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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第三章:工業都市プラミィーシュレ
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キヌギヌの朝


「ねぇ、ブコバルの旦那、今度はお友達も連れて来て頂戴な」

 逞しい腕にしなだれかかるようにして口にされた女の言葉に、男は微かに眉根を寄せた。


 ここは、とある娼館の一室。

 好みの女と一夜を共にした馴染み客が、名残惜しそうに暫しの別れを惜しみ、帰路に着く場面である。


「お前なぁ、これから帰るって時に他の男の名前を出す奴があるか」

 だが、発せられた言葉尻とは裏腹に、その声音は些か甘ったるかった。

 日も大分高くなり、仕事を終えた夜の蝶たちが束の間の休息に就く頃合いだった。

 普通ならば、もう少し早い時分に客である男たちはこの館を出ることになっているのだが、この男は、少し出立が遅くなっても文句を言われない程度には、この店にとっては上客であるようだった。

 男は大きな手を伸ばすと、まだ年若い女の弾力のある頬へ触れる。擽るようにして頬を撫でる男の無骨な指先に、女は甘えるように喉を鳴らした。

「何言ってるのよ。あたしが旦那一筋だっていうのは分かってるでしょう? 他の子たちが気になってるの。だって、いつも二人で来るじゃない。なのに、ここのところ旦那一人なんだもの。街で見掛けたっていう噂は聞くから、今年もいらしてるんでしょうけれど、ここには顔を出さないから、皆、どうしたんだろうって気を揉んでいるのよ。まぁ、あの人は、ここに来るだけで目の保養になるでしょう? ちょっと冷たい感じがするけれど、そんな謎めいた所がまたいいって。あたしらの中じゃ専らの評判なの。勿論、旦那も負けないぐらいいい男だけれどね」

 申し訳なさ程度に付け足された文言に、男は拗ねた顔をして見せた。

「俺はオマケかよ」

「まぁ、そんなことないわよ」

 ―――――――あたしには、あなただけ。

 それは、夜の華たちの常套句だ。男の方もそれを良く分かっている。

 束の間の言葉遊びに踊らされるのは男の方なのか、はたまた女の方なのか。

 それをお互い承知の上で、ここは、暫しの夢と快楽を対価として求める場所なのだ。

 虚飾の中に幾ばくかの真実を薄らと練り込んで。


「また来てね」

 男の手が、女の滑らかな曲線を名残惜しそうに辿る。

「ああ。近いうちにな」

「きっとよ?」

 女は、男の逞しい首に剥き出しの腕を巻き付けた。

 申し訳なさ程度に女の身体を覆う薄い夜着からは、昨晩の名残の甘い香水の匂いが男の匂いと共に残っていた。

 そして、女と客は、別れの口付けを交わそうと互いの顔を寄せ合う。


 そんな時だった。

 ―――――――ダン!

 壁の向こう側から、なにかを強く殴打するような音が響いて来た。

 もう少しで唇が合わさるという所で、男と女の動きが止まる。

 邪魔が入ったことを忌々し気に舌打ちする男の傍らで、女が吃驚して音のした方へと顔を向けた。

 再び大きな物音がして、女は肩を振るわせた。

「どうしたのかしら?」

 殆どの客が掃け、女たちは眠りに就いている時間だ。館内は、昨夜の賑やかさが嘘のように静まり返り、束の間の夢から現への扉を開けた。

 そんな状況での大きな物音。それは、通常ならば考えられないことだ。

 耳を澄ませば、遠く諍うような声が切れ切れに聞こえてきていた。

 女は、途端に不安そうな表情を浮かべた。

「この近くよね?」

 この娼館は石造りの三階建てで、女がいる部屋は、最上階、即ち三階にあった。

 この階は、娼館の中でもやや特別な場所で、限られた上客をもてなす為の部屋が並んでいた。この一帯を利用できるのは、金回りのよい商人や資産家の貴族といった連中が多かった。気に入った女や馴染みの女を呼ぶことは勿論のこと、ちょっとした人目を憚る密会にも利用されたりした。

 心配そうに形のよい眉を寄せた女に、男は安心させるように微笑んだ。

「アニューシャ、大丈夫だ」

 男は、女の身体を引き寄せると自分の尖った鼻先を女の少し低めの鼻先に寄せた。

「この階には他に誰が来てるんだ?」

「イリーナに訊かないと分からないわ。アーダとターニャが入るっていうのは聞いたけれど…………アーダのお得意様はこの街の豪商だし、ターニャの方は、地方貴族の次男だけど、二人ともいい人たちだって言ってたし………」

 そう言って、女は不意に顔を青くした。

「二人のどちらかになにかあったのかしら? それとも………」

 この場所は、部屋に入ってしまえば密室だ。扉を閉じてしまえば、小さな、それでいて濃密な世界に早変わりする。女は男に束の間の夢と快楽を与え、男は好みの女の肌に全てを委ねる。

 この娼館は色街の中でも由緒あるしっかりとした店で、女主イリーナの手腕の下、訪れる客は皆、身元のしっかりした男たちが殆どだった。

 だが、それと同時に、ここは、男と女という根源的で原始的な交わりがなされる場所でもある。

 女たちには、娼館で働く夜の華という自尊心とそれに対する心のありようをしっかりと教え込まれているに違いなかったが、完璧な人間など何処にもいない。割り切った関係である娼婦と客の間にも『痴情のもつれ』というものは存在して、そこから引き出されるものは、必ずしも綺麗事ばかりではない。

 ここの客には帯剣をした男たちも少なからずいた。そういう男たちが機嫌を損ねて何らかの暴挙に出たのだろうか。

 それをさせないのが、女たちの手練手管の見せどころという訳なのだが、何事も、全てが思い通りに行くとは限らないのが、人の世の常でもある。


 アニューシャと呼ばれた女が心配したのは、その事だった。良き同志(ライバル)であり、仲間であり、友であり、相談相手であり、苦楽を共にした女たちが、傷つく様をこれまでに何度となく目にしてきた。

 先程の尋常でない物音も、そんな小さな不幸への始まりのノックなのだろうか。

「アニューシャ」

 男はもう一度、女の名前を呼ぶと、その額に柔らかな口付けを落とした。幼子をあやすような優しい仕草だ。

「イリーナは、自室にいるのだろう?」

「ええ。多分」

「では、帰りに確認しておこう。万が一のことがあれば、【ツェントル】の連中を呼ぶ。まぁ、俺だけで対処出来るに越したことはないが」

「……ブコバル」

 心細そうな声を出した女に男は心配ないと微笑んだ。

「俺はこれでも兵士だぜ? こういうのはこっちの専門だ」

 そう言って、自信たっぷりに白い歯を見せて笑う。

 それを見て、女の方も幾分安堵したように微笑んだ。


 男の脳裏には、【ツェントル】を管轄する友人の顔が浮かんでいた。もし、ここで何らかの揉め事の類が起きていて、それが元で兵士が派遣されるようなことになれば、自分にお鉢が回って来るのは火を見るよりも明らかだった。ちょうどよいとばかりに仕事を押し付けるだろう。そうなれば、必然的に状況把握が必要になる。そうでなければ、この場所に居合わせて、何をしていたのだと睨まれかねない。

 面倒だとは内心思いつつも、いい加減な見た目とは違い、意外に律儀な所のあるこの男の次に取るべき行動は決まっていた。

「おやすみ。【ガルーブチク(スイートハート)】」

 最後に、この国特有の挨拶を交わし合って、男は女の部屋を後にした。




 女と別れて、男が向かった先は、この娼館を取り仕切る女主の部屋だった。

 ここの主は、女ながらに酸いも甘いも噛み分けた中々の傑物で強かな人物だった。

 若い頃は、この界隈一の娼妓として名を馳せたこともあった。引退して、この店を切り盛りするようになってからも、その美しさは衰えること無く、年齢不詳の妖艶な色気を振り撒いているというのがこの界隈で聞く専らの評判だった。熟女好きには堪らないだろう。

 だが、そんな絶世の美女にこれから会いに行くというのに、男の顔は余り気乗りしてはいないようだった。基本的に女好きで守備範囲の広い男であったが、ここの女主をそういった対象としては認識していなかったからだ。馬の生き目を抜くという色街で生き抜いてきた女だ。その核にあるのは、苛烈な策士の顔である。ここの女主と対峙していると、その外見は兎も角、とてもじゃないが、か弱い守るべき対象であるとは思えなかった。寧ろ、王都に暮らす老獪な貴族の輩と渡り合っているような気分にさせられるのだ。

 まぁ、そんな男の個人的な心情は置いておいて。数多もの若い女たちを庇護し束ねるここの女主の手腕と気風をこの男が買っているのも確かたっだ。女主は、ここの女たちを大切にしている。商売ということもあるが、それ以上に、だ。女が色街の一娼妓から成り上がったということもあるが、基本的に情に厚い一面を持っていた。


 廊下を主の部屋に向かって歩いていると、当の本人がひょっこりと向こうから現れた。

 白っぽい長いドレスの裾をゆったりと翻して足早に歩いて来た。

「あら、ブコバルの旦那。ちょうど良かったわ」

 人の顔を見るなり、妖艶な中にも薄らと喜色を浮かべた女の瞳を見て、男は内心、たじろいだ。

 この女がこういう顔をしている時は要注意だった。絶対に面倒なことに決まっている。それは、男の過去の経験から弾き出された結論だった。

 だが、男の方もこの主に用事があったのだ。内心の煩わしさはおくびにも出さずに、男は、この界隈の女たちには評判がいいと言う、やや苦み走った微笑みを浮かべた。

「それはこっちの台詞だ、イリーナ」

「あら、旦那もあたしに用があったの? 珍しいこともあるものね」

 男が、自分に若干の苦手意識を持っているであろうことを承知の上で、そんな軽口を叩いてみる。

 対する男は黙したまま、肩を竦めてみせただけだった。

 それを見て、やや可笑しそうに女が笑った。そして、女主と男は、軽い抱擁を交わして、この国の習慣に則り、簡単な挨拶を交わした。


「で、どうしたんだ?」

 男が用件を聞けば、女主は不意に真面目な顔をした。

「ああ。そうそう。さっき、うちの子たちからね、この階で大きな物音がしたって聞いたもだから、ちょっと様子を見てこようと思ったのよ」

 その言葉に男も実は同じ用件であったことを告げる。

「何やら穏やかな感じじゃぁ無かったぞ」

 男の言葉に女主は眉を顰めた。

「客はどんな奴なんだ?」

 男の問いかけに、女主は、少し逡巡するような様子を見せた。

 それもそうだ。ここを訪れる輩は、誰もが大手を振って正面から入ってこられる訳ではない。知られたくないお忍びという場合もある。何処まで客の情報を出すかというのは、顧客からの信用と今後の商売にも関わってくる事態であるから、女主が慎重になるもの頷けた。

 だが、万が一、【ツェントル】の兵士たちが踏み込んで来るような事態になったら、差し障りが生じるのは決まっている。こちらも、そして客の方にもだ。

 この男は【ツェントル】の所長にも顔が聞く。客の名が外に漏れないように穏便に取り成してくれるよう手を回すことも出来るだろう。

 そう判断した女主は、手入れの行き届いた白い手を拱いて、男の耳に顔を寄せた。

「王都から来た貴族。ここの常連客の紹介でどうしてもっていうから、部屋を貸したのよ」

「相手の()は?」

「それは大丈夫。そっちの方は要らないって」

 その言葉に男はあからさまに嫌そうな顔をした。

「妙なことに首を突っ込んでるんじゃねぇだろうな?」

 女の言葉から、客がお忍びで女を買いに来たのではなく、密談、若しくは密会に部屋を借りているということが読み取れた。その内容如何によっては、この娼館に火の粉が掛かる可能性もあった。

 剣呑な眼差しの中にも、どこか心配の色を覗かせた男に女主は、穏やかに微笑んだ。

「その辺は大丈夫だと思うわ。こっちでもそれなりに調べてあるし」

 女の口角が意味あり気に上がった。


 常連客を通しての紹介で、向こうの身元を明かすには憚りがあるということで『さる貴族の御子息』が利用するとは聞いていたが、それをそのまま鵜呑みにするような女ではなかった。面倒なことに巻き込まれて、商売に支障が出ては敵わない。女の方でも万が一の防衛策は取っていた。

 そこに浮かんでいたのは、あらゆる人脈を使って事態を打開しようとする抜け目のない策士の顔だった。

 女は一段と声を潜めると、男に告げた。

「王都でも名門よ。【ボストークニ】家の二男」

 すっと吊りあがり気味の青い瞳を細めた女の顔に、男の方は苦いものを飲み込んだような顔をした。

「げぇ、マジかよ」

 心底嫌そうに溜息を吐いた男に、女主は興味深そうに細い眉を上げた。

「あら? ひょっとしてお知り合い?」

 ―――――――だったら、尚更、都合がいいわ。

 男は口をへの字に曲げると、髪をかき上げた。


 女が告げた客だと言う男の名前に、男の方は心当たりが大いにあった。思い出すだけでも虫唾が走る。いけ好かない奴だ。目的の為には手段を選ばない。一見、物分かりの良い優男風に見えるが、そいつの面を一皮剥けば、そこから覗くのは、対抗心を剥き出しにした自己顕示欲の強い餓鬼の顔だ。

 あの男と最後に顔を合わせたのは、確か、春の初め、男が赴任している北の砦から所用の為、王都へと帰っていたと時のことだった。

 あの男は昔から、何故か、自分の友人を目の敵にしていた。その友人と行動を共にしていた男は、必然的に向こうがなにかと言い掛かりを付けては絡んでくるのに付き合わされることになり、いい加減、閉口していたのだ。男の友人は、その男のことは全く歯牙にも掛けず、始終、無視をするか、適当にあしらっていた。それも昔から変わることのない構図だった。

 いつまでも凝りない、しつこい野郎だ。今となっては、男に対しても妙な敵対心を持つまでになっていて、それがまた面倒さに拍車を掛けていた。

 そんな曰く付きの男が、目と鼻の先に居るという。大きな物音がしたのも、その男に貸している一室であろう。

 顔を合わせたら、絶対に突っかかって来るに決まっている。面倒臭いことこの上ないではないか。


 男はどっぷりと深い溜息を吐きたい気分だった。

「あの野郎、しつけぇからな。出来れば顔は見たくねぇ」

 駄々漏れの内心に、女主は、可笑しそうに目を細めた。

 この男がこんな顔をして見せるのだ。余程、馬が合わないか、二人の男たちの間には人には言えない何かがあるのだろう。

「ねぇ、ブコバルの旦那。取り敢えず、部屋の前まで付いて来てくれるだけでいいわ。中の様子はあたしが見て来るから。でも、もしもの時はお願いするわよ?」

 一応の妥協案を出した女主に男は頷いた。

「分かった」

 ここで、この館の女主に何かあっては大変だった。男が付いていて、怪我でもしようものなら、この女を慕う色々な方面から恨まれるに違いない。

 ――――――仕方ねぇか。

 男は腹を括ると、件の部屋があるという場所へ向かって廊下を歩き出した女主の後に続いたのだった。


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