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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第三章:工業都市プラミィーシュレ
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身から出た錆

 ――――――ルスランの旦那!

 雑踏の中、不意に耳に飛び込んできた女の声に、ユルスナールは内心、ギクリとした。

 往来を歩く男の顔色は、表面上、いつも通り、涼やかだ。余り感情の乗らない酷薄な造形。鋭い切れ長の瞳を跨ぐのは男らしい鼻梁だ。黙っていれば、全体として冷たい印象を与える男の表情だが、その口元が小さな微笑みを刷き、眦が下がれば、その印象はかなり劇的な変化を見せた。

 だが、往々にして、自他共に厳しい生粋の軍人であるこの男が微笑む機会というのは、そうそうあることではなく、その微笑みを目にすることが出来る人物というのは実に限られていた――――――――というのは、本人の預かり知らぬ所であった。

 今、その薄い唇の端には、隠しきれない動揺の欠片が現れては消えていた。そんな表情が見られるのも珍しいことだった。

 少し鼻に掛かった特徴のある女の声。【ウダレーニエ(力点)】の部分が、やや間延びする発声。

 声を掛けた人物に、ユルスナールは心当たりがあった。

 それは、この街で【幾度か】世話になったことのある娼館の女主の声だった。

 なんと間が悪いことだろう。

 舌打ちしそうになるのを寸での所で堪える。

 ユルスナールの直ぐ傍らには、黒い頭髪が揺れていた。敢えて無造作に括られたであろう黒髪の直ぐ下には、ほっそりとした首筋と白い項が覗いている。

 リョウとあの女主を引き合わせるのだけは避けたかった。

 相手は何と言っても色街の住人だ。己の下半身事情を知る相手でもある。顔を合わせれば、何を言われるのか、知れたものではなかった。独身男の生理事情など大っぴらにするものではないだろう。ましてや、少なからず好意を寄せている相手の耳には絶対に入れたくない事柄だ。男ならば、そこは何としても死守しておきたい砦である。

 この事が相手に知れた時に返ってくるであろう反応を思えば、気まずい思いはしたくはなかった。

 詰まらぬ男の保身と言ってしまえばそれまでだが、この時のユルスナールにとっては、正に至上命題でもあった。

 このまま、気が付かぬ振りをすれば見逃してもらえるだろうか。

 何と言っても相手はやり手の娼館の主だ。人の感情の機微には敏い。無表情の中にも、そんな淡い期待を滲ませる。

 ユルスナールは何食わぬ顔をして、足を速めることにした。

「ちょいと、お待ちよ」

 だが、そんな男の小細工を嘲笑うかのように、水面下で進む密やかな計画を阻むべく、再び女の声が掛かった。

 娼館の主は、目端の利く商売人であるよりも先に、女である。その重要な部分を失念していた男の負けであった。

 ―――――――このまま、振り切れるだろうか。

 そんなことを思いながら、少し歩く速度を上げようと自分の左側を見下ろして、ユルスナールは固まった。

 隣にある筈の黒髪が視界から消えていたのだ。ユルスナールの顔が色を失う。

 その時の衝撃を何と言い表せばいいのだろうか。

 口内が言い知れぬ渇きを訴え始めた。

 ―――――――置いてきてしまったのか?

 そして、さりげなく後方を振り返った時、久し振りに見る妖艶な女の顔が、直ぐそこまで迫っていた。 それは、数多もの修羅場を潜り抜けてきた強かな女の顔でもあった。

 ユルスナールは、咄嗟に周囲に視線を走らせた。

 昼飯時とあってか、多くの人々でごった返す往来は、雑然としていて、己が求める小柄な姿は人混みの中に埋もれてしまっていた。

 ―――――――拙いな。

 幾らリョウがこの辺りでは余り見かけないような目立つ色彩を持っているとは言え、これだけの人の中から、その唯一の色を見つけ出すのは、中々に容易なことではなかった。

 そうこうするうちに、眼前には華やかな女の顔があった。

 ―――――――仕方がない。

 こちらを先に片付けることが肝要だろう。

 ユルスナールは、瞬時に表情を改めた。

「なんだ。イリーナか」

 今、気が付いたとばかりに振り向けば、相手があからさまに白けた顔をしたのが見てとれた。それで自分の小細工が相手に筒抜けであることを知る。

 だが、ユルスナールはそのことを承知の上で話を続けた。


 イリーナの用件は、実に他愛ないことだった。早い話が、年に一度、この街を訪れる自分に、店に顔を出せと言っているのだ。客として。

「間にあっている」

 とてもじゃないがそんな気は起こらなかった。

 険もほろろに撥ねつければ、イリーナは、驚愕の表情を浮かべた。

 女がつれない相手の気を引こうと尚も誘いの言葉を口にする。

 そんな時、不意に強い視線を感じて辺りを見渡せば、少し離れた壁際に探していた色彩が見えた。

 視線が光に鈍く反射する黒い頭部とその横顔に吸い寄せられていた。

 ―――――――あんな所にいたのか。

 だが、安堵の息を吐いたのも束の間、ユルスナールの目がすっと眇められた。


 リョウの傍には、一人の男がいた。兵士の隊服に身を包んだ緑の腕章を付けた男。

 ユルスナールは、その顔に見覚えがあった。昨日、リョウの尋問を行ったという【ツェントル】の兵士だ。

 ―――――――あの優男。

 無意識にユルスナールの奥歯が軋みを立てる。

 忘れはしない。少年趣味のきらいがあるというあの男は、あろうことか、リョウに妙なちょっかいをかけていた。思い出すだけでも腹立たしい。ユルスナールにとっては不愉快極まりない事態だった。

 ―――――――あの野郎、性懲りもなく。

 近づき過ぎだ。

 壁際に追い詰められて、遠目にもリョウの困った顔が見て取れた。

「イリーナ、悪いが急ぎの用が出来た。また今度」

「あ、ちょっと、何よ! 話はまだ終わってないわよ!」

 女との不毛な会話を強制的に切り上げて、ユルスナールは置いてけぼりを食らわしてしまった片割れの元に急いだ。


 だが、余計な虫を首尾よく追い払った後、最悪の事態がユルスナールを待ち受けていた。

 イリーナが人混みの中から、こちらにやってきたのだ。

「ちょっと、旦那、酷いじゃない。突然、居なくなるなんて!」

 怒りも顕わに吊り上がり気味の目尻を普段の二割増しにした華やかな女の顔が近づいてくる。女が歩く度に、惜しみなく晒された豊満な胸元が揺れた。

 ユルスナールは、内心、頭を抱えたいのを押し隠した。

 そして、キッとこちらを睨みつけたかと思った女の眼差しが、不意に逸れて、ユルスナールの外套の脇にひっそりと隠れるもう一人の人物に注がれることになった。

 ―――――――ゴースパジ(なんてこった)

 ユルスナールは観念した。

「あら?」

 興味を引かれたようにイリーナがその顔を覗き込んだ。そこには、数多もの若く見目の良い女たちを抱える娼館の主としての顔が、憚ることなく現れていた。


 リョウの顔立ちは、その色彩もそうだが、この辺りでは見かけることの無い、言うなれば異国風だった。だが、決して崩れている訳ではない。寧ろ、人の目を惹き付ける何かを持っていた。

 男と同じ格好をしているから、リョウの姿を見た人々は、その第一印象から【少年】との認識を持って疑わないが、そうだとしても、背筋の伸びた凛とした立ち姿は、女たちの視線を集めた。

 リョウ自身は、その辺りのことをまるで頓着していないようで、それは自分が見慣れない顔立ちをしているからだと思っている節があった。自分のことは棚に上げておいて、ユルスナールは内心、それを苦々しく思っていた。

 商売上、様々な人間がやってくる娼館だが、珍しいものを見慣れている筈のイリーナにとっても、リョウの存在は、その【(センサー)】に引っかかったようだ。

 イリーナは顔を上げると、手にした扇子を開いて、こちらに意味深な流し目をくれた。

 ユルスナールは、嫌な予感がした。

「まぁ、随分と可愛らしい感じの子を連れているじゃない?」

 そして、娼館の女主としての癖なのか、品定めをするような目つきでジロジロとリョウを眺め回し始めた。

 リョウの表情からは、その心の動きが見えなかった。突然、現れた癖のある女を前にして、驚き、固まっているのかも知れない。

 女の滑らかな手が、リョウの頬に伸びた。顎を掴み、そっと顔を上げさせると息も触れんばかりの距離で顔を寄せる。

「綺麗な色ね。吸い込まれそうだわ。黒い瞳は珍しい」

 イリーナの口元が弧を描く。うっとりとした妖艶な微笑みに、漸く、リョウの顔に困惑に似た微笑みが浮かんだ。

「あら? 驚かないのね?」

 普通の男ならば、一発で落ちてしまうと評判のイリーナの美貌だが、その色仕掛けは、同じ女であるリョウには、当然のことだが、効き目が無かった。

 イリーナの様子を見る限り、リョウがまだ幼い少年であることを疑っていないようだった。

 この国では、服装が第一印象を決める大きな基準になっている。仕方がないと言ってしまえばそれまでなのだが、その【常識】の隙を突いたリョウの存在をユルスナールは、常々、目から鱗が落ちるような気持ちで眺めていた。ここでもある意味、規格外であるその姿は、こちらの慣習を当たり前のものとして疑わないこの国の人々に、一石を投じる貴重な存在でもあった。


「坊や、あと数年もしたら、いい男になるんじゃない?」

 将来を楽しみにしていると言わんばかりの女の台詞に、ユルスナールは、うんざりとした溜息を吐いた。

 自分の美貌に自信を持ち、その効果的な見せ方を知っているイリーナは、その色仕掛けにも靡いたところを見せないリョウの態度が癪だったようだ。

 イリーナがリョウの攻略を始めた。

 珍しく自分から名乗りを上げて、相手の名を聞き出した。

 そっと差し出された女の白い手を、男ならば、当然、手に取って、感激しながら口付けを寄せる所なのだろうが、いつになく硬い表情をしたリョウは、淡々と目礼を返しただけだった。

 その余りにも硬派で素っ気ない反応に、イリーナは俄然、娼館の主、もしくは高級娼婦としての自尊心(プライド)を刺激されたようだった。

 拙いことになったとユルスナールは思った。ここまで来てしまえば、妙な所で意地を張るきらいのあるこの女の手綱を自分では引き絞ることなど出来そうになかった。

 そして今度は、何を思ったのか、リョウも入れてブコバルと三人で店に来いと誘う始末。

 艶々と光る女の唇から紡がれる、ある意味、あからさまな誘いに、ユルスナールは口の端を盛大に引き攣らせた。

 女の暴走を止めようと口を挟むが、まるで相手にされない。

 ユルスナールは、自分の運の悪さを呪った。情けない話だが、こうなると早々に嵐が過ぎ去るのを待つしかった。

 対するリョウの顔は、段々と無表情になっていた。

「ねぇ、坊や、綺麗なおねぇさんたちと遊んでみたいとは思わない? 坊や位の年頃なら、本当は興味があるでしょう? 楽しいわよ? 天国に連れて行ってもらえるわ」

 ―――――――天国に連れて行ってもらえる。

 男ならば、それはまさに夢見るところだろうが……。


 大真面目に相手を口説き続けるイリーナに、ユルスナールは徐々に可笑みを覚えてきた。真実を知る人間からしてみたら、それはさぞかし滑稽である。喜劇の寸劇だ。少しこの通りを行った辺り、目と鼻の先の界隈で掛かる三文芝居よりも客が取れそうだった。

 ユルスナールは、腹に力を込めると込上げて来る笑いの波を外に流そうとした。

 勘違いをされているリョウの心中を思えば、ここで笑うなどもっての他だった。唯でさえ、自分の所為で、この女と顔を合わせたことになったのだ。ここで、自分がそんな失態をしようものなら、リョウをかんかんに怒らせてしまう恐れがあった。それだけは避けたかった。

 ユルスナールは、個人的に、これまでリョウが怒りを顕わにする様を見たことは無かった。北の砦に居た時分には、ブコバルのからかいにも兵士たちの軽口にも、穏やかに笑って流して見せていた。精々、困ったような顔をして苦笑をして見せる位だった。今思えば、それは精神的に大人であることの表れでもあったのだが、当時は、随分と落ち着いていると感心したものだった。

 懐深く、優しい穏やかな気性のリョウも、今回ばかりはその反応が読めなかった。


 そして、非常にも天はユルスナールに味方をしなかった。

 必死になって笑いを堪えていたユルスナールだったが、それをリョウに見咎められてしまった。

 思わずといった風に、リョウから足が繰り出されたが、軍人として鍛え上げられた反射神経は、それを難なく避けていた。

「ルスラン!」

 リョウから上がった声を契機に、それまでユルスナールの堪えていた笑いの渦が爆発した。

 気が付けば、声を上げて笑っていた。

 ユルスナールが、ここまで感情を顕わにすることなど珍しいことだった。

 柄にもないことをしている。その自覚はあった。

 リョウを前にすると何故か調子が狂う。だが、それを満更でもないと思っている自分がいることも確かだった。

 そうこうするうちに、案の定、リョウが腹を立ててしまった。

「それでは、【オレ】は用事がありますんで。これで失礼します」

 淡々とした中にも、どこか余所行きな口調。

 そして、イリーナの誘いに丁重過ぎる程の姿勢で断りを入れた後、ユルスナールの耳に驚愕の言葉が飛び込んできた。

「代わりに、そこで笑っている銀色の髪の男を連れて行って下さい。どうも暇を持て余しているようですので。それでは」

 その容赦ない一言に、ユルスナールは、思いの外、相手の怒りを買ってしまったことを知って愕然とした。

 今現在、北の砦で自分の留守を預かっているシーリス(副団長)に負けない程の寒々しいまでのいい笑顔で、そんな空恐ろしい台詞を口にすると、リョウは素早く踵を返した。

 そして、小柄な背中は、みるみるうちに雑踏の中に紛れてしまった。

「あ、おい、リョウ!」

 焦った声を上げて後を追おうとしたユルスナールを、イリーナが引き留めた。

「ちょっと、旦那。来てくれるんじゃなかったの?」

「馬鹿を言え」

 初めて目にするユルスナールの動揺振りに、イリーナは、一瞬、目を見開いたが、直ぐにそれはからかうような目付きに変わった。

 そして、妖艶な女は、小さく喉の奥を鳴らすと意味あり気に微笑んだ。

「ふふふ。つれないあの坊やによろしくね。いつでも待ってるからって。じゃあねぇ?」

 漸く気が済んだのか、長いドレスの裾を翻した豊満な女の後ろ姿を見送って、ユルスナールはとっぷりと長い溜息を吐き出した。

 ―――――――今日は本当にツイていない。

 だが、こうしてはいられなかった。

 ユルスナールは表情を改めると、足早に雑踏の向こうへ消えたほっそりとした背中を追うべく、その場を後にしたのだった。


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