彷徨う影
ラリーサとコースチャ姉弟の家からの帰り道、少し遅くなったと思いながら、人々でごった返す往来を足早に歩いていると、キーンという独特な摩擦音の後に、上空に影が差した。
次の瞬間、左肩に馴染みのある重みがズシリと乗った。
「ヴィー!」
三日ぶりに見る知り合いの大鷲の姿に顔を綻ばせると、
『リョウ。そのまま聞け』
それ以上の言葉を挟む間もなく低く告げられて、リョウは前を向いたまま、止まりそうになった足を動かし続けた。
大鷲のヴィーは器用にリョウの肩の上でバランスを取っている。まるで肩先に付けられた剝製の人形のようだ。
「どうしたの?」
顔馴染みの大鷲から発せられるいつにない緊張感を感じ取り、目線は自分が歩く通りに向けられたまま、何食わぬ顔を取り繕って低く囁く。
擦れ違う人々が、自分の肩に乗る大きな猛禽類を見て、目を見開いているのが視界の隅に見て取れた。大きな籠を背負った物売りの男が興味深そうに立ち止まる。小さな子供が物珍しそうにこちらを指差し、それを母親に窘められていた。
『お主を追尾しておる輩がおる。東の方角に一人、東南の方角に二人。共に男だ。心当たりはあるか?』
思ってもみないことにリョウの心臓が竦んだ。
驚きに開いた目を慌てて普通に戻す。前を向いたまま、ざっと、リョウはこれまでこの街で過ごした日々を思い返していた。
「いや、この街に知り合いは少ないし。面倒なことに首を突っ込んだ積りも無いけど……………」
と言いかけて、三日ほど前、往来から【ツェントル】にしょっ引かれた件を思い出す。
「………あ」
思わず声を漏らしたリョウに、ヴィーが首を回した。
『なんだ?』
「ほら、この間、往来で酔っ払いに絡まれた件だけど」
『ああ。あれか』
あの時は、運良くヴィーと鷹のイーサンに助けられたのだ。
「あの酔っ払いのおじさん。【ツェントル】で多分、事情聴取を受けて。そこで運悪く(?)知り合いの兵士にお灸を据えられたみたいだった。だから、もしかしたら、逆恨みっていうのかな……そういう感情はあるかもしれない」
今、思いつくと言えば、そんな所だった。
『ふうむ』
ヴィーは、再びぐるりと首を巡らすとその鋭い眼光で後方を透かし見たようだった。
『いや、どちらもあの時の男ではないな』
「まだ、付いて来てるんだ?」
『ああ。やけに手慣れている』
その言葉にリョウの背中に冷たいものが流れた。
自分には心当たりが全くない。カマール関係か、それともユルスナール関係か。それともブコバル関係か。いや、彼らと始終一緒にいる訳ではないし、第一、あの男たちの傍にいても自分の存在などあの二人の前では明らかに霞んで目立たないものになるだろう。
莫迦げた思いつきを急いで振り払う。
だが、ヴィーが態々自分の肩に乗って知らせて来る位だ。それは、どう見ても余りよろしくない類のものなのだろう。
まさか。物盗りの類かとの考えが掠めたが、お世辞にも自分は金品を持っていそうには見えないだろう。傍目にも格好は貧相ですらあると言える。
無言のまま、黙々と足を進めるリョウの傍で、ヴィーが提案をした。
『このまま真っ直ぐ行けば、【ファンタンカ】のある広場にぶつかる。そこに屯する【ゴールビ】と【ヴァローナ】の連中に一斉に合図を送る。その隙に乗じて走れ』
「了解」
ヴィーの言葉にリョウは両手を固く握り締めた。駆け出しそうになる心臓を、深呼吸をすることで押さえた。振り向きたいのを必死で我慢する。きっと相手を見たら足が竦んでしまうに違いない。
『よいか。リョウ。我が飛び立つときが合図だ。そのまま北の方角へ走れ』
「分かった」
リョウは、前を見据えたまま短く頷いた。その顔付きは、緊張の為か無表情になっていた。
鞄のベルトを引き締め、荷物を身体に張り付く様に固定する。左側の腰に下げたベルトに収まっている短剣を手で確かめる。そして、右の太ももに巻いているベルトにあるもう一つの小振りの短剣へ指を伸ばした。
これを使うことにならなければいいのだが。
これまで、手にした刃を人に向けて振るったことはなかった。それは、偶々、運が良かっただけなのかもしれない。兵士たちが当たり前にその腰に佩くのは、長い両刃の剣だ。街中を闊歩する屈強な男たちは、その身に剣を始めとする様々な武具を帯びている者が殆どだった。これまでは幸運にも物盗りの類に会うことも無く、柄の悪い連中に絡まれることも無かった。それまで過ごしてきた場所が辺鄙な田舎で、のんびりとした善良な人々に囲まれていたからということもあるだろう。
忘れかけていたこの場所の現実に再び目を向ける契機となった。
人混みを器用にという訳にはいかないが、それなりに避けながら、大通りを歩く。露天で売られている【パミドール】だろうか、野菜の赤い色が、やけに目に付いた。
逸る気持ちを抑えながら歩き続ければ、前方に開けた空間が見えて来た。
大きな噴水が鎮座するその場所は、街の人々の憩いの場所でもあった。
噴水の水は仕掛けに応じて刻々とその形を変えた。そこは、水路で囲まれた街の象徴とも言うべき場所らしい。
日が中天に差し掛かる頃合いである。子供を連れた女たちがここそこで談笑しているのが見受けられた。老人が、温かな日差しの下、束の間の日光浴をしている。集まる人々を目当てに屋台のようなものも出ていた。焼き菓子の甘い匂いが鼻孔を擽った。
ヴィーの言う通り、噴水広場には沢山の【ゴールビ】と【ヴァローナ】たちが羽休めに集まっていた。
リョウは唾を飲み込んだ。
『行くぞ』
「うん」
合図と共に、左肩から重みが消えた。飛び立った大鷲の大きな翼に呼応するように広場にいた鳩と鴉が一斉に羽ばたいた。
突然のことにその場にいた人々が吃驚して、頭を抱えたり、上を見上げたりしている。
その混乱の隙に、リョウは、土を蹴ると石畳の上を勢いよく駆け出した。なるべく姿勢を低くして広場を抜けると北の方角へと進路を取った。
その後方、噴水の広場では、群れを成した鳩と鴉が実に統制の取れた動きでその空間を、円を描くように上から下、下から上へと羽ばたいていた。
ヴィーの姿はリョウの視界から消えた。
それは仕方がなかった。大鷲は実に大きな猛禽類だ。羽を伸ばせば、人と同じくらい、もしくはそれ以上の体長になる。その姿は雄々しくもあるが、この狭い小路の界隈では目立ち過ぎた。
北の方角と言われても、リョウには心当たりがある訳ではなかった。目指す場所などない。感覚的に相手を撒けるのどうか分からなかったが、それでも物陰に紛れるように、細い小路を幾つか折れた。
遥か遠くで、男たちの怒声を聞いた気がした。
暫く走り続けると、【ツェントル】に対峙する街の行政部門を担うという役所が見えて来た。【ツェントル】に駆け込むという選択肢も考えなくもなかったが、それを思いつく前に大分先を走り抜けてしまっていた。今から迂回して戻るのは危険だった。
全力疾走をするのは本当に久々で、元々頼りない体力は、早々に悲鳴を上げ始めた。リョウは息が切れて来た。
道を逸れて物陰が出来た場所に飛び込むとしゃがみ込み息を整えた。肩が大きく上下する。耳元で鼓動の音が高くなっていた。全身が心臓に成り変わったように、駆け巡る血液が主張を繰り返す。荒くなる呼吸を落ちつけようと目を閉じて、じっと周囲の音に耳を澄ませた。
暫くして、通りを駆け抜ける男たちの足音が響いた。足音は複数。影に埋もれるようにして身を潜め、息を殺す。
「おい、いたか?」
「いや、見当たらん」
「チクショウ、しくじったか」
「ちょろちょろと逃げ足の速い奴だ」
「俺は向こうを当たる。お前はあっちだ」
「ああ」
「くれぐれも手荒な真似はするなよ」
「ハッ、それは保証できねぇな。手間掛けさせやがって」
「いいから行け」
漏れ聞こえて来た男たちの会話に、リョウは強く目を瞑った。
探されている理由が分からない。それでも複数の男たちの剣呑な様子からは、事態としては最悪な方向だと言えた。
二手に分かれてこの界隈の捜索を始めた男たちの様子を見て取って、リョウはこのままここにいる訳にはいかないだろうと判断した。
呼吸が少し落ち着いたのを確認して、静かに立ち上がると、なるべく物音を立てないように建物と建物の隙間、影に成っている部分を壁伝いに歩いた。
突き当りでそっと往来を窺う。
昼時だというのにこの界隈は、行政の建物が傍にある所為か、とても静かだった。ここでは人ごみに紛れることは出来ない。
建物と建物の隙間から覗く空を見上げる。頼りに成りそうな相棒の影は、どこにもなかった。
あの木陰に移って、影になった役所脇の道を足早に抜けよう。当たりを付けてから、震えそうになる足を叱咤して、リョウは再び駆け出した。
そして、表通りからは二本程中に入った建物と建物の間、人が一人通るのがやっとという位の細い隙間を抜ける。足下を乾いた土埃が舞い、煉瓦造りの建物の隅には、雑草が強かに葉を伸ばしていた。
それを見て、ふと、そろそろ薬草の手持ちが少なくなってきたことが頭を過った。
帰りの行程を考えれば、余り無駄には出来ない。この辺りにも薬草の類が生えている森や林が無いだろうか。明日にでも鳥たちを捕まえて聞いてみよう。補充が出来ればそれに越したことはない。
そんな他愛ないことを考えた所為だろうか。
束の間の現実逃避に集中力が削がれた時だった。
細い小路を抜けて、もう一本の往来と交差する場所を抜けようとした所で、突如として脇から伸びて来た腕に拘束された。
「静かにしろ」
低い男の掠れた声がして、首筋に当てられた冷たい金属の感触にリョウは息を飲み込んだ。
――――――ゴースパジ。
詰めた息を緩く吐き出すと目を閉じた。
そして、無駄な抵抗はしないと意志表示する為に、そっと両手を前に挙げた。
そして同じ頃、リョウが拘束をされた場所から少し離れた人気のない路地裏では。
「ご苦労」
大きな羽を広げ、一陣の風のように真っ直ぐ舞い降りて来た相棒に手を差し伸べた男は、短い労いの言葉の後、直ぐに本題に入った。
「―――で、上手く撒けたか?」
『それはまだ分からぬ』
相棒の声に、男の眉が跳ね上がった。
「あ? 見届けたんじゃねぇのか?」
『北へ行くようにとは告げたが、追えたのは【ツェントル】の界隈までだ。後は【ヴァローナ】のグスタフに任せてある』
―――――――我が傍にいては目立つではないか。
そう言って、尤もらしく付け足した大鷲は、男に剣呑な視線を送った。
『それよりも、お主、話が違うではないか』
「あ?」
『追尾はざっと五人。少なく見積もってもだ。北西の方角にも何やら胡乱な輩が二人はいたぞ』
その報告に、男は唯一、顕わになっている右目を眇めた。
「何だって?」
男が感知していたのは、軍部関係から入った情報に基づき調査をしていた男たちだ。要するに早い話が、ガルーシャ・マライ関係の筋だった。
ガルーシャ・マライの弟子だと噂されている人物に【スタリーツァ】の連中が、国内で不用意な接触をすることを阻止する為であった。特に、スタルゴラド軍部で術師としての素養を持つ兵士たちを抱える第三師団の介入を警戒していた。それと同時に、ガルーシャ・マライの権力と名声、彼が持つ膨大な知識を利用しようという野心家の貴族たちの動きを追っていた。
「おい、待てよ。俺が張ってたのは、東と南の三人だけだぜ?」
影が色を濃くする中に、ザリと石を踏む音がした。
『では、別口が現れたということだろう』
鼻先で告げられた淡々とした大鷲の言葉に、
「マジかよ。勘弁してくれ」
男は、あからさまに額に手を当てて空を仰いだ。
明るい金茶色の癖の無い髪がさらりと揺れて、仄かに差し込む陽射しに反射する。
上空に小さな影が差し、男の足下に敏捷な斑点を描く。
男の腕に乗った大鷲が、建物によって小さく切りとられた蒼穹の切れ端を見上げた。
『来おったか』
程なくして、小振りの【ヴァローナ】が、その灰色の羽をはばたたかせて降りて来た。
乱雑に積み上げられ小振りの木箱の上に止まる。
『ヴィー』
『どうであった?』
『従者と思しき輩に捕らわれたぞ』
偵察を命じられていた【ヴァローナ】が黒々とした瞳を男に向けた。
男から発せられる空気が、一瞬にして変わる。
「何処へ行った?」
それは一段と低くなった声によく表れていた。
【ヴァローナ】は、どこか落ち着きがないように点々と木箱の上を跳ねた。
『【ファナーリ】亭に入った所までは確認したが、その後は分からん』
それを聞いて、男の眉間に皺が寄った。
「あ? 【ファナーリ】亭っていやぁ、この辺じゃ、名の知れた娼館じゃねぇか!」
―――――なんでそんな所に連れ込まれてんだ。
顔には出ていないものも、内心、男は首を傾げた。
『さぁな、人間の考えることは不可解な事だらけだ』
行間に潜む男の声を感じ取って、どこか不愉快そうに羽を広げた【ヴァローナ】を尻目に、男は少し考えると苦々しげに口の端を歪めた。
「まぁ、密会にはもってこいってことか」
―――――趣味が悪いには違いないが。
高級な娼館になれば、大抵、そこには上客の為の特別な部屋が設けられていた。娼館の主ともなれば、この街では顔が広く、その人脈も多様だ。それを生かして、なんらかの表立っては出来ない取引の仲介に立ったりすることもある。そういう時に、客への取り次ぎをするような場合や会合の場としてそういった部屋が使われる場合があった。娼館は客商売であるから、顧客の守秘義務をある程度は守る。人目を誤魔化して密会をするには打ってつけの場所とも言えた。
男は、浅く腰かけていた木箱から立ち上がった。それに合わせて、腕に止まっていた大鷲がその男の肩へと移る。
「連れ去った男は何人だ?」
『傍にいたのは一人だ』
「どんな奴らだ?」
『さてな。どこぞの従者のような格好をしていたように思うが』
曖昧な情報に男が苛立たし気に舌打ちをした。
「ヴィー」
そして、発せられた男の鋭い声に、大鷲は溜息を吐いてから補足的な情報を与えた。
『身なりは上等なものだろう。大方、貴族の従者というところか。野卑な気はしなかった。まぁ、中身は分からんがな』
長年の経験から、相棒の観察眼が、かなり精度の高いものだとは分かっていた。得られた情報は、大方、合っているだろう。
ということは、裏で絡んでいるのは貴族ということになる。一口に貴族と言ってもピンからキリまであるが、往々にして階級意識の高い連中だ。そして、今のところ、軍部の網に引っ掛からなかった男だ。そんな輩が、強引にあの娘に接触をする理由は何か。やはり、ガルーシャ関連と考えるのが妥当か。それ以外に、あの娘に用事があるとは思えない。となれば、もう一度、情報を洗い直す必要があるだろう。
男はざっと頭の中でこれからの計画を立てた。
何やら、非常に面倒な匂いがした。長年の経験から研ぎ澄まされた男の感がそう告げていた。
男は組んでいた腕を解くと、顔を上げた。
『行くのか?』
男の気配を感じ取って、大鷲が低く問う。
「ああ。仕方ねぇ」
男は、木箱の上に止まる【ヴァローナ】を振り返った。
「グスタフといったか。協力、恩に着る」
相棒以外の相手に対して、素直に礼を述べるのは、この世界に影として生きる男にとっては欠かせないことだった。
だが、それは【ヴァローナ】には意外であったようで、グスタフは、物珍しそうに男を見た。
それから、小さく笑って男の肩に乗る大鷲を仰ぎ見た。
『ならば、我が先触れを務めよう。そなたよりは近づきやすかろう』
『忝い』
『なに。あの子に万が一のことがあれば、森の長に申し訳が立たん』
そう言って、颯爽と飛び立った灰色の鳥の後に、
『では、我も先に行く』
大鷲が続いた。
そして、遥か上空へと飛び立った二つの黒い影を見送ってから、残された男もすぐさまその場から静かに姿を消した。
賑やかな雑踏に紛れた三つの影が目指す場所は一つ、この街の北西に位置する花街の一角だった。