【青】の象徴
ふらりぷらり。ふらりぷらり。
日の光を反射して、青い石が振り子のように揺れていた。
ふらりぷらり。ふらりぷらり。
少し歪な形をした多面体。剥き出しの水晶のように切断された断面が、青い光を切れ切れに辺りに散りばめる。それに合わせて、長い光の粒子を帯びた影が、点々と躍った。
そこから透かし見る【ソンツェ】は、ゆうらゆうらと白く輝いていた。
小高い丘の辺り、たっぷりと枝葉を伸ばす大木の木陰に寝そべっている者が一人。
洗いざらしのくすんだ色合いのシャツに着古した草色の上着を着て、色褪せた茶色のズボンを穿いている。膝から下は歳を経て飴色になった焦げ茶色の長靴で覆われていた。その傍には使い古された鞄が無造作に置かれてあった。
先程の光は、この者が手にする細い鎖の先から生まれていた。
華奢な銀色の鎖。それを手にする指も細く骨ばったもので。
そんな白い指によって摘み上げられた鎖の先端には、濃紺とも瑠璃色とも取れる青い石が付いていた。
その石が、ふらりふらりと揺れる。不規則に。小刻みに。
時折、思い出したように風が吹いた。
そして、攫うようにその者の緩く束ねられた黒い髪を靡かせていた。
眼前に広がる空は高く、抜けるように青い。
だが、それは、この手の中にある【色】とは違った。
これは、その【色】ではない。
例えるならば、そう。夕暮れ時、日没に現れる、完全に世界が闇に包まれる前の一時の【アオ】。寒い冬の時期、透き通る凍てついた空気の中で深みを増した【アオ】。
冷たさと静謐さ、そして深淵さを兼ね備えた色だ。
そして、遠い記憶の中にある海の色。馴染み深い北国の緩やかな稜線の向こうに見える凪ぎの色。
ここから遥か東南の方角には、海があるという。随分と栄えた賑やかな港町があるという。海の水は塩辛いのだと海など一度も目にしたことがないという村の男が、しきりに感心をしていた。
それは、昨日の酒の席で戯れに耳にした話しだった。
リョウは、上空に掲げていた腕を下ろすとそっと目を閉じた。
目裏に浮かぶのは、この石と同じ色を湛えた瞳。
―紛らわしいことをする。
あの人に他意はなかったのであろうが。
その口元に苦笑とも判じ難い笑みが零れた。
耳の奥には、まだ昨日のざわめきの中で囁かれた【スカモローフ】の言葉が残っていた。
―この国の男は、惚れた相手に自分の瞳と同じ色の石の付いた装飾品を贈るのさ。
あの後、念の為リューバに確かめてみたところ、それはどうやら本当のことらしかった。ただ、男が女に求婚をする際には、専ら指輪として相手に贈るのが一般的だという。
それを聞いて安堵した。
だが、それと同時になぜか落胆に似た気持ちが生じていた。
良く見れば、リューバの指にある指輪には【琥珀】を思わせる明るい茶色の透明な石が付いていた。それはリューバが娘時代に旦那さんから貰ったものらしかった。
この手の中にあるものは、首飾りだ。
お守りだとあの人は言っていた。そしてこれはガルーシャの形見でもあるのだ。それ以外の意味がある訳はなかった。
何を期待していたというのだろう。ほんの一瞬でも掠めた都合のいい思い付きを慌てて打ち消す。
結局、あのスカモローフには、体よくからかわれてばかりだった。きっとこの顔が傍目には物珍しかったからだろう。あの男は、自分を「異国のお嬢さん」と呼んだ。
こういう時、異邦人である己が身を強く思い知らされる気がした。まだまだ知らないことは沢山ある。いや、知っていることの方が少ない位だ。
時として不意に形容し難い焦燥感に捕らわれることがある。だが、今更焦っても仕方がないことなのだと頭では理解している積りだった。
それでも感情は別の所にあって。
その乖離にどうしようもない程のもどかしさを感じるのも確かだった。
幸いにも時間だけはたっぷりとある。それを生かすも殺すも全て自分次第。生来の楽天的な性格は【この場所】でも変わることがない。それを幸運に思った。
『リョウ』
カサリと枯れ草を踏む音に続いて静かに響き渡った低い声に、リョウはゆっくりと閉じていた瞼を開いた。
そこに覗くのはこの辺りでは余り見かけることの無い漆黒を孕んだ瞳だ。
鼻面を突きだした相手にリョウはそっと手を伸ばして触れた。
「ねぇ、セレブロ」
黒い瞳が相手の姿を映して微笑む。そこで、良いことを思いついたとばかりに悪戯っぽく小さな光を放った。
体を起して華奢な鎖を己が首元に付け直すと、リョウは目の前に立つ白く輝く毛並みを持つ大きな狼に似た獣を仰ぎ見た。
「ガルーシャの木はどうなったかな?」
あの種を植えてから三か月の時が流れていた。
この間もたらされた伝令の鷹であるイサークの話では、人の背丈を越すか越さないか位の大きさになったという。
ガルーシャが残した命の欠片。
『見に行くのか?』
「そうだね」
リョウは勢いを付けて立ち上がると鞄を手に大きく伸びをした。
ついでにあの人にこの首飾りのお礼をするのもいいかもしれない。紛らわしいことをした相手にささやかな意趣返しを兼ねて。
黒い石の付いた飾り紐などはどうだろうか。根付のように下げられる小さなものでいい。その位の冗談は分かってくれるだろう。
そこまで考えて、不意に浮かんだあの男の硬質でやや面白みに欠ける表情にリョウは小さく吹き出した。
他愛も無い思い付きにいつしか気分は浮上していた。
小高い丘の上は風の通り道だ。遮るものの無い広大な大地を北の山脈から吹き下ろされる冷たい風が駆け抜けて行く。
冬はもう近くまで来ていた。
頬を掠める次の季節を運ぶ風は、陽の光に温められた体には心地よかった。
リョウは、ゆっくりと傍らに控える大きな相棒を振り返った。
「帰ろうか、家へ」
『ああ』
そして、一人と一頭は、少し前までは青々としていたであろう薄茶色に変わった草原の中へと姿を消した。
その遥か後方では、七日間続いた祭りを終えて、その間の賑やかさがまるで夢の中の出来事であったかのようにひっそりと静まり返り、元の穏やかで静寂に包まれた日常へと戻ったスフミの村落があった。
これにて第二章【スフミ村の収穫祭】は終わります。