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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第三章:工業都市プラミィーシュレ
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医務室にて


 戸口に現われた男の顔を見るなり、中にいた男は、おやという顔をした。温厚そうな面に意外なものを見たというように太い眉が跳ね上がる。

 だが、それも一瞬のことで。

 男はすぐさま立ちあがると、柔らかな笑みを浮かべて戸口に歩み寄った。

「珍しいじゃないか」

 ――――――こんなところに顔を出すなんて。

 言外に含まれた台詞を耳に止めて、対する男は、口の端をほんの少しだけ上げた。

「元気そうだな」

 懐かしそうに目を細めて、互いに軽い抱擁を交わす。

 抱擁を交わし合う二人の男たちは共に背が高かった。

 似たような体格の男達は、そうして暫し、旧交を温め合った。

 身体を離すと、

「もう、そんな時期になるか」

 この部屋の主は、穏やかな表情をしたまま、感慨深げに目を細めた。

 男の濃い灰色の髪には所々白いものが混じり、その目尻には、時を刻んだ沢山の細かい皺が現れていた。

 この部屋に顔を出した男が、この街を訪れるのは、年に一度、秋の終わりから冬の初めの頃と決まっていた。

 その時に必ず、一度はこの兵舎【ツェントル】を訪れるのだが、この場所にこの男自らが出向くのは、この部屋の主が覚えている限り、初めてのことではないだろうか。

「どういう風の吹きまわしだ?」

 その目にからかいの色を浮かべて、部屋の主は、前触れもなく訪ねて来た男に中に入るように促した。

 そうして、男は背を向ける。

 戸口から部屋の中へ足を向けたその主の歩みは不均等で、左足をやや引きずっていた。

「足の具合はどうだ?」

「ああ。良くもなく、悪くもなく。大体こんなもんだろ」

 そう言って振り返ったこの部屋の主は、その時になって初めて、訪ねて来た男が一人ではないことに気が付いた。

 濃紺の外套の脇から、小さな顔が覗いていた。

 目が合うと静かに目礼をされる。

 頭は、ちょうど訪ねて来た男の肩の辺り。この男もそれを迎えた男も大概上背のある方だが、一般的なこの国の男たちの基準から見ても、外套に半ば隠れるようにして立つその人物は小柄だった。

 頭髪の色は、この辺りでは見られない黒だった。男の外套の色である濃紺よりも濃い髪の色を目の当たりにしたのは初めてのことだ。癖の無い細い髪は、無造作に束ねられていた。

「連れか?」

「ああ。軟膏を貰いに来た」

 不意に切り出された言葉に部屋の主の眉が訝しげに上がった。


 この場所は、【プラミィーシュレ】を拠点とする【スタルゴラド第五師団】の兵士たちの詰め所、通称【ツェントル】で。その中でも、この場所は、主に怪我負った兵士たちの面倒を看たり、具合の悪くなった者を診る医務室だった。

 ここの部屋の主は、この医務室を任されている軍医のステパンである。

 ステパンは経験豊富な軍医だった。医者を志し、軍籍に身を置いてから、もう随分と経つ。

 この地に赴任してからは、既に七年の歳月が経っていた。

 ここは医務室であるから、普通であれば、ここを訪れた兵士が軟膏を求めても別段、不思議ではない。

 だが、この男の場合は違った。

「打撲や打ち身に効く奴があっただろう?」

「ああ。あるにはあるが………。お前が…使うのか?」

 ステパンが知る限り、この男は、打撲や単なる打ち身位で軟膏を塗るような輩ではなかった。

 大体にして丈夫な男だ。それに腕も立つ。この場所で普通に街を歩いていて、万が一、喧嘩を吹っ掛けられたとしても、怪我を負う様なヘマをするとは到底、思えなった。場合によっては、却って喧嘩を吹っ掛けた相手の方を心配する位だろう。

 先程、挨拶の抱擁を交わした時も怪我をしているようには見えなかった。

 ステパンが、余程、妙な顔をしていた所為だろうか。

「いや。俺ではない」

 その男は、小さく微笑みのようなものを口の端に浮かべると、身体をずらした。


「リョウ」

 ユルスナールに促されるようにして、リョウは外套の脇からそっと前に出た。

「こんにちは」

 ステパンは目の前に現れた人物の格好を見て、静かにユルスナールへ視線を投げた。

 ユルスナールは、無言のまま、小さく頷いた。

 それで、ステパンは軟膏の使い道に見当が付いたようだった。

「軍医の方ですか?」

「ああ」

 黒い髪が縁取る横顔が、物珍しそうに小さな引き出しや瓶が並ぶ棚を見遣った後、小さく出された問いにステパンは言葉少なに返した。

「診てもらえるか」

「ああ」

 背をそっと大きな手で押されて、リョウは戸惑うようにユルスナールを見上げた。

「診てもらえ。念の為だ。腕は確かだ」

 案ずることはないというように一つ、小さく首を縦に振ったユルスナールに、リョウも素直に頷いた。

「分かりました」

 ユルスナールが信頼を置いている人物ならば、問題ないだろう。

 そう思ったリョウは、簡単に私見的な怪我の状態とそれを負った経緯を話した。


「こっちに座ってもらえるか」

 小さな木の寝台の上に腰を下ろすように言われて、それに従う。

「では、該当箇所を診せてくれ」

 医者の言葉にリョウは大人しく上着を脱いだ。

 そして、シャツ一枚になると背を向けたまま、ちらりと後方を振り返った。

「あの、……その、お見苦しいものをお見せするかと思いますが………」

 そう言うと、やや躊躇いを見せた後、辛うじて形態を保持していたシャツを脱ぎ去った。

 再び、人前で肌を晒すことになったが、相手が医者だと思えば、余り気にしないでいられるのは不思議なものだ。

 だが、一応、苦し紛れに脱いだシャツで前を隠した。自分の為というよりも相手の為である。それに、それ位の羞恥心は持ち合わせていた。


 躊躇いがちに晒された背中を見て、軍医ステパンの動きが止まる。

 ステパンは、暫し、言葉を失った。その顔には、隠しきれない驚きが含まれていた。

 これまで大きな戦争から小さな小競り合いまで様々な戦闘を経験し、軍医として積んだ長い経験から、大体のことでは動じるようなことは無かったが、服の下から現れた肉体は、違う意味で、ステパンの予想を裏切るものだった。

 確認するように無言のまま、ステパンがユルスナールの方を見れば、不自然に落ちた沈黙に前から静かな声がした。

「すみません。ワタシは大丈夫ですので、どうかお気になさらないで下さい。診察をお願いします」

 ひっそりとした自嘲めいた笑いに、浮き出た肩甲骨が揺れた。

「あ、いや、すまない」

 ステパンは表情を改めると顔付きを真面目なものに変えた。的確に冷静な判断を下す経験豊富な軍医としての顔である。

「こいつは、可哀想に」

 ステパンの手が、腫れあがった部分を丁寧に改めた。

 右の肩から肘、そして背中、肋骨。

 大きなごつごつとした節くれ立った男の手の下にある身体は、驚くほど華奢だった。

 滑らかな肌理の細かい肌。吸いつくようなしっとりとした手触り。

 ステパンは無意識に小さく唾を飲み込んだ。

 純粋に骨格だけを見るならば、成長過程の少年・少女のようなものだ。

 しかしながら、首から腰に掛けて、真っ直ぐに伸びた背骨の両側には、しなやかな曲線を描く括れがあった。ステパンが知るこの国の女たちに比べれば、驚く程に細いが、それは十分成熟した大人の女の身体だった。

 服を着ていた時は、少年のように見えたのに。

 だが、どうだ。洗いざらしの何処にでもあるような男物の服の下には、その見かけを裏切るものが、潜んでいた。

「骨までは行っていないとは思うが………」

 いつになく気遣わしげな声音でユルスナールが言葉を紡いだ。

 ステパンはそれを意外な思いでちらりと見遣る。

 どんな経緯があったにせよ。この男が態々、この場所を選んで連れて来たことは、強ち悪い選択ではなかったであろうと考えた。この男も大概にして秘密が多いが、その一端とも言うべきものを垣間見られたことにステパンの気分は、知らず高揚していた。

「ああ。それは大丈夫だ」

 真剣な面持ちで怪我の具合を改めていたステパンは、一通り診察を終えると、顔を上げ、穏やかに微笑んだ。

「そうか」

 ユルスナールが安堵の息を吐く。

 それから、ステパンは徐に立ち上がると、足を引きずるようにして壁際に行き、小さな瓶が所狭しと並ぶ棚の一角を漁った。

「ああ。これだ」

 小さな茶色の瓶を手にすると、それをユルスナールに手渡した。

「良く効く消炎剤だ。打ち身や打撲といった内出血にはもってこいのものだ。朝と夜の二回、腫れがある箇所全体に塗るといい。匂いが少しきついが効き目は抜群だ」

 内心、ほくそ笑みながら、ステパンは説明を継いだ。

「塗った直後は、暫く安静にすること。人によって効き方に差があるからな。場合によっては身体がだるくなったり、火照ったりする」

「……詰まり、それは、皮膚から吸収する形で、【人】本来の治癒力に働きかけるものなのですね?」

 意外な所から聞こえた声に、ステパンは軽く目を瞠った。

「ああ。そうだ。キミは薬師の知識があるのか?」

 リョウの黒い頭部が小さく揺れた。

「ほんの少し。………齧った程度ですが」

「ならば話は早い」

 そう言うとステパンはリョウに向き直った。

「副作用はないとは思うが、万が一という場合がある。今日一日は気を付けて様子を見ることだ。キミは、見た所、この辺りの人間ではないようだから、体質的にどうなるかは分からないからな。もし、気分が悪くなったり、おかしなところがあれば、直ぐに知らせてくれ。いいな?」

「はい」

 それから、少し考えた後、リョウはそっとステパンの方を窺った。

「あの、この薬の主成分を教えていただいてもよろしいですか?」

 だが、ステパンは小さく笑って首を横に振った。

「ハハ。そいつは、悪いが無理だ。これは独自の製法なんでな」

「そうですか」

「じゃ、ルスラン、ほれ」

 そう言われて、怪訝そうな顔をしたユルスナールに、ステパンは意味深な含み笑いをしながら顎をしゃくって見せた。

「塗ってやれ。自分でやるにはちと体勢がきついだろ」

 ユルスナールは、手の中にある小さな薬の入った瓶を見た。そして、次にステパンの方を見る。

「優秀な軍医の仕事を邪魔する積りはないが」

 その言い草にステパンは可笑しそうに拳を口元へ当てた。

 本人は至って涼しい顔をしている積りなのだろうが、先程から、凄い目付きでステパンの手元(というよりもステパンの手が辿る患者の肌)を見ているのだ。そのことに気が付かない程、ステパンは兵士として落ちぶれた訳でもなかった。

 軍医は、旧知の男の意外な一面を見て、からかう様な笑みを浮かべる。

「俺よりもお前がやった方が良いだろう」

 本当は、『お前の方がやりたそうだ』と言いたかったのだが、それを言ったら、後でどんな仕返しが待っているか知れなかった。

 渋々と瓶の蓋を開けたユルスナールに、

「擦り込むように、そっとだぞ」

 ステパンは軍医らしく尤もらしいことを口にした。

 だが、その言葉を告げる表情を見れば、あからさまに面白がっていることが見て取れる。

 ユルスナールは無表情の中にも、見る者が見れば分かる苦虫を噛み潰したような顔をした。

「あの………ルスラン? 自分でやりますよ?」

 軍医とユルスナールの間に流れた微妙な空気に、これ以上、ユルスナールを煩わせる訳にはいかないと感じたリョウは、恐る恐る申し出たのだが、

「いや。任せておけ。第一、手が届かないだろ」

 事も無げに却下されてしまった。

 ユルスナールは、瓶の中身を少し掌に空けた。とろりとした液体が大きな掌に溜まる。それを慣れた手付きで己が両手に揉みこんだ。そうすることで冷たい液体が温かくなるのだ。それから、リョウの座る木の寝台に自分も腰を下ろすと、そっとその赤みを帯びた部分へ掌を宛て、薬を塗り始めた。

「じゃぁ、俺はちょっとこいつを届けに行ってくる」

 ユルスナールが薬を塗り始めたのを確認してから、ステパンは机にあった書類を持つと戸口に手を掛けた。

 そして、小さく湧き出て来る可笑しさを噛みしめるように微笑んでから、邪魔者は退散とばかりに己が牙城を後にしたのだった。


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