紅に沈む
「じゃぁピァーチ、頼んだよ。リューバに宜しく伝えておいてね。そちらは任せるからって」
それだけ言えばリューバならきっと分かってくれるだろう。
足に括られた専用の小さな筒に手紙を入れる。アクサーナへの返事とリューバへの一筆だ。
『案ずることはなかろうて。後はリューバがいいようにするじゃろう』
そう言ってピァーチはクルルと喉を鳴らした。
それに一つ頷いて。
自分の記憶の中にある【鳩】よりは格段に大きく、長い翼をバサリと広げたピァーチを腕に乗せて、思い切り上空へと振り上げる。
『ではな』
「ああ、気を付けてお帰り」
鳶のように頭上でくるりと旋回してからピァーチの赤み掛かった、少し特徴のある灰色の羽は、蒼い空の彼方へと羽ばたいて行った。
灰色の大きな翼が視界から消えるまでリョウは空を見上げ、伝令の姿を見送った。
『帰ったか』
するりと音もなくセレブロが隣に身を寄せて来た。リョウは無言のまま日の光に反射して白くきらきらと輝く、その柔らかな毛並みを一撫でした。
『リョウ』
「ん?」
『余り気に病むな』
セレブロはどこまでも優しい。
自分を案ずる声にリョウは一瞬、目を瞠はると擽ったそうに小さく笑った。思いの外、気を使わせてしまったようだ。そんなに落ち込んだ顔をしていただろうか。
「ありがと。大丈夫。ちょっと………なんというか、吃驚しただけだから」
喉元を一時の熱さが過ぎ去れば、出て来たのはそんな軽い言葉だった。
『………そうか』
きっと大変なのは、向こうの方だ。
小屋に戻る途中、リョウはもう一度振り返って伝令が飛び立った方角へ視線を投げた。
手紙には真実を書いた。
気持ちは嬉しいが、自分は彼女が望むような【想い】には応えられないだろうと。
同じ女なのだと。こちらでは紛らわしい格好をしていた為、勘違いをさせてしまって申し訳ないと一応、謝っておいた。
それで彼女の面目が保たれればいいのだが。
後は、アクサーナ次第だ。勘違いを知ってどうするのか。侮辱されたと憤るだろうか。それとも恥をかかされたと悲しむだろうか。その反応は未知数だ。
この国では基本的に同性とは正式な婚姻関係を結べないとガルーシャは言っていた。
それでも同姓で似たような関係を築く場合が全くないとは言えないだろうが、通常は異性間で婚姻が生じ、人は子孫を残し、その一族の血を繋いでゆく。そういう考えは、こういった僻地の農村程、強く人々の意識の中に受け継がれているものだ。だからそう言った意味では、アクサーナが妄想という名の想像を逞しく膨らませる余地はなくなる。
時間が経てば、きっと笑い話になるに違いない。アクサーナが、というよりも、男に間違われて求婚まがいの恋文を貰ったという自分が、だ。話のネタとしては格好の素材だ。
『人とはおかしなものだな。男だろうが、女だろうが、その核は変わらぬというに…………』
セレブロが不意に口にした述懐は、なぜか心に染みた。
【好き】という感情は解釈が難しい。
親愛の情、友愛の情、敬愛、情愛、家族愛。同志愛、同胞愛、郷土愛。
愛しいという気持ち。慈しみの思い。慕情、恋情。そこから派生する肉欲までも含めば、その段階は様々で意味付けも多岐に渡る。
アクサーナは、受けた印象から推測すれば、きっとまだ若い。一時的に燃え上がる炎のようにパッと火が付いて直ぐに消える。概してあの頃には、そういう感情のブレが起こり得る。
自分の存在は、偶々、彼女の目には物珍しく映ったのだろう。
この辺りでは見かけることのない異国風の顔つき。村人ではない外部の人間。街々を巡る行商よりも訪れる頻度は少ない。
物理的にも心理的にも様々な制約から、村を出て自由に外を歩き回ることのできない少女にとって外の世界は未知へと繋がるもので、自分の存在に外への憧れのようなものを重ねたのではないだろうかと思った。
ならば、彼女の感情の昂ぶりも一時的なもので、直ぐにまた違うものに取って代わることだろう。
暫く、ほとぼりが冷めるまではそっとしておいた方がよい。そう結論を下した。
その晩、一人寝台に横になったもののリョウは中々寝付けなかった。
「…………コ、イ………か」
思い出すのは昼間の出来事だ。
あのように何かに熱くなったことが果たして自分にはあっただろうか。頭を過るのはそんな他愛もないことだった。
アクサーナの文面から溢れんばかりに流れ出て来た【気持ち】の奔流には、ただただ面食らうばかりだった。まだ、その時の動揺の余波が、内部に燻っていた。
恋をすると女は綺麗に、そして強くなるとは言うが、あのような熱さは、リョウには無縁だった。うっかり触れようものなら火傷してしまう。
試しに己が過去を振り返って、かつての恋人の顔を思い出してみる。
輪郭はすでに曖昧だ。
ごつごつとした指、そして密やかに笑うたびに微かに現れる左頬の笑窪に惹かれた。控え目に喉の奥を鳴らす独特な空気も気に入っていた。
あれは、今思えば、どんな感情だったのだろうか。恋人と言うよりは、同志、家族。そんな曖昧な境界線をたゆたっていたように思う。
互いに明確な言葉で、二人の間にある繋がりを確認したことはなかった。滾るような熱などとは無縁の緩やかな繋がり。未だかつて燃えるような恋など経験したことも無かった。
だが、それで自分は満ち足りていて、その方が却って心地よかったのだから、きっと性にあっていたのだろう。
互いに仕事が忙しくなって、いつの間にか連絡を取る頻度が減って行った。
恋愛をするには、かなり法外なエネルギーが必要だ。元々、冷めたところのある自分には、どう考えても向いていなかった。薄情だと思われるかもしれない。自己中心的だとも。それでも、それが自分なのだから、仕方がない。
あの頃を振り返ってみても、当時の自分には、他人を構う余裕がなかったのだ。世界は酷く狭く、同じ歪な楕円形の中を堂々巡りしていた。
今ならば、それがはっきりと分かる。
日常はとても淡々としていて、同じような歩みを刻む自分は、激情に飲まれたこともなかった。女としては、さぞかし可愛げが無かったことだろう。
アクサーナのように気持ち先行型で突っ走ることが出来るのは、年齢的なものもあるが、個人の性格にもよる。ああいった手段が取れることは、恐ろしくもあり、また、同じ女としては、少し羨ましくもあった。
一度は刹那的に後先考えず、本能の赴くままに行動してみたい。そんなことを夢見た時期もあったが、空想を現実に横滑りさせることが出来る程の度胸も覚悟も無かった。
所詮、他者との距離を測りながら、鏡に映る己が虚像を気にしてばかりいた自分には、到底、無理なことなのだ。
リョウの顔には、どこか自嘲気味な表情が浮かんでいた。
あの人は………元気にしているだろうか。
結局、有耶無耶なまま、気が付いたら、連絡を取る術を永遠に無くしてしまっていた。今となっては【便りがないのは元気な証拠】などという陳腐な慣用句に思いを託すしかないのだから、図らずも、人生とは不条理で皮肉なものだ。
遥か遠く、それこそ地の果てまで行っても、【ここ】は【あそこ】には繋がらないのだ。まるで逆流の出来ない時間のようだ。遡ることのあたわぬ流れ。
そのようなことをつらつらと考えて、リョウは軽く頭を振った。
―どうかしている。
こんなことではいけない。これ以上は考えるだけ無駄なのだ。そう決めたはずだった。
負の連鎖のように際限なく沈み込むと浮上するのは中々容易なことではない。
- コチラ ハ ゲンキ ニ ヤッテマス -
電報に似て、どこか他人事めいた文言を空中に書いてみた。
明日も朝は早い。
そして全てを封じ込めるように、そっと目を閉じた。