腐れ縁の法則
久し振りに見る男の姿は、一年前に比べて随分と小さくなっていた。
視界の隅に己が愛馬の尻尾のような黒髪が弾むのを見送ってから、ユルスナールはゆっくりと寝台の上の主に向き直った。
真っ直ぐに伸びた背筋は、今も昔も変わらなかった。
「お加減はいかがですか?」
寝台の脇に置かれた丸椅子に腰を下ろせば、目線は同じ位になった。
視線が合えば、豊かな白髪から秀でた額の下、男の酷薄そうな薄い唇が小さく上がった。
「おめぇの陰険な面ぁ拝めば、また、冬が来ちまったってぇ感じだな」
端から聞いたら答えにはなっていないであろうその言葉も、付き合いの長いユルスナールには理解が出来た。
要するに、また一年、命永らえたということが言いたいのだろう。普通の人間にはなんてことはない一年も、この男にとっては重みのある貴重な時間だった。
―――――――だが、まぁ。
窓の外を一瞥してから、男が不意に喉の奥を鳴らした。
「俺は、この通り、もう長くはねぇ。この冬が峠ってぇ所だろ」
そう言って、緩慢な動作で自分の袖を捲って見せた。
鍛冶職人としての生命線である利き腕。その男の右腕には、手首から肘に掛けて、紫色の痣が一面に広がっていた。色も前に比べて随分と濃く、黒ずんでいる。
それを静かに見て、ユルスナールは徐に口を開いた。
「この春、ガルーシャ・マライが旅立ちました」
神経質そうな男の白い眉毛が小さく動いた。
「そうかい。そうかい。あのクソジジイもとうとう、くたばっちまったか」
この男の口の悪さは昔から悪評高かったが、辛辣な言葉とは裏腹に、男の顔には、どこか懐かしそうな表情が浮かんでいた。
「なら、満更でもねぇか。アイツの直ぐ後ってぇのは業腹だが、向こうで会ったら、しこたまからかってやるさ」
男の脳裏には、その昔交わしたガルーシャとの賭けが思い出されていた。
どちらが先にこの世を去ることになるか。酒の席での他愛もない戯言の一種だった。
そして、いつからか、話題は先程までこの部屋にいた黒髪の人物に及んでいた。
「あの子はいつからここに?」
「あ? あの坊のことか?」
「ええ」
「五日前ぐれぇのことか? カマールんとこからだってぇ言って。ひょっこり顔を出しやがって。何でもアイツの母親んとこから寄こされた【伝令】だってぇ言うじゃねぇか。生身の人間が伝令で来たって、あの野郎、随分とたまげてたさ」
そんなことを一頻り、可笑しそうに語ると、カマールの師匠であるその男は、不意に柔らかな微笑みを浮かべた。
「それにしても、あの子は良い子だ」
頑固で一切の妥協を許さない鍛冶屋の仮面を剥ぎ取って、突然、孫を可愛がる祖父のような顔付きになった男を、ユルスナールは無言のまま、見遣った。
「あの子………リョウは、ガルーシャ・マライの縁です」
その言葉に、男は動きを止めた。
ゆっくりと首を回して、ユルスナールの方を見た。
穏やかな空気から一転、驚きの表情を浮かべた男に、ユルスナールは小さく笑った。
「と言っても。血の繋がりはありませんが」
「なんでぇ。驚かすなよ。こっちは心臓が止まるかと思っただろ」
本当に驚いたのだろう。
あからさまに安堵の溜息を吐いた男は、つるりと自分の頬を撫でた。
「ですが、あの子は、ガルーシャの旅立ちを看取りました」
暫し、沈黙が落ちた。
静寂に満ちた室内に、窓から入る冷たい風が、男の白髪を揺らした。
「……………そうか」
男はただ一言、小さく言葉を発すると開けられたままの戸口へ視線を投げた。
やがて、緩く長い息を吐き出しながら、目を閉じた。
ガルーシャの最期に寄り添ったと言うあの子が、今、この時期に自分の前に居るという事実に、男は運命の悪戯のようなものを感じずにはいられなかった。
――――――最後の最後まで。
あの男との縁は切れそうもなかった。
その繋がりを鬱陶しく思う反面、どこかで喜んでいる自分がいた。
「お待たせ致しました」
不意に耳に飛び込んできた軽やかな声に閉じていた瞼を上げれば、朗らかな表情を浮かべたその話題の主が、お盆の上に茶器を乗せて戻ってきた。
柔らかな風が、室内を満たしてゆく。
その子の腕には湯を沸かした時の薬缶がぶら下がっていた。
かつてガルーシャに師事していたという不肖の弟子が、すぐさま立ち上がって、その子の手の内の物を受け取ろうとする。
それをその子がやんわりと首を振って断った。
――――――だがまぁ、こんな最期も悪くは無いかもしれない。
そんなことを考え始めている自分に、男は小さく笑みを零す。
穏やかな一時が、男の周りを取り巻いていた。