父の背中
男たちが集うテーブルに辿り着けば、ナデェージュダの夫であるクルスクの姿は直ぐに見つかった。
行きに見た時と同じ場所にいたのだ。
ここでは酒で弛緩した意識と共に時間がゆっくりと流れている。
「クルスクさん」
傍まで行って周囲の喧騒に負けないように声を張り上げれば、クルスクは椅子に座ったまま身体を捩って振り返った。
女にしては短い黒い髪を揺らす晴れ着に身を包んだ若い女を見て、クルスクは暫し目を瞬かせたが、その顔立ちをまじまじと見れば直ぐに合点がいったようで眦に深い皺を刻むと蜂蜜のようにとろりと相好を崩した。
「リョウじゃないか! ………こいつは驚いた。えらく別嬪になっちまって…ってアクサーナの話じゃぁ、そっちが本当なのか。いやぁ、参ったなぁ。おじさん、柄にもなく胸がドキドキしてきたよ。ちょっと飲みすぎたかな。アハハハ。………それにしても、あの坊主がこんなになっちまうたぁ。いやはや、まるで別人と話をしているみたいだなぁ」
まるでどこかの誰かのように―とはアクサーナのことだ―そう一息に捲し立ててからおどけたように肩を竦めて心臓の辺りに手を当てて見せた。
クルスクもとんだ役者である。
そんな相手に苦笑気味に合槌を打ってから、
「そんなに違って見えますか?」
リョウとしてはそちらの方が不思議で仕方がなかった。
「ああ、天と地ほども違うさ」
「でも、中身は一緒ですよ?」
「ハハハ。そのようだね」
おじさんはちゃんと分かっているさ―とでも言いたげに茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せる。
それからクルスクは、いいことを思いついたとばかりに顔をパッと輝かせた。
「ちょうどいい。そこでくるりと回って御覧。おじさんに良く見せておくれ。こんな時でもなきゃぁ、拝めないんだろう?」
普段ズボンばかり穿いていることを揶揄された。
「回れって、そんな………」
―小さな少女ではあるまいし。
いい年をした大人がそのようなことをしても痛々しいだけなのだが。と思ってみたところで、向こうはこちらの実年齢を知らないのだから仕方がないのかもしれないということに思い至る。外見だけなら実の娘であるアクサーナとそう変わりなく見えるのかもしれない。
躊躇いを見せるリョウに対し、酒がいい具合に回ったクルスクは、いつになく気が大きくなっているようだった。
「おやおや、恥ずかしがることないだろう? 実によく似合っているさ。おじさんが言うんだから間違いない」
そう言ったかと思えば、まじまじとリョウが身に付けている【コーフタ】を見て、
「そいつは……ひょっとしてリューバのかい?」
いきなり飛んだ話題に素直に頷けば、
「そうかい、そうかい。道理で見たことがあると思ったさ。リューバも昔は細かったからなぁ。今では見る影もないがね。アハハハ。……って、ここだけの話だよ。いや、しっかし、良く見ると、あん時のリューバよりも細いか、こりゃぁ」
そんなことをぼやきつつ、にやけ顔で大きな手を腰の辺りに伸ばそうとする。
当の本人が耳にしたら怒るであろう台詞もうっかり飛び出して、リョウは内心どうしたものかと途方に暮れた。
「ああ、リューバも若い頃は美人だったからなぁ」
クルスクの隣に座っていた仲間のイオーシフも懐かしそうに目を細める。
本人がいないのを言いことに言いたい放題だが、それも気の置けない内輪だから出来ることだ。
「今だって、十分綺麗じゃないですか」
クルスクの手をさり気なく交わしつつ、リューバの名誉の為にもキラキラと光る円らな翡翠色の瞳を思い浮かべれば、
「そりゃぁ、そうだが。やっぱり若いうちが花だろう?」
「そうさ、女は若いうちが一番。何せ弾力が違う」
「なんてったってピチピチだからな」
食卓を囲んでいた誰かが発した台詞に周囲の男たちがどっと沸く。
あちらこちらでガハハハと下卑た明るい笑い声が弾けた。
―確かに。
肉体的、物理的な面だけを見れば若さに勝るものはない。それは分かるのだが…。
男同士であるからそんな口説も出るのだろうが、後で家に帰って事の顛末を耳にした奥さんたちにどやされなければいいのだがと要らぬ心配をしそうになる。
ここの村の女たちは、往々にして皆、強くて逞しいのだ。家の中での主は大黒柱である男たちだが、その姿は妻の支えがあってこそのもので、実質的にその家の実権を握るのは女たちである。ここに来てからそんな例を沢山目にしてきていた。
「つぅことで。そこのお若いお嬢さん、おじさんたちにちょっとお酌をしてくれねぇかねぇ」
「お、若いのが来たか。いいねぇ」
「酒がもっと美味くなるぜ」
爛々と好奇に満ちた視線を向けられて、リョウは内心たじろぎそうになった。
何だか、以前にも似たようなことがなかったか?
既視感のある光景に三月ほど前の砦での宴会の様子が重なった。
だが、こちらの方が居並ぶ顔触れも年季が入っている分、アクが強い。あの若い兵士たちも年を取るといずれはこういう風になるのだろうか。いや、兵士達と村の男たちでは身を置く世界が違うか。その軌道は、願わくば重ならないで欲しいものだなどと希望的観測を試みてみる。
どこか遠い目をしてあらぬ方向へ意識を向けていれば、
「よし、そうと決まりゃぁ、嬢ちゃん、こっち来いや」
村でも大酒飲みで有名なフセボラドがだみ声を張り上げてこちらに手を振っている。ふさふさとした白いものが多く混じった眉毛の下には、艶やかな頬が光って見えた。
目が合ったフセボラドは、普段からあるかなきかの如き細い目をそれこそ糸のように細めている。そんな好々爺しかりの姿を見て、こうなっては仕方があるまいかと肩を竦めた。
『リョウ。酔っ払いなど相手にせずともよい』
苛立たしげにナソリが吠えれば、
「おいおい、お嬢さんにゃぁ騎士様がいらっしゃるぜ」
「あ?」
「ナソリじゃないか!」
「リューバんところの番犬か?」
「……ってことはリューバん所の子か」
「馬鹿言え、あそこは息子が二人だろう。女の子はいないぜ」
「じゃぁ、あいつらが恋人を連れて帰ってきたのか?」
「ようやく。今までは女っ気が無くて、リューバも気を揉んでたみたいだったが、とうとうか」
「こいつは目出度い」
「それなら、飲まねぇとな」
そんなことを口々に言って、やんややんやと騒ぎ始めた。
話は次から次へと脱線し、既に収集が付かなくなっている。
男たちの間では、リョウの存在はリューバの二人の息子たち、どちらかの恋人であろうという話に落ち着いていた。
こうやって噂は、尾ひれえひれが付いて独り歩きを始めるのだろう。
一先ず、運よくこちら側から意識が逸れたことにリョウは安堵の息を吐いた。
集まって来た男たちは、皆、その手に酒の入ったジョッキやグラスを持っていた。反対側の手には、旨そうな脂を滴らせている焼いた骨付き肉や薄くスライスしたパンにチーズや野菜を乗せたオープンサンドのようなものを摘んでいる。
テーブルには、所狭しと様々な料理が並んでいた。
「ほら、パイが焼けたよ。熱々の【ピラジョーク】だ。揚げたてだよ」
威勢の良い声が響いたかと思うと別の場所で料理を作っていた村の女たちの内の一人だろう、一人の着飾った女性が、その逞しい感さえある肉付きのいい腕に大きな皿を抱えてやってきた。
ホカホカと湯気を立てて置かれた大皿に、皆の視線が釘付けになる。
ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。
「インナ、こっちに一つ頼む」
「どれにするんだい?」
「何でもいいぜ」
「ああ、こっちにゃぁ二つだ。【グリビィ】が入ったヤツと【ミャーサ】が入ったヤツだな」
「はいはい。お次は?」
器用に方々から掛かる声を捌いて行くインナの姿は、実に圧巻だった。
ここのいる男たちは、脇に積み上げられた骨の塊や皿の数を見る限り、既にかなりの量をその胃袋の中に納めていると思われるのだが、よくそんなに入るものだ。底なしかに見えるその胃袋と飽くなき食欲は、実に驚異的であった。見ているだけなのに腹が膨れてきそうだ。
ぼんやりと半ば呆気にとられるようにして突っ立っていれば、
「リョウ、あんたも一つどうだい?」
湯気を立てる【ピラジョーク―小さな揚げパンに似たパイ】を差し出された。
鼻先をいい匂いが掠める。それに呼応するように腹の虫が一つ音を立てた。
「頂きます」
リョウも御相伴に預かろうと手を伸ばしていた。
「あの【カルバサ】を一本貰えますか?」
ナソリの分も頼む事を忘れない。視界の隅でナソリの尻尾がピンと立ったのが見えた。
「ああ。いいよ。ほら、こっちにあるから、たんとお食べ」
「ありがとうございます」
『気が利くな』
ナソリは手渡された好物に待ってましたとばかりに勢いよく齧り付いた。
そうして小腹を満たしてから、リョウは徐にクルスクの方へ向き直った。
「クルスクさん。この度のアクサーナの御結婚、おめでとうございます」
今更ながらだがきちんとした挨拶をしていないことに気が付いたのだ。
姿勢を正して祝いの言葉を口にすれば、
「なんだい急に改まって」
クルスクは面映ゆそうに小さく微笑んだ。
「ああ。ありがとう。あの跳ねっ返りもとうとう嫁に行くことになったよ。これで漸く肩の荷も下りたってもんだ」
そう言って静かに【ピーバ】の入ったジョッキに口を付けた。
言葉とは裏腹にその横顔は言い知れぬ寂しさを抱えているように見えた。
「寂しくなりますね」
家族が一人、家の中から居なくなるのだ。それまで当たり前にあった賑やかで軽やかな笑い声が直ぐ傍で聞こえなくなるのは、きっと家の中にぽっかりと穴が開いたように感じられるかもしれない。こんなにも部屋が広かっただろうかと長年住み慣れた自分の家に首を傾げるかもしれない。アクサーナの存在は、クルスク、ナジェージュダ夫妻にとっては眩しく差し込む陽の光のように掛け替えのないものであろうから。
リョウの脳裏には、不意にガルーシャと決別した直後のことが思い出されていた。
あの時は、小さな森の小屋がとても広く感じられたものだった。あるはずのない原形をつい探してしまって、そんな自分がどうしようもなく滑稽にさえ思えた。
今でもそうだ。頭では分かっていても染みついた習慣は反射的で中々治らない。小屋の中はそこかしこに故人のもので溢れかえっているし、そこからガルーシャの息遣いが聞こえるのだから。
「そんなこたぁないさ」
強がって見せても、
「何、言ってるんだ。今にも泣きそうな面しといて」
付き合いの長い村人たちには、クルスクの心の内が手に取るように分かるようだ。きっと同じ思いを抱いた【かつての父親】もいるはずだ。
「馬鹿を言え」
そう言ってグイとジョッキを呷ったクルスクの目尻には、薄らとだが涙が滲んでいた。
花嫁の父というものは複雑だ。手塩に掛けて育てた娘が巣立って行く。それは、きっと晴れやかで誇らしくあると同時に、一抹の寂しさを残すものでもあるのだろう。
唯でさえ、涙もろいクルスクのことだ。今日の内でこれでは、明日は盛大な滝が出来るかもしれない。
それに引き換え母親の方は割とあっけらかんとしたものだった。エレーナの時のように離れた場所に嫁ぐ訳でもない。同じ村の中だ。それが心理的にも強みになっているのだろうが、先程、一緒にお茶をしたナジェージュダの顔には娘の幸せを願う喜びの表情しか浮かんでいなかったように思えた。
鼻を赤くしたクルスクを見て周りにいた男たちは宥めるように言葉を掛けた。
「さぁさぁ、目出度いことなんだ。いつまでも、んな腐った顔してんな」
「さぁ、飲め。今日はとことん付き合ってやるから」
「おい、あっちから歌、歌うやつでも呼んで来い。いや、バラライカ弾きでもいい。こう湿っぽくちゃぁいけねぇぜ。おら、ここは一曲と行こうや」
その声に男たちの一人が踊りの輪が出来ている辺りにいる楽師たちへ合図を送る。
「おい、クルスク。涙は明日に取っておけ」
止めを刺さんとばかりにイオーシフから言われて、
「分かってるさ」
クルスクは照れ隠しだろうか、大きなお世話だとばかりに眉を顰めると頬の辺りを大きな拳で擦った。
「おい、ダフネ! お前、なんか歌えや!」
一人が声を上げれば、
「それでは御指名を受けましたので」
ゴホンと一つ大業に咳払いをしてから、年配の男が一人、立ちあがる。
「よっ、男前!」
「いいぞ!」
「待ってました!」
次々と上がる周りからの野次に手を上げて応えると朗々とした深みのある声で歌い出した。
赤ら顔で腹が出た少し冴えない親爺の姿からは想像が付かない程にいい声だった。
それは、どこか哀愁の漂う旋律だった。
テーブルに着いていた男たちは、皆、いつの間にか騒ぐのを止めて、歌に聞き入っていた。中には目を閉じている者さえいた。
リョウも、暫し、その歌声に耳を傾けた。
ダフネが素晴らしい喉を披露すると周りからは一斉に拍手が沸き起こった。そして、今度はその余韻を引き継ぐかのように流しの楽団の中から別の歌い手が【グースリ】を胸に弾き歌いを始めた。
引き継がれ、色を変えた次の流れに、
「クルスクさん、ナジェージュダさんから家に帰るようにとの伝言です」
中々にタイミングが掴めずに言いだせなかった一言を口にすれば、クルスクは目尻に溜まった【心の汗】をそっと節くれ立った指で拭うとゆっくりと頷いた。
「ありがとう、リョウ。その為にわざわざ寄ってくれたんだね」
それに小さく微笑み返せば、
「折を見て戻るとするよ」
そうひっそりと笑った。
「ところで、エレーナさんから、旦那さんのキーンさんにも同じような言伝を言い遣って来たんですが………」
話に聞いていたキーンらしき人物を探して辺りを見渡せば、クルスクも同じように周囲へ視線を走らせてからとある一点を指し示した。
「ああ、あそこだ。キーンならあの中にいるよ」
この場所から少し離れたところにある一角に同じようにテーブルを囲む男たちの集団があった。目に入る顔触れは、ここよりも少し若そうだ。
その中に束ねた髪を背中に垂らした男の後ろ姿が見えた。
「それでは、ワタシはこれで。あちらに声を掛けて行きますね」
そう言って、踵を返した背中に声が掛かった。
「リョウ」
「はい?」
振り返ってみれば、クルスクは先程とは打って変わって穏やかで真摯でさえある表情を浮かべていた。
「いつもありがとう。これからもあの子をよろしく頼む」
その役目は新郎であるデニスが引き継ぐのであろうが、父親であるクルスクの娘を思う一言に言いたいことは十分伝わった。
リョウは穏やかに微笑みを返すことでそれに応えた。
「明日もまだいるんだろう?」
「はい。勿論です」
今回の訪問の目的はアクサーナの婚礼に出席することなのだから。
「それじゃぁ、また明日だね」
「そうですね。クルスクさんも余りお過ごしにならないように」
「ハハハハ、分かってるさ」
そう言って手を軽く一振りして見せたのだった。
そして傍らで骨をしゃぶっていたナソリを促して、リョウはクルスクに教えて貰った一角へと足を向けたのだった。