プラミィーシュレ
リョウは、三日前から、この【プラミィーシュレ】を訪れていた。
この街では、リューバの息子が鍛冶屋を営んでいるのだ。
スフミ村の収穫祭を終え、森の家に帰る前にリューバにお使いを頼まれた。その時に街では中々手に入らないと言う薬草の類が入った小さな包みとリューバが息子に宛てた手紙を預かった。それを届けてほしいとのことだった。
―――――ゆっくりでいい。少しずつでいい。この国を見てごらんなさい。
したためた手紙に術師としての封印を施しながら、リューバはそう穏やかに告げた。
リューバは、この国がリョウの故郷とは異なることを知っていた。どういう経緯でガルーシャの下に世話になっていたのかまでは知らなかったようだが、今後、【術師】を目指し、この国で生きて行く為には、まず色々なことを実際に目にして、体験し、感じた方がいいと言った。
リョウが今、身を置くのは、ガルーシャが残した小屋がある森と薬草を届けるリューバが暮らすスフミ村の周辺という限られた範囲で、それは、ある種、とても閉じられた世界だった。
そこに暮らす限り、穏やかな日常と安穏が約束されているだろう。
だが、それだけで一生を終えるのは、まだまだ若いリョウには勿体ないとリューバは常々感じていた。 リョウの素養を研く為にも、外の世界を知り、様々な人に出会い、その人達から学ぶべきだと思っていた。それに、リューバとしては、リョウにこの国のことをもっと知ってもらいたいという想いがあったようだ。良い面も悪い面も含めて。
ガルーシャのように隠遁生活をするのは、一通りの経験を積んでからでよい。引っ込むのはいつでも可能だが、外に飛び出してゆくには、それなりに若さが必要だからだ。
それは、歳を重ねたリューバだからこそ生まれる、含蓄のある助言でもあった。
―――――別に、急ぐ必要はないのよ。焦る必要もないの。ただ、中々、母親に顔を見せないドラ息子にね、偶には帰ってくるように伝えて欲しいの。
術師同士であるのだから、遠く離れていても、その情報交換には【伝令】を飛ばすことで済む。それは簡単だが、それでは余り効果は得られないとのことだった。
だが、そこに生身の人が関われば、自ずと返事は変わってくる筈だ。
そう言って、リューバは微かに笑った。
それは術師として先を歩む先達としてのリューバなりの心遣いなのかもしれなかった。
こういう機会でも無ければ、リョウが森の小屋から外へ出る機会は無いに等しい。
リョウ自身は、慎ましやかに暮らしてゆく分には、それでもいいと思っていたが、リューバがくれた折角の機会を無駄にはしたくなかった。
アクサーナとデニスの婚礼を終えた夜、村人たちに混じって、行商人や流しの楽団の人達が語るこの国の他の地方のもの珍しい話を聞いて、それをやや興奮気味に語ったことをどうやらリューバは覚えていたようだ。そして、そこから薄らと透けて見える外の世界に対する自分の好奇心に気が付いたのかもしれなかった。
外の世界へ踏み出すには、勇気がいる。なにせ周りは知らないことばかりなのだ。困難に直面しても自分自身で対処し、切り抜けなければならないのだから。
この場所で、一人で立つには不安も沢山あった。だが、それと同じくらいに、この場所よりもより広い世界を見てみたいという好奇心があったのも確かだった。
リューバの提案は、そんなリョウの背中を押す形になった。
【プラミィーシュレ】は、スフミ村から街道沿いに南へ下ること約五日の所にあった。
リョウとしては、ガルーシャが旅立ってから初めての長旅となった。
この国で流通している貨幣と物価の水準については、以前、ガルーシャから教わっていたし、今回、改めて確認を取る上で、リューバからも丁寧に教えを受けた。
リョウの手の中には、リューバから貰った貨幣の入った小さな袋があった。
それは、小さくともずっしりと確かな重みのあるもので、初めて手にするこの国のお金に、リョウはおっかなびっくりだった。
この国の貨幣は硬貨で、大まかに三種類に分かれていた。金貨である【ゾーラタ】、銀貨である【セレブロー】、銅貨である【ミェーディ】の三種類だ。
庶民が専ら手にするのは、銅貨の【ミェーディ】で、銅貨が五十集まって、漸く銀貨一枚になり、そして銀貨が三十集まって金貨一枚になるという。普通の暮らしをしている分には、金貨はそれこそ大金で、庶民は滅多にお目に掛かれない代物だということだ。
そして、硬貨類の他に宝石や鉱石の類も硬貨と同等、もしくはそれ以上の付加価値のあるものとして、しかるべき売買の取引としては使われるとのことだった。
リューバは、それをこれまで薬草を届けてくれたことへの対価だと言った。
中を開けてみれば、銀貨が一枚と銅貨が二十枚も入っていた。リョウは始め、頭で計算をしながらそれを手に取って、余りの額の多さに仰天した。銀貨一枚があれば、家族が一月は優に暮らして行けると聞いたばかりだった。元々、自分には現金の必要性が無かったし、自分がこれまでに集めたささやかな薬草の対価としてはそぐわない。とてもじゃないがこんなには貰えないと恐恐と受け取りを辞退したのだが、リューバは頑として譲らなかった。
街に出たら、何が起きるか分からないし、持っていて損はない。それに、その中には今回の手間賃も入っているのだと言った。最終的にはリョウが折れて、硬貨の入った小さな袋を感謝を示すようにそっと押し抱いた。
それは、今、小分けにして懐の中に分散して入れている。旅をするとなれば、その道中、何が起こるか分からないからだ。用心をしておくに越したことは無かった。
いつも下げている鞄の中には、手作りした不格好な帳面と鉛筆、水筒、日持ちするようにと固めに焼いたパン、それから干し肉が少々と、常備薬として薬草の類を入れた小さな入れ物が入っていた。少し大きめの柔らかい布は保温性が高いので野宿をした場合に備えてだ。それから着替えとタオルを少々。それだけ入れれば、鞄はもう一杯になった。
腰のベルトには、短剣が二本と小物入れがぶら下がっている。
これからの季節に備えて、ガルーシャの納戸から見つけた少し厚めの外套を羽織り、頭には同じく見つけた帽子を被った。冷たい風から、肌を守ると言うよりは、髪の色を目立たせない為でもあった。
それに、いつものようにズボンを穿いてシャツと上着を重ねる。上着の上には片方だけ、革で作った無骨な肩当てと小手当てを捲いていた。
そうして身支度を整えてみるとなんだかいっぱしの旅人になったような気分になったものだから可笑しかった。
途中、通り過ぎた川面に映った自分の姿は、お世辞にも女には見えなかった。
それにほんの少しだけ苦笑に似た笑みを漏らす。
だが、揺らぐ水面に映るその表情には、陰りの色は見えなかった。
その辺りは、もう割り切っていたからだ。
今回もセレブロは途中まで付いてきてくれた。人目を避けて街道を迂回するにも限度があるので仕方なく中途までとなった。
今回、リョウが目指す街は、スフミとは比べ物にもならない位の大きな街で、方々から様々な人が集まると聞いた。そこで、セレブロが人目に触れて騒ぎになるのは避けなければならなかった。
セレブロには、その別れ際、『万が一のことが起きたら、迷わず我を呼べ』と耳にタコができる程きつく言われた。
心配性な所も相変わらずだ。
だが、この場所で経験値の浅い自分のことを心から案じてくれていることが分かるから、素直にその言いつけを守ると頷いて見せた。
『気を付けるのだぞ』
「うん」
『良からぬ気を感じたら、即、逃げよ。これは旅の鉄則だ』
そして、やたらと人の世界の事情に通じている所も変わらない。
「うん」
『余り長引くようなら迎えに行く』
「うん」
それでもどこか心配そうな色を覗かせる虹色の瞳に、リョウはその煌めく白銀の首に噛り付いて、無理はしないからと約束をした。
そして、相棒に暫しの別れを告げて、途中から、リョウは細々と続く街道を一人で歩いた。
だが、それでも寂しくは無かった。街道沿いには道々、様子を窺いに様々な獣たちが顔を覗かせたからだ。空を見上げれば、遥か上空には、大空を自由に飛び回る鳥たちがいた。その中には、既に顔馴染みになっている鷹のイーサンもいて、気紛れに声を掛けて来た。
そういった訳で、幸運にも話し相手には不自由をしなかった。
独りではない。それは、とても心強いことだった。
スフミから目指す【プラミィーシュレ】までは旅慣れた男の足でも五日の距離だとは聞いていたので、絶対的に脚力の劣る自分の場合はそれに二・三日は余分に掛かるかもしれないとは覚悟していた。
だが、その間をずっと歩き通しだった訳では無かった。
途中、溢れんばかりに干し草を積み上げた荷馬車に遭遇して、その片隅に乗せてもらうことが出来たのだ。
板張りの簡素な御者台には年老いた背中の曲がった男が手綱を握っていて、街道を一人歩く【少年】の姿が物珍しく映ったようだった。
「お前さん、どこへ行きなさる?」
後ろからガタガタと車輪を揺らしてやってくる荷馬車の音に端に寄って、暫し、その途方もない嵩の干し草のお化けみたいな塊が通り過ぎるのを待っていれば、のんびりとしわがれた声が掛かった。
通り過ぎることなく自分の真横で止まった荷馬車に座る老人に目的地を告げれば、大層驚かれた。
これから寒くなるという時期に、まだ幼い子供が(老人にはそのように見えたのだ)一人で旅をすることが気の毒に映ったようだ。
老人は、その先にある別の街に用事があるようで、【プラミィーシュレ】は途中に通るから、そこまで乗せて行ってやろうと親切にも申し出てくれたのだ。
この場所に来て、専らの移動手段は自分の足であるから、以前に比べて脚力もそれなりに鍛えられてきているとは思ってはいたが、こんなに長く歩き続けてきたのは何分初めてのことで、最初のペース配分を間違ってしまったのか、(と言うよりは単なる体力の問題という気がしないでもないのだが)後半部分ではかなりきつくなってきていた所だったので、その申し出は正直有り難かった。
リョウは老人に丁寧にお礼を言って、その干し草で溢れかえる荷馬車の片隅に体を寄せた。
日の光を吸い込んだ干し草は温かく、独特な草とお日様の匂いがした。
そうやってのんびりと荷馬車に揺られながら、残りの二日間を過ごした。
段々と街に近づいて来ているのか、街道の人の往来は、日を追うごとに増えていった。
その殆どが行商人だ。馬車を仕立てて商隊を組み、疾駆する姿も有れば、大きな荷駄を背中に背負い、黙々と歩いている男の姿もあった。
大きな街には人が集まる。人が集まれば市が立った。実に原始的で明快な論理だ。
「坊、ごらん」
御者台に座る老人の声に閉じていた目を開けば、遥か前方に累々と続く巨大な石壁が見えた。
「あれが、【プラミィーシュレ】さ」
皺だらけの眦を遠く透かし見る為に細めて、老人は腕を前方に伸ばした。
骨ばったか細い指で、街がある方向を指し示されて、目に入ってきた光景にリョウは暫し息を飲んだ。
それは想像以上に大きな街だった。
これまで街道沿いに目にしてきた村落や集落とは比べ物にもならない。街と言うよりも城塞に近いかもしれない。周囲を強固な高い石垣がぐるりと巡らされ、赤茶色のレンガが積み上げられた塔の先には、街の象徴だろうか、紋章の入った旗が翻っていた。
「はは、坊よ。そんな所でたまげていたんじゃ、身が持たないぞ」
驚愕の表情を浮かべて前方を見るリョウは、如何にも田舎から出て来たという少年の体で、それが可笑しいのか、老人はからからと笑った。
「あの中はもっと凄いからの」
そう言って目配せをした老人にリョウは唾を飲み込んだ。
遥か南、王都へと続く本街道が【プラミィーシュレ】へと続く道と分かれる追分の箇所でリョウは荷馬車から降りると、親切な老人に別れを告げた。
荷を引く馬にも礼を述べることを忘れない。
「パラ フェルメ ス リュークス(リュークスの御加護がありますように)」
互いに旅の無事を祈って、お決まりの挨拶を交わす。
「ありがとうございました。お爺さんも、道中、御無事で」
「ああ、お前さんもな」
腕を大きく振って、旅を続ける荷馬車を見送る。
それから、颯爽と翻った小柄な背中は、前方を見据えると、大きく息を吸い込んだ。
初めて目にする新しい街。
そこで、何が待っているのか。
リョウは、心の中で気合を入れると、鞄を掴む手に力を込めて、一歩、足を踏み出した。