がっている。
いじけた男の感傷になど付き合ってはくれないようだ。
宿屋の入り口がある路地を抜け、大通りに出るとそこは市場だった。
天幕を張った店がいくつも並び、あちがこちらで客を呼び込む声がする。
海が近いこの街で、一番の商品はなんといっても魚だ。
朝採れたばかりの魚は、まだ生きているのか店先で苦しそうに鰭を動かしていた。
魚を売る店、野菜を売る店。
俺が子供の頃より騒がしくなった市場を眺めていると、ふと見慣れない物が目についた。
開いた魚の、表面が固まって変色している。
一瞬腐っているのかと思ったが、そうではないようだ。
その店には乾いた魚ばかりが並び、普通の魚は一匹も扱っていないようだった。
「これはなんだ?」
思わず、暇そうな店主に声を掛ける。
「あー、こりゃ干した魚だよ。こうすると長く保つんだ。あんちゃんもどうだ? 旅のお供に一つ」
「魚を携行食にするのか?」
驚いて、俺は魚をもう一度見た。
目玉はなく、それがある筈の場所には丸い空洞が空いている。
「ああ。味が凝縮されて、火で炙るとなかなかに旨い。だが如何せんまだ珍しくてなあ、なかなか売れねえのさ」
「そんなこと、俺に客に言っていいのか?」
「いいのいいの。どうせあんちゃんも冷やかしだろ?」
皮肉めいた言葉に、言葉もなく黙り込んだ。
確かに、買い求めようと店に近づいたわけではない、が。
「俺としちゃ別の店をやりたいんだが、この事業はヴェッラ商会トップの肝煎りでね」
「ヴェッラ商会の……?」
そのトップということは、つまり俺の義母の手がける事業ということだ。
「ああ。魚の販路をもっと広げたいってんで、保存が利くように天日で干してんだ。なんでも亡くなった前当主が遠い異国で食べたとかで……」
前当主というのは、父のことだろう。
だとしたらその遠い異国というのは、父があの墓石を求めて訪れた地かもしれない。
「五十歳も年上の旦那に先立たれて、十八歳で未亡人ってんだからすげえよなぁ。何が凄いって、その年で天下のヴェッラ商会を取り仕切ってるってんだからよう」
「あんたは、その……奥方に会ったことがあるのか?」
尋ねたのは、俺が女狐だと断じた女の第三者の意見が聞きたかったからだ。
しかし返ってきたのは、思いもよらない言葉だった。
「さては、旦那も男爵様の後釜に座ろうってきた口かい? 辞めときなよ。悪いことは言わないから」
「後釜?」
「そうさ。たんまり金を持ったうら若き未亡人なんて、誑し込めば一生遊んで暮らせるんだぜ? 我こそはってんで、近くの領地から男が集まって集まってしかたねえよ。おかげで街はむさい男だらけさ。街がにぎわうのは悪いことじゃねえがな」
「なら、愛人を作りたい放題か」
俺が皮肉げに言うと、男は分かってないなとばかりに首を振る。
「それが、旦那が死んで一年が経っても、その喪服をお脱ぎにならねえ。言い寄る男を寄せ付けもしない。泣かせるじゃねえか。操立てしてんのよ」
男がパイプを持ち出して、呑気にその煙をくゆらせる。
俺は言葉もなく、ただ生臭い店先で黙り込むより他なかった。