05 義息、過去からの逃亡
商会からの帰り道、考え事をしていたせいか、気付けば宿ではなく別の場所に立っていた。
母の埋葬されている墓地。
その隣にはどう考えてもあのクソ親父が埋葬されているはずで、帰郷してから一度も近づかずにいた場所だ。
男爵領の教会は、海沿いの崖の上に立っている。
墓地はその周辺を覆いつくすように広がっている。
歴史のある教会は、幼い頃の記憶のまま潮風で傷みが激しかった。
母を弔うなら花の一輪でも持ってくればよかったと悔い、近くに花売り娘がいないかと探す。
折よく、売れ残った花をどうするか悩んでいる花売り娘を見つけ、残ったすべての花を買った。
少女は驚いていたが、俺に事情を理解すると切ない笑みを浮かべて、祈りの言葉を口にした。
きっと少女も、身近な人間を亡くした経験があるに違いない。
花を束にして左腕に抱え、俺は古い記憶を頼りに母の墓に向かった、
男爵家の墓は、本来なら教会の中にある筈である。地位の高い者は、救いを求めてより主に近い場所に己の亡骸を埋めてもらいたがるからだ。
しかし、それは父が借金を抱えたヴェッラ男爵家を買い叩く前の話。
母はせっかく見晴らしのいい場所に墓地があるのだから、海が見える場所に埋葬してほしいと生前から言っていた。
果たして彼女の願いは現実のものとなり、彼女の墓は一番見晴らしのいい崖の際に作られたのだ。
つらつらとそんなことを思い返していると、見えてきた墓の前に見慣れた人物が立っていた。
ヴェルナーだ。
以前衝動に任せて鳩尾を殴ったまま別れただけに、声を掛けるのは躊躇われた。
しかし母の墓参りをしてくれた相手に、息子として礼を言わないわけにはいかない。
「ヴェルナー」
声を掛けると、相手は驚いたように俺の顔を見た。
潮騒が足音を消したのだろう。彼は俺の接近に全く気付かなかったようだ。
彼の体が一瞬強張ったのに気付きながら、俺は相手を刺激しないようにゆっくりと近づいた。
開いた右手を軽く広げ、攻撃する意思はないとそれとなく伝える。
「……何しに来た?」
ヴェルナーの声は固い。
「何しにも何も、己の母の墓を参ってはいけないのか?」
憮然として言い返すと、彼は一歩引いて道を開けた。
その向こうに、真新しい墓標が立っているのが分かった。
「隣なんだ。ついでに弔っていけ」
「っ! なんで俺が」
「奥様が、葬儀から墓地の手配まで全て済ませられたんだぞ。実の息子のお前が、墓参りすらしないつもりか」
ヴェルナーの声には、明らかな非難の色があった。
そう言われてしまえば俺は言い返せない。
大人しく花束を二つに割ると、その片方を母の墓前に。もう片方を父の墓前に置いた。
二人の墓はとても似ている。
石に生没年と名前が刻まれているだけで、まるで兄弟のように慎ましく並んでいた。
男爵の墓としてあまりにもふさわしくないと、俺は皮肉な思いを堪えきれない。
「見ろ。金はあるのに、粗末な墓じゃないか。どうせあの女がケチったんだろう」
すると、ヴェルナーの雰囲気が目に見えて尖った。
「よく見ろ」
「何を見ろって―――」
「いいからよく見ろ!」
ヴェルナーに促され、改めて墓を見る。
しかし特に変わったようなところはなく、そこには墓標が二つ並んでいるだけだった。
同じ形の石。そこに刻まれた名前。
なにからなにまで―――。
「……ああ」
そして俺は気が付いた。
その墓標に使われてる石が、遥か東にある島から、わざわざ船を使って運ばれた石であるということを。
母の生前、父はとり憑かれたように幾度もその島を訪ねていた。どんなに早い船でも、往復で半年はかかるというのにだ。
俺はそんなことは他の人間に任せて、弱っていた母の傍にいてくれと何度もあの男に頼んだ。
しかし願いは果たされることなく、母は父を待ちながら孤独に死んだのだ。
だから、俺は父を許してはいけないのだと思う。
それができなくなってしまった、母の分まで。
だというのに、昼間商会で聞いた話が頭にこびりついて離れないのだ。
俺に自由になってほしいなんて都合のいい詭弁だろうと思いつつ、どういうつもりであの男はそんな言葉を吐いたのだろうかと考えてしまう。
「……お前は旦那様を恨んでいるだろうが」
すると突然、ヴェルナーが口を開いた。
水平線では太陽が、最後の命を燃やしている。
東の空からはひたひたと夜が忍び寄っていた。
「旦那様もお辛かったんだ。それを分かってやれ」
「何を今更っ」
俺の考えを読んだようなヴェルナーの言葉に、一気に体が熱くなった。
―――俺が怒りを忘れたら、一体誰が母の無念を晴らす?
孤独に死んだ母のことを、俺はいつまでも忘れたくないのに。
「ずっと、旦那様に口止めをされていたことがある。だが、その旦那様はもういない」
ヴェルナーは悲し気に父の墓標を見た。
その視線に、口がきけなくなる。
思わず体が震えた。
日が暮れて温度が下がったからだけじゃない。
今からヴェルナーが口にする言葉が、恐ろしくて仕方なかった。
「この墓標に使われている石な、遥か東の国では万病に効く薬として珍重されている物なんだ。ほんのわずかしか取れなくて、だから金だけで手に入るようなものじゃなくてな。だから旦那様は何度も東の国に通って、ようやく譲ってもらえたのだと言っていた。けれど結局、間に合わなかったと―――」
「嘘だ!」
思わず遮る。
ヴェルナーの言葉を、理解したくなかった。
だとしたらあの男は、俺がずっと恨んできたのは―――。
「結局、他の病人に試しても治癒の力なんかなくて、だからいっそ墓標にするのだと旦那様はおっしゃった。これが、奥様に何もして差し上げられなかった己の罪の証だからと。墓を参る度に奥様の無念を思って、ずっと忘れないために墓標にするのだと仰って……」
今度は遮ってもいないのに、ヴェルナーは言葉を詰まらせた。
俺の頭は真っ白で、彼の様子なんて気にしている余裕はなかった。
ただただ悔しくて、切なくて、寂しくて。
感情が溢れてしまって、今すぐ叫びださないのが不思議なくらいだった。
「なあステフ、奥様は―――」
「うるさい!」
俺は話の続きを拒絶して、背を向けてその場から走り出した。
まるで負け犬のように、みっともなく。
俺はただ滲む地面を見て、がむしゃらに墓地を去ったのだった。