キミの名は 4)
お茶を人数分カップに注いでいる間、リョウは妙に執拗な程の強い視線を感じていた。自分が動く度にその視線も追いかけて来る。
それに態と気が付かない振りをして流しながら、執事宜しく控え目に、この家の主であるリューバの出方を待った。
目の前のテーブルには、先程少女が持ってきた【マフィン】に似た菓子が皿の上に乗っていた。甘くて香ばしい匂いが、窓から入るそよ風に乗って辺りに漂ってくる。
それを遠目にして台所に戻ったリョウは、後を付いてきたナソリを見下ろした。
「ナソリはどうする?」
飲み物のことだ。
『いつものでよい』
「了解」
そう言われて、ナソリ用には薬草を入れた水を用意する。
リューバ特製のその水は、ナソリ曰く、喉越しがすっきりとしていて、一日の疲れが吹き飛ぶぐらい美味なのだとか。井戸から汲んだ水に薬草を付け込んで香りを付けたものだった。リョウはまだ飲んだことが無かったが、以前から興味はあった。
「ねぇ、ナソリ。一口貰ってもいい?」
試しに聞いてみれば、
『ああ、別に気にせず飲めば良い。無くなればリューバに催促すればよいのだからな』
「ありがとう」
快い返事が返ってきたので序でにと自分用に手にしたカップにその水を注いだ。
一口、口に含めば、ナソリの言う通り、清々しい後味が口内に残る。中々に美味しいものだった。
「本当だ。美味しい」
『リョウも気に入ったか』
「うん。後で、リューバに薬草の配合を聞こうかな」
『そうか』
そうやって一人と一頭で和んでいると、居間の方からリューバの声が上がった。
「リョウ? ナソリもこっちへいらっしゃい。皆でお茶にしましょう? お茶受けにナージャ特製のお菓子があるわよ。早くしないと無くなっちゃうわよ?」
幼い子供に言い聞かすような文言にリョウとナソリは顔を見交わせた。
「はい。今行きます」
さ、ナソリ。と相棒を促して、やや重い腰を上げた。
「先に頂いているわよ」
そう言ってカップを傾けたリューバにリョウは小さく頷き返した。
リョウはリューバと客人が座るソファとは対角線上にある一人掛けの椅子に腰を下ろした。直ぐ傍にはナソリが控える。
「あら、リョウ、こっちは飲まないの?」
すでにカップを片手にしていたことをリューバに気付かれて、リョウは苦笑した。
「頂きますよ。これは、ナソリの薬草水を味見してみたんです」
「あら、そう。ナソリにこのお茶は少し強すぎるからね」
そう言いながらトポトポとガルショークから温かいお茶を注がれて、一口、口に含む。
少し熱い位のお茶は胃の腑に染みた。
やはり温かいお茶は格別だ。
思わず「ほぅ」と小さく息を吐けば、斜め前のソファに座る少女と目が合った。
先程からずっとこの調子だ。なぜか少女の視線はチラチラと自分に向けられていた。
―なんだろう。何かしただろうか。それとも、何か気になることでもあるのだろうか。
そう思ってみても彼女とはついさっき初めて顔を合わせたばかりで理由が分からない。
少女がその円らな瞳でこちらを見つめている。
内心の気まずさを誤魔化すようにリョウは微笑んでみた。かつての習慣よろしく専ら社交辞令的意味合いで、だ。
すると少女は、目の縁を若干赤らめて恥ずかしそうに俯いた。
少女の隣に寄り添うようにして座る青年は、その様子をどこか面白くない顔をして眺めていた。
青年は暫く少女の方を見ていたが、やがて視線を横へ流した。
凍てつくような冷え冷えとした眼差しが、リョウを捕らえた。正面から向けられたその視線は、どう少なく見積もっても好意的には見えなかった。剣呑さを含んだ光が、射貫くように突き刺さる。
どうも歓迎されていないようだった。青年の表情はあからさまではないが、その瞳はとても雄弁にその感情を吐露していた。目は口ほどにものを言う。
負の感情を向けられて。
覚悟はしていたものの、実際にはやはり気持ちのいいものではない。
リョウは、お茶を啜りながら努めて冷静に状況を分析した。
そして出て来た結論は実に単純明快だった。
―訳が分からない。
その一言に尽きた。
少女がやけに照れる様子も。見ず知らずの青年から目の敵にされる謂われも。
平静を取り繕っていても内心は漣立つ。
思わず息を詰めそうになった。
そんな中、やけに緊張感のないリューバののんびりとした声が耳に入った。
「………そう言えば、リョウは二人に会うのは初めてよね」
口を開くことなく頷きだけで返せば、少女が待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「もう、リューバったら、勿体ぶらなくてもいいじゃない」
「ふふふ、アクサーナはせっかちねぇ」
「いいから早く」
少女に小声で促されて、リューバはさも可笑しそうに喉を震わせた。
「はいはい。アクサーナは気になって仕方がないのだものね」
そしてややぎこちない空気を払拭するように、軽く自己紹介をすることになった。
主導権を握るのはリューバだ。
「この子はリョウ。時折、薬草を届けてもらっているの」
リューバの紹介にリョウは軽く目礼をした。
「よろしく」
「この子は、アクサーナ。ナージャの娘さんなのよ。ナージャの話はこの間したでしょう? パン作りの名人」
その言葉にリョウは静かに頷いた。
ナデェージュダはリューバの茶飲み仲間の一人だった。
「アクサーナです」
対面で少女は鮮やかな微笑みを浮かべた。
「パンやお菓子を焼いては、偶にこうしてお裾分けしてくれるの。このお菓子もナージャが焼いたものなのよ。さぁ、冷めないうちに頂きましょう?」
お菓子を一つ手渡されて受け取る。
籠の下に保温石を置いていたのか、手にした焼き菓子はまだほんのりと温かかった。
「で、その隣が、デニス。アクサーナとは幼馴染みで仲がいいのよ。ヴァジムの所の息子さんなの」
「………どうも」
デニスと紹介された青年は、こちらを一瞥して、ぼそりと呟くと徐にお茶を啜った。
「もう、デニスったら、相変わらず無愛想なんだから」
「…………」
「いつもそんな不機嫌な顔をしていると誤解されちゃうって言ってるでしょ?」
「これは地顔だ。悪かったな」
アクサーナが隣で気を揉めども本人は至って平然としている。
「どうか気を悪くしないでね?」
相手を思いやるその言葉に、リョウは薄く愛想笑いとも呼べるような笑みを刷くだけに留めた。
余計なことなど言わない方がいい。
それからお茶を囲んで、リューバの居間では、女主人とその若い客人の高らかな声が響いていた。
気心が知れた女同士、話題となる話は豊富にあるようだ。二人のお喋りが続く中、残された男とリョウは静かに茶器を傾ける。
そして、時折、女達から思い出したように振られる話に、互いに合槌を打ったりした。
ナージャ特製というお菓子は、実に美味しかった。それにありつけただけでも良しとしよう。
リョウは、そんな気分だった。
中に【オレーハ】という胡桃に似た木の実が入っていて、それが香ばしさを醸し出していたのだ。
やがて、一頻りお喋りをして気が済んだのか、アクサーナが急に思い出したように顔を上げ、窓の外を見た。
日が傾き、差し込む影が大分長くなって来ていた。
「もう帰らなくっちゃ。母さんが待ってるもの。随分長くお邪魔してしまったわ。リューバとお話しているといつも時が立つのを忘れてしまうんですもの」
軽やかに微笑みながら立ち上がる少女の傍でもの言わず青年も立ち上がった。
「リューバ、美味しいお茶、ごちそうさま」
「どういたしまして。いいのよ、お茶くらい。ナージャに宜しく伝えておいてね。御菓子、今回のも凄く美味しかったわ。ありがとう。ねぇ、リョウ?」
「はい」
「リョウも、またね?」
見送りにリューバとともに玄関に立てば、アクサーナが小さく目配せをして手を振る。
それを遮るかのように、
「ごちそうさまでした」
デニスが無表情で一言。
「それでは、失礼します」
まるで貴婦人を同伴する騎士のような振る舞いで堅苦しくそう告げると二人は自宅へと帰っていった。
細くうねったなだらかな坂道を二つの影が下って行った。
玄関先から居間に戻り、急に静かになった室内で、リョウは漸く長い息を吐き出した。
まるで小さな台風のようだった。
どっと襲ってきた訳の分からない精神的疲労にぐったりとして椅子の背もたれに体を預けた。
それを見てリューバが笑う。
「賑やかだったわねぇ。疲れさせてしまったかしら?」
そう聞かれてリョウは力なく首を振った。その中にリューバも含まれていたのだが、それは敢えて言わなくとも良いだろう。
「でも、偶にはいいでしょう?」
そして、意味深に含み笑いをし始めた。
「アクサーナはリョウが気に入ったようね?」
そう茶目っ気たっぷりに口にされて、
「そうでしょうか?」
リョウは首を傾げた。
少なくともあのデニスという青年には快く思われなかったようだ。何せ、睨まれたのだから。
「ふふふ。そうよ。見ていれば分かるわ」
そのリューバの一言が、どれだけの意味を持っていたのか。その時のリョウには、全く見当が付くはずがなかった。
「デニスももう少し愛想が良ければいいんだけれどねぇ。父親のヴァジムはもっと社交的なんだけれど。誰に似たのかしら。まるで正反対だわ」
「母親の方に似たのでは?」
概して、男の子は母親に、女の子は父親に似ると言うではないか。
そう言ってみれば、リューバは少し考えた後、
「そうねぇ。母親のオーリャはどちらかと言えば、物静かで優しい人だから。今日はあんな感じだったけれど、デニスも本当は優しい子なのよ? 人見知りをする性質だから、緊張していたのかもしれないわね」
そう結論付けると穏やかに微笑んだ。
リューバは人を見る目がある。だから、それはこの村の住人にとっては真実なのだろう。でも、それが自分にとっての真実になるとは限らない。恐らく何らかの理由があるのだろうが、それを直ぐに知りたいとは思わなかった。世の中には往々にして、敢えて知らなくとも良いことがあるものだ。
そうして、新しく出会った村人二人のことはあまり深く考えずに、時の流れるまま、その事実だけを受け止めることにしたのだった。