昼下がりの訪問者 2)
さて、時を遡ること少し前。
ちょうどリョウがアクサーナの家へ出かけている間、リューバの家の戸口を訪う者があった。ひょろりとした線の細い若者とがっしりとした体つきのまだ年若い男という二人組だった。
村を賑わしている男たちとは対照的に二人は随分と地味で質素な衣服に身を包んでいた。淡い生成り色のシャツにくすんだ柿渋色の上着と同色のズボン。実用性重視の簡素な作りで随分と着古して体に馴染んだ感があった。茶色のなめした革の長靴は、踝の辺りから下が薄らと埃に塗れていた。腰には剣をぶら下げる為のベルトが斜めに巻かれていたが、そこにあるはずの長剣は見当たらない。代わりに小さな短剣が数本と小振り小物入れが収まっていた。
ほっそりとした体つきの若者の右肩から腕に掛けては頑丈そうな革製の肩当てと腕当てで覆われていた。
一人は、真っ直ぐな癖いのない明るい茶色の髪に淡い黄緑色の瞳をしている。
もう一人は、落ち着いた青灰色の瞳に柔らかな茶色の髪を後ろに撫でつけていた。長めの後れ毛が縁取るその横顔には、髭の剃り痕が精悍な濃淡を描き出していた。
「大丈夫か?」
背の高い方の男が、無表情の中にも若干の気遣わしげな視線を隣に立つ青年に送る。
「平気です」
だが、対する青年は事も無げに簡潔な言葉を吐くと、似たような無表情さで黄緑色の目をちらりと横へ流した。
それに何を返すでもなく、がっしりとした体つきの男は無言のまま一歩、脇へ退いた。もう一人は、それに促されるようにして一歩、前に出ると重厚な一枚板の扉へとノックをした。
リューバは戸口に現われた若者を見てその円らな瞳を見開いた。
「まぁまぁ、キリルじゃないの! 久し振りね。何年ぶりかしら。あらあら、すっかり男らしくなっちゃって。まぁ。変わりはない? いつこっちに帰ってきたの? ナターシャの所へは顔を出した?」
矢継ぎ早に飛び出て来る問い掛けにキリルは自分が村に帰ってきたのだということを実感した。
久し振りの帰郷。
だが、この村を流れている空気は、自分が騎士団に入団をすべく後にした凡そ二年前と少しも変わっていなかった。二年という期間では往々にしてそのようなものなのかもしれないが、それをもどかしく思うと同時に安堵する自分がいた。
「ご無沙汰してます。リューバ。お元気そうでなにより」
軽い抱擁を交わし合うと口元に微かな困惑とも微笑みとも取れるようなものを浮かべて、キリルは右側へ小さく首を傾げた。それは人付き合いが余り得意ではないキリルの内心の戸惑いのようなものを表わす癖のような仕草だった。
それから、リューバはキリルの隣にひっそりと控えるもう一人の青年の存在に気が付いた。
「あら。あなたは、キリルのお友達?」
その声にロッソは軽く目礼をした。
「まぁ、あなたがお友達を連れて来るなんて」
ほんの少しだけ意外な色をその声音に滲ませて、嬉しそうに目を細めるとリューバは二人の若者を中へと招き入れたのだった。
「さぁさぁ、入って頂戴。ゆっくりしていって。お祭りの方へは顔を出したの?」
その問いかけに静かにキリルが首を横に振れば、
「あら、そう。でも、まだ日はあるからね。今年も凄い人出よ。大賑わい。ここにいても楽しい音色が微かに聞こえて来るでしょう?」
鈴を転がしたようなリューバの軽やかな声が、室内に響き渡った。
「今日は本当に朝から大忙しなの。千客万来とはこのことね」
ソファへ腰を落ち着けて、用意したお茶を勧めながらリューバはおっとりと微笑んだ。
「さ、どうぞ」
「ありがとうございます」
だが、同じ対面のソファに座ったものの礼を口にしたまま、二人の若者は一向に出された茶器に手を付けようとしない。まるで借りて来た猫のように、表情は硬いままだ。
そんな二人の様子を見てリューバは可笑しそうに喉の奥を鳴らした。
「心配しなくても中には何も入っていないわ。特製のハーブを入れたお茶よ。この辺りじゃ割と好評なんだから」
そう言って先んじるべく、自らカップに口を付けて飲んで見せた。
「落ち着くわよ?」
カップを持った手をそのまま小さく掲げられて真正面に座ったキリルは、ややばつの悪そうな顔をした。
「頂きます」
素直に茶器を手にしたキリルに倣い隣に座っていたロッソもカップへ徐に手を伸ばした。
「……美味い」
ぽつりと漏れたどちらからとも言えぬ呟きにリューバはたちまち相好を崩した。
「そうでしょう? これはね、今、家に来てる子が余所で摘んで持ってきてくれた珍しい薬草が入っているのよ」
「お客が来ているんですか?」
「お客………というよりは、そうねぇ、身内に近いかしら。今はちょうど出掛けていていないけど、じきに帰って来るでしょうから、そうしたら紹介するわね」
「……はぁ」
「あら、気のない返事ねぇ。綺麗な女の子なのよ?」
リューバの何かを企んでいるようなからかいの声にキリルの眉がピクリと動いた。
「……まだ、そんなことに構っていられる身分ではありませんから」
「キリルも相変わらずね」
苦笑にどこか面白くなさそうな色を乗せてから、つと視線を横に流し、隣でひっそりと佇んでいた青年を見遣った。
「あなたはいかが?」
突然話を振られる形になったロッソは、その意図を測りかねてか反応が遅れた。
「……何が、ですか?」
「あなたは独り身? それとも決まった相手はいるの?」
「いえ」
短く否定の言葉を口にしたロッソにリューバは微かに眉を顰めた。
「あらあら、こんな若い男が二人も揃って、何やってるの? 勿体ないわねぇ」
急に色の付いた話を振られて、慣れないことに調子が狂うのか、キリルとロッソは、二人、顔を見交わせて複雑そうにその下唇を下げたのだった。
お茶を飲んで一息つくと口慣らしが済んだのか、リューバは不意に話題を変えた。
「それで、キリル。王都に出て騎士団に入隊してから、もう二年になるわね。見習い期間を終えて配属されたのは、北の砦かしら? …………あそこは、たしか、【シービリ】の所の三男坊が入っているんだったかしらね?」
つらつらと淀みなくリューバの口から告げられる情報に、キリルはカップを手にしたまま動きを止めた。
じっとリューバの方を見つめている黄緑色の瞳には、隠しきれなかった驚きの色が滲み出ている。
―この人には敵わない。
キリルは、その昔、リューバに対峙する度にそう思ったものだが、それは今になっても変わってはいなかった。
元々、リューバは、成長をするにつれて早く村を出たいと考えていたキリルの良き助言者であり、相談相手でもあったのだ。【未婚の母】の元に生まれたキリルは、【父無し子】として村の中でも微妙な立場にあった。村の大人たちは、血縁上の祖父であるスチョールキンや村長のダルジ、そして母親のナターリアを擁護した女たちの手前、大っぴらにそのことを揶揄する者はいなかったが、何分娯楽の少ない小さな村だ。ささやかな噂は日常の話の種として直ぐに広まる。そうやって生じた小さな蟠りは、人々の意識の中に伝播する。
そんな中、大人たちの遠慮や気兼ね、反感やらといった僅かな空気の変化を実に鋭い感性で感じ取る子供たちは、大人たちの普段は巧妙に隠されている反応を映しだす鏡でもあった。父親が何処の誰か知れないことをからかわれたり、揶揄されたりとしたことは数え切れないだろう。
子供たちの言葉の棘は、遠慮を知らない分、思わぬ威力を持って相手に突き刺さる。本人が敢えて気が付かぬ振りをしていても、受けた傷というのは、多かれ少なかれ、じわりじわりと時と共に深くめり込んでいくものなのだ。その事がキリルの子供時代に幾ばくかの影を落としていた。
村の中で唯一の術師であるリューバは、村一番の物知りで、村の外のこともよく知っていた。小さなキリルにとっては、外の世界に通じる小さな、それでも大きな可能性を秘めた扉でもあった。
キリルの隠れた才能を早々に見抜いたのもリューバであった。今のキリルがあるのは、リューバのお陰であると言っても大げさではない位だった。
「ふふふ。キリル。この村の女たちの情報網を甘く見ない方がいいわよ」
「………そのようですね」
茶目っ気たっぷりに微笑んだリューバにキリルは小さく息を吐いた。師匠には頭が上がらない。そんなところだろうか。
「特に貴方の所には様々な報せが舞い込むようだ」
「それは買い被り過ぎよ。ここはこの国でも北の辺境。あなたたちがいる砦とそう変わりない辺鄙なところでしょう?」
その問いかけにキリルは曖昧な微笑みを口に刷いて、するりと話の流れを変えた。
「朝からお忙しいというのは、来客があったんですか?」
それにリューバは思い出したように小さく含み笑いをした。
「トムスク、フリスターリ、スタリーツァ、ペールミ………それから、ヴェーラ。今日は朝から伝令が方々から飛んで来ているのよ。全く揃いも揃って。嫌になっちゃうわ。お陰でお遣いに来た子たちに好物を用意してあげるのが大変なの」
「伝令………ですか」
「そうそう、貴方たちの所からも一羽、来たわよ。鷹がね」
リューバはそう言って立ち上がると、窓の下にある文机から一通の封書らしき紙を取り出した。それを手に取ると二人の男たちの反応を見るように小さく振ってみた。
「そうですか」
だが、キリルはそれを一瞥しただけで特に芳しい反応を返さなかった。隣のロッソも固く沈黙を守っている。
「あら、あなたたちは聞いていないの?」
その為に態々ここまで足を運んだのではないだろうか。そうリューバは踏んでいた。
「俺は、まだ若輩者ですから。入ったばかりの下っ端には、そういう話は届きません」
「そう」
リューバはキリルの言葉を内心訝しく思ったが、それをおくびに出すことはせずにその隣を見た。
「あなたは?」
「私も同じようなものです」
似たり寄ったりの二人の態度にリューバは軽く目を閉じると、大きく息を一つ吐いた。
二人は一体、何の積りなのだろう。こんな片田舎の術師相手にまどろっこしい駆け引きをしても仕方がないだろうに。
「さて、言葉遊びはこの位にして。本題に入りましょうか」
パンと軽く手を叩くと、不意に真面目な顔をした。
「貴方たちは【大事なお役目】を預かっている。そうではなくて?」
そうでなければ伝令で済まされる伝達事項に、態々二重に人を寄越したりはしない。この時期にこの村の出身であるキリルを里帰りのように見せかけて。その友人を共に連れるという形を取って。随分と手の込んだことをするではないか。
だが、やはり詰めが甘い。
「そちらが手の内を明かさない限りは、こちらも相応のことは出来ないわよ? それにあなたたち、折角、お祭りの期間にやって来たっていうのに、そんな地味な格好じゃ、却って目立ってしまうわ」
そう言って穏やかに微笑んだリューバに、キリルはロッソと無言で視線を交わした。
そこには、どこか苦々しい表情が浮かんでいた。
それで、二人の間では何がしかの意思の疎通がなされたようだ。
キリルは徐に目を閉じ、一つ息を吐き出すと、開いた両手を胸の辺りで掲げて見せた。降参という合図だった。
「そうですね」
そして、隣に座るロッソを促すように言い放った。
伝令が寄こした手紙の内容は、どれも似たり寄ったりであった。文面とその文例は違えども書かれていることは一点のみ―ガルーシャ・マライの消息を尋ねるものだった。
風の便りに乗って、ガルーシャ・マライの存在が再び取り沙汰されている。
獣たちの情報網は実に広く、その伝達は速やかだが、何分、気紛れでもあった。【人】のようにそこに無用な思惑は入り込まないので、純粋に事実だけが伝わる。その方法は、【人】にとっては些か複雑怪奇に見えるかもしれないが、獣たちにとっては、それは自然の秩序に基づいた至極当然のものでもあった。であるから余計に【彼ら】の間に【人】の意志を介入させ、都合のいいように事実を捻じ曲げたり、口止めなどをさせようとすることなど出来るはずがなかった。
ガルーシャの旅立ちから約半年。その事実が噂となって人の世界に漏れだすのにそろそろ潮時だとリューバは思っていた。
幾ら人嫌いの偏屈な男であったとしても、人付き合いが皆無という訳ではなかったのだ。それこそ蜘蛛の糸のように細い繋がりであろうとも、それが存在することには違いがなかった。
急に無沙汰になると却って気に掛けたりするものである。そして、まず親交のあった術師同士の中でふとした会話の弾みに口の端に上る。そこに伝令として各地を飛ぶ獣たちの話が加わる。それが、恐らく、半年から一年であろうとリューバはみていた。
リョウの話を聞く限り、ガルーシャはその旅立ちを何人かに知らせていたようだ。その中には勿論、ハヤブサを伝令に寄こした自分も含まれていた。
リョウは、ガルーシャの封書を北の砦にいる人物に届けたとも言っていた。宛先は、恐らく、そこに赴任している【シービリ】の三男坊だろう。
ガルーシャはその昔、王都スタリーツァに居て、そこの術師養成所とも言うべき学びやで教授をしていた。教える相手は主に貴族出身の素養がある子供たちであった。その時の教え子の一人とは、今でも親交があるらしい。そんなことを昔、憎まれ口を利きながらも懐かしそうに語っていた。
リューバの言っていた鷹の伝令と言うのは、軍部に所属するイサークのことであったが、それが運んできた封書は、北の砦からのものではなかった。北の砦を拠点にしているのは、スタルゴラド第七師団の面々だが、その封書の裏書きには、王都を拠点にする第三師団の封印が施されていた。この国の軍部は、公にされている限りの情報では、第一から第十までの十の師団に分かれていたが、その中でも第三師団というのは、術師としての素養を持つ兵士を多く抱えるやや特殊な部隊でもあった。
寄こされた文書は、当たり障りのない簡素な伝達文の様相を取ってはいたが、その内容はやたらと仰々しい前書きに始まり、要約してしまえば、やはりガルーシャの所在を尋ねるものであった。片田舎に住む一介の術師に出すには、どうにも大げさで分不相応な感じでもあった。
その経緯を淡々と静かに語ったリューバに、キリルとロッソの二人も自分たちがこの場所を訪れた本来の目的を打ち明けた。
隣国に再び術師を巡っての不穏な動きが出ていること。それに伴い、調査や事実確認を含め、身辺への注意喚起を促す為にここを訪ねたということ。そして、何か気になることがあった場合は、砦に知らせてほしいこと。また、万が一の場合には、遠慮なくこちらに助力を求めてほしいことを告げた。
その上で、再び、こちらで何か変わったことはないかと問うた。
「………そうねぇ。思い当たる節は無いわ」
暫く考えた後、リューバは首を横に振った。
「そうですか」
「貴方たちの言い分は分かったわ。戻ったら、そのように伝えて頂戴」
そう言い放つと、辛気臭いお喋りはここまでと、顔を上げて、話を切り上げるように立ち上がった。
「そうそう。そろそろお腹が減ったでしょう? 今日はパイを焼いたのよ。お茶のお代りも入れるから食べて行ってちょうだいな」
―キリル。あなた、好きだったでしょう?
最後に軽やかにそう付け足して、二人の若者が止める間も無くリューバは台所へと踵を返していた。
ロッソは、晴れ着に身を包んだこの国の女たちの特徴を良く備えたふくよかなその後ろ姿をやや困惑した気分で見送っていた。
自分たちが考える程、事の重大さと深刻さが相手に理解されていないのではないか、伝わっていないのではないかと思わずには居られなかった。
「キリル」
隣に座る年若い同僚を見遣れば、その顔にはいつもの感情の乗らない無表情ではなく、苦笑とも困惑とも付かない、まるで途方に暮れた幼子がするような複雑な顔をしていた。
「どうかしたか?」
低く尋ねたロッソにキリルは我に帰ると何でもないと小さく首を振って見せた。
「大丈夫ですよ」
―あの人は、いつもああなんです。こちら側のことはちゃんと伝わっていますから。
そう小さく囁く様に口に乗せて、珍しく苦笑に似たような笑みをその口元に刷いた。
確固たる自信に基づいたその言葉にロッソは一瞬、戸惑いを覚えたが、同じ村の出であるキリルには、その女性との間に自分には計り知れない関係があるのだろうと思い、その場で口を挟む事はしなかった。
そうこうするうちに、パイとお茶のお代りを乗せたお盆を手にリューバが戻ってきた。
「さ、熱々だから、召し上がれ」
ソファの前にある低いテーブルにパイの乗った皿が置かれた。
香ばしい肉の香りと風味付けに使われた香草の香りが鼻先を掠める。
その瞬間、キリルの腹の虫が小さな音を鳴らした。幾ら訓練された兵士とはいえ育ち盛りの身体的欲求は正直なものだ。
突然、始まった隠れた自己主張にキリルは自分でも苦笑い。
「沢山あるから、どうぞ、遠慮しなくていいわよ」
その様子を見てリューバはからからと声を立てて笑った。