明鏡の裏
黒でもない。白でもない。
黒と言うには、余りにも影が無し。だが、白と結論付けるには、手元の情報が少なさ過ぎる。
ならば、灰色か。
だが、あれはどちらにでも転びうる危うさを持っている。
用い方次第では、毒にも薬にも。
「灰色…としておこうか」
―今の内は。
男は、そう独りごちると密かに口元を緩めた。
男が見つめる遥か前方には、賑やかに踊りに興じる男たち、女たちの輪が出来ていた。
距離がある為、歓声はここまでは聞こえてこない。
だが、曲に合わせて軽やかにステップを踏む度に揺れる色とりどりの女たちのスカートの裾とそれを囲む男たちの長い腰帯は、遠目にも実に鮮やかで、男の耳に残る小気味よい旋律をまだ日の浅い記憶の中から、自ずと引き出そうとしていた。
男は眩しそうに、唯一顕わになっている右目を細めた。目に映る光景の中に何かを探し当てるかのように。
薄い茶色の光彩に陽の光が踊った。
『ルーク』
その男の様子を傍の高い木の上から見下ろしているものがあった。
男は、声のした方向へ無言のままちらりと視線を流した。その口元は、依然笑みに縁取られたままだ。
『お主、何故、あの子にあのような真似をした?』
「おや、ヴィーはお気に召さなかったのかい?」
不機嫌さを隠そうともせずに大きな鷲がその場で羽をバサリと開いた。
ふわりと風が吹き寄せ、男の癖のない明るい髪を揺らした。
「そんなに怒ることもないだろう?」
威嚇とも取れるその仕草に、だが、対する男は慣れているのか、おどけたように肩を竦めて見せただけだった。
『戯けが。無礼にも程があろう。リョウが不憫でならんわ』
微かな相手のぼやきを男の耳は余すことなく拾った。
リョウ…というのは、もしかしなくともあの娘の名前か。少し耳慣れない変わった音の響きだと男は思った。
それよりも腐れ縁の大鷲であるヴィーが、その固有名詞を知っていることの方が意外であった。
この広い大陸の中、人間などごまんといる。その中からただの一人を認識するのは決して容易なことではない。ましてや獣たちにとっては。
人など態々意識を向ける程の存在でもなかろうに。
―あそこから、あの高みから、この世界はどのように見えているのだろうか。
それは、こうして言葉を交わす度に常日頃から気になっていたことでもあった。
だが、まだその問いを相棒に口にしたことはなかった。
「なんだ、ヴィー。知り合いか? それならそうと早く言ってくれよ。とんだ無駄足を踏んじまったじゃないか」
『ふん。知ったことか。あの子はこの界隈では名が知れておる。知らぬものの方が少ないわ』
「あ? そんなに有名なのか?」
だが、大鷲はそれに答えることなく大儀そうにぼやいた。
『やれやれ。これでまた、あの小煩い鷹共にせっ突かれることになるわ』
「そいつは、済まなかったな」
そっぽを向いた相棒に男は懐から小さな塊を取り出すとそれを上空へと投げた。
大鷲の黄味がかった大きな嘴が寸分違わぬタイミングでそれを銜える。足に付いた鋭い爪を使って器用に平衡を保ちながら干した肉の塊へ齧り付いた。
『どんな風の吹きまわしだ?』
気前よく大きな肉の塊を放り、男が殊勝にも謝罪の言葉を口にしたことが、妙に薄気味悪かった。
「あ? なんだ? 文句があんなら返せ」
『そうはいくものか』
首を傾げながらも、大鷲は肉の塊をしっかと捕らえて離さない。これから己に降りかかるであろうやっかみ混じりの迷惑料を考えれば、このぐらいでは安いものだと相棒は尤もらしく嘯いた。
『序でに忠告してやろう』
肉を咀嚼しながら、ヴィーは相棒を見下ろした。
『余り無体なことはせぬことだな。それから、背後に気を付けることだ。お主などあのお方にかかればいちころよ』
物騒で意味深な言葉に男の眉が小さく上がる。
「あの娘には、そんなに凄い伝手があるのか?」
『これ以上は僭越に当たる』
「なんだ。そこまで言うなら最後まで教えてくれたっていいだろう」
『ふん。忠告はしたぞ』
有り難く思えと尊大に言い放った相棒に男は呆れたような顔をして見せた後、ひっそりと噛みしめるように笑みを零したのだった。
そして、男は再び遥か前方を透かし見た。
陽気に騒ぐ男たち、女たち。老いも若きも。揺らめく残像の中に赤い石の付いた指輪を付けた一人の女の姿を探して。