29 侍女は騎士と向き合って
窓の外からは春らしくさわやかな風が吹き込んだ。
呪文もなく魔法を使ったレシィリアが、まるで地面を駆けるように空を踏みしめて窓辺から離れて行く。
アイリアは駆け寄った窓の外から彼女の背中を見つめた。
「本当にこのまま出て行くおつもりでしょうか」
「たぶんね」
「――あんなに堂々と姿を空中に浮かべていては、出る前に発見されそうですけど」
アイリアは正直な感想を呟いた。
とはいえ、抜かりなく彼女ならば幻覚の魔法か何か使っていそうだ。最初から真実を知るアイリアに、それはきっと効果がないのだろう。
おそらくそうだと自分に言い聞かせて、アイリアは先ほど当人に宣言したとおりにレシィリアの無事を祈ることにする。
「慈愛深き我が神ルファンナさま――かつて得た信によりて、願います。どうかレシィリアさまの旅が安全でありますように」
この数年欠かしたことのない神への祈りだが、それを本当に口に乗せるのは初めてのことだ。いつもの文言を変えていることもあるのか違和感があり、胸が詰まるような心地がした。
それでも構わず、いつものように祈りに自分の魔力を乗せる。
セルクがフェストの記憶を有するのだから、アイリアの前世は本当に、間違いなく、神に力を授けられた巫女だ。
だからきっと、慈愛神はアイリアの願いに耳を傾けてくれるはずだ。アイリアにとって妹のような少女をきっと神は守って下さる。
――神は万能な存在ではないと知ってはいても、アイリアはそう信じたい。
「きっと君の祈りは届くよ」
アイリアの感傷的な気持ちに寄り添うようにセルクは言ってくれた。
「ええ」
レシィリアが階段を下りるように少しずつ高度を落とし視界から姿を消すのを確認して、アイリアは窓の外から振り切るように視線を室内に戻す。
「きっとシーリィさまは悲しまれますし、レイドルさまはお怒りですよ」
「だろうね」
振り返って向き合ったセルクは言葉少なに応じる。気付かぬ間に驚くほど近くに彼が迫っていたことにアイリアは驚いた。
まるで、つい先日の――襲撃事件の時の再現のようだ。
「すぐ戻るのも気が重いし、少し話でもしようか」
「そう……ですね」
そんな場合ではない気はしたが、これがようやく訪れた彼とゆっくり話す機会だとアイリアはうなずいた。
アイリアちゃんは座っててと勧めると、セルクは手ずからお茶の用意をしてくれた。彼がそんなことをするところなどついぞ見たことはなかったが、案外洗練された動作だ。
日頃は自分が仕事にしていることであるから彼がお茶を入れられるかなんて考えたこともなかったが、一口飲んでみたお茶の味もなかなかのものだ。
おいしいと思わず口にすると、セルクはにっこりと笑った。彼は自分のカップも傾けて満足げにうなずいている。
セルクと知り合ってもう随分と過ぎたような気がするが、二人きりでお茶を飲むなんて初めてのことではないかとアイリアは記憶を思い起こした。
常に王女の側に控える侍女と騎士が二人きりでテーブルを囲む機会がそもそもあるわけがない。もし仮にそのような機会があったとしても、全力で回避する方向に動いたはずだ――彼が前世の記憶を有していると知る以前であったら。
アイリアは「セルクさまがこんなにおいしいお茶を淹れることができるなんて存じ上げませんでした」などと思わず口にして、本当に話したいことを後回しにしてしまう。
そもそも何を彼と話しをするべきなのかというところからわからないくらい、何も定まったものがないということに今更ながら思い当たったくらいだ。
なぜならば、武家筆頭家の当主となった上に肩書きまで増えたセルクほどではないにしても、アイリアだって近頃は何かと忙しくしていた。――というのは、現実を直視しきれなかったことに対する言い訳にすぎないのだろうが。
冷静ぶった裏側で、アイリアは大いに混乱してたのだ。
相手はどうなのだろうと様子をうかがったセルクの方も、なにやら難しい顔でカップを傾けている。アイリアのように話しの切り出し方に悩んでいるというよりは、自らの淹れたお茶の味について吟味しているように見えてしまうのは、これまで散々セルク・アートレスという男に振り回されてきた自覚があるからだ。
とにかく、真面目な話をしようとすると混ぜっ返したり茶化したりするのが彼の常だったのだ。それだけで真面目なたちのレイドルとアイリアを苛立たせるくせに、いざとなればそれなりの応対をするものだからよけいに腹立たしく思えたものだ。
シーリィはそれを面白がることが多かったので、アイリアはレイドルという同士がいなければ苛立ちを誤魔化す方法に困ったに違いない。
現実逃避がちに過去に思いを馳せていたアイリアは、セルクがそっとカップをソーサーに戻す音で我に返った。
「ティーファの記憶があったという割に、君は俺と初めて顔を合わせた時冷静だったよね」
セルクは唐突に口を開いた。
「そう、ですか?」
アイリアはきょとんと聞き返した。
「我ながらとても動揺してました。それを表に出さないように必死でしたけれど――貴方の自己紹介には目眩を覚えたような気がします」
それを聞いたセルクは目を細めて、何かを思い返しているようだ。
「――まあ、あの時は俺の方も動揺していたから、君がそう言うのならそうなんだろうね」
「貴方は平然としているように見えましたけど」
「さすがに俺も、初対面の王女殿下に最初からあんなご挨拶をするつもりはなかったよ」
アイリアが思わずえっと漏らすと、セルクは彼らしく冗談めかして笑う。
「殿下のご様子を伺いながら少しずつああいう方向に持って行こうとは思っていたけど」
「は?」
「父上殿は王女殿下の即位に期待していたけど、どう考えても魔法を使えない殿下の即位なんて情勢的に難しかったでしょ。それなら適当な態度でいてそのうち切り捨ててもらえれば穏便に出奔できるかなと」
「ええ?」
目を見開くアイリアを見てセルクは優しげに目を細め、それからきりりと表情を改める。
「セルク・アートレスは、魔法が使えないってだけで功があっても出世が望めないこの国の現状に不満を覚えてたんだ。武家の筆頭であるアートレス家の後継者ってだけで、大きな失敗をしない限り特に功が無くてもある程度出世が約束されてる現実にもね」
話の流れが見えないアイリアを置いてきぼりに、セルクの説明はよどみない。
「せめて何か自分だけの名声があればと最年少で騎士の叙任を受けたまでは良かったけど、それからあまり経たないうちにとんでもない量の前世の記憶を思いだしてしまった俺は思いました」
「何を、でしょうか」
ことさら真面目ぶった口振りは前世の彼らしく見せかけながらおふざけする時のセルクのそれのようだと気付き、アイリアは警戒しながら問いかけた。
はたして、セルクは楽しげな笑みを見せる。
「人生、真面目にやっていると馬鹿を見るぞと!」
意気揚々と言い放つ彼を、アイリアは呆然と見つめる。
「……どうしてそのような結論に至ったかが、疑問です」
あの責任感があって真面目なフェストから、はじけきったセルクになってしまうまでの経過がアイリアにはどうしてもわからない。
フェストがティーファと別れてから一体何があったのだろう。若くして世界を救い隠遁した戦士のその後は、仲間であったティーファの耳にも届かなかった――少なくとも、アイリアが夢に見た限りでは彼女は嘆くばかりだったのだから。
「色々あったんだよ」
セルクは頬杖をついてアイリアを観察するように見つめながら、口ではそう言った。
「いろいろ、ですか」
アイリアは馬鹿みたいにオウム返しをして、逆に彼を観察する。目を目を合わせて見つめ合うようにしても、彼の真意は全く読めなかった。
「前世を思い出すまでの俺だって現状に不満を持っていたんだから、少々責任を放り出してもいいんじゃないかとやけになってたんだけど、ね」
「やけになって、ああだったのですか……?」
アイリアの目から見て、セルクは常に楽しそうに見えていた。そうでなかったのは、彼が父親を亡くし忙しくなったここ最近のことだ。
「勝ちの目の少ない王女派に属してもアートレスに先はないと思ったんだよ。だったら没落の憂き目にあう前に穏便に面倒な立場を返上したらいいんじゃないかなーと思ってたのにねえ」
ただでさえ混乱しかけていたのに、続く言葉にアイリアはますますその思いを深める。
セルクの手がすっと伸びて、「しわ寄ってる」とアイリアの眉間を押さえてきた。
「誰のせいだと思ってるんですか」
「俺のせいなのかなあ?」
苦笑する彼はセルクらしくもなく、かといってフェストのようでもない。ちょうどその真ん中くらいのどっちつかずの態度の彼も、実はアイリアと同じように混乱の中にいるのかもしれない。
「とにかく、うまいこと旅立てたら君を――まあつまり、ティーファの生まれ変わりを探しに行こうと思ってたのに、まさかの場所に君がいたことには驚いたよ。あんまりびっくりしてするつもりもなかったふざけた挨拶しちゃうし、シーリィちゃんにはウケたけどレイちゃんは怒るし、肝心の君には呆れられたし……」
未だに記憶にくっきりと刻まれている衝撃の挨拶を、アイリアはその時の感情込みで思い出した。
「あれが、私の存在の驚いての暴挙だった、と?」
「動揺のあまり、初っぱなからこういうこと言ったらすぐに罷免されるかなと妄想していた言葉がつい口から飛び出ちゃった的な」
「――ティーファと別れてからどんなことがあれば貴方がそんなにはっちゃけた言動をするに至るのか、経緯が非常に気になります」
「聞かない方が幸せなことは、世の中にあると思うよ?」
にこにこしていた人が不意に真顔になったので、アイリアは思わず口をつぐんだ。
「でも、俺としてもティーファのその後が聞きたいから簡単に言うと、世界を救った人にしてはフェストの人生はその後華々しくはなかったね」
なのにあっさりと前言を翻すようにセルクは話し始める。
「再び世界に魔獣を解き放たないためだなんて理由で、短絡的にティーファと離れたことを生涯後悔し、そして彼女の最後の言葉にすがって過ごしてきた」
こうやって生まれ変わってもそのことをはっきりと思い出すくらいにね、そう続けるセルクは皮肉げな笑みを口元に乗せている。
「ティーファは、どうだった? フェストを恨んでいなかった?」
そして、彼は一転不安そうな顔になった。
「フェストは深いところまで考えすぎて空回りしてたと思う。魔獣の封印に沸く中心から離れれば、素性を隠した世界の救世主なんて誰にも正体が気付かれることがなかった。ティーファの言ったように、ほとぼりが冷めた頃に落ち合えば良かったと、何度も思った」
前言を翻して捜そうともしたとまでセルクは口にした。
彼の前世の行動は知らなくても、その結果をアイリアは知っている。
「見つけられませんでしたか」
「人の身に世界は広いよね」
フェストが後にティーファを捜し出そうとしていたという言葉は、アイリアの胸をほのかに暖かくさせる。だけど。
「後悔しながらティーファを捜す渦中で、貴方は今のようになったと?」
それは無理があるのではないかとアイリアは疑問を口に乗せた。
セルクのふざけた言動は、彼がまだ若いからこそかろうじて受け入れられるものだ。ティーファと別れた時点で今の彼と同じ年頃のフェストが、そこからちゃらちゃらとした人格を身につけるとはとても思えなかった。
「いや、それは――」
セルクはもごもごとつぶやき、困ったように眉根を寄せる。らしくなく視線があちこちにさまようのをみて、アイリアは首を傾げた。
「セルクさま?」
「フェストは我ながらできた人だったと思うので、ごく真面目に思い詰めてたけど、こうなったのは二度目があれだよねえぇ」
「にどめ?」
アイリアは耳にした単語を繰り返した。
「そう、二度目」
セルクはそれをさらに繰り返して、一つうなずく。
「俺、こう見えてフェストの時代に割と思い詰めた後に死んだのね。生まれ変わってから会おうってティーファの言葉にとりすがるような感じで」
「はあ」
「なので、生まれ変わる度に大体同じ年頃で前世の記憶を思い出しながら過ごしてるんだよね」
さらりとした口振りで告げられた言葉が、よく考えるととても重い。アイリアは限界まで目を見開いて、セルクをまじまじと見た。
「そ、それは……その、あの」
何を言っていいのかわからないまま、それでも何か言わないといけないような気持ちで口を開いたが、結局はただ意味のない単語だけが口から出て行くばかりだ。
居心地悪く口を閉じるしかなくなったアイリアを見るセルクの目は場違いなくらい優しく感じられた。




