とんだ再会
「おーら、こっちは終わったぞ。そっちはどうだ?」
野太い男の声が響いたかと思うと、のっそりと一人の男が顔を覗かせた。
伸びてあちこちに跳ねる癖毛を大きな手が、無造作に掻き上げれば、その荒削りな顔立ちが顕わになった。青灰色の瞳が覗く。
そこにあったのは、思いも寄らない人物の顔だった。
―――――ブコバル。
忘れもしない。北の砦で【色々な意味】で【随分と世話になった】兵士だ。
もう四か月ほど前になる出来事は、強い印象を持って自分の記憶の中に息づいているのだから。
いつもその隣には、銀色の髪を持つ男が並んでいた。深い瑠璃の瞳を持つ男が。
リョウは驚きの余り、声を失った。
「ああ、こっちも、もう終わりです。一つ、確認事項が残ってますけど」
顔を覗かせたブコバルにウテナが声を返す。
そして、ブコバルの視線が、酔っ払い男に絡まれたという子供たちへと注がれた。
男の子、女の子と順繰りに辿り、そして、最後、その脇に寄り添うようにして座っていた人物に注がれた。ブコバルはそのまま、何事もなかったかのように尋問をしていたであろう緑の腕章を付けた兵士に向き直る。
が、すぐさま、弾かれたように視線を前に戻した。
「はぁぁぁぁあ?」
ブコバルの大きな声が、狭い取り調べ室に響き渡った。
突然の大声に、中にいたイリヤとウテナの二人の兵士が顔を顰めたその脇で、二人の子供たちは吃驚して、今にも泣き出しそうな顔をしてリョウにしがみ付いて来た。
それで、漸く、リョウも我に返った。
「人の顔を見て絶叫するなんて、随分じゃありませんか」
――――――お久し振りです。ブコバル。
そう言って、穏やかに微笑んで見せる。
目を見開いていたブコバルは、驚きのままに大声を上げた。
「リョウ、お前、なんでこんなところにいやがる!」
「なんでと言われても。………大体、それはこっちの台詞ですよ」
リョウは苦笑をすると僅かに首を傾げて見せた。
こちらとて、何故、北の砦にいる筈のブコバルが、この【ツェントル】にいて、ここの兵士と同じように緑の腕章をその腕に付けているのかが気になった。突っ込み所は沢山ある。
だが、良く見てみれば、ブコバルの格好は、兵士たちの身に付けている隊服ではない。北の砦にいた時のような隊服でもない。もっと砕けた、簡素なものだ。
「配置換えになった……という訳ではなさそうですね。左遷でもされましたか?」
「あ? バッカ言え。誰が配置換えなんぞになるか!」
「そうですか」
態と口にした軽口に案の定、すぐさま否定の言葉が返る。それを承知の上で淡々と真顔で返せば、じっと視線が絡んだ。
暫くして、ブコバルは何が可笑しいのか、不意に声を立てて笑った。
それにリョウも釣られるように笑いを零す。
「元気そうじゃねぇか」
「はい。お陰さまで」
久々の邂逅に二人で和んでいると、脇から茶々が入った。
「えー、なになに? この子、ブコバルの旦那の知り合いなの?」
ウテナが興味津々に喰い付いて来た。
「あー、まぁ、知り合いっつうかぁ、なんだ。その」
だが、ブコバルの方は、曖昧に言葉を濁して、ガシガシと頭を掻く。
「何それ、なんか怪しいなぁ。なになに、旦那もとうとうそっちの道に入ったんだ? 女だけでは飽き足らずに? うわぁ、マジすか。これで、旦那も同志?」
嬉々として上がったその台詞にぎょっとしたのはブコバルの方だった。
「あ? 違うっての。何だよそいつは。お前と俺を一緒にすんな。ボケが」
どうやらブコバルもウテナとは旧知の仲でその性癖をちゃんと把握しているようだ。
ブコバルは、ウテナの頭を嫌そうに小突くと、不意に顔をリョウの方へ向けた。
「大体、リョウ、お前、なんでこんなとこにいるんだ。俺はてっきり、相手は坊主だって………」
「ブコバル!」
リョウは慌てて、ブコバルの台詞に被せるようにその名前を呼んだ。
そして、目配せをする。それ以上は言ってくれるなと。
「【オレ】が、自分から首を突っ込んだんです」
切羽詰まったように口にされたその言葉に何がしかの事情を察したブコバルは、ニヤリと人の悪そうな笑みを浮かべた。
「なぁるほどね」
続いて腕組みすると緑の腕章を付けた兵士を見た。
「で、ウテナ。残ってる確認事項ってのはなんだ?」
「ああ、それは。この子が怪我をしてるはずなんですけど、何ともないって言い張るから」
「あっちは鞘が当たったって言ってたぞ?」
それは、向こうの酔っ払いの尋問をブコバルが担当していたことを示す言葉だった。
リョウは非常に嫌な予感がした。
この男が絡むと碌な事がない。
「リョウ。見せてみろ」
「はい?」
「打ったのは何処だ? 肩か? ん? 背中か?」
ニヤニヤとした下卑た笑みを浮かべて、ブコバルが近寄ってくる。
リョウの体は自然と後退した。
ブコバルは、完全に面白がっているに違いなかった。自分が女であることは、ルスランから知らされて分かっているようだ。それを承知の上で、そんな無理難題を言ってくる。
傷の確認には、上着だけでなく、その下のシャツも脱がなくてはならない。肩肌だけで済むとはいえ、このような所で肌を晒せる訳がなかった。
「遠慮します。大したことはありませんから」
「あ? んなの見てみなくちゃ分からねぇだろ?」
少しずつ間合いを詰めて来るブコバルに、リョウの背中に冷や汗が流れた。
不意に視線をそらせば、舐めるような視線でこちらを見ているウテナが目に入った。
目眩がしそうだった。
この際、女だと分かればウテナの興味は自分から逸れるだろうから、最終的にはその方がいいのか。ブコバルは女の体など見慣れているようだし。この国の女たちの豊満な肉体を良く知るブコバルにとっては、自分の貧弱な体など大したことないに違いない。そんなことまで頭を過った。
唯一の救いになり得るだろう常識人と思しきイリヤは、困った顔をしてブコバルの方を見ている。しきりに助けてくれるように目配せをするが、イリヤは諦めろとばかりに首を横に振った。
それもそうだろう。リョウのことを男だと思っているイリヤには、リョウが考えている程、その危機感は伝わっていなかった。
それにしてもだ。ブコバルの傍若無人振りは、この場所でも健在なようだった。
「おら、リョウ。観念しな」
「うわ」
どこぞの悪漢も真っ青な台詞を口にして、一気に間合いを詰めたブコバルは、器用にリョウの左腕を掴むとその体を反転させ、石壁に押し付けた。
一瞬のことだった。
無意識に庇っていた右肩は、ブコバルにはバレバレであったらしい。
頬に冷たい石の感触が当たる。
「さぁて、改めてみるとしますか」
鼻歌が聞こえてきそうな程の上機嫌さで、ブコバルがリョウの上着に手を掛けた。
真後ろに陣取っている為、その表情は見えないが、きっと兇悪な笑みを浮かべているに違いない。
器用に前で止めていたボタンを外して、草色の上着はするりと肩から滑り落ち、掴まれている左手の所でぶら下がった。
「…………ブコバル」
自分でも低い声が出ていた。
石壁と自分の体の隙間に、ブコバルの大きな手が入り込んできた。
「こんなことして、楽しいですか?」
「ああ、俺は楽しいぜ?」
耳元でひっそりと囁きを返される。
ごつごつとした指の感触が、的確に素早く動く。噂に違わずブコバルのこの筋での熟練振りを、身を持って体験する羽目になった。
こんなこと知りたくはなかった。全く有り難くない。
器用な手つきで次々と外されてゆく釦にリョウは大いに焦った。
「ブコバル、冗談きついですよ!」
「冗談な訳ないだろ。渋るお前が悪い」
なんでそうなるのだ。
「だからって、何もこんな所で!」
リョウは、普段の落ち着きが嘘のように声が上ずっていた。
「あ? 固いこと言うなって。ちょっと見るだけじゃねぇか」
主旨が大いにずれている。どこかちょっとだ。
「いいなぁ、楽しそうで。ねぇ、ブコバルの旦那、ボクも混ぜてよ」
不意に聞こえたウテナの言葉にリョウはぎょっとした。
慌てて首だけ向けて振り返れば、じっとこちらを見ながら舌なめずりをしている男と目が合う。
「却下です。ちっとも楽しくなんかないです。ウテナさん、きっとがっかりしますよ? そうですよね、ブコバル?」
リョウは必死過ぎて、自分でも何を口走っているのか訳が分からなくなってきた。
「……って、どさくさに紛れてどこ触ってるんですか!」
もぞもぞと石壁と自分の体の間で蠢いていたブコバルの大きな手が、いつの間にか、片方の乳房を鷲掴みにしていた。
その感触と大きさを確かめるように緩く動く。
「へぇ、意外にあるじゃねぇか」
ブコバルが感心したように口笛を吹く。
呆れて物も言えない。
余りの出来事にリョウはブコバルを足で蹴ろうとした。
腕は塞がっている。自由になるのは両足だけで。
せめてもの抵抗だ。そうしなければ気が済まなかった。
だが、ブコバルはいとも簡単にリョウの攻撃を避けた。それどころか、却って拘束がきつくなる。
「こら、リョウ。動くなって。釦が外れねぇだろうが」
ここまで外しておいて、どの口がそんなことを言うのか。
「もう十分です!」
懸命に声を張り上げるが、ブコバルは全く意に介していなかった。
元よりの体格差と力の差は歴然としている。ブコバルにとってリョウの抵抗など痛くも痒くもないだろう。だからと言ってこのまま向こうのやりたいようにさせる訳にはいかなかった。
藁をも縋る思いでリョウは後方を振り返った。
「イリヤさん、この節操なしをどうにかしてください! あの酔っ払いより性質が悪い。あっちの方がまだましだ!」
だが、抵抗空しく、ビリリとシャツの布地が破れる音がした。
リョウが無理に体を捻った所為である。
肩から腕に掛けて、右側が外気に晒されて冷やりとした。
「………っ」
案の定、動いた拍子に肩に鋭い痛みが走った。
痛みに顔を顰め、抵抗が止まる。
リョウが、とっぷりと諦めの溜息を吐いた時だった。
――――――ヒュン。
風を着るような音がしたかと思うと、ガキンと何か固いモノが壁に当たる衝撃音が耳元で響いた。
「何をしている?」
不意に全身が泡立つような殺気が室内を埋め尽くしたかと思うと地を這うような男の低い声が、狭い室内に響き渡った。
その声量は、決して大きいものではなかったにも関わらず、その場にいた兵士たちの身に緊張を走らせるような何かを持っていた。
リョウは、その声音に聞き覚えがあった。
それに応えるかのように鼓動が一つ、跳ねた。
痛みをやり過ごす為に閉じていた瞼をそっと押し上げた。
直ぐ脇の石壁には何故か、一本の短剣が突き刺さっていた。反射する刃に自分の顔が歪んで映っていた。
先程の音は、どうやらこの剣が刺さった時の音らしい。
余りの動転ぶりに、石壁に剣が刺さるという、かつての自分が持ち得た【常識】ならばあり得ないような事実も簡単に流してしまった。
「おっと。あっぶねぇなぁ」
ブコバルは、反射的に体を後ろに仰け反らせて、投げつけられた短剣の軌道を避けたようだった。
続いて、小さな舌打ちが聞こえた。
「ブコバル。もう一度、訊く。何をしている?」
言葉と共に絶対零度の凍気が入口から流れ込んで来るようだった。
剥き出しになった背筋が泡立った。
リョウは、その冷気の源を求めてゆっくりと首を巡らした。
鼓動が、煩い位に鳴っていた。
その理由はなんなのか。
首に下げたペンダントが白い肌の上で光る。
ゆらりと差し込む穏やかな日差しに反射する銀の色。そして、深い青さを内に秘めた瑠璃の色が、視界一面に飛び込んできた。
「………ルスラン」
リョウは、無意識に視界に入ってきた人物の造形に安堵の息を吐いていた。
涙が滲みそうになるのをそのままに入口に立つ男を見上げる。
その手には、もう一本の短剣が、いつでも放たれるように握られていた。
「あ~、こいつはひでぇなぁ」
室内に走る固い空気を打ち破るように、やけに緊張感の無いブコバルの声がして、リョウは首を捻ってそろりと自分の肩を見た。
剥き出しになったその場所は、成程、無残にも赤く腫れ上がっていた。道理で痛い訳だ。
誰かが、ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。
「ブコバル」
再び、険を帯びた声がする。
「分かったって」
ブコバルはパッと両手を離すと目の前に掲げた。
そして一歩、脇へ身体をずらした。
「リョウ」
その懐かしい声に、リョウは無意識に微笑んでいた。
静まり返った室内にカツカツという靴音だけが響いた。
リョウは、剥き出しになった肩を慌てて隠そうとしたが、それは伸びて来た大きな手に阻まれてしまった。
気が付けば、目の前にユルスナールが立っていた。
ごつごつとした骨ばった男の手が、躊躇いがちに腫れ上がった箇所に触れる。
「これはどうした?」
低く問われて、リョウは視線を泳がせた。
有無を言わせない迫力が、ユルスナールにはあった。
「ええと、その……」
「ん?」
「………だから、はっきり言えばいいのに」
ぼそりと水を差すような声がして、ユルスナールはその発生源を確かめるように後方を見た。
「酔っ払いに絡まれた子供たちの間に入って、打たれたんでしょ?」
手にした書類をひらひらと揺らしながらウテナが口にした。
ユルスナールがいつにもまして磨きの掛かった無表情で低く問う。
「獲物はなんだ?」
「鞘だって言ってたぜ?」
酔っ払い男の方の事情聴取をしていたブコバルは、そう言いながらも首を傾げた。
「鞘だけでこんなになるか」
「あの野郎、やっぱ適当だったか」
リョウは観念したように小さく息を吐き出した。
「分かりました。ちゃんと白状します」
「リョウ、その前に」
ユルスナールの手が、シャツの前に伸びると顕わになっていた肌を隠した。
見下ろせば、そこは己の右半身が覗いていた。
ブコバルとの格闘で破れてしまったシャツは、最早、使い物にならなくなっていたのだ。釦を外していただけの筈なのに、どうして身ごろの方まで破けてしまったのか不思議で仕方がない。
シャツ一枚と雖もリョウには貴重なものだった。それはガルーシャのお古であったから、生地が弱くなっていて急な負荷に耐えられなかったのも頷けるのだが、それでも惜しかった。
リョウは何とも言えない情けない気分だったが、それを飲み込んで、代わりに苦笑を滲ませた。
「すみません。お見苦しいものを」
故意にではないとは言え、端たなくも貧相な体を露呈させてしまった。
「いや、気にするな。寧ろ、役得だ」
こちらを気遣ってか、軽く冗談を口にしたユルスナールにリョウも小さく笑った。
なんとか格好が付く様に前を合わせて。
だらりと左腕に掛かっていた上着を引っ張り上げ、ユルスナールに手伝ってもらいながら、着直した。 袖に手を通そうとすると肩に痛みが走る。それをどうにかやり過ごす。
今日はツイていない。
だが、思わぬ場所で、再び、この瑠璃色の瞳が見られたことを考えれば、相殺されるだろうか。不思議とそんな気にもなっていた。
それからリョウは腹を括ると正直に事の次第を告げた。
剣が入った鞘ごと強かに打ち付けられたこと。こちらは咄嗟のことで、子供たちを庇うので精一杯であったから、まともに衝撃を受けてしまったこと。
相手は少し脅す程度であったのかもしれないが、元より、そういった殴打に全く慣れていない身体なので、思いの外、腫れてしまったようだとも付け足しておいた。
あの酔っ払いを擁護する積りはなかったが、向こうは少年を相手にしていると思ったのだ。ここの基準で考えれば、まさか、その人物がこんな貧弱な肉体だとは思わないだろう。
気が付けば、いつの間にか二人の子供たちは別室に移されて、他の兵士に家まで送り届けられたとのことだった。ブコバルと一悶着を起こしている間にイリヤがそつなく手配をしたらしい。あんな見苦しい所を見られなくて済んだのは、不幸中の幸いだった。
一通り話を聞き終えたユルスナールは、大きく溜息を吐いた。
「全く、とんだ無茶をする」
心配そうに口にされて、リョウとしては苦笑を返す他無かった。
「報告はこれでいいな?」
確認するように顔を上げたユルスナールに、
「ええ。十分ですよ」
書類を手にしていたウテナが尤もらしく頷いた。
「ブコバル、お前はあっちに灸を据えておけ」
「あいあい。言われなくとも分かってるさ」
「それから、お前たちはもういいぞ。持ち場に戻れ。向こうにいるカマールに、リョウは俺が預かると伝えてくれ」
ユルスナールの口から出て来た名前にリョウは驚いた。
「カマールさんが来てるんですか!」
「ああ。お前がここに連れてこられたのを噂で聞いてすっ飛んで来たらしい」
リョウは不意に立ちあがった。
それをユルスナールが制する。
「リョウ。何処へ行く?」
「カマールさんに一言、声を掛けて置かないと。きっと心配を掛けたでしょうから」
「その格好でか?」
真顔で言われて、リョウは改めて自分の格好を見下ろした。
上着を着ていても下にあるシャツが破れて無様にひしゃげているのは分かった。所々肌が覗いている。
カマールはああ見えて目敏い。すぐさまその訳を問いただされれば、上手く誤魔化せる気がしなかった。
押し黙ったリョウにユルスナールは言葉を継いだ。
「カマールには俺からも言っておく」
「カマールさんを御存じなんですか?」
「ああ。馴染みの鍛冶屋だ」
「………そうでしたか」
こうしてみると世間は意外な所で繋がっている。
リョウが一人、妙な感慨に浸っていると、
「あの、一ついいですか?」
壁際に立っていたウテナが、徐に手を上げた。
やけに神妙な顔つきをしている。
その隣でイリヤは、怪訝そうな顔をしていた。
ユルスナールは、ウテナに視線だけで『なんだ』と問うた。
「第七の隊長さんですよね。うちの団長の同期っていう」
「ああ」
「隊長さんもそっちの人ですか?」
「この馬鹿!」
イリヤがすかさずウテナの頭部を引っ叩く。
バシンとやけに小気味よい音が響いた。
その言葉に壁際に立ち、腕を組んでいたブコバルがずっこけた。
「お前なぁ、いい加減、そこから離れろってば」
ブコバルが心底呆れた顔をした。
ブコバルに呆れられるというのも随分な話である。
「ええ~。折角、思わぬ掘り出し物が出たと思ったのに、第七の隊長が相手じゃ、ボクには分が悪いじゃないですか」
――――――だから、何故そうなるのだ。
リョウは、脱力するように隣に座るユルスナールの肩に凭れかかった。
あれだけ大騒ぎをしたのだが、どうやらウテナとイリヤには分からなかったようだ。そのことを喜んでいいのか悲しむべきなのか、最早、分からない。
「何の話だ?」
当然の如く訳が分からないと言う顔をして、ユルスナールがリョウの方を見下ろした。
リョウは、ちらりとブコバルの方を見た。
目が合ったブコバルは、からかう様な笑みを浮かべていた。
リョウは、ぼそぼそとウテナの趣味とその前の遣り取りを愚痴るように口にした。ここまで来れば半ば自棄である。
話を聞いたユルスナールは、大きく一つ息を吐き出して、額際に落ちかかる己が前髪を掻き上げた。
その表情には何とも複雑な色合いが滲んでいた。
「すみません」
「なんで、お前が謝る?」
「いや、だって。ワタシが勘違いされるのは仕方がないですけれど、その所為でルスランにまでご迷惑を掛けているみたいなので」
「そんな顔をするな」
情けなく眉根を下げたリョウに対し、ユルスナールはその手でリョウの顔に掛かった髪を梳くと小さく微笑んだ。
騒ぎが収束を見せ、不意に流れ込んだ穏やかで和やかな空気。
だが、ここで収まらないのがブコバルという男だ。
「ウテナ、言っとくが、リョウはお前の圏外だぜ」
「はい?」
「どっちかっつうとこっちの分野だ」
そう言って自分の胸を指で示す。
怪訝そうな顔をしているウテナにブコバルが尚も二言・三言囁けば、その目が徐々に驚きに見開かれた。
そうして、ブコバルは含みのある流し目をリョウにくれた。
「リョウ、お前、意外に良い身体してんだな」
リョウは呆気に取られた。
開いた掌を意味深に動かして言い放たれた言葉は、余りにもあからさまだった。
「ブコバル!」
リョウは思わず非難の声を上げた。
感の良いユルスナールは、ブコバルの仄めかしたことを瞬時に理解したようだった。
ギロリと鋭い目付きでブコバルを睨み付けると、ふざけたことを抜かした朋輩を座ったまま無言で蹴り上げた。
「おっと」
だが、それも予想の範囲内だったのか軽々と避けられてしまう。
「避けるな」
「いや、普通、避けるだろ」
ブコバルの減らず口にユルスナールは、一つ、息を吐き出した。
「さっさと行け」
「へいへい。邪魔者は消えますよ」
―――――じゃぁな。
手をひらりと一つ振って、とんだ食わせ者のブコバルの大きな背中は、狭い扉の向こうに消えた。
この空気をどうすればよいのだろうか。居た堪れなさにどっぷりと溜息を吐きたい気分だ。
だが、そんな要らぬ感傷に浸る間もリョウには残されてはいなかった。
それはそれで良かったのであろうが。
「リョウ。行くぞ」
「はい?」
音もなく立ちあがったユルスナールに促されたリョウは、頭上に沢山の疑問符を並べていた。
「まずは肩の手当てだ。それからシャツを変えなくてはな」
そう言って、ユルスナールはリョウの手を取ると、足早に取調室を後にした。
中に緑の腕章を付けた二人の兵士を残して。
狭い取調室に残されたウテナとイリヤの二人は、無言のまま顔を見交わせた。
二人の若い兵士たちの顔には、なんとも言えない複雑怪奇極まりない表情が浮かんでいた。
「女…………か」
「ああ。………女だって」
ウテナの脳裏には、剥き出しになったほっそりとした背中と白い滑らかな肌が、まざまざと浮かんでいた。
服の下に隠れていたのは、少年にしても細い身体だった。
「ふふふ」
――――――いいかもしれない。
不意に低く漏れた朋輩の忍び笑いにイリヤは嫌そうに顔を顰めた。
ウテナの口元は、弧を描いていた。
この国の女たちにこれまで自分の食指は伸びなかった。興味惹かれる対象は、所謂成長途中の少年の細さで。
別に女が駄目な訳ではない。この国の女たちが持つふくよかな肉感がどうも駄目だった。
自分の美的感覚が少しズレていることは承知だ。だが、それは好みの問題であるから、別段、恥ずべきものだとはウテナは思ってはいなかった。競合する相手が少ないのは良いことだが、如何せん、その理想を体現している相手を見つけるのが難しかった。
だけれども、あの子は違った。自分好みの華奢な骨格。初めて目にする真っ直ぐな黒い髪。そしてそれに対となるような黒い瞳は、吸い込まれる程に深い光を湛えていた。
恍惚に似た笑みを浮かべたウテナの表情にイリヤは思い切り顔を引き攣らせた。
「ウテナ、変なこと考えんなよ?」
「なにがだい?」
この男とも長い付き合いになるが、こんな顔をしている時は、どうせ碌でもないことを考えているに違いなかった。
「見ただろ。お前の入り込む余地はねぇぜ?」
かの有名な第七師団の団長のあの剣幕を見れば、それは直ぐに気が付くことだった。
それに、いつもあの団長の傍にいるブコバルという兵士。あの男も軍部の中では、それなりに名が通っていた。そのやり方は、かなり独特だが、あれはあれで、ブコバルがリョウのことをそれなりに案じているのが見て取れた。
「大事にされてるみてぇじゃねぇか」
妙なちょっかいを掛けても、返り打ちに遭うのは目に見えている。この仲間のお陰でこっちまでとばっちりを受けるのは御免だった。
「ふふふ。なんか面白そうだよね」
だが、イリヤの折角の忠告も、すっかり自分の世界に入り込んでしまっているウテナには、右から左のようで。
相変わらず薄気味悪い笑みを浮かべるウテナの脇腹へ、イリヤはもどかしさを込めるように拳を入れた。
「痛いなぁ。なにするんだい?」
漸く、意識をこちらに戻したウテナに、
「おら。とっとと持ち場に戻るぞ。お前は報告があるだろうが」
イリヤはもう一度仲間を小突いて、小さな取り調べ室を後にするように顎をしゃくった。
「はいはい。分かったよ」
ウテナは一つ肩を竦めて見せると、先に踵を返した朋輩の後を追った。
小さな扉が左右にある回廊を二人の兵士が歩く。
この【ツェントル】入口付近の広間に出た所で、イリヤは立ち止まるとウテナを振り返った。
「お前、序でに、あっちの方も見ておけよ?」
あっちとは、ブコバルに灸を据えられているであろうお騒がせ男の事だ。
元々、ブコバルは第五師団の兵士ではない。今回は団長が頼んだようだが、最終的な報告を上げるには、こちらの人間が咬まなければならなかった。
「ええ~」
不満の声を上げたウテナをイリヤはギロリと睨んでから突っぱねた。
「当たり前だ。業務は完遂しろ」
イリヤは素っ気なく告げると持ち場に戻る為に仲間に背を向けた。
それで仕事の邪魔をされたイリヤの溜飲は下がったようだった。
一人、賑やかなざわめきが聞こえて来る広間に残されたウテナは、顔を嫌そうに顰めていたが、やがて諦めたのか、肩を竦めると息を一つ吐いた。
「はいはい。やればいいんでしょ。やれば」
そう言って、踵を返したウテナの表情は、だが、その台詞程、嫌そうではなかった。