06 家令、追憶す
「そうですか……」
自分の報告に、主人は悲しげな顔をした。
仕事の時は大人びているその顔が、ランプの下で年相応に歪む。
ヴェッラ商会で辣腕をふるう彼女も、そうしていると十八歳年相応の少女に過ぎない。
「話したのですね。旦那様の想いを」
「出過ぎた真似をしました。申し訳ありません」
墓地で偶然会ったステフに、生前口止めされていた事情を話してしまったのは失敗だったかもしれない。
周囲はいつも親子のすれ違いをもどかしく思っていたものだが、亡き旦那様の望みは息子に心までも自由でいてもらうことだった。
土地や爵位に、縛られてほしくない。
だから―――今のままでいいんだ。
俺や父が何度進言しても、旦那様は結局最後までその考えを曲げられることはなかった。
走るステフの背中を見て、何か自分はとんでもないことをしてしまったのではないかという罪悪感と、同時に遂に言ってやったと、後ろめたい喜びが沸き上がってきた。
ステファンばかりが自由なんて、不公平じゃないか。
奥様は―――ステラは死ぬまでこの家に縛られる覚悟をしているというのに。
彼女が最初に屋敷にやってきたのは、十年前、まだ春も浅い頃だった。
十二歳になったステフが家を出たばかりで、旦那様は周囲にそれとは悟らせずともひどく気落ちなさっていた。
彼女の名前を初めて聞いた時、なぜ旦那様が彼女に目を付けたのかすぐに分かった。
ステファン。ステラ。綴りの似た二つの名前。
どちらも、聖人スティーラを語源とする名前だ。
旦那様はその共通点に、何かしらの感傷を抱いていらっしゃったのだろう。
ステラは、はじめ八歳とは思えないほど小さくそして痩せていた。
茶色い目に、茶色い髪。なんてことはない、どこにでもいそうな娘。
彼女は近隣の領から食い詰めて逃げてきた農民の子供らしかった。
領界を示す森の中、彼女の側でその両親らしき夫婦は狼に食い殺されていたからだ。
なぜ彼女だけが無事だったのか、それは今になっても謎のまま。
聖人スティーラが守ったのかもしれないし、或いはただの偶然かもしれない。
けれどそんなこと、この期に及んではどうでもいい。
ステラは意外なことに、計算の才があった。
文字や数術を驚きの速さで吸収し、周囲の大人を驚かせた。
始めは名前が似ているだけで彼女を連れてきた旦那様も、いつしかその才能に惚れ込み、彼女に商会の跡目を継がせたいと考えるようになった。
旦那様は何度も家令をしていた父に相談し、その手はずを整えた。
ステラはステラで、多少感情表現の薄い子供ではあったが、自分が旦那様にお世話になっていることをよく理解し、彼の望みをできるだけ叶えようとしていた。
その一途さは、見ている者の胸を痛ませるほどだ。
彼女にだって、本当は他の人生があったのかもしれない。
普通に年の釣り合った男と結婚して、人並みの幸せを手に入れるという自由があったのかもしれない。
しかしステラは、そんな未来をかなぐり捨てて、旦那様に奉仕した。
晩年お体を悪くされた旦那様のために介護をし、彼女は旦那様と敬愛だけの結婚をした。
俺は―――俺はそれを、見ていることしかできなかった。
四歳年下の、やせっぽちの女の子。
年頃になっても、身を飾ることには興味を示さず、商会の仕事ばかりをしたがった。
孤児院の子供たちの面倒を見るのが好きで、けれど無表情だから恐いと泣かれていた少女。
俺は、ステフに手紙を送ることしかできなかった俺は、彼女の圧倒的な強さに、ただただ驚くばかりだった。
はじめは、見習いとして始めたお屋敷仕事。
よく失敗して、父にこってり絞られた。
晩飯を抜かれた俺に、ステラはそっとパンを持ってきてくれるような、そんな優しい子供だった。
いつの間に、こんなに大きくなったのだろう。
いつの間に、こんな表情をするようになったのだろう。
十八歳で、いつも未亡人を表す黒のドレスを纏う彼女を、俺は複雑な思いで見ている。
誰よりも近くで彼女に寄り添いながら、決して超えることのできない線が二人の間にあるような気がして。
彼女との時間は、ほろ苦く少しだけ甘い。
俺はその華奢な肩に、そっと毛糸で編まれたボレロをかけた。
「もう冷えます。寝室は暖めてありますので、そちらでお休みください」
家令仕事も、随分板についてきたと思う。
父が死んで、相次いで旦那様もなくなり、ステラと二人三脚で男爵家を守ってきたという自負もある。
―――けれど心は、いつも家令として相応しくない想いに溢れている。
「ありがとうヴェルナー。あなたがいてくれて、よかった」
ランプの下、はにかむ彼女の顔を、俺はただいつも通りの笑顔で、“家令”としての顔で見返すことしかできなかった。