隣国に婿入りすることになる話の序章
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ヴィー、ことヴィーラント・ドリト・マントイフェル、二十歳は隣国ラインラントのマントイフェル侯爵家の三男坊である。
先の戦の後に締結された同盟により、ラインラント国とここハニルメリビナ国は王家に連なる貴族の内数人をお互いに交換留学することになった。王姉を母に持ち且つ三男という微妙さを持つヴィーラントは、ほぼコネで王宮に出仕し、割と気ままにしていたところを、もうちょっと国の役に立てとばかりに送り込まれたわけである。
学校に通うには年齢を重ねているため、実際には留学ではないわけだが、さりとて正規の外交官の任に就くには前歴とやる気が足りなさすぎる。
そのため、外交官に学ぶというわけの分からない言い訳でもって、留学ということにされた彼の現在の立場は、外交官補佐見習いという何とも微妙なものであった。
仕事内容は、外交官の使いっ走りをしながら、身分とそこそこの見目を利用してラインラントの好感度を上げてこい、である。
そんな、大した働きはあまり期待されていない彼ではあったが、意外にも役に立っていた。
勿論、外交官補佐見習いとしてではない。
ハニルメリビナ国王太子、フェルディナンド十八歳と親しくなったのだ。
ヴィーラントとフェルディナンドが友好を深めた経緯は大したものではない。
自身のそれなりの見目の良さを理解しているヴィーラントは、己の体形を維持するためと受けの良さを狙って、毎朝業務前に鍛錬と称して軽い運動をしている。
部屋を借りている王宮内には、軍属兵達が使用できる正規訓練場の他に、運動場と呼ばれる多目的な訓練場がある。運動場は王宮内で働く者であれば、王族から下働き、果ては外国人であっても利用申請さえすれば使用可能となっているのだ。
そんな場所で毎朝運動と素振りを行うヴィーラントの元に、ひょっこりフェルディナンドが現れたのが始まりであった。
勿論、護衛付きではあったが、普段正規訓練場を利用するであろう王太子の出現に、流石に驚くも、どうやらストイックに自主訓練を行う姿が素敵だと、女官や侍女の間で噂になっているらしい。しかもその正体は隣国王族であり、夜会等ではさらりと女性を褒めるし、乙女心をがんがん刺激する人だと評判になっているとのことである。その噂に王女が興味を持ち見に行きたいと言い出したため、兄である王太子が変な虫でないか確認しに来たらしい。
その話を聞いたヴィーラントは、計画通りと内心にやりとしたが、おくびにも出さずしれっと武人ではないが自分の身を守れる程度の鍛錬は必要だから的な心にもない事を口にし、フェルディナンドに好印象を与えたのである。
なんやかんやでお遊び程度の訓練を一緒にするようになり、年齢もそれなりに近い彼らは国は違えど王族ということもあり打ち解けていった。
ヴィーラント、大成功である。
さて、お互いとフェル、ヴィーと呼び合うようになって暫くのち、ヴィーラントは有閑マダムな侯爵夫人にお誘いにより私的な夜会に招かれてた。
その侯爵と夫人は仮面夫婦であり、それぞれが自由な交友関係を築いていることで有名な夫婦であり、夫人主催の夜会等、その内容は押して量るべしである。
自国ならまだしも他国で浮名を流すつもりはないヴィーラントであるが、侯爵家の領地には水晶窟と鉄鋼脈があり、ハニルメリビナ国の国色である黄色の水晶が採れることもあり、非常に発言力の強い人物である。ラインラントの銀細工の輸出が伸び悩んでいることもあり、今後の布石作りの一つになると踏んで、夜会の招待に応じたのである。まあ、お互い分別のあるお遊びならそんなに問題にはならないだろうという考えもあった。頭の回転が素晴らしくよいが地味な正規外交官が渋りつつも了承したのだから、何か問題になれば彼に責任を押し付ければよいのである。
流石に侯爵家では開催できないためか、王宮近くにいくつかある貸会場での夜会では、適度に挨拶回りをし適度の女性陣を褒め称え好みではない人の誘いを躱し続け、今日は顔を売って終了かと思い始めて壁際で休憩していると、近くに一人の人物がやってきた。
暗褐色の髪を少し残して結いあげた彼女は、ヴィーラントを見ると紅を引いた口元に妖艶な笑みを浮かべた。
落ち着いた薄紅色のドレスは最新流行のもので、つい先日フェルディナンドの妹姫が王家主催の舞踏会で着ていたラインのものをアレンジし、大胆に胸元を見せている。
身に着ける宝飾品も質の良いもので、一目で財のある貴族だとわかった。年の頃はヴィーラントと同じ程のようだが、このような夜会に招待されているのだ。恐らくどこかの暇な御夫人なのだろう。
意味ありげにワインのグラスを揺らす彼女に、彼は微笑んだ。
「顔が赤い、少し、酔われたのでは?」
「……ええ、少し飲みすぎてしまったみたい。どこか、休める所に案内していただけないかしら」
妖艶に微笑む姿に、ヴィーラントはそっとワイングラスを取り上げる。多く用意されているテーブルにグラスを置くと、女の右に立って左手を回し、そのほっそりとした左肩に手を回す。
「それはいけない。すぐに、手配を」
大仰に言って見せてその身体を胸へと寄せると、女は抵抗することなくしなだれかかった。
ヴィーラントは近くにいた使用人に休憩所を用意してもらう旨を告げる。
使用人も心得たもので、二人の関係について勘ぐるような素振りを見せることなく、彼女に気遣うような言葉を発しただけで、特に何も言わずに部屋へと案内した。
どんどんどんどんっ!
ノックと言うには乱暴すぎる音を立てて、部屋の扉が叩かれる。
あまりにも五月蝿いその音に微睡みから目覚めたヴィーラントは、ぼんやりとした思考のまま隣で横になったまま微笑んでいる女に僅かな疑問を覚えながらも、ゆっくりとその上半身を起こした。
途端に頭が痛みと不快感を訴える。派手な音を立てて扉が動いてなければ、素肌に心地よいシーツに再度倒れ込んでいたことだろう。
「ヴィーラント、ヴィー! ここにいるんだろう?!」
誰だと問うより前に、扉の向こうから聞こえてきた言葉は自身を呼ぶもので、十分すぎるほど知っている声だった。
フェルディナンド、である。
昨日の夜会は侯爵夫人主催のものであり、内容から言って当然の事ながら王太子である彼が参加するはずはなく、今ここに居るという事実が何を意味しているのかが全く分からなかった。
寝起きと不愉快な体調で頭が回らないこともあって、茫然としてしまい声が出ない。
その内にがんがん扉を叩くフェルディナンドは、業を煮やしたのかついにドアノブを回し始めた。
これには流石にヴィーラントもぎょっとする。寝室に鍵をかけた記憶はなかった。
よくよく考えてみれば貸し会場の客室とはいえ、使用層は貴族である。当たり前に寝室に至るまでには一つ部屋を介する。つまり、この寝室の扉をノックするには、鍵をかけた部屋の扉を開いた上でないとできない。
王太子とはいえ不作法にも程がある。
がちゃりと音を立てて入ってきたフェルディナンドは、今までに見たことがないほどに激昂していた。
「ヴィー! お前、その人を誰だかわかっているんだな!」
近くに寄ってきて、今にも殴りかかってきそうな気配のフェルディナンドに、隣にいた女が胸元をシーツで抑えて起き上がり、絶句するヴィーラントの腕にしな垂れた。
「フェル、人の寝起きに現れて何のつもり? 出ていきなさい」
仮にも一国の王太子に対して驚くほどぞんざいに言い放ち、女は眉根を寄せた。
「しかし……!」
「出ていきなさい」
強く命令を口にする女に、ぎり、と唇を噛んだフェルディナンドは目線だけで人を射殺せるのなら既に死んでしまうような強い視線をヴィーラントに向けた。
一応王族であっても、自国ラインラントでは継承権は遥か遠く、生家でも三男という微妙な立場にいる彼は、この視線に顔を青ざめた。
隣国王太子に睨まれたら、今後の外交に支障が出る。
これは、火遊びでは済まないかもしれない。
大した役目を期待されていない彼ではあるが、立場を悪くすることなど言語道断なのだ。
「ヴィー、後で、俺の部屋に上がれ」
一言一言、重々しく言い置いてフェルディナンドは部屋を出る。勢いと派手な音を立てて扉が閉まるのを見届けた後、ヴィーラントの腕にすがりつく女を見下ろした。
楽しげに微笑む彼女は、昨夜みた妖艶さは陰り見せ日の光の似合う健康的な女にしか見えない。
「うふふー、大成功」
何がだ! 思わず声を出しかけたものをぐっと抑え、彼は女の腕を解きベッドから降りる。昨晩は雪崩れ込むように寝室に入り、ドレスの背の紐を解いた覚えはあるが、そこで記憶が途切れている。はっきり言って自分の服を脱いだ覚えなど全くなかった。となれば上を脱がせたのは女で、わざわざこの状況を作り出したらしい。降り立った自分の腰より下はしっかり、昨日のままの衣装を身に着けていた。
怪しいことと言えば、女好みの甘いワインを渡されて飲んだことだろうか。
何もかもが腹立たしい。
床に落ちていたシャツを羽織りボタンを閉めながら女を見ると、胸元に寄せていたシーツの下からは素肌ではなく、胸元まで覆うコルセットを身に着けた姿が現れた。
その姿にヴィーラントは怒鳴り散らしたい気持ちをこらえ、慎重に口を開いた。
「お前は、一体誰なんだ」
あのフェルディナンドの態度と、この女の態度を見る限りそれなりの身分のある人物なのだろう。それに、相当苛立ってはいたがヴィーラントと同衾していてもその事を咎めかなったということは、誰かの妻ではないらしい。
思ったよりも低い声になった問いに、女は不思議そうに目を瞬かせてから微笑んだ。
「申し遅れました。わたくし、フラムスティード公爵家の娘、ルシェリーですわ」
「フラムスティード?」
半年ほどハニルメリビナ国にいるが、聞いたことも無い名だった。公爵家ともなればそう数も多くない。実勢がどうであれ耳にしないはずがないのに、である。
「この国の貴族ですら名前までは知らぬ者が多いのです。でも、分かりやすく言えば」
一度女――ルシェリーは言葉を切ってから、楽しげに眼を輝かせた。
「王家、一の姫、ルシェリー。どうぞ、よろしくお願いいたしますね、未来の旦那様」
眩暈が、した。
ここから虎視眈々と婿入りを狙う姫様とシスコン(仮)の王太子様から逃げる隣国三男坊の話がはじまるはず。