Kolechjka ~紅い指輪の物語~
カレェーチカ(колечко)とはカリツォー(кольцо)の指小形で、「小さくて可愛らしい指輪」の意味。
―その昔、ちっぽけな指輪をキミにあげた。
高く、低く、抑揚を付けながら、微かな鼻歌が聞こえて来る。今にも消えてしまいそうな小さな旋律だ。それは、たなびく煙のように静寂の間を縫い、ひっそりとした闇の中を流れ、そして満ちていった。
小さな手元を照らす発光石の灯りの下、女が一人、繕いものをしていた。
女の手は淀みなく正確に動いていた。その下にあるのは、艶やかな光沢を放つ贅沢なルバーシュカ。繊細な刺繍が、袖口と襟ぐりを縁取っていた。あしらわれている意匠は、大空を羽ばたく鷲を表わしている。その嘴には小さな細い葉っぱが銜えられていた。
暫し手を止めて、縫い目が曲がっていないことを確認してから、再び、女の手が元のリズムを刻み始める。
その口元には、薄らと微笑みの欠片が乗っていた。
最後に結び目を作って、女は手を口元に持って行くと糸切り歯で縫い糸の繋がりを断った。
発光石の作りだす影の外にあった手元にぼんやりとだが、柔らかな光が当たる。
白くて少し骨ばった感のある細い指。小さなささくれがあるその指には、華奢で細い女の手に似つかわしい金色の指輪がはまっていた。
紅い丸みを帯びた小さな石が、指の動きに合わせて光を放つ。密やかな闇の中に揺らめく、微かな残り火のように。
女の指が、シャツの上を静かに滑った。襟元に施された繊細な鷲の文様に触れる。
愛おしさを込めるように。
―カタ。
小さな物音がして、ふと女が顔を上げた。闇から滲み出るように女の面が顕わになる。
ほっそりとした柔和な面立ち。かつては滑らかで艶やかに弾んでいたであろう肌も歳と共に陰りが見え始めていた。
だが、それを補うかのように女の淡い黄緑色の瞳には、昔と変わらぬ澄んだ輝きが宿っていた。
温かくて限りない強さを秘めた光が。
―風が吹いたのだろうか。
窓の外を見て揺らぐ梢に女は今しがたの小さな物音の原因を思った。そして、巡らした視線を元の位置に戻した時、濃さを増した闇が作りだす戸口の向こうに静かに佇む長い影を見た。
女は、一瞬息を詰めた。
だが、直ぐに緩やかに吐き出した。
ひょろりとした暗闇の端に小さな鳥の形をした歪な影が映る。鳥が羽を広げ軽やかな羽ばたきを始めた。
子供騙しのような稚拙な影絵。
「いらっしゃい」
ひっそりと静まり返る室内に遠慮をするかのように女の囁きが響いた。
それが合図であったのか、薄闇の中から滲み出るようにして一人の男がその輪郭を覗かせた。
「繕い物でもしていたのか」
―こんな夜更けに。
女の手元を照らす淡い光が反射するものを捕らえて、男が徐に口を開いた。
草笛のような掠れた囁きが、辛うじて意味を成す音を運ぶ。
女は口元に小さく笑みを刷くことでそれに答えた。
暗がりの中でも女が手にしているものが、男物の晴れ着であることは見て取れた。
今は村を挙げての祭りの最中だ。昼間、村の広場を騒がしていた連中は、皆、似たような立派なシャツに身を包んでいた。
女が手にするその晴れ着には、まだ一度たりとも袖を通された形跡がなかった。
だが、それを口にする積りはなかった。
男の方もそれが誰の為に仕立てられたものなのかを尋ねたことは無かった。
それは互いに必要のないことであったから。
―なぜ、どうして、キミに指輪をあげたのだろう?
―なぜ、どうして、キミは想いに応えたのだろう?
「お茶を一杯もらえるか」
明るさの落とされた室内は、数多もの影が支配する世界だ。そうして描かれる濃淡の合間で女は絶やさずにおいた火種に手を翳すとお茶の用意に取り掛かった。
男は静かに女が動く様を眺めていた。
程なくして火にかけたやかんがシュンシュンと音を立てる。そして、男が腰を下ろした椅子の傍にある小さな卓に茶器が置かれた。
「祭りには出掛けたのか?」
昼間見た賑わいを思い出して男が尋ねる。
「専ら御馳走作りの裏方よ」
小さく首を横に振って女が答えた。
細められた目尻には、同じ時を刻んだ小さな皺が現れ始めていた。
「ああ、旨い」
湯気を立てるカップに口を付けると男は一つ、満足そうに息を吐いた。
その台詞をもう何度耳にしたことだろう。同じ抑揚の同じ調子。時折、思い出したようにふらりと現れては、一杯のお茶を飲んで帰って行く男。
「【ピラジョーク】もあるわよ?」
肉と野菜の詰まった小振りなパイ。
毎年、この時期になるとどうしても多く作り過ぎてしまう。昔に比べて食も細くなったし、それを喜んで食べてくれるであろう唯一の家族も、今は遠く離れた場所に暮らしているというのに。
―ああ、こいつは美味い。
かつて零れた、そんな些細な一言に縛られている。
それは、傍目には酷く滑稽で馬鹿らしく映るものかもしれなかったが、女にとっては重要な意味を持っていた。
あの頃の記憶は、今でも鮮やかに女の胸内に息づいていた。
そう、全ての始まりはあの一言からだった。
戯れに似た一言。
―とっておけ。無くしたりしないように。誰から貰ったかは秘密だ。
「それじゃぁ、一つ、貰おうか」
あの頃と変わらぬひっそりとした輝きを宿した瞳に男はそう答えていた。
この瞬間だけは、二人の間を隔てていた時が霧散する。まるで初めて出会った頃のように世界が色付いて鮮やかに踊るのだ。
不安とそれを上回る喜びに心を躍らせた日々。
甘くてほろ苦い記憶の海。
思い出の引き出しは、いつだって開け放たれたままになっていた。
女は一つ頷いて微笑むと台所へ消えた。男の為に用意したパイを温める為に。多くの言葉は要らなかった。
―なぜ、どうして、キミに指輪をあげたのだろう?
―なぜ、どうして、キミは心を捧げたのだろう?
「あの子は………どうしてる?」
手にしたパイを頬張って変わらない味に安堵すると同時に言い知れぬもどかしさすらを感じながら男が口にした。これまで決して口にしてこなかった様々な感情を咀嚼するパイと一緒に飲み込む。
「元気に……してるんじゃないかしら?」
便りが無いのは達者な証拠。母一人、子一人の家族ながら、この家を巣立って行った息子は、お世辞にも筆まめな方ではなかった。最後に来た手紙はもう二月ほども前のことで。新しい赴任先が決まったと簡潔に記されてあった。
女は立ち上がり、小さな箪笥の中からその手紙を取り出すと男に差し出して見せた。
神経質な角ばった字面。インクの出が良くなかったのか、ところどころに掠れて長く跳ねた文字がある。その次には、加減を間違えたのか、やけに濃く太く染みの出来た判読しがたい文字があった。
それを見て男が密かに笑った。口元に拳を宛がって噛みしめるようにひっそりと。
男には、その情景が目裏に浮かんでいるのだろう。
その時、男の顔の左側を覆う長めの髪がさらりと靡くように揺れた。
あの子と同じ真っ直ぐで癖のない髪。日の光の下では黄金に近い明るい輝くような髪色も発光石の灯りを落とした薄暗い室内では、燻したようにくすんで見えた。
だが、そちらの方が女にとっては馴染みのある色合いだった。
「いっちょまえにぬかしやがって」
呟くような独り言に、
「あの子も、もう十八になるわ」
女はそう返していた。
十八年。それは長いようであっという間に過ぎて行った。
いつからだろう。時の流れが急に早くなったように感じ始めたのは。それを思い出そうとして、幼い息子の皺くちゃになった赤い顔を思い浮かべる。
「もう、そんなになるのか」
「ええ」
「どうりで歳を食った訳だ」
男の声音には自嘲ともとれるような響きがあった。
「そいつを着せるのか?」
先程まで女が繕っていた晴れ着は、綺麗に畳まれて棚の上に置かれてあった。それを見て男が不意に口を開いた。
「どうかしら」
女は曖昧に微笑んで見せただけだった。
今、息子はここから南西の方角にある北の砦にいる。この村から北の砦までは、息子が最初に目指していた王都に比べれば近かったが、それなりに距離があった。旅慣れた者でも二日から三日はかかるだろう。とてもじゃないが、おいそれと日帰りで遊びに来られるような距離ではない。それに戒律の厳しい軍部での仕事だ。新しく配属されたばかりの新入りにそうそう簡単に自由になる時間があるとは思えなかった。
「まぁ、明日になれば分かるさ」
小さく首を傾げた女を余所に、男はそう独りごちるとその口元に何やら楽しそうな笑みを刷いた。
「何を企んでいるの?」
悪戯を思いついた子供のするような無邪気な色をその瞳に乗せて、男の薄い唇が弧を描く。そこから紡がれるのは、一体、どんな真実を含んだ軽薄な言葉なのか。それに惑わされるも惑わされないも、全て受け取り手次第だ。
男は沈黙を守ったまま悪戯っぽく微笑むと不意に真面目な顔をして見せた。
「ナターシャ」
男の唇から女の名前が漏れた。
「ナターリア」
愛称で無い本名を呼ばれて、女は男を正面から見つめた。
「キミは………」
女は男の傍まで来ると、か細い指を一本、その唇に宛がった。
そのまま小さく微笑んで、ゆっくりと首を横に振る。
―それ以上は、言わなくてもいい。
男の目の前にある女の手には、小さな指輪が鈍く光を放っていた。ちっぽけな紅い石の付いた指輪が。
―小さな指輪、ちっぽけな指輪。遠い昔の過ち。
―どうして指輪をあげたのだろう? キミの心を傷つけまでして。
唯一顕わになっている男の右目が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
とうの昔に光を無くしたはずの左目が疼いた。そこに隠されているのは、指輪と同じ紅い色。
この国では、己の瞳の色と同じ色の石にはその者を守る神聖な力が秘められていると考えられていた。そして、その色を持つ石を加工したモノを特別な人への贈り物にするという習わしがあった。
早い話が恋人に贈られるものだ。求婚の際にも贈り物として使われる。それを女の側が受ければ、結婚に合意をしたと見なされた。
男は、目の前にある女の手にそっと口付けを落とした。
まるで神聖な誓いを立てる敬虔な愚者であるかのように。
女が笑ったのが、震えた空気から伝わってきた。
「後悔なんてしてないわ」
最初から女の日常の中に男は既にそこにあるべきものとして取りこまれていた。直ぐ傍には男の血を分けた小さな命が息づいている。長じるにつれて、息子はあの頃の男の輪郭をなぞり始めていた。
後悔などするはずがない。それは自らが望んだことなのだから。
だから同じように、男に後ろめたさや後ろ暗さを感じて欲しくはなかった。
そのことで苦しんで欲しくはなかった。
その言葉に男は弾かれたように顔を上げた。いつも飄々として澄ましているか、軽薄で曖昧な微笑みを浮かべるだけの男の表情が、暫し驚きに固まった。
そんな顔を見られたことに女が益々喉の奥を震わせた。
やがて男も釣られるようにして密かやかに笑った。そして、そっと腕の中に温かな女の体温を抱きしめたのだった。
「楽しみにしてるといい。明日を」
謎掛けめいた男の言葉が再び繰り返された。
「ええ」
今度は、女はそれにそっと頷き返した。
そして、ゆっくりと閉じた女の目裏には、もう二年以上も前に見送ったはずのほっそりとした背中とそれを少し逞しくしたような男の背中が描かれていた。