序章・民姫革命
月光が夜道を照らす。
蒼いような白いような、そんな光。
水に波紋を浮かべるような静かさの中、夜道を一つの影が駆けていく。風のように走る身軽な姿はフード付きのマントで隠れており、中の人相までは分からない。影はただひたすら、静かに夜道を駆け抜ける。
影が目指すのは目前の城だ。城壁に囲まれた東西南北に高くそびえ立つ四つの塔。その真ん中に威風堂々と佇み、他のよりも低いけれど面積だけは広い塔。そんな出で立ちの城は──城と呼べるか怪しいが──その城一つで成り立つ、この国の象徴である。
影は眠たげな気配を感じさせずにきっちりと立っている門番を視認すると、脇にそれて木々の中に突っ込んだ。隠れるように塔へ向かって木々の中を駆ける。城壁にぶち当たると、近くにある木の中で一番背の高いものを吟味して軽々と登った。木から城壁へ飛び移る。この一連の動作が、影が徒者でないことを告げていた。
飛び移ったときに木々がカサカサと音を立てたが、門番達は気付かなかったようだ。影は敷地内に入って一層神経を尖らせる。風の音、獣の声、門番の話し声。その中にひっそりと自分の足音を忍ばせて行く。
一番西にある塔の下に辿り着くと、影は身を猫のようにしならせて跳躍した。二階のテラスに音もなく着地する。それから部屋とテラスを分けるガラス張りのドアに身を寄せた。ドアノブを捻るがもちろん開かない。
影はマントの内側のポケットから、ひっそりと鈍く白く輝く球体を取り出した。球体に語りかけるように口を開く。
「───薄く硬く鋭い刃」
球体が変化する。球体は影が言ったとおりに小さく薄い刃になった。人差し指と中指をくっつけた程の幅で、紙程の厚さの刃をドアの隙間から差し込めば、す───、と掛け金が静かに斬れた。
そっとドアを開けて忍び込む。カーテンを払い、暗い部屋を見渡した。
「……すぅ、すぅ」
寝息が聞こえた。影はそちらへ視線を向ける。寝台の上に、こんもりと丸くなっている物体があった。奇怪な塊に一瞬だけ影は眉をひそめたが、それに近づく。
至近距離まで来て、先程の刃を振りかぶる。
振り下ろした、が。
「……?」
手応えがない。布を切り裂いただけだ。こんもりとなっている物体の正体はただの毛布の塊である。影は慌てて周りを見渡す。すると、
「がっ……!」
背中に衝撃を受け、顔から思いっきり床にご挨拶した。あまりの痛さに目がくらむ。ついでとばかりに両手を捻りあげられ、背中に何者かが乗る。そこで、部屋に明かりがついた。
「───私を殺そうなど、百年早いわ」
澄んだ鈴のような声のする方、部屋の入口に顔をもたげてみれば、可憐なシルバーブロンドの少女が寝間着姿で立っていた。ペタペタと素足で近づいてくる少女は唐突に言った。
「そうだなあ、暗殺者よ。私の執事として働くか、刑務所にぶち込まれるの、どちらがお好みだ?」
不敵な笑みは、影の思考を止めた。
†∽†∽†
まだ春の初めの、花の蕾がやっと開く頃。
エルド塔国第一皇女レーリィンと、暗殺者ラユトの運命が交わったこの日こそ。
───後に謳われる《民姫革命》を始めるための足がかりとなった日である。