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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
第二章:スフミ村の収穫祭
67/232

昼下がりの訪問者 3)

 リョウが戻ってきたのは、そんな小休止に似た和やかな一時の頃だった。

「リューバ! 只今、戻りました」

 玄関の扉が開く音と同時にいつもより若干高めの軽やかな声が響く。するとたちまちリューバの口元が、笑みを形作った。

「おかえりなさい。早かったわね。こっちへいらっしゃい」

 新しく淹れたお茶の入ったカップを手にソファに座っていたリューバは、行儀悪くはあるが、その場から返事を返していた。

 その一方、突然の来客に中に居た二人の若い男たちはソファの上で居住まいを正した。

 その場所だけ微かな緊張が走る。


 程なくして、一頭の大きな茶色の犬が部屋の中にするりと入ってきた。

「御苦労さま。ナソリ」

『ああ』

 リューバの労わりの声にナソリは一つ、鷹揚に頷いて見せた。

 そして、そのまま視線を対面のソファに座る二人の闖入者へと流した。

「お邪魔しているよ。ナソリ。久し振りだな」

 目があった若者は、薄らと微笑みらしきものをその口元に刷いた。

 その若者の黄緑色の瞳の中にナソリは二年前に見送った線の細い少年の面影を探し当てた。

『……キリルか。久しいな』

「ナソリも変わらないな」

『ふん、お主は………随分と漢らしくなったようだ』

 二年など変化の内に入らないとばかりにナソリは、キリルの言葉を鼻であしらった後、不意に目を眇めて見せた。

 王都に出てそれなりに揉まれて来たのか、記憶の中にあったどこか頼りなげな少年の面影は、荒削りの骨っぽさが前面に染み出るように変わっていた。少年から青年に変わるこの時期の二年は、外見的にも内面的にも大きな変化をもたらしていようだ。

 そして、つとその隣に居た男へ視線を移す。こそばゆいような緊張感が、一時、その場を支配した。

 目があった男は、小さく目礼をすると、

「邪魔をしている」

 真面目な顔付きでそう慇懃に口にした。

 ナソリは尚も二人の若者をじっと見つめた後、不意に体を反転させて、部屋を出て行った。


 そして、入れ替わるようにして居間に顔を出したのは、一人のまだ年若い女だった。

 漸く肩に付くか付かないかの癖のない真っ直ぐな黒髪が、光を湛えてさらりと揺れる。すらりとした細身の体躯に腰に巻いた光沢を帯びた明るい群青色の【レンタチカ(サッシュ)】が、軽やかに舞った。女が歩く度にたっぷりとした【ユープカ(スカート)】が羽のようにふうわりと空気をはらんだ。

 その女の左腕には、黒い【コーフタ(上着)】の上に皮で出来た無骨な腕当てが巻かれていた。

 そして、その上には大きな鷹が一羽、行儀よく収まっていた。それは傍目には妙な光景に見えた。

「おかえりなさい」

「ただいま戻りました。お客さんがいらっしゃるようですね」

 立ち上がって出迎えたリューバに女は小声でそう言うと、反対側にいる客人達へ反射的に軽く頭を下げた。

「お邪魔になりますよね。ワタシ、外の納屋の方にいますから」

 そう言ってその場を直ぐに立ち去ろうとする娘をリューバは笑って制した。

「その必要はないわ。今、皆でパイを囲んでお茶をしていたところなの。貴方にも紹介するわ」

 リューバは体を横にずらすとソファに並んで座る客人の方へ顔を向けた。それに促されるようにして女の顔が正面を向く。

「………イサーク」

 大人しく若い娘の腕に乗る伝令の鷹にキリルは意外なものを見るような顔をしていた。

「何してるん……だ?」

 腕に乗った鷹がくるりと首を回す。それに合わせるように女は二人の客人の方を向くと穏やかに微笑んだ。

「はじめまして。あなたが、キリルですね」

 深い漆黒を湛えた女の眼差しが、ソファに座るまだ年若い青年の顔を捕らえた。真っ直ぐな明るい茶色と言うよりは金に近い髪の間から黄緑色の瞳が覗く。そのほっそりとした輪郭にふと何かの残像が重なって消えた。

 それから、ゆっくりと女の視線がその隣に座る柔らかな茶色の髪をした青年に移った。

 黒い光彩の内側に青灰色の瞳が映り込む。女の口元が弧を描く。その目が、どこか懐かしそうに細められた。

「それから、お久し振り。ロッソ」

 声を掛けられた青年、ロッソは、仰天したようにその場に立ち上がった。

「まさか…………」

 男の青灰色の瞳がこれまでにない程に開かれていた。

 長い沈黙の後―と言っても時間にしてみれば、それは瞬きに似た間でしかなかったのだが、当事者にはそう思われた。

「リョウ………か?」

 吐き出された声は、驚愕の為か掠れていた。


 癖のない黒い髪に黒い瞳。この辺りでは、中々にお目に掛かることの出来ない珍しい色彩と外見的特徴を兼ね備えている人物は、自分が知る限り、一人しかいなかった。

 ―忘れる訳がない。

 共に過ごした期間は短かったが、それ程までに強烈な印象を自分の中に残していたのだから。

 すっと右手を差し出したリョウにロッソは反射的に手を差し伸べていた。

 交わる掌の感触もあの時と変わらない。男にしては細く華奢な作りだとは思ったが、まさかあの時の微かな違和感の正体が、こういった形で顕わになるとは思いも寄らないことだった。

 そのまま一連の流れで軽い抱擁を交わそうとした所で、ロッソは不意に動きを止めた。

 相手が戸惑う様子が、リョウには簡単に見て取れた。

 今までは少年だと見做されていたので身体的接触を相手が一々気にすることは無かったが、外見が変わったことで同じような対応をしてもよいのかという躊躇いが出ているのだろう。

 それは、真面目で細やかな気働きをする実にロッソらしい反応だった。

 リョウは小さく首を傾げるようにして笑った。

「ロッソ。今更ですよ」

 ―ワタシは、何も変わっていない。あの時も今も。

「そうだな」

 それで言いたいことが伝わったのか、ロッソの口元が笑みを刷いた。

 リョウは腕に止まるイサークに小さく囁くと鷹は軽やかに羽をはばたたかせて窓際に飛び退いた。

 そして、二人は以前と同じようにこの国のしきたりに則った挨拶を交わしたのだった。


「それにしても、………そっちが本当なんだな?」

「はい」

 静かに頷いて見せたリョウに、ロッソはつるりと綺麗に剃りあげられた髭跡の残る顎を撫でた後、体を預けるようにして背凭れに沈み込んだ。

 軽く挨拶を交わした後、集った面々は再びソファに腰を落ち着けていた。

 ロッソの脱力したような仕草に、リョウは何とも言えないような顔をしてから悪戯っぽく笑った。

 そして、今更ながらの種明かしをした。

「あの時も別に隠していた訳ではないんです。ただ、誰も疑問に思わなかったようなので、一々訂正するのも面倒で。それに、その方が、あちらにもこちらにも無駄に混乱を招かなくて済みましたから」

 そう言って手にしたカップを傾けたリョウの言葉にロッソは至極尤もなことだと合槌を打った。

「確かに、一理はあるな」

「ふふふ。やっぱり、そちらはリョウの知り合いだったのね」

 穏やかな表情で一部始終を見守っていたリューバは、事態が収束し始めたのを見て取って摘んでいたパイを手元の皿の上に置いた。

 だが、その対面でキリルは一人、置いてけぼりを食ったような顔をしていた。

 それに気が付いたリョウは、簡単に自分が北の砦の兵士たちと知り合いになった経緯を話して聞かせた。恐らく一番気になっているであろう軍部所属の伝令の鷹であるイサークと知り合いになっている理由も含めてだ。


 話を聞き終えて、キリルは一応、納得したらしかった。だが、それで全ての疑問が解決した訳でもなかったようだ。

「あなたは………術師なのですか?」

 キリルの発した問いにリョウは静かに首を横に振った。

「いいえ。そんな立派な肩書は持っていません」

「あなたは、このイサークやナソリといった獣達と意志の疎通が出来るようだが」

「それは、まぁ、そうですが………」

 黄緑色の瞳が何かを探るようにこちら側に向いていた。

「それが、何か、問題でも? 獣たちの言葉を理解することが、即ち術師であるということにはなりませんよね」

 その逆は然りだが。

 まるで発する言葉の行間に潜むこちら側の【感情】を暴き出そうとでもするかのようだった。

「では、これまで誰かに師事したことは?」

「それは、術師に関わる能力……という点に於いてですか?」

「ええ。勿論です」

「それならば、答えは【否】です」

「ならば、あなたのその素養は誰が開花させたのですか?」

 その問い掛けにリョウは少し首を傾げた。

 何かが食い違っている。そう思わずにはいられなかった。

 キリルは恐らく、この世界の一般常識に基づいて疑問に思ったことをぶつけてきている。

 だが、リョウ自身、その基礎となるべき知識は実際の所まだまだ乏しいものだった。

「その前に一つ、良いですか?」

 このままズレが生じる前にこちら側の疑問をぶつけてみなくてはならないとリョウは思った。

「どうぞ」

「素養というのは、術師としての潜在能力ということですよね?」

 慎重に言葉を選んだ。

「ええ」

 今更何を言うのだという顔をしたキリルを気に留めずにリョウは疑問に思ったことを口にした。

「それは、例えばの話ですが、他者からの介入が無ければ引き出せないものなのですか?」

「…………つまり?」

「そのままの意味です。自発的に、誰からも教えを請うこと無く、その能力は顕在化しないのかと言うことです」

 するとキリルは何故か呆気に取られたように目を瞠った。

 その反応から自分の発した問いが、キリルの持つ常識には軽く反するのだろう事が読み取れる。

 リョウは、内心早まったかと思った。

 まるで自分が異端者であることを暗に仄めかしているようではないか。

「………自分が知る限り、そういう例は聞いたことがありませんが」

 少し考える風にした後、キリルはそう答えた。

 確認するように隣を見たキリルに、

「俺は術師のことはよく分からんが、血縁者に素養を持つものがいる家は、子供が生まれ、ある一定の年齢に達すると、その能力を引き出す力があるかどうかを見る為に術師に引き合わせると聞く」

 ロッソも小さく合槌を打った。

「素養を引き出す力というのは、遺伝するんですね?」

「遺伝……?」

「ああ、すみません。簡単に言えば、血の中にその能力が受け継がれるということですね。両親から子供へと」

「通常は、そういうものだとされていますが………」

 リョウは、そっとリューバの方を窺った。

 術師であるリューバは、その辺りのことには詳しいはずだ。卵が先か鶏が先か。そんな延々と続く珍問答のようにも聞こえなくはない。

 だが、リューバは真剣な顔をして、なぜかキリルの方を見ていた。

「………それは、要するに、貴方ご自身のことを言いたいのですか?」

 やはりというか当然の如くキリルは痛い所を突いて来た。

 なんと答えたらよいのだろうか。

 全てを正直に打ち明けるには、リョウはキリルのことを知らなさ過ぎた。そこまで信用をしていいのかも分からない。

 そっと目を閉じて開いてみる。

 するとキリルは真っ直ぐにこちらを向いていた。

 黄緑色の瞳は、静かに凪いでいた。そこにある感情は読み取れない。相手の余りにも真剣な眼差しにリョウは内心狼狽した。

 術師ではないのにイサークやナソリを始めとする獣たちと言葉を交わすことが出来ることに何か引っかかるものでもあるのだろうか。それは余り大っぴらにするべきことではないのか。そんな疑問が浮かぶのと同時に、初対面の相手にそういうことを根掘り葉掘り聞かれることも意外だった。

 リョウは、どうにも居心地の悪さを感じて、助けを求めるようにリューバとロッソを順繰りに見た。

 今度は、緊急信号は正確に捕らえられる。

 目が合うとリューバは困ったというように小さく苦笑して見せた。

「あらあら。キリル。どうしたの一体? リョウのことが気になるのは分かるけど、余り、一時に質問攻めにしたら駄目よ? 吃驚しちゃうじゃない。ねぇ?」

 リューバは窘めるように微笑んだが、リョウにしてみればそれは質問と言うよりも尋問に近い気分だった。

 キリルは不意に押し黙ると取り皿にあったパイに齧り付いた。


「それよりもアクサーナの様子はどうだった? お祝いは渡せた?」

 話の流れを変えるように出された質問にリョウは素直に乗ることにした。

「はい。相変わらず元気そうでしたよ。外に出られないので鬱憤は溜まっているようですが、お姉さんや子供たちもいましたから、実に賑やかでした」

 掻い摘んでその時のことを話せば、

「そう。エレーナたちにも会ったのね」

 その様子が手に取るように分かるのか、リューバは可笑しそうに小さく笑う。

「それから、ナジェージュダさんから、こちらを預かって来ました。新作のお菓子だそうです」

 リョウは手にした袋から小振りの焼き菓子の入った包みを取り出すと食卓(テーブル)の上に置いた。

「まぁ、明日の振る舞い用のお菓子ね。ナージャったら随分と張り切っているのね。あら、まだ温かいわ。焼き立てね。折角だから頂きましょう?」

 中身を開いて確認したリューバは嬉しそうにそれを各人のお皿の上に乗せた。

 綺麗な焼き跡の付いた一口大の焼き菓子が白い皿の上に転がる。木の実みたいだ。

「振る舞い用……ですか?」

 帰り際、台所にいたナジェージュダから試作品が出来たから味をみて欲しいと言われて味見をし、折角だからリューバにもとお裾分けを貰って来たのだが、それが何か意味のあるものだとは思っても見なかった。

 不思議そうに顔を上げたリョウにリューバは穏やかに微笑んだ。

「ええ。明日の婚礼の時ね。花嫁の家から振る舞われるものなのよ」

「そうだったんですか」

 リョウは取り皿の上にある小さな丸い焼き菓子に目を落とした。一つ摘んで口の中に入れる。中に柑橘系の果物を煮詰めたジャムが入っているのか、ほんのりと甘酸っぱい味が口内に広がった。


「婚礼とは、アクサーナが結婚するんですか?」

 二人の女たちの話を聞いてキリルがやや驚いたような声を上げた。

「そうよ。デニスとよ」

「道理で、いつもより賑やかだった訳だ」

 どこか感慨深げな声音で口にされた言葉にリョウはそれを発したであろう青年を見た。

 真中で分けられた少し長めの前髪の間からは、秀でた額と澄んだ黄緑色の瞳が覗く。それは、一見、ガラス玉のような無機質なものに見えて、実は、かなりの感情を宿しているものだということが、この短い間にも見て取れた。

 ほっそりとした面立ちは、自分が知っている無骨な砦の兵士たちとは若干、趣を異にしていた。隣に座るロッソの精悍な顔つきと比べてもその違いは一目了然だった。年齢の所為か、元々の性質の所為かは分からないが、身体の作りも筋骨隆々と言う訳ではない。どちらかと言えば、細い部類に入るだろう。お世辞にも肉体派というようには見えなかった。

 一口に兵士と言っても、そこには様々な人がいるものだ。改めて、そう感じる。

「久々の里帰りだそうですね。二年は、短いようで、長いものでしょう?」

 ここに帰る道すがら、リョウはキリルの話を少しだけナソリから聞いていた。この村を訪れるのは約二年ぶりになるのではないかと。

「………そうですね。そうとも言えるし、そうでもないとも言える」

 キリルは小さく息を吐き出すと曖昧な微笑みを浮かべて首を右へ傾げた。

 そのひっそりとした空気にリョウは妙な既視感を感じていた。

 キリルという青年に会ったのは、間違いなくこれが初めてだ。それなのに自分は前にもこの人物に会ったような気がしてならなかった。何かが引っかかる。

 なぜだろう。その不思議な感覚を確かめるべく、リョウはじっとその対面に座る青年を観察するように見つめていた。

 癖のない明るい茶色の髪がそよぐ風にさらりと揺らいだ。開け放たれた窓を通して、お祭りの楽の音が切れ切れに聞こえてきていた。

 もう少しで何かが見えてきそうな気がする。

「あの……何か?」

 だが、直ぐに居心地の悪さを感じたのか、キリルからもの問いたげな視線を寄こされて、

「いいえ」

 リョウは穏やかに微笑むことでばつの悪さを誤魔化した。

「あなたとは、なぜか初めて会った気がしないんです。それをどうしてだろうと思いましてね」

 少し言い訳がましく聞こえるかもしれないが、そう正直に打ち明ければ、

「………リョウ。それは場合によっては、口説き文句のように聞こえるぞ」

 呆れたように口にしたロッソに、キリルがその隣でぎょっとしたような顔をしたのが分かった。

「あれ。そうですか。すいません。別に他意はないですから」

 そう言われれば、そうかもしれないとリョウは声を立てて笑った。


 それから、話題は自然とお祭りの様子になり、リョウは見聞きした村の男たちの様子を面白可笑しく語って見せた。途中、ナハトとケッペルに遭遇したことも忘れてはならない。

「そう言えば」

 そして、不意に思い出したようにリョウは懐から【プラトーチカ(小さなハンカチ包み)】を取り出すと真剣な面持ちで切り出した。

「リューバ。実は、見てもらいたいものがあるんです」

「あら、なぁに?」

「リョウ」

 不意に変化を見せた空気を敏感に感じ取ったロッソは、自分たちがいても良いのかと視線で問うた。

 リョウはそれに一つ頷きを返すことで二人の立ち会いを許可した。

「これなんですが……」

 そう言ってそっとハンカチの包みをリューバの前で開く。

 中にある可憐な黄色い花弁が顕わになった。

 その瞬間、リューバは小さく息を飲んだ。

「っ………」

 すると不意に、向こう側からすくっとキリルが立ちあがったのが分かった。

「………あんの………クソ…XXX…………」

 ぼそりとした呪詛に似た小さな呟きが辛うじて耳を掠めた。

「すみません。リューバ。俺、用事を思い出したんで、これで失礼します」

「あ、おい」

 そう口早に告げるや否や挨拶もそこそこにキリルは風のように部屋を飛び出して行った。

 まるで何かに急かされるかのように。

 残されたリョウとロッソは、その豹変ぶりにただただ驚いて、暫し弾かれたように飛び出して行った背中が消えた廊下の向こうを見遣った。


「………リョウ。これを……どうしたの?」

 暫くして、やっとのことでリューバがそれだけを口にした。

 手で口元を覆ったリューバの顔は青褪めていた。声も気丈な性質にしては珍しく微かに震えている。

 そのままその場で崩れ落ちそうになるリューバの体を素早く立ち上がったロッソが支えた。

「リューバ? 大丈夫ですか?」

 突然のことに慌ててリョウも反対側からリューバの肩を支えた。

「ええ。大丈夫よ。ちょっと立ち眩みがしただけだから」

 ゆっくりとソファに腰を下ろしたリューバにお茶の入ったカップを渡せば、それを口にしてから小さく息を吐いた。少し落ち着きを取り戻したようだった。

「ふふふ。ごめんなさいね」

 見っともない所を見せてしまったわねと力なく笑う。

「もう平気よ」

 まだリューバの顔色は血の気が引いたものであったが、話の先を促す真っ直ぐな眼差しにリョウは簡単にこの花を手に入れた経緯を語って聞かせた。

「そう。……【スカモローフ(道化師)】が」

「はい。念の為、ジューコフにはこの事を伝えてあります。ここに来ているスカモローフたちは日頃から村とは懇意にしている人達ばかりであるとは聞きました。あのスカモローフが誰であったかが分かれば、きっとその辺りの事情も直ぐに分かるとと思うんです」

「………そうね」

 これが偶々であったのか。何らかの意味を持つものであったのか。

「この間、持参した薬草の中に確か、中和に使えるものがありましたよね」

「ええ。そうだったわね」

 リョウのその言葉にリューバの表情に少し明るさが出て来た。


「これは………ただの花ではないのだな?」

 リョウとリューバの反応を見て、ロッソはテーブルの上にある小さな花を摘み上げるとそれを透かし見た。

 若い兵士のその行動にリューバはあっと声にならない声を上げたが、リョウはすぐさま凝固処理をしているから問題は無いと付けたした。

 リューバはそれを聞いて安堵の溜息を吐いた。

「それは【忘れな草】、別名【ジョールティ(黄色い)チョルト(悪魔)】―聞いたことがないかしら?」

 その声にロッソがぴたりと動きを止めた。

「これが………?」

 青灰色の瞳を開いてまじまじと手にした小さな花を凝視する。

 ロッソもその昔、噂で耳にしたことがあった。あれは王都で起こったとある暗殺事件に関わることであった筈だ。軍部の限られた筋の間でも、その噂は(まこと)しやかに語られていた。

 使用した痕跡の残らない一級品の毒草があると。そこから抽出した毒の成分は、強力で速攻性があり、実に殺傷能力の高いものであると。しかしながらそれは滅多に入ることのない代物で、専ら限られた闇のルートで取引され、そこには大金が動くのだとか。そして、その事件に件の毒草が使われたのではないかとの噂が流れた。


 こんな小さな可憐にさえ見える花が、あのおどろおどろしい異名を持つ毒草だというのか。

 美しいものには棘がある。そんな喩が頭の隅を掠めるが、その意外性(ギャップ)は、喩え以上のものだった。

「これをスカモローフが?」

 怪しい。実に怪しすぎるだろう。こんな奇怪なものを単なる【芸人】風情が手に出来る訳がない。流しの芸人というのは、どう考えても方便、何かの隠れ蓑に違いない。

 自身の兵士としての感がそう訴えていた。

「リョウ。そのスカモローフはどんな奴だった?」

 いつになく険しい表情を崩さないまま低く尋ねたロッソにリョウは覚えている限りの特徴を伝えた。


 それにしても、気になるのは、これを見たときのキリルの反応だった。

 あれは、確かにこの花のことを知っている風だった。これを見た瞬間、キリルは血相を変えて弾かれたように飛び出して行ったのだから。

 そして、ギリリと噛み締めた歯の間から漏れ聞こえた微かな呟き。そこには、こちらの聞き間違いで無ければ、実に信じられない言葉が入ってはいなかっただろうか。

 ―あんの、クソオヤジ。

 確かにそう聞こえた。

 不意につい今しがたまで目の前に座っていたキリルの姿に、あのスカモローフの姿が重なった。さらりと揺れる金に近い明るい茶色の真っ直ぐな髪。そこから覗く瞳の色は違ったが、その面差し、やや険のある眼差しは似てはいなかっただろうか。

 ―いや。考え過ぎか。

 その思い付きは余りにも短絡的で随分と飛躍しすぎているようにも思えた。

 それでもキリルは何かを知っている。それがあの花のことなのか、それを渡したスカモローフのことなのかは分からなかったが、それは確かなことに思えた。

「ロッソ」

 深く物思いに沈んでいたロッソにリョウは声を掛けた。

「ん?」

 年相応の思慮深さと落ち着きを備えた青灰色の瞳がゆっくりとこちらを向く。

 若干の躊躇いはあったものの思い切って口を開いていた。

「キリルは……大丈夫でしょうか?」

 ロッソは額に手を当てて頭が痛いとばかりに溜息を吐いた。

 そして、緩く頭を振って見せる。

 どうやらキリルが取った行動は兵士としては余り誉められたものではなかったようだ。

 ロッソと同じように落ち着いているように見えて、その実は、意外に直情的で猪突猛進的な所がある。それは経験の浅さから来るものなのか、年齢的なものなのか。恐らく、そのどちらでもあるのだろう。

「イサーク」

 リョウは、窓辺に居た伝令の鷹に合図を送った。

『やれやれ。あのひよっこめが』

 言いたいことが分かったのか、イサークは大儀そうに羽を広げて見せる。

「ごめん、イサーク」

 顎で使う積りなど毛頭ないのだが、結局はその助けを借りることになる。申し訳なさそうに眉を下げたリョウにイサークはからりと笑った。

『なに、お主が謝ることはなかろうて。あの小童めが』

「ありがとう。後で、好物の【ザーヤッツ()】の肉をあげるから」

『はは。それはいい』

 そして小さく笑うと、

『ではな』

 開け放たれた窓から大きな羽をはばたたかせて、一羽の鷹が飛び立って行った。


『まぁ、案ずることもあるまい』

 空の向こうに消えて行くイサークの翼を見つめていれば、ナソリがいつの間にかするりと傍に来て事も無げに言い放った。

 リョウは直ぐ脇にある茶色の毛並みに手を伸ばした。

『ここは、あ奴の生まれ育った場所。謂わば、庭のようなものだ』

 それに呼応するように、

「大方、ナターシャの所にでも行ったんじゃないの? その約束を思い出したとか」

 ―折角帰って来たのにまだ母親の所へは顔を出していないのでしょう?

 そう言って、すっかり普段の様子を取り戻したリューバは、窓の外へ視線を向けた。

「確かにそうですが」

 だが、己が同僚の勝手な振る舞いに年長者であるロッソは尚も気遣わしげな顔をする。

 それは分からなくはなかった。

 組織は個人よりも全体の利害を重んじる。無鉄砲な部下を持って苦労するのは、その上司である。

「ロッソ。イサークが付いているから大丈夫。何かあったら知らせてくれるでしょうし、もしもの時には、ワタシも出来る限りのことはしますから」

 リョウはロッソの隣に立つと宥めるようにその逞しい腕に手を添えた。

「ああ」

 ロッソは目を細めると傍らに寄り添うようにして立つ、髪の色と同じ艶やかな黒い晴れ着を身に付けている知己へ、小さく礼を口にした。


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