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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第三章:工業都市プラミィーシュレ
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どこか滑稽な悲劇


「あ~ら。ルスランの旦那じゃない。こっちに来てたんだねぇ」

 レントの部屋がある鍛冶職人の寄り合い(ギルド)を後にして、これから昼食を取るということでユルスナールと二人、往来を歩いていると、どことなく妖艶な気配のする女の声が掛かった。

 聞き覚えのある名前に、リョウは思わず足を止めて、後ろを振り返った。

 だが、呼びとめられた筈の当人であるユルスナールは、歩調を緩めることなく先を歩いている。


 大通りは、沢山の人でごった返していた。行き交う荷馬車や様々な荷物を担いだ行商人。通りを朗らかに談笑する身なりの良い御婦人たち、街中を闊歩する男たち。

 少し路地を覗けば、物売りの声も高く、軒先で店主と客が値段の交渉をしていたりする。

 この街は、いつ来ても活気に溢れていた。

 このような混雑だ。一度、逸れてしまったら、相手を見つけるのは中々に至難の業かもしれない。

 自分が立ち止まったことで、隣を歩いていた筈の銀色の頭髪は、大分先に見え隠れしていた。

 ―――――人違いだろうか。

 そう思った矢先、

「ちょいとお待ちよ。無視することないでしょう?」

 立ち止まったリョウの横を豊満な肉体を自信たっぷりに晒した一人の女性が通り過ぎていった。

 若さというよりも円熟した女の色気を感じさせる雰囲気。広く開いた胸元は、その谷間を強調するように寄せられて、その直ぐ下には悩ましい曲線を描きだす絞られた(ウエスト)が続いていた。出ている所は出て、引っ込むべき所は引っ込む。女であるならば誰もが羨むような見事な凹凸だ。それは、実に迫力のある姿でもあった。

 長く伸びた柔らかそうな明るい髪を翻して、女が通り過ぎた後には、余韻のように華やかで甘い花の香りが漂っていた。

 リョウは、暫し、呆気に取られて、なんとも形容しがたい色気を振りまいている女の後ろ姿を目で追った。

 このプラミィーシュレには、大きな色街があるとは話には聞いていたが、そのような界隈を想起させる女人を見たのは、初めてのことだった。

 その(ひと)が歩く度に、豊かな臀部が左右に揺れる。

 女は足早にドレスの裾を翻すと、濃紺の外套を身に纏う銀色の髪を持つ男の隣に並んだ。

 柔らかそうな女の手がしなやかに伸び、男の腕に掛かった。

 それは、どこか現実味の無い、まるで映画の一場面(ワンシーン)のような情景だった。


 この時、リョウは、唐突に理解した。これまで疑問に思っていた謎が、すとんと音もなく目の前に落ちて来たとでも言えばいいだろうか。

 ―――――――――成程。

 百聞は一見に如かず。

 あのような女の人を見てしまえば、どうして自分が少年に見えるのか、納得が行った。

 あのような体つきを見せられてしまえば、張り合おうなどとは、露ほども思わない。最早、次元が違う。何を食べたら、あんな体つきになるのか、純粋に同じ人間としては生物学的観点から見ても実に興味深かった。ある意味、感心することしきりだ。


 それまで立ち止まることなく、女の声に耳を貸さなかったユルスナールが、ここに来て、足を止めた。

 簡素で地味な出で立ちであるにも関わらず、存在感があるのか、人目を引くユルスナール。その男が一人でいても、そこには吸い寄せられるような視線の吸引力が発生しているのに、その隣には華やかな極上の美人が寄り添っていた。

 実に絵になる光景だった。

 往来で立ち止まった二人に、通りを歩く人々がそれとなく視線を送る。その場所だけ、流れる空気が違うような錯覚さえ覚えた。

 リョウの足は、その場所で固まったように動かなかった。

 あの二人の間に割って入る勇気は流石にない。少なくとも二人は知り合いで。もしかすると、色街の娼館では馴染みの仲なのかも知れなかった。それは、女の方から醸し出される砕けた空気からも良く伝わって来ていた。

 喉元をせり上がってきそうになる何かをリョウは慌てて飲み込んだ。

 リョウは、ひっそりと息を潜めて、少し離れた場所から、二人の様子を見守ることにした。

「ちょっと、旦那。酷いじゃないの! 随分と久し振りだってのに、素通りは無いんじゃない?」

 小さな扇子のようなものを手に、妖艶な女は恨めしげな視線を男に投げた。

 だが、振り返ったユルスナールは、自分を引き留めた相手を軽く一瞥しただけで、特に表情を変えなかった。

「何だ。イリーナか」

「『なんだ』とは、なによ。随分な御挨拶じゃない?」

 漸くこちらを向いたユルスナールに対して、ややきつめな口調とは裏腹に、その女は嬉しそうに微笑んだ。

「ねぇ、旦那、今晩辺り、どう? 今年はいつも以上に粒揃いなのよ。あたしが言うんだから間違いないわ。ブコバルの旦那も一緒に来てるんでしょう? 二人で来て頂戴よ」

 そう言ってから、小さな含み笑いをすると意味深な流し目をくれる。

 ぽってりとした厚めの下唇が艶々と光っていた。

「勿論、旦那なら、あたしを指名してくれたって構わないのよ。旦那はうちにとっちゃぁ上客だし、旦那程のいい男なら、余所の連中も黙ってるもの」

「いや。今日は生憎用事がある」

「なら、明日はどう? みんな旦那が来るのを首を長くして待ってるんだから」

「いや。済まないが、今回は間にあっている」

 色気を振り撒きつつ、その逞しい腕にしなだれかかりながらの誘いにも男は顔色を変えることは無かった。

 淡々とした返答にイリーナと呼ばれた女性は、吃驚して目を瞬かせた。

「『間にあってる』って? どういうことよ?」

「そのままの意味だ」

「随分とつれないことを言うじゃない」

 尚も女が言い募る傍らで、ユルスナールは徐に辺りを見渡した。


 往来には、沢山の人が集まって来ていた。皆、この界隈に突如として現れた美男美女の組み合わせを一目見ようというところだろうか。

 ユルスナールの切れ長な瞳が周囲に向けられる。周りから遠巻きに二人の様子を眺めていた女たちは、途端に色めきだった。

 あの男がこちらを見ただの。目が合っただのそんな囁きが風に乗って聞こえてきた。

 急に騒がしくなった周りにリョウはそっと溜息を吐いた。その顔には、苦いモノを飲み込んだような複雑な表情が浮かんでいた。

 あの様子は、恐らく、隣にいた筈の自分の姿がないことを探しているのだろうか。

 いや、あのような美人から声を掛けられて、無表情に近い冷たいきらいのある顔からはその感情の機微が見え難いが、内心、満更ではないのかもしれない。男なら、誰だってそうだろう。ブコバルならば、喜び勇んで付いて行きそうだ。そんな益体もないことが頭の隅を掠める。

 こんなに周りに騒がれていては、尚更、顔を出しにくい。また、面と向かってあの女の人を紹介されるのも、複雑な気分だった。そこは出来るならば避けたい所だった。

 そうこうするうちに女の方が、焦れたようにユルスナールの頬に手を伸ばした。

 突然、顔を背けた相手に、こちらを見てくれということだろうか。

 ―――――――私だけを見て。

 そんな主張と共に女の顔が男に近づいて行く。


 リョウは壁際に身を寄せて、咄嗟に顔を背けていた。肩に掛けた鞄の肩紐部分をきつく握り締める。

 それ以上、見てはいられなかった。

 もやもやとした妙な形にならない感情が澱のように溜まり始める。きつく目を閉じることで、自分でも言葉にならない気持ちの揺らぎをやり過ごそうとした。


「あの二人が気になるのかい?」

 突然、耳元で囁かれた声にリョウは身体を硬直させた。

 閉じていた目を開けば、足下に黒い長靴が見えた。

 聞き覚えのある声だった。嫌な予感に顔を上げれば、思いの外、近い所に柔和な顔立ちをした男の顔があった。

「…………ウテナ、さん」

 昨日、往来での揉め事に首を突っ込んで、治安維持を司る兵士たちの詰め所、通称【ツェントル】に連れられた先で、事情聴取を担当した兵士だった。兵士にしては珍しく柔らかな物腰に、一見、優しそうな男に見えるのだが、『少年趣味』というこの世界でもやや特殊な嗜好を憚ることなく公言しているかなりの変わり者だった。お約束通り、少年に間違えられたリョウは、危うく粉を掛けられるところであった。

 兵士の隊服に身を包んだ男の腕には、昨日と同じように緑色の腕章が付いていた。

「どうしたんですか。こんなところで」

 街中を歩いていて、まさかばったり出くわすとは思わなかった。心臓に悪いことこの上ない。昨日の迫られた時の印象が強かったせいか、リョウの中でウテナの位置付けは、未だ警戒水域にあった。

 驚き半分、声を上げれば、ウテナは人好きのする笑みをその顔に浮かべたまま、パチリと片目を瞑って見せた。

「今は見回りの最中」

 そう言って、小さく笑う。

 万人受けするであろうその微笑みも、リョウにしてみれば、胡散臭いことこの上無かった。

 思わず口元が引き攣りそうになるのを寸でのことで堪える。

「ボクは運がいいよね。それともこれは運命なのかな。昨日の今日でキミに会えるなんて。これも神様のお導きだ」

「………はい?」

 急に始まった妙に熱の籠った口説に、リョウは目を白黒させた。それは、リョウにしてみれば、実に突拍子もないことに聞こえた。

「あの、ウテナさん」

「なんだい?」

 自分の記憶が正しければ、ブコバルは昨日、確かに自分が女であることを中にいた兵士に告げた筈だった。つまり、ウテナとイリヤにである。

「ワタシが女であることは御存じですよね?」

「ああ。勿論」

「なら、ワタシは当然、範囲外ですよね?」

 何の、とは言わなくとも分かるだろう。

「フフフフフ」

 真面目な顔をして尋ねたリョウの鼻先で、ウテナは実にいい笑顔を浮かべた。

 リョウの背中を嫌な汗が流れた。

 ずいと顔を寄せられて、無意識に身体が引いた。

 ――――――からかっているのだろうか。

 相変わらず感情の読めない微笑みを浮かべたまま、ウテナは言葉を継いだ。

「ねぇ、リョウ。今晩、空いてる?」

「………あの、意味が分かりませんが」

「やだなぁ、そのままの意味だよ。ボクと食事に行かないかい? 勿論、ボクが御馳走するよ。この街は初めてなんだろう? 美味しいお店を知ってるから。キミも気に入ると思うんだ」

 それは余りにも予想外のお誘いだった。

「いや。あの、お気持ちは嬉しいのですが………」

「ホントかい?」

 穏便に断りを入れようとした言葉尻を真逆の意味で捉えられて、リョウは慌てた。

 ああ。異国の言葉は難しい。

「いや、あの。そうではなくて。お世話になってるカマールさんのこともありますし」

 ―――――――夜遅い外出は控えたいので。

 そう言ってみたものの、リョウの内心は恐々としていた。

 ウテナと一対一で食事に出かけることなど有り得ないだろう。救難信号が頭の奥で目まぐるしく点滅を繰り返している。

 押しの強い相手は正直、苦手だった。

 どうやって断ったらいいのだろうか。

「なら、そのカマールっていう保護者の許可を取ればいいのかな? 昨日ツェントルに来ていた男だろう?」

 ウテナは断られることを考えていないのだろうか。余りにも肯定的(ポジティブ)な考え方に、いっそ感心する位だ。

 だが、ここで頷く訳にはいかない。

 さて、どうしたものかと考えていると、

「生憎だが、今晩は先約がある」

 底冷えするような低音が、耳に飛び込んで来ると同時に、身体がふわりと温かいもので包まれていた。 大きな男の手が腰に回る。

 顔を上げれば、直ぐ傍には、こちらを見下ろす瑠璃色の瞳があった。

「ルスラン」

 リョウは思わず苦笑を漏らしていた。

 またしても、この男に助けられた。

「あちゃぁ、見つかったか」

 あからさまに残念という顔をして、手で額を覆ったウテナに、

「当たり前だ」

 ユルスナールは鼻を鳴らすと事も無げに言い放った。

「ウテナと言ったな。まだ見回りの最中だろ。職務に戻れ。他の奴らが向こうで探している」

 ユルスナールが顎をしゃくった先には、雲隠れをした仲間を探していたのだろう、同じ隊服に身を包んだ二人の兵士たちがいた。

 ユルスナールは、手を上げて、彼らに合図を送った。こちらに気が付いた兵士たちは、その傍にいる仲間の姿に呆れたような顔をして、慌ててやってきた。

「ざーんねん」

 悪びれることのない仕草に軽い声を上げて、ウテナは肩を竦めた。

「まぁ、いっか。じゃぁ、リョウ。またね」

 ―――――――あの二人の秘密を知りたかったら、いつでもお出で。

 ひらりと片手を振って、その直前に、耳元に意味深な囁きを残して、はた迷惑な男は、軽やかに去っていった。


 残されたリョウは、一人、大きな溜息を吐いた。

 軽く自己嫌悪に陥る。ウテナも基本的に悪い人ではないのだろうが、不意に縮められる間合いは、実に心臓に悪かった。あのような誘いを上手くかわせない自分が悪いのか、それとも相手に対して警戒をし過ぎなのか。自分でも良く分からなかった。

「リョウ?」

 苦い顔をしたリョウを心配してか、訝しげな声が上から掛かる。

「大丈夫か?」

 仰ぎ見れば、穏やかにこちらを見下ろす瑠璃色の瞳とぶつかった。

 それを見て、リョウは緩やかに(かぶり)を振った。

「すみません。お手数をお掛けしました」

「いや、構わない。それよりも、お前は謝ってばかりだな」

 ユルスナールが小さく笑う。優しさを滲ませたその瞳に、リョウは、もどかしそうに眉根を下げた。



 はた迷惑な男が去って。

 そのまま、いつもの和やかで気の置けない空気に戻るかとの予想は、直ぐに裏切られた。

「ちょっと、旦那、いきなりなんだい? 話の途中で、吃驚するじゃないか!」

 向こうから、先程の女がこちらに歩いて来ていた。

 何だか厄介な気がした。リョウは出来るだけ、無表情を取り繕って、その女とユルスナールの話が終わるのを待つことにした。

 自分は空気だ。通行人、其の一。決してこの目立つ男の関係者ではない。念仏のように繰り返す。

 だが、そんな内心の願いも虚しく、ユルスナールの傍に立った女は、その脇にひっそりと佇む異分子の存在に気が付いてしまった。

 こう言う時、女の人が持つ目敏さを凄いと思う。

「あら。お連れさんがいたんだね。随分と可愛らしい感じの子を連れているじゃない?」

 ―――――――珍しいこともあるのね。

 そう言って、妖艶な女の顔が近づいて来た。

 少し吊り上がり気味の目元が、女の生来の気の強さを物語っていたが、ぽってりとした厚みのある唇が全体の印象を柔らかなものにしていた。

 白い肌に青い瞳。豊かにうねる明るい茶色の髪は、長いままに片側に寄せられていた。

 アクサーナの時も思ったが、この国の女性の例に漏れず、この人も背が高かった。

 目線は幾分上の所にある。ここでは自分は上を見上げてばかりだ。

「あら? 驚かないのね?」

 息も掛からんばかりの距離で形の良い眉が跳ね上がる。

 至近距離に微笑まれて、リョウは、少し困ったように笑った。

 異性ならば、ここは無意識に身体を引く所なのだろうが、同性相手には別段、気にはならなかった。それ以上、踏み込まれないことが感覚的に分かるからだろう。

 そうこうするうちに、女の滑らかな指がリョウの顎を捕らえた。舐めるような視線が降り注ぐ。

「綺麗な色ね。吸い込まれそう。黒いのは珍しいわ」

 そして、満足が行ったのか、女がゆっくりとその手を離した。最後に戯れのように指先が顎を擽る。

「坊や、あと数年もしたら、いい男になるんじゃない?」

 開いた扇子の影で、楽しそうに目を細めた女の言葉に、リョウはどっぷりと溜息を吐きたい気分に駆られた。

 予想はしていたが、改めて真正面から口にされるとかなり凹んだ。その威力(ダメージ)は、予想以上に大きい。

 リョウがどこか遠い目をしていると、

「イリーナ」

 苦々しいような声がユルスナールから掛かった。

「その位にしておけ」

 窘めるような言葉に、だが、イリーナは艶っぽく微笑む。

「あたしはイリーナ、よろしくね?」

 自己紹介をされて、名乗らない訳にはいかなかった。

「……リョウです」

 相手が勘違いしていることは確かなので、出来るだけ淡々と軽く目礼を返すだけに留めた。

 こうなったら自棄である。朴訥とした田舎少年を演じてみせようではないか。

「ふふふ。坊や、この辺りでは見かけない顔をしているのね。その黒い髪もさらさらとしていて素敵だわ。神秘的。そう、夜の精の化身みたいだわ」

 うっとりとした表情を浮かべたイリーナに傍にいたユルスナールは、あからさまに溜息を吐いた。

「………イリーナ」

 だが、聞いていないのか、イリーナは良いことを思いついたとばかりに顔を輝かせた。

「ねぇ、旦那。どうせなら、この坊やも連れていらっしゃいよ。ブコバルの旦那と三人で。この子なら、うちの子たちも喜ぶわ。それこそ、手取り足取り。最後まで面倒を見てあげるわよ?」


 ――――――――なんの話ですか!

 リョウは自分の目の前で、話が段々と怪しい方向へ向かい始めているのが分かった。

 これまでの会話から推察するに、どうもこの女性は娼館の女主であるようだ。そして、ユルスナールとブコバルはそこの常連客なのだ。

 男二人が遊ぶのは勝手だが、そこに自分を巻き込まないでくれ。

「ねぇ、坊や。綺麗なおねぇさんたちと遊んでみたいとは思わない? 坊や位の年頃なら、本当は興味があるでしょう? 楽しいわよ? 天国に連れて行ってもらえるわ」

 リョウは、それ以上、考える事を放棄した。

 途方に暮れたようにユルスナールを見上げれば、そこには、あろうことか、小さな笑いを噛み殺している男の姿が目に入った。

 ――――――――何ということだ。

 そもそも、元はと言えば、この男とこの往来を歩いていたから、こんなことになったのだ。

 それなのに、人の不幸を笑うとは何事だ。

 リョウは目と鼻の先で笑いを零す男を無言のまま蹴り上げようとした。

 だが、それは案の定、男の鍛え上げられた抜群の反射神経に、あっさりとかわされてしまう。

 段々とどこかの誰かの真似が伝染(うつ)っている気がしてならない。

 人に対して足が出るなんて、これまでの自分からは考えられなかった行動だった。男所帯に囲まれた末の影響なのか、それとも男らしい振る舞いをしているツケなのか、リョウは自分で自分が哀しくなった。

 込み上げる笑いを隠す為か、大きな手で顔を覆った男に、

「ルスラン!」

 思わず抗議の声を張り上げれば、ユルスナールは我慢できなかったのか、高らかに声を立てて笑い始めた。

 イリーナがそれを見て仰天の表情を浮かべる。

 ――――――もういい。付きあってはいられない。

 尚も笑い声を上げる男を尻目にリョウは、身体を反転させた。

「それでは、【オレ】は用事がありますんで。これで失礼します」

 小さく頭を下げて、数歩、足を進めた先で振り返ると、満面の笑みを浮かべて見せた。

「それから、イリーナさん。折角のお誘いは有り難いのですが、【オレ】には、まだ早すぎますので、今回は謹んで辞退させて頂きます。代わりに、そこで笑っている銀色の髪の男を連れて行って下さい。どうやら暇を持て余しているようですので。それでは」

 勢いよく足を繰り出した先、長靴の底が石畳に当たって大きな音を立てた。

「あ、おい、リョウ!」

 直ぐ後ろで、いつになく焦ったような男の声が聞こえた。

 だが、リョウは内心の腹立たしさにそれを無視して、足を進めたのだった。


 自分の行為が酷く子供染みていることは頭では理解している。大人げないとも思う。それでも感情の部分は別の所にあって。

 その苛立ちを紛らわすように、ずんずんと我武者羅に歩いた。

 本当は駆け出してしまいたかった。だが、なけなしの自尊心と理性が、それを思い留まらせた。


 半ば肩を怒らせて、どこか近寄りがたい空気を発しながら通りを足早に歩く『少年』の姿。

 この辺りでは珍しい癖の無い黒髪を靡かせたその後ろには、明らかに困惑の表情を浮かべた背の高い男が、同じくこの辺りでは余り見掛けない銀色の髪が乱れるのもお構いなしに、拝み倒すようにして、前を歩く人物の機嫌を取ろうと躍起になっていた―――――――そんな噂が、笑い話のように数日、その界隈を賑やかにしていたのだとか、いないとか。

 その真偽の程は、当人たちのみぞ知るという所である。


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