再会へのプレリュード
同じ日、宿屋を出たユルスナールは、真っ直ぐ目的の場所に向かって歩いていた。
その足取りは軽い。
がっしりとした良く鍛えられた肉体を持ちながらも、その長い脚から繰り出される歩調は、実に軽やかで重みを感じさせなかった。
ユルスナールが身に付けているのは、北の砦に居る時に着ているようなかっちりとした隊服ではなく、随分と簡素なものだった。くすんだ黒に近い濃紺の外套を羽織り、その下には飾り気の無い上着とシャツを重ねている。下には黒いズボンに、同じく黒い長靴を穿いていた。どれも着古されて体に馴染んだものだった。
ユルスナールの腰には、普段通り、一振りの長剣が下がっていた。
この剣とももう随分と長い付き合いになる。最早、自分の体の一部のような按配で、その重みがないとしっくりこない程だ。
砦の兵士たちにとっても周囲の友人達にとってもそれは、いつも通りの見慣れた光景だった。
だが、よくよく目を凝らしてみれば、その出で立ちには以前とは違う点が、一つだけあった。
本当にささやかな違いだ。恐らく、それを施したユルスナール本人でしか気が付かないだろう。
その太くて重みのある長剣を支えているのは、引き締まった逞しい腰に斜めに掛かる太いベルトだ。なめした頑丈な革もそれを使い続けている長い年月に比例して、表面には沢山の傷が付き、飴色に光っていた。
そして、そのベルトの剣を収めている部分とは反対側の場所には、小さな飾り紐が付いていた。
その先端には、やや歪な形をした黒い石が三つ程、連なって揺れていた。小さな黒い石は、真中に小さな穴が開き、そこに紅い紐が通っていた。石を連ねた下の方では、その紐は紅い色の他に別の色の糸が入り込んで、一緒に細かく編み込みが施され、複雑な模様を作り出していた。
小さいながらも随分と手の込んだ代物だった。それは、装飾品の類に疎いユルスナールのような男にも十分見て取れた。
その飾り石は、ユルスナールが歩く度に外套の中で小さく揺れた。
時折、強い風が吹いて濃紺の外套の裾をはためかす。そうすると、一瞬、吸収した日の光を反射するように、小さな黒い石が、その存在を主張するように煌めいた。
それは過日、お守りだと言ってユルスナールに渡されたものだった。
時折、砦にやってくる伝令の役目を負った鷹の足首に付いた小さな筒の中に一枚の紙片と共に入っていたのを砦の鷹匠の兵士が団長であるユルスナールの所まで持ってきたのだ。
贈り主は、この石と同じ色の瞳を持っていた。
澄んだ深みを備えた闇の色。ひっそりとした静けさの中に、底知れぬ強さと優しさを備えた慈愛に満ちた穏やかな色。
あの瞳に出会うまで、黒という色が、かようにも沢山の輝きをその内に秘めた色であることを過分にも知らなかった。
賑やかな人混みの中を歩いているユルスナールの右手の指先が、そっとベルトに付いた飾り紐に触れた。
まるで、そこに残された贈り主の温もりを辿るかのように。
日の光を反射して銀色に輝く髪を靡かせながら、この街の大通りを歩くユルスナールの姿は、その地味な色合いと簡素な服装にも関わらず、何故か、人目を引いた。
硬質な冷たいきらいのある顔立ちに、そこから覗く切れ長の瞳は、切れ味の良い鋭い刃物の切っ先のようだ。大手を振って通りの真中を歩いていた荒々しい風体の男たちも、ユルスナールの前にはさり気なく道を譲った。
街の女たちは、颯爽と現れたこれまでとはやや毛色の違う男の登場に目配せをし合い、しきりに秋波を送る。
だが、相手の気を引こうとする女たちの涙ぐましい努力にも関わらず、それを向けられた当人は、全く気にした様子が無かった。
それもそうだろう。
ユルスナールの脳裏には、底知れぬ深い輝きを持った黒い瞳が描かれていたのだから。
人通りの多い大通りを逸れて、それから細い路地を幾筋か抜ける。迷路のように複雑に入り組んだ道をユルスナールは迷うことなく進んでいた。
暫くして、ひっそりとした界隈に出た。
そこは、小さな小間物屋や古道具屋、日用品を扱う金物屋が軒を並べる裏通りだった。
古ぼけた看板も、小さい間口に所狭しと並んだ細々とした品物の様子も、それを形作る店の様相も、一年前にこの場所を訪れた時と変わっていない。
ユルスナールは、この裏通りに足を踏み入れると、迷わず、そのどん詰まりを目指した。
そこに己が剣を鍛えてくれた鍛冶屋の工房があった。
毎年、この時期になると剣の状態を改めて貰いにここを訪れるのだ。そして、微調整をしてもらう。この長剣を作ったのは、先代の鍛冶屋だが、今は代替わりをして、その弟子が工房を引き継いでいた。その男に頼むのも、これで三度目になる。
ユルスナールは、二振りの剣が交差する文様が描かれた古ぼけた小さな看板の掛かる家の前で足を止めた。
そして、戸口を覗いて訪いを告げた。
だが、暫く待ってみるが、中は静まり返ったままで、応えの声、一つもしなかった。
いつもなら、愛想の欠片も無い男の低い声がする筈だった。
ユルスナールは、内心、首を傾げた。
――――留守だろうか。
だが、この場所にはいつも事前に伝令を飛ばして、自分が尋ねることを知らせている。その為か、ここの主が留守であることはこれまで一度も無かった。
ユルスナールは、中を覗いて、男の気配を探った。
だが、そこに人の気配は全く残っていなかった。
どうやら、本当に留守にしているらしい。
ならば、自分が次に取る行動は二つに一つだ。
ここで主が返ってくるのを待つか。それとも出直すか。
さて、どうしたものかと考えを巡らせていると、隣の家からひょっこりと一人の男が首を出した。
「すまないが」
顔を覗かせた隣の金物屋の主に、ユルスナールは声を掛けた。
「ああ。あんたは、カマールんとこの軍人さんだね」
店の主は、毎年、この時期にやってくる兵士の顔を良く覚えていた。
上背のあるがっしりとした体つきに、銀色の髪を持つ兵士。男らしい猛々しさの中にもどこか気品のあるその風貌は、この界隈では目を引いた。
「ここの主は留守のようだが、何処に行ったか知らないだろうか?」
「ああ。なんかね。ついさっきなんだが。えらい血相変えて出てったよ」
狭い小路の中、外で響いた人の話し声に、その周りで店を構えていた人々が次々に顔を覗かせた。
「そうそう、珍しく、やけに焦ってるようだったね。アタシしゃ、あの男のあんな顔を見たのは初めてだよ」
体格の良い小間物屋の女主人がそう言えば、
「確か、今、カマールんとこにいる坊主が、軍の詰め所に連れてかれたとかどうとか」
古道具屋の男が聞きかじったことを口にすれば、集まった人々は一斉に驚いた顔を見せた。
「詰め所って、【ツェントル】にかい?」
軍の詰め所は、この界隈では、通称【ツェントル】と呼ばれていた。
【ツェントル】とは、【中心】という意味だ。この【プラミィーシュレ】には、軍部とは別に街の行政を司る役所がその中心部にあるのだが、この場所では、体を張って治安維持に取り組む軍部の方が役所にいる役人たちよりも、街に暮らす人々に人気があった。それを暗に揶揄した通称でもあった。
軍部の詰め所は、文字通り街の真ん中に聳える仰々しい行政府の建物よりも、南の方向に居を構えていたのだが、街の人々は、南にある軍部の建物の方をこの街の【中心】と呼んだのだ。
「ああ。そうさ」
「なんでまた」
「そんな悪さをするような子にゃぁ見えなかったじゃないか?」
小間物屋の女主は、古道具屋の主に詰め寄ったが、
「さぁ、俺も詳しいことは分からんよ」
誰も正確な情報を持った者はいないようで、肩を竦めて見せた。
街に暮らす一般庶民は、軍部にしょっ引かれると聞くと揉め事を起こした荒くれ者の男たちを真っ先に思い浮かべた。酔っ払いの類や物盗り、喧嘩の類だ。詰まり印象としては、否定的な意味合いの方が強いのだ。
だが、ここに集まる人達が知る、その鍛冶屋の元に居る少年というのは、どうもそういう類とは無縁のようだ。
新しく入った弟子だろうか。
話を聞きながら、ユルスナールは思った。
先代の主に似て、その弟子である今の鍛冶屋、カマールも物静かな性質だが、自分の信念をはっきりと持つ頑固な男だった。
あの男も弟子を取るような時期になったか。そう思うと、過ぎ去った時の流れに感慨深いものがあった。
話を纏めれば、何処からか報せを聞きつけたカマールは、取るものも取り敢えず、事実確認の為に軍部の詰め所、【ツェントル】にすっ飛んで行ったということだ。まだ帰ってこないということは、その用事が長引いているのだろう。
一先ず、留守の理由が分かり、ユルスナールはこれ以上ここにいても仕方がないと判断した。
「出直すことにする。もし、主が帰ってきたら私が尋ねて来たことを伝えて貰えるだろうか」
慇懃に出された提案に、その場に集まったまま、噂話に花を咲かせていた男たちは、ユルスナールの方を振り仰ぐと鷹揚に頷いた。
「ああ。伝えておくさ」
「すまないな」
そう言って微かに口元に微笑みらしきものを浮かべたユルスナールに、小間物屋の女主が年甲斐も無く頬を赤らめた。
そして、この少し寂れた裏通りには、どこか浮いてしまう様な【いなせ】な空気を身に纏った男は、銀色の髪を翻して、再び、喧騒で賑わう大通りの方向へ消えたのだった。
「いつ見ても、ホント、嫌みな位、いい男だねぇ」
去って行くその後ろ姿を目の端で追いながら、小間物屋の女主は、どこか夢見がちな目をして零した。
「ああ。益々、男ぶりが上がってくようだ」
それに同意をするように金物屋の主も通りの向こうを眺める。
「ああ、アタシもあと十年若かったらねぇ」
その言葉に周りに居た男たちはぎょっとした顔をして目配せをし合う。
どう良く見積もっても、十年前も今も、男たちが知る女の姿には余り変わり映えが無かったからだ。
だが、夢見る乙女のような顔をする小間物屋の女主人に敢えて口を挟む者などいなかった。
ここで少しでも水を差すような事を口にしようものなら、後でとんでもない具合に跳ね返ってくるのだ。誰もが我が身可愛さに口を慎んだ。
留守であった鍛冶屋のカマールの工房を後にしたユルスナールは、そのまま宿屋には戻らずに、この街を管轄する【スタルゴラド第五師団】の詰め所、通称【ツェントル】を訪ねることにした。
上手く行けばカマールに遭遇するやも知れないし、そうでなくとも、【ツェントル】に赴任している旧友の顔を拝んで来ようと考えたのだ。
恐らく、中にはブコバルもいることだろう。あの男のことだ。冷やかしがてら旧知の友の顔を見て、向こうの訓練に参加したりしているかもしれない。
【ツェントル】に辿りつけば、相変わらず忙しそうに兵士たちが動きまわっていた。
入り口では、ユルスナールの姿を見た兵士たちが、背筋を伸ばして敬礼をした。
銀色の髪に瑠璃色の瞳。その色の組み合わせは、その実、余り多くはない。
身に付けている服は、兵士たちの隊服とは違えども、その凛とした佇まいと風貌から、この人物が誰であるかの見当が、兵士たちには付いたようだ。
恐らく、ここの上官から自分が訪ねて来るであろうことが、すでに末端にまで伝わっているのだろう。 ユルスナールは、そう思った。
―――――相変わらず用意周到な男だ。
ある種、病的な迄の几帳面さは、感嘆を禁じえない。
あの男の下に仕えるの方は、中々大変だろうが。
そんなことを思いながらも、ユルスナールは敬礼をした兵士に挨拶を返した。
ユルスナールは、実際、かなり顔が広く、ここの兵士たちの間では、それなりに名が通っていたのだが、本人は余りその事に頓着していなかった。
ユルスナールが兵士たちの間で有名なのには理由があった。国を代表する軍部の師団長であるということもそうだが、冬場、毎年、王都【スタリーツァ】で開かれる御前武芸大会に於いて、最終戦の常連者であることの方が大きかった。
剣で身を立てる兵士たちにとって、肩書を取り払った純粋な剣技の腕だけを勝ち抜きで競う武芸大会は、日々の鍛錬による成果と己が実力を試すまたとない機会であり、そこで勝ち残る猛者は、正に兵士たちが目指すべき憧れの存在でもあった。
昨年の個人戦の試合では、ユルスナールは二位に入った。最終戦で、第一師団の兵士に負けたのだ。
仲間たちは、口々に惜しいと言ったが、ユルスナール自身は、少しも惜しいとは思っていなかった。
実力の差は歴然としていたのだ。上には、まだ上がいる。その思いを新たに日々の鍛錬に勤しんだ。
その武芸大会には、個人戦の他に、各師団の団体戦もあった。
国の軍部には第一から第十迄、全部で十の師団が存在する。その各師団から代表者を五人選び、立ち会いを行う。軍部では毎年恒例の行事で、中々の盛り上がりを見せた。軍部内での交流を深め、各師団内の結束力を高め、各人が切磋琢磨するよう刺激を受けるまたとない機会でもあった。男たちの熱い祭りでもある。
――――――それはさておき。
勝手知ったる(毎年のようにこの場を訪れているのだから、そう言っても良いだろう)館内を歩けば、知った顔がここの兵士に詰め寄っている姿に出くわした。
目の前にいる兵士と大して変わらない、いやともすれば勝るとも劣らない大きな体に長年の仕事で鍛えられている太い腕。無精髭が頬を覆う厳つい顔つきだ。
「ですから、何かの間違いです。あの子に会わせてください」
鍛冶屋のカマールだった。
どうやら噂は本当であったようだ。
「どうした?」
ユルスナールが声を掛ければ、カマールに対峙していた兵士は、あからさまにほっとしたような顔をした。
「カマール」
「これは、シービリの旦那」
カマールは、ユルスナールのことをその家名【シビリークス】から、【シービリ】の旦那と呼んだ。
掛けられた声に振り返って、そこにある実に特徴的な硬質な面立ちの人物を見て、カマールはハッとした。
「もしかしなくとも、うちの方へお出でになりましたか。申し訳ねぇ」
カマールは、ユルスナールが訪ねて来る予定であったことを今になって思い出したようだった。
申し訳ないとばかりに頭を下げたカマールをユルスナールは手で制した。
「いや、それは気にするな。それより、何があった?」
【ツェントル】の内部で、中にいた兵士に掴み掛からんがばかりであったカマールの勢いに、その事情を問えば、
「どうも、うちの若いもんがこっちに連れてかれたみてぇでして」
それから、堰を切ったように、あの子は第一、問題を起こすような子ではない。ここに連れてこられたのはきっと何かの間違いで、自分が保証をするから会わせてほしいと切々と訴えた。
その尋常でない剣幕に応対していた兵士も困惑気味だった。堅気の職人らしく、普段の真面目で寡黙な姿からは想像が付かないような焦り振りだった。
余程、その弟子のことを可愛がっているのだろう。
「分かった。俺が確かめてこよう」
ユルスナールの提案にカマールは顔を輝かせた。
「ホントですか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
「で、その弟子の名は?」
「ああ。弟子ではございませんよ」
カマールが顔を上げて、小さく目の前で手を振れば、
「違うのか?」
ユルスナールの眉が片方、器用に上がった。
「はい。うちの母親から言伝を預かって来たようでして、遠くから遥々訪ねて来た子なんです」
「では、身内か?」
「いいえ。身内でもございません」
ユルスナールは、その返答を内心、訝しく思ったが、それを顔には出さずに言葉を継いだ。
「そうか。その子供の名前と背格好は?」
「はい。名前はリョウっていう坊主でして。髪は真っ直ぐな黒。瞳の色も同じ黒で。この辺りじゃ、余り見ない色ですから、直ぐに分かります。色もそうですが、顔立ちが異国風といいますか。ちょっと変わっていやして……っていっても悪い意味じゃねぇんです。その反対で、人目を引くっていうか。愛嬌のある面でして」
――――――なんだと?
そうして告げられた子供の名前と姿形の描写に、ユルスナールは耳を疑った。
珍しくその切れ長な目を見開いて、カマールの顔をまじまじと見た。
だが、その変化には気が付かずに、カマールは続けた。
「大人しい穏やかな気性の、気立てのいい子でして。間違っても揉め事を起こすような子じゃぁねぇんです」
「リョウ……だと?」
ユルスナールは、無意識に剣を下げたベルトに付いた飾り紐へ指を伸ばしていた。
それは、過日、リョウから送り届けられたものだった。
以前、ガルーシャのお守りを貰ってしまったから、その代わりに、自分で拵えたと同封されていた小さな紙には記されていた。
スフミ村の収穫祭が終わってから直ぐのことだ。
ユルスナールは、パッとその身を翻すと、足早に廊下を歩きだした。
「だ、旦那?」
「シビリークス隊長?」
それにカマールと直ぐ傍にいた兵士が驚きの声を上る。残された二人は無言で顔を見交わすと、すぐにその後を追った。




