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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第三章:工業都市プラミィーシュレ
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ナスタルゲーヤ ~近くて遠いキモチ~

タイトルは、【ノスタルジア】

街の食堂の看板娘、ソーニャのお話です。

 初めて会ったあの日、まだ成長途中で線の細かった少年は、あどけなさの残る顔を精一杯引き締めて、ぶっきら棒に口を開いた。

 ―――――――どうも。

 視線が合わさったのは、ほんの一瞬のことで。

 愛想の欠片も無い、素っ気ない態度。

 だが、それは表面上のことで。その少年が本当は心の優しい人であることを知るのに、大して時間は掛からなかった。

 あれは秋の終わり。真っ赤に染まった茜色の空を背に、長く伸びた小さな影が、狭い小路一杯に広がった時分のことだった。

 遠い日の記憶は今も変わらずこの胸に息づいている。



**********



 その日、朝から珍しくすっきりとした晴天で、この時期()特有の澄んだ空気が、朝焼けを綺麗に描き出すところから、一日が始まった。

 カマールとの朝食を終えた後、リョウは洗濯物の入った籠を抱えて、外に設置された洗い場に来ていた。

 この街には、縦横無尽に水路が張り巡らされ、人々の生活に欠かせないものとなっていた。要所要所で井戸から汲み上げられた地下水が水車を通して各地に回る。土地の高低を生かした緻密な計算に基づく設計の賜物だった。井戸から水を汲み上げるのに使われている動力は【術師】が拵えた【取水石】の力に依るものだった。

 洗い場には先客がいた。丸みを帯びたなだらかな曲線がその人物を象る。

 「おはようございます、ソーニャさん」

 ここ数日でお馴染みになった後ろ姿に声を掛ければ、

 「あら、リョウ。おはよう」

 穏やかな女性の横顔が振り返った。

 長い髪をプラトーク(スカーフ)ですっきりと纏めている。そうするとソーニャの丸い頬が、一段と際立って見えた。

 リョウは、ソーニャの隣に腰を下ろすと、籠の中から洗濯用の板と【パラショーク(洗剤用の粉)】を取り出した。

 気合十分、腕まくりをして、水の中に手を入れる。

 水は外気の冷たさを吸収して閉じ込めたように、とても冷たかった。地下水は、夏冷たく、反対に冬は温かいものだという【かつての常識】とは、少し異なる状況だ。

 「冷たっ」

 思わず肩を揺らして声を漏らしたリョウに、

 「ふふふ。もう少ししたら、この水も温かく感じられるようになるわよ」

 ころころと鈴の鳴るような声でソーニャが笑った。そうすると左側の頬に小さな笑窪が現れた。


 この世界では、洗濯は専ら女たちの仕事で、手洗いが主流だった。水路の周りでは、女たちが桶を持ち寄って、お喋りに花を咲かせたりする。井戸端会議ならぬ、小さな社交場のような役割も担っていた。

 この国は、四季に似た季節区分はあるものの、一年を通じて、比較的温暖な地域に位置しており、冬と言っても水が凍るような寒さが訪れる訳ではなかった。雪も降らない。精々が霙混じりの雨といったところか。

 それでも冬場の洗濯は女たちにとっては大変な労働の一つだろう。

 リョウの抱えた籠の中には、沢山の洗濯物が入っていた。カマールの分と自分の分だ。今日は天気が良いので、カマールの仕事着やシーツの類といった大きな物も洗ってしまおうと考えていた。

 洗濯板を使うのは、中々にコツがいる。

 リョウはこちら側に来て、初めてそれに触れた。自分の母親が子供の頃には、それこそ普通にあった代物も時代の移ろいに伴い過去の遺品になってしまっていた。話しには聞いてはいたが、実際に使うのは初めてだった。何もかもがボタン一つで完了した便利さを懐かしく思わないでもないが、それはもう余り考えないことにしていた。ギザギザと凹凸の付いた板一つで汚れが落ちるのは、それはそれで気分の良いものだった。

 水を冷たく感じたのも最初の内だけで、その内、気にならなくなった。リョウはカマールの仕事着を取り出すと、盥の水の中に浸した。自分のものの二倍は軽くあろうかと思われる大きなシャツだ。鍛冶屋特有の泥と鉱石の粉末が付着した汚れは中々落ちにくい。

 格闘すること暫く、見かねたソーニャから声が掛かった。

 「リョウ、そうじゃなくって。こう縦にね。揉み込むようにしてごらんなさい」

 「こう、ですか?」

 「そう」

 ソーニャの真似をするように手を動かしてみる。

 そうすると面白い位に綺麗に汚れが取れた。

 「凄い。綺麗になった」

 思わず感嘆の息を漏らしたリョウに、

 「ね? ちょっとしたコツなのよ」

 ソーニャは、どこか誇らしげに小さく笑った。

 ソーニャは、気立ての良い娘だった。年齢は直接尋ねたことはないが、嫁入り前ということなのでまだ若いだろう。少し垂れ下がり気味の眦は、微笑むと一層弧を描いて、見る者の心を和ませる。この国の主流である少しきつめな顔立ちのパッと目を引く程の美人という訳ではないが、人を惹き付ける柔らかな空気を持っていた。きっと結婚したら良いお嫁さんになるだろうことは間違いなしだ。

 籠の中のものを全て洗い終えて、物干し竿に干せば、それは実に生活感溢れる壮観な景色になった。

 物干し場がある中庭は、ちょっとした風の通り道になっている。吹き込む風に、色とりどりの大小の布がはためいた。

 ひらひらと翻る男物の大きなシャツ。それにソーニャがそっと手を掛けた。


 「ねぇ、リョウ」

 立ち上がって、大きく伸びをしたソーニャが徐に振り返った。すらりと伸びた長い手足を一杯に広げる。簡素な薄い紫色の普段着に白い前掛け(エプロン)の紐が風に靡いては揺れた。

 「カマールは元気にしてる?」

 「はい」

 こうして一日一回、カマールの様子を伝えるのも日課のようになっていた。

 「良かったら今度、顔を出して下さい。この間、ソーニャさんの【カーシャ(ミルク粥)】が食べたいって零してましたから」

 リョウも空になった籠を手に立ち上がった。

 どうも自分がカマールの下に滞在をしている所為で、ソーニャの仕事を半ば奪ってしまっていることに気が付いたのは、割と早い段階でのことだった。突然、余所者が二人の間の日常に割り込んでしまったようで、それを内心、心苦しく思っていた。

 「まぁ、カマールったら」

 顔に似合わず甘いものを好む男の姿を思い描いてか、ソーニャはひっそりと笑いを零した。


 「ねぇ、リョウ」

 風に揺れる洗濯ものとそこから透かし見える良く晴れ渡った空を見上げながら、ソーニャが不意に囁いた。

 リョウは無言のまま、ソーニャの隣に並ぶと、同じように空を見上げた。

 澄んだ蒼穹は天高く、薄く刷毛で刷いたような雲が南の空に掛かっていた。

 こうしてソーニャの隣に立つと、当然のことながら、リョウは、ソーニャの方を仰ぎ見る形になった。

 遠くを透かし見るソーニャの横顔は、いつになく、やけに大人びて見えた。

 「リョウは………恋ってしたことある?」

 空になった籠を抱えて、ソーニャがこちらを振り返った。

 初めて目にする、どこか寂しげな空気に、リョウは敢えて気が付かない振りをした。

 「恋……ですか」

 「そう」

 まるで女同士、内緒話をするように話の水を向けられて。

 「………そうですね」

 リョウは、昔を懐かしむように空を見上げたまま目を細めた。

 「それなりに……ありますよ。これでもそれなりの月日を過ごしてきましたから」

 不意に隣から漏れた老成したような呟きに、ソーニャは軽く目を見開いてから、小さく笑った。

 「まぁ。リョウったら。おかしな人ね。いっぱしの口を聞くじゃない。急に年寄りみたいなこと言うんだもの。吃驚するじゃない」

 やはりソーニャは、外見から受けるリョウの印象をかなり低く見積もっていたらしい。

 「そうですか?」

 「そうよ」

 ソーニャの目尻は、よく見ると薄らと淡い桜色をしていた。

 若い女は、恋をするとその目元がほんのりと薄紅色に染まる。嘘か本当かは、分からないが、その昔、聞いた話をリョウは唐突に思い出していた。

 「ソーニャさんは、恋をしているんですか?」

 だが、その問い掛けには答えることなく、ソーニャはそっと含むような笑いを零しただけだった。

 「………してみたいわね。一度くらいは。この身を滅ぼしてしまうような恋。その人の為なら、全てを捨ててもいいって思えるほどの恋」

 穏やかな女性の横顔からひっそりと吐き出される、意外な程の熱すぎる想いに、リョウは不意に胸を突かれた気分になった。

 「女の人って…………そういうの、好きですよね」

 対して、リョウの口から出たのは、驚くほど突き離した感のある感想だった。

 身を焦がす程の切ない恋に憧れる。それは世界が変わっても、決して変わることの無い女の一面のようなものなのかもしれない。

 だが、そういった激情は、自分には余りにも縁の無い分野だった。自分の思考が、例えば【恋する乙女】といった類とは程遠い所にあるのは昔からだ。

 理解できなくはないが、それに大真面目に陶酔してみせる程の若さもない。

 本音半分。ややげんなりしたように肩を竦めれば、

 「まぁ、リョウったら」

 リョウの【それ(少年)らしい】返答に、ソーニャは呆れたような顔をしてみたものの、直ぐに仕方がないわねと優しく微笑んだ。

 まるで女心を理解しない【弟】を窘めるような空気に、リョウは心の内で苦笑いをしていた。

 ソーニャは、きっとカマールのことを憎からず思っているのだろう。それは、この短い期間の間でも、見ていればなんとなくだが感じ取れた。普段からせっせとカマールの世話を焼いていた。それは相手を思い遣る心が無くては続かないことだろう。カマールもソーニャの作る食事を懐かしく思う位だ。リョウがこの街に来て、まだ六日しか経っていないと言うのに。それを思えば、カマールの胃袋はすっかりソーニャに掴まれているようだ。

 リョウは、スフミで聞いたリューバの愚痴めいた話を思い出していた。


 『あの子もいい加減、いい歳だから、そろそろ嬉しい報せが欲しいものなんだけれどねぇ』

 それは独り身の息子を案じる母親の言葉だった。

 『ねぇ、リョウ。あの子に恋人がいたら教えて頂戴ね』


 口数が少なく、愛想が無いので誤解されがちなカマールだが、その芯となる部分は、優しい男だ。付き合いの長いソーニャは、勿論そのことを良く分かっているだろう。


 「ソーニャさん、カマールさんなんかどうですか?」

 それはリョウにしてみれば、何気なく零れた言葉だった。いつにない話題を振った相手に対しての、ほんの少しの好奇心みたいなものだった。

 だが、途端、ソーニャの顔が色を無くした。

 それを見た瞬間、リョウはその発言を後悔した。

 それは、もしかしなくても、言ってはならない言葉だったのだ。

 「もう、やぁねぇ。リョウったら、何を言ってるのよ!」

 だが、ソーニャの表情が固まったのは一瞬のことで、次の瞬間には、動揺を押し隠すような明るい声が上がっていた。

 「カマール? あんな愛想の欠片も無い男」

 そう言ってから、ソーニャはそっと空を見上げた。

 その横顔は、笑みを刷いているのに何故か儚く見えて、そのままソーニャが消えて行ってしまうのではないかとの思いが過った。

 「カマールさんは、優しい人です」

 リョウの口から、そんな言葉が突いて出ていた。

 「そうね」

 「真面目で、実直で。熱心で。仕事一筋で。妥協を許さない立派な鍛冶屋だと思います」

 カマールとは出会ってまだ六日。何も知らない自分がそんなことを口にするのは、余りにもおこがましいことだとは重々承知している。

 だが、そう口にせずには居られなかった。

 「そうね」

 大きく同意をするように頷いたソーニャは、微笑んでいるのに、今にも泣き出してしまいそうに見えた。

 暫し、沈黙が落ちた。

 洗濯物のシーツが、吹き込む風にハタハタと音を立てた。

 ソーニャのプラトーク(スカーフ)の端が風にはためいた。

 男物の大きなシャツも同じように揺れている。

 それを一瞬、名残惜しそうに見送って。


 「…………あたしね。今度、………お見合いをするの」

 そう言って、どこか諦めた顔をしたソーニャに、今度はリョウの表情が凍りついた。

 「隣町の床屋さん。まだ、決まった訳ではないんだけれど。父さんの知り合いの紹介で。父さんもかなり乗り気なのよ」

 ここでも親が子供の縁談を取り仕切るのは、往々にしてあることで。そこに子供の意志は介在しない。

 突然の打ち明け話に、リョウはソーニャの方を見た。

 「ソーニャさんは…………どう思っているんですか?」

 「あたし?」

 「はい。ソーニャさんの気持ちは?」

 だが、その問いには答えることなく、ソーニャは、緩く(かぶり)を振ってみせただけだった。

 「カマールさんは、どうなるんですか?」

 今は、洗濯も食事の世話も、その他の日常の細々とした家事の類も、リョウがやっていたが、それはカマールの家に厄介になるからと自分から申し出たことで、リョウとしては、いつまでもここにいられるわけではなかった。自分がここにいるのは、カマールの母、リューバから伝令の役目を言い遣ったからだ。

 リョウには帰る場所があった。ここからは遥か北の森の小屋だ。だから、リョウがカマールの家のことに手を出すのも一時的なもので、自分が居なくなった後は、また同じようにソーニャがその役目を担うのではないのだろうかと思っていた。

 ソーニャが居なくなったら、カマールはどうなるのだろうか。

 「カマールは、一人でも大丈夫よ。あの人はね。生涯、独り身を通すって決めてるの。独身主義者なのよ」

 そう言ってソーニャは、どこか自嘲気味に微笑んだ。

 それはカマールが鍛冶屋であるからなのだろうか。

 過去、この二人の間に何が合ったのかは分からない。もしかしたら、何もないままなのかもしれない。

 リョウの胸には、言い知れぬもどかしさのようなものが去来していた。

 鍛冶屋は独り身のものが多いとは聞いて知っていた。それは、彼らが長くは生きられない宿命にあるからだと言う。カマールの師匠であるレントも妻を、そして家族を持たなかった。それを補うようにこの街では鍛冶職人の寄り合い(ギルド)が発達していた。

 それでもだ。幾ら彼らの寿命が短かろうとも、それは他の職業に就いている人達と比べた場合という相対的なもので、必ずしもその人生が、共に歩むのに値しないということにはならないだろう。短くとも濃密な時間は持てるはずで、病に苦しむ時にこそ、家族の支えは力になるはずだ。

 それはおかしな話なのだろうか。

 独り身を通すのが悪いと言うのではない。唯、もし、その後の大変な時間を共に支えてくれるという人が現れたのならば、その手を取ることは、何も恥ずべきことにはならないはずだと思った。

 この国の慣習や風習を良く知らない自分にはとやかく言う資格はないのかもしれない。それでも、自分の気持ちを押し隠そうとして辛そうにしているソーニャを見ると、そう思わずにはいられなかった。

 だが、これは最終的には、カマールとソーニャの二人の問題で。関係の無い自分が口出しのできるものでもなかった。


 「さぁ、洗濯も終わったことだし。あたしは仕事に行かなくっちゃ」

 そう言って振り返ったソーニャの顔には、先程までの陰りは見受けられなかった。

 代わりに、優しい穏やかな微笑みが浮かんでいた。

 少しだけ覗いたソーニャの本心は、彼女の心の深淵に再び隠れてしまった。

 「リョウもまたいらっしゃい。美味しかったでしょう?」

 するりとソーニャが働く街の【スタローヴァヤ(食堂)】へと話題を変えられて、リョウもそれに乗るしかなかった。

 「はい」

 「ふふふ。あのお店。見てくれはあんな感じだけど、あの界隈じゃ割と有名なのよ。なんてったって【ツェントル】のお偉い方がお忍びでやってくる位なんだから」

 「そうなんですか」

 それは、もしかしなくともドーリンのことなのだろう。

 あの後、ユルスナールからドーリンが【ツェントル】の所長であることを知らされて、リョウはある意味、さもありなんと感心したのだ。

 その筆頭である神経質そうな男の顔を思い浮かべて、リョウも小さく微笑んでみたのだった。


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