とある鍛冶屋の日常
これより第三章の始まりです。
「何だと。もう一度言ってみろ!」
狭い路地裏に男の怒声が響き渡った。
「あ? 聞こえなかったのか? だから、やらねぇって言ったんだよ」
だが、それに答える男の声は至って落ち着いたものだった。
「貴様、愚弄する気か!」
「はっ、呆れたぜ。生言ってんのはそっちだろうが」
「何だと!」
「物分かりの悪い奴だな」
鬱陶しげに吐き出された相手の言葉に、対峙していた男は、怒りを顕わにした。
ここは、工業都市プラミィーシュレ。スタルゴラドの数多ある都市の中でも軍事産業的な意味合いの強いやや特殊な街であった。
街には多くの武器や武具を扱う店が立ち並び、巨大な市場を形成していた。この場所は鍛冶屋も多く、各地で産出された金属鉱石が集まり取引される一大拠点でもあった。
街は四方八方を高い城壁で囲まれ、全体が一つの独立した城塞のようなものものしい趣を呈していた。
そしてこの諍う声が聞こえる場所は、街の中でも外れの細々とした日常生活の道具を扱う小さな金物屋や細々とその日を食い繋いでいるような武具屋、そして鍛冶屋が集まるこじんまりとした一角だった。
昼下がりだというのに人通りはまばらで、辺りはひっそりと静まり返っている。
華々しい大きな店構えが多々軒を連ねる表通りと比べれば、同じ街中と雖も実に隔絶の感があるだろう。それでも、場末にありがちなじめじめとした陰鬱な空気は見当たらないのは、日当たりが決して悪くは無いからであろう。それが唯一の救いとも言えた。
そんな狭い路地を筒抜けた男の怒鳴り声に、その界隈で店を構えていた人々はその発生源を探して戸口から顔を覗かせた。
その戸口の上方には、ささやかだがそれぞれ構えている店の内容を示すような小さな看板がぶら下がっていた。
長い間、日光や風に晒されたそれらの標識は、痛みも激しく着色された色が剥げて下地の木が所々剥き出しになっている。だが、それすらもここではこの小路の雰囲気を醸し出す味わいの一部になっていた。
よく見ると、顔を覗かせた人々は皆、同じ方向へ首を巡らしている。そして、顔を合わせると何やら訳知り顔で頷き合い、その路地のどん詰まりの方向へ顎をしゃくった。
それで野次馬の如く顔を覗かせた人々は、事の次第に納得をしたようだった。
一言、二言声を掛けあって。やがて肩を竦めて、興味が削がれたように再び自分たちの持ち場へと戻って行った。
その間も、言い争う声は一向に止みそうもなかった。
だが、よくよく聞いてみれば、激高しているのは片方の男の方で、それがかなり一方的なものだということが分かるだろう。
「返す返すも失礼な奴だ。そんな態度を取ってどうなるか分かっているのか!」
―良く吠える輩だ。
臆病な犬程、無駄に吠える。その法則は人にも当てはまった。小物程、自らの存在をひけらかそうとして大きく出るのだ。
顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけている相手に対峙していた男は、やっていられないとばかりに大業に溜息を吐いた。
そんなに嫌な相手なら態々頼みに来ることもないだろうにと思わずにはいられない。
そして気だるげにボサボサになった髪を掻いた。
どうしたらこちらの言い分が上手く相手に伝わるのだろうか。先程から堂々巡りを繰り返す噛み合わない会話に、いい加減、男はうんざりしていた。
「大体、こっちは、あんたらみたいな金持ちの道楽に付き合ってられる程、暇じゃぁないんでね。他を当たりな」
そう結論付けた男の言葉に、対峙していた男は唯でさえ上がっていた眉を一層吊り上げた。
「道楽とはなんだ? こっちは真剣に頼んでいるではないか!」
「それが、人に物を頼む態度かね」
端から居丈高な態度を匂わせて憚らない相手の言い草に、男は呆れた顔をして見せた。
成金だかは知らないが、客だと言う男が身に着けている煌びやかで上等な衣服は、この寂れた感のある裏通りでは随分と浮いていて場違いに見えた。
男ぐらいの身分なら表通りに並ぶ一流の店がこぞって揉み手をしながら相応の接待をするだろう。
それでいいではないか。
男には、なぜこの客が自分のような所にやってくるのかが理解できなかった。
「あんた位になりゃぁ、お抱えの鍛冶屋ぐらい居るだろう? 何も態々、こんな辺鄙な所まで足を運ぶことも無い」
それは正直な感想だった。
そう言って切り捨てた男に、件の客は怒りの矛先をほんの少しだけ引っ込めて宥めるように口にした。
「私が誰に何を頼もうが、それはこちらの勝手だ。お前の知る所ではない。そうだろう? それに悪い話ではないだろう? 何が不満なんだ? 金か? 代金なら幾らでも弾むぞ?」
その台詞にそれまで面倒くさそうに相手をあしらっていた男の空気が一変した。
男の顔付きから不意に色が消えた。
だが、対峙していた客の男はそのささやかな変化を見逃してしまったようだった。不意に黙り込んだ男の態度を客は自分の都合の良いように勘違いしたようだった。
「あ? もう一度、言ってみやがれ」
男の低い囁きに、
「だから、金なら出す………」
―ダン!!!
続くかに思われた言葉は、その途中で掻き消えた。
「ふざけんな」
それまで椅子に座っていた男は不意に立ち上がると、自分にとって理不尽な要求をしていた男の襟元を掴んで壁に叩きつけた。
急に変わった空気に着飾った男は完全に不意を突かれた形になって、目を白黒させた。
「いいか。もう一度だけ言う。その耳は飾りじゃぁねぇだろ。耳の穴、かっぽじってよく聞け」
至近距離で視線を合わせると男は凄んでいた。その眼差しは鋭く、射抜くように相手を見据える。
「ひっ」
突然のことにそれまで威勢よく大声を張り上げていた男が、小さな悲鳴のような声を上げた。
喉にかかる手が、男の首元を締め上げていた。その顔が苦痛に歪み始める。そこで、ぞっとするほど低い剣呑な囁きが男の耳元で響いた。
「金ならあるだと? はっ、笑わせるぜ。俺はな、あんたみたいな奴の注文はぜってぇ受けねぇんだよ。分かったか?」
男は自分を締め上げる男の腕を外そうともがいたが、何をどうやってもびくともしなかった。苦しさを主張するように自分の首に回された手から伸びる男の逞しい腕を叩いた。
「分かったか?」
男の鋭い眼光に男は苦しさから逃れようと無茶苦茶に首を縦に振った。
それを見て取ってゆっくりと男が手を離した。
「ゲホ…………ゴフ、ゴホ………」
すると首を絞められていた男は、急に入り込んだ呼気に壁に背を預けたまま崩れ落ちるように咳き込んだ。
それを横目にもう一人の男は、用事は済んだとばかりに相手に背を向ける。そして何事も無かったかのように自分の持ち場へと戻り、中断していた作業を開始した。
「………こんな野蛮な所、二度と来るものか!」
喉を摩りながら立ち上がった男は、負け惜しみたっぷりに捨て台詞を吐いて肩を怒らせながら戸口から消えた。
男が付けている香水の類だろうか、悪酔いしそうな程に甘ったるい人工的な匂いが辺りに漂い、男はあからさまに顔を顰めた。
「…………それはこっちの台詞だっての」
―あんな客、こっちから願い下げだ。
高慢な勘違い野郎が出ていった戸口を一瞥して、男は、独りごちるように呟くと気分を入れ替える為に頭を振った。
どうも最近は、碌でもない輩がここを訪ねて来るようになった。
昔はそれこそ二月に一人いるかいないかであったのに、この所【デェシャータク】を過ぎない内にああいったおかしな客がやってくる。その度に案の定、諍いになり、要求を突っぱねた男に対して客だと名乗る人々は、半ば逆上気味にここを後にするのだ。
そろそろ周辺で店を商う仲間たちから苦情が来そうなものだった。そのことを思うと頭が痛くなりそうだ。
元々、男はお世辞にも愛想のいい方ではない。そんなもの必要はないと思っている節があった。
だが、男は仕事に対しては実直で妥協を許さなかった。長い間、苦労して積んできた修行の賜物である自分の腕に誇りを持っていた。今更こんな所で自分の信念を曲げる積りは毛頭なかった。
それは、自分の腕一本で生きて来た職人としての気構えでもあった。
それにしてもだ。最近はどういう訳か、こういったはた迷惑な飛び込み客の相手をする機会が増え、その度に無駄に時間を取られている。こんな莫迦げたことで精神をすり減らすのもいい加減嫌気が差していた。こうなれば別の場所に拠点を変えた方がいいのだろうか。そんな考えまでも浮かんでくる。
男の口から、珍しく大きな溜息が洩れた。
そんな時だった。
先程の迷惑な客と入れ替わるようにして今度は別の人物が戸口にそっと顔を覗かせた。
「ただいま戻りました」
「ああ、済まなかったな」
かけられた声に男は顔を上げると静かに微笑んだ。先程の剣幕が嘘のように凪いだ表情だ。
だが、男の口の端には、先程の名残か、苦々しいものを飲み込んだ後のような皺が微かに出来ていた。
それを見て取ってか、現れた人物は控え目な微笑みを浮かべた。緩く一つに束ねられた癖のない黒い髪がさらりと揺れる。
その者は中に入ると手にしていた包みを端にある卓の上に置いた。
そのほっそりとした背中に男は声を掛けた。
「爺さんの様子はどうだった?」
「今日は随分と気分が良いようですよ。持ってきた薬が効いているみたいです」
「そうか。そいつは良かった」
ほっと安堵の表情を浮かべた男に、声をかけられた者は顔だけ振り返ると穏やかに微笑んでから話を継いだ。
「お茶を淹れましょうか」
それはやや唐突な申し出だった。
休憩をするにはまだ間がある。
案の定、怪訝そうな顔をした男に、相手は小さく苦笑に似た笑みを浮かべる。
「さっき、そこで、凄い形相をした人に擦れ違ったんです」
正しくは我武者羅に歩いていたその男の怒らせた肩にぶつかって、物凄い勢いで罵声を浴びせられたのだが、それは敢えて口にしなかった。
―こんな。
そう言って、片付けをしていた手を止めて振り返ると自分の指を目の端に当てて両目を吊り上げるような仕草をした。
それは、もしかしなくともつい今しがた、実にこの男らしいやり方で「重にお引き取りを願った」件の客のことに違いなかった。
男は、ややばつが悪そうに視線を横に流した。
だが、それも一瞬のことで。
おどけたように相手が見せたその仕草が可笑しかったのか、不意に喉の奥を鳴らした。
それで先程のわだかまりが、ほんの少しだけ消えて行くような気がした。
こんな時は、気分転換をした方がよい。このようにささくれ立った気持ちのままでは、まともな仕事などできそうになかった。
それを暗に仄めかされて、男は参ったとばかりに苦笑をして見せた。
「ああ、頼む」
相手からの心遣いに男は素直に乗ることにした。
それを見て取ったその人物は、静かに頷くとお茶の用意をしに店の奥へと消えていった。