寄り添う影
イリーナの後に続いたブコバルは、女主のその魅惑的な後姿がとある部屋の前で止まり、そこに設えられた重厚な扉を叩くのを、少し離れた場所から眺めていた。
廊下側の窓辺に寄りかかり、向こうからは死角になる場所に身体を置く。
厄介なことにならなければいいが。
だが、ブコバルの野性的第六感は、ひしひしと面倒な匂いを感じ取り、それを伝えてきていた。
窓ガラスに薄らと荒削りで精悍な男の影が反射する。その特徴的な透明感のある青灰色の瞳がすっと細められた。これから起こるであろう遣り取りを一言も聞き漏らすまいと神経を研ぎ澄ませる。
館の主であるイリーナの訪いに、薄く扉が開いた。
扉口に顔を覗かせたのは、従者らしい男だった。
見たことのあるような顔だ。ブコバルの記憶の中に、あの男の傍にひっそりと控える従者の姿が薄らとだが浮かんだ。
そして、何がしかの遣り取りの後、イリーナは中に入って行った。
いつでも飛び込めるように、体勢を整え、腰に刷いた長剣の柄に手を掛けた。
ふと窓辺に影が差し、ブコバルは条件反射の如く身体を壁際に引いた。
外を窺うように窓の方へ視線を投げると、大きな鷲と小振りな鴉が近くにある大きな木の枝に飛び乗った所だった。
その光景にブコバルの眉が訝しげに上がった。
【アリョール】と【ヴァローナ】は通常、捕食者と被捕食者の関係にある。相反する性質を持つ二つの姿がこんな間近にあることに何がしかの違和感を覚えた。
このようなところに【アリョール】が何の用だろうか。
直ぐに考えられるのは【伝令】としての役割だ。
術師の間では情報伝達に鷹や隼、鷲などの猛禽類を使う者がいる。軍部でも情報の遣り取りは、専門の術師が世話をする鷹などの翼を持った猛禽類が一般的だった。
そんなことを思っていると、窓硝子にカツンと小さな小石らしきものが当たった。
ブコバルは、窓を開けると下を注意深く見下ろした。神経を研ぎ澄ませ素早く周囲へ視線を走らせる。
だが、どう探ってみても人の気配は感じられなかった。殺気の類も、怪しい人影も見当たらない。
ブコバルは更に気を引き締めた。瞬時に顔付きが、経験豊富な兵士のものに変わった。
そんな時、
―――――――プスーッ!!
小さな摩擦音の合図がした。
―――――――何処からだ?
発生源を求めて、青灰色の瞳が鋭くなる。
「旦那」
囁きのように聞こえた声に顔を上げれば、鬱蒼と枝葉を伸ばす樹木の奥の方で、影の間からゆらりと人影が覗いた。顔の左半分を覆う金茶色の髪が微かな木漏れ日に反射した。そこから、枯れ枝のようにほっそりとした鋭角な顎が見える。
影の中から滲み出るようにして現れた男の顔を見て、ブコバルは一瞬、目を見開いた。
寸での所で漏れそうになる声を慌てて飲み込んだ。
樹木の中にひっそりと佇む男は、口元に人差し指を立てると、唯一、顕わになっている右目をうっそりと細めた。
――――――ルーク。
そこに顔を覗かせたのは、軍部の諜報機関、【チョールナヤ・テェーニィ】に所属している影の男だった。
通常、影は、己が仕える上官以外には姿を現さないことになっているのだが、このルークは少々風変わりな男で、北の砦に居る兵士たちとはちょっとした繋がりがあった。
男は器用に指先を動かすと、軍部の中の特殊な伝達手段である指文字を使って、ブコバルに話し掛けてきた。
『旦那、ちょうど良かった』
何やらどこかで聞いたことのあるような台詞だ。
対するブコバルもその昔覚えた指文字を使って返していた。
『何があった?』
軍部の影が出張っている事態に自ずと緊張が走る。
そして、ルークが伝えて来たのは、ブコバルの意表を突くことだった。
『そこに娘が捕らわれているようだ』
『娘?』
娘と聞いてブコバルが思い浮かべたのは、この娼館で働く女のことだった。
『ああ。旦那んとこの大将がえらくご執心な娘だ』
ブコバルは、それを聞いて益々首を傾げた。
男が差している大将というのはブコバルが良く知る第七師団の団長、ユルスナールのことだった。
だが、あの男に、馴染みの女が居ただろうか。
ブコバルに付き合って娼館を訪れることは過去にはあったが、特に決まった相手というのは無かった筈だった。別に女にのめり込むような奴ではない。それに、今年、ユルスナールはこの街を訪れてから、まだ娼館には足を運んでいない。
判然としない顔付きも、だが、次の言葉を前に驚きに変わった。
『黒髪に黒い瞳の』
『………なん、だと?』
ブコバルの目が、これでもないかという位に見開かれていた。
黒髪に黒い瞳というのは、この辺りでは珍しい組み合わせだが、黒い髪も黒っぽい瞳も其々単独ではいない訳では無かった。
ブコバルの念頭には、とある人物の像が浮かんでいたが、半ば半信半疑だった。その思い付きは、余りにも突拍子が無いことのように思えたからだ。第一、この娼館の一室を借り受けているという王都から来た貴族の男との接点が全く思い浮かばない。
『本当か?』
『ああ。間違いない』
『その娘の名は分かるか?』
どうか違っていてくれ。
半ば祈るような気持ちで口にした言葉は、だが、無情にも砕け散ってしまった。
『リョウ』
―――――――ゴースパジ。
ルークの指先が紡ぎ出す文字の綴りにブコバルは天を仰いだ。
ここまで来れば間違えようがなかった。黒髪に黒い瞳でリョウという人物。ルークの言う捕らわれた【娘】とブコバルの知る人物が一致した。
おいおいおい。どうなってんだ。
ブコバルは思わずといった風に額に手を当てた。
最悪じゃねぇか。リョウの野郎、なんてことに巻き込まれていやがるんだ。大体、ついこの間【ツェントル】に厄介になったばかりじゃねぇか。また、妙なことに首を突っ込んだのか。
最悪な状況に対する憎まれ口が、呪詛の如く渦巻いてくる。
ブコバルから見たリョウは、大人びて落ち着いているのに世間知らずで、この国のことはまるっきり分かっていない幼子のような奴に思えた。
一言で言えば、不思議で仕方がない。幼く見える外見もそうだが、目を離すとふらふらとどこかに行ってしまいそうで、ブコバルとしては、何故か放っておけない気分にさせられてしまうのだ。
その典型的な例がユルスナールだろう。
リョウが北の砦に現れてから、ユルスナールは変わった。いや、変わったと言うのは語弊があるかもしれない。兵士たちの目に映る砦を守る優秀な指揮官としての姿は以前のままだった。
訪れた変化は内面のごく部分的なもので。それは、女関係に鼻の利くブコバルならではの感じ方だった。
それで今度は、連れ込まれたのが娼館とくれば、呆れてものも言えない。全く、世話が焼ける。ユルスナールにもっとしっかり手綱を握っておけと言うべきだろうか。
ブコバルの中では、ユルスナール=リョウの保護監督者的な見方が既に成り立っていた。
それにしても、あの男に少年趣味のようなものがあっただろうか。
そうとなれば、リョウがあの男に掴まった原因とその経緯が不思議で仕方無かった。
リョウの外見から受ける印象は【少年】だ。初対面では間違っても【娘】だとは思われないだろう。
ブコバルは苦々しい気分で、あの扉の中に居るであろう男の顔を思い浮かべた。
そして、ふとした思い付きにぞっとした。
まさか、そっち方面で売り飛ばすってんじゃねぇだろうな。それをあの男が買ったとかか?
この国では、人身売買は禁止されているが、それはあくまでも表向きのことで、闇の裏社会では、借金の肩に女衒に娘を売るなんてことはままった。勿論、男の子の場合も然り。
この色街には、男娼を専門に揃えた店もある。無論、ブコバルとしては足を踏み入れたことも無いし、今後も踏み入れることのない領域だが、そういう嗜好の奴らがいるのは確かだった。
リョウはその色彩と顔立ちの物珍しさもあり、下手をしたら【男娼】としてはもってこいの商品として認識されかねない。珍しいものならば大金を積んでまでも手に入れたいという蒐集癖のある金持ちは意外にいるものだ。往来を歩いていて、そういう方面の奴らの目に止まって連れ去られたのだろうか。
その思い付きに、ブコバルは酷くげんなりした。ぐるぐると考えだせば、それこそ限がない。
だが、これでブコバル自身が関わらない訳にはいかなくなってしまった。
『おい、ルスランには伝えたのか?』
リョウがユルスナールのお気に入りであることはルークも把握しているようだ。それならば話は早い。向こうの思惑とその動きは読めないが、取り敢えずこちらに引っ張る第一段階としては上出来だろう。
ブコバルの問いに、簡潔な答えが返ってきた。
『まだだ。取り敢えず、確認の為に後を追ったからな』
『中にいるのは間違いないんだろうな?』
『ああ。そこの【ヴァローナ】と【アリョール】が見届けた』
『チョールト・バジミー!』
決定的な一言にブコバルは歯噛みした。
『どうする? 旦那が出張るか?』
『相手は【ボストークニ】んとこの頭でっかちだぜ?』
中にいる人物の名前を知らされて、樹木の中に潜む男は、忌々しそうに顔を歪めた。
『げぇ。俺では分が悪い。表立っては動けん』
相手は王都でも名門の家だ。一介の影が近づくには危険過ぎた。過度の接触は我が身を滅ぼす。それにルークとしては、そこまでして捕らわれているであろうリョウに身体を張る積りは更々なかった。そんなことをする理由も無い。所詮、ルークと俄か捕らわれ人との間は、そんなものでしかない。
『旦那』
その辺りのことは、ブコバルも簡単に想像が付いた。
『分かってるよ。お前は自分の職務を果たせ。序でに余裕があれば援護を頼む。それから、お前の伝令を【ツェントル】に飛ばせ。ドーリンに至急、適任の兵士を見繕うように伝えろ』
『旦那んとこの大将には?』
その問いにブコバルはあからさまに溜息を吐いた。
リョウが捕まったなんてことを耳にしたら、ユルスナールのことだ、顔色を変えてすっ飛んで来るに違いなかった。そこで鉢合わせするのが、あのレオニード・ボストークニだと知れた時には、正直、何が起こるか分からなかった。
今度こそ、絶対に血の雨が降る。【ドゥエーリ】だなんて莫迦げたことになりかねなかった。そうなったら笑いごとでは済まされなくなるだろう。
――――――なんて面倒な。
ブコバルの野性的感の正確さはここでも証明されたのだ。
本人にとっては余り嬉しくはない事態だが。
『取り敢えず、打っちゃっとけ。【ツェントル】にいたら、いやでも耳に入るだろう』
後はなるようにしかならない。
ブコバルは全てを天に投げて、その後の成り行きに任せることにした。
そして、簡単にルークと打ち合わせを終えると、再び廊下に向き直り、イリーナが出て来るのを待った。