スフミ村の術師 2)
村の入り口に辿りつけば、点在する家屋からは夕食の支度をするいい匂いが煙に乗って漂っていた。目に映る村の景色は、半年前と変わっていない。
慎ましくも穏やかで温かな日常が、ここにはあった。
「おや、お前さんは、ガルーシャんとこの坊主じゃぁないか」
村人の一人に声を掛けられて、
「こんにちは。ご無沙汰しております」
リョウはにこやかに挨拶を返していた。
「リューバのところかね?」
「はい」
「ほうほう、もうそんな時期になったかね」
―最近は、時が経つのが早くてねぇ。
朗らかに笑って、腰の少し曲がった老人は、杖を片手に手のひらを一振りすると徐に振り返った。
「まぁ、ゆっくりしてお行き」
皺だらけになった顔に刻まれた細い目を一段と細めて己が家の中へ入って行った。
「はい。ありがとうございます」
茶目っ気たっぷりのその言葉にリョウは穏やかに微笑んでいた。
村の集落の中心から少し離れた所にリューバの家はあった。
緑色の屋根と白い窓枠が目印だ。それはリューバの瞳の色を象徴しているようだった。
術師であるリューバの家は、村の外れに位置している。それは、そのままこの国に置ける術師の立ち位置を表わしていた。
特殊な能力を持つ術師は、何の力も持たない多くの一般人から見れば特異な存在だった。時として崇められたり、その能力を持て囃されたり、頼られたりもするが、それは同時に畏怖される存在でもあったからだ。
自分の理解が及ばない不思議な現象を目にして、人が取り得る反応は様々だが、その内の一つに拒絶や排斥がある。それは、世界が違っても、国が違っても、変わらない人の一面だった。
だからであろうか。付かず離れず、実に絶妙な距離感と間合いで術師は人々の暮らしの中に溶け込んでいた。
そんな中で、この村のリューバは少し例外的な存在かも知れなかった。
元々、この村の生まれであったということもあるのだろうが、生来の陽気さと気風の良さで、今や村に無くてはならない重要な存在になっていた。村人からの信頼も絶大だ。
僻地の小さな村落では、大きな街のように医者が施す医療の恩恵に預かれることはまずない。そういう場所では、大抵の場合、薬草に詳しい術師やそれに近い人物が、医者に代わる存在となっていた。そう言う意味で村唯一の術師であるリューバは、この村の住人の健康を一手に預かっている存在でもあるのだ。
リューバには二人の息子がいた。その息子達も今は成人して村を離れている。二人ともに術師としての素養を母親から引き継いだようで、一人は大きな街で、所謂一般的な術師として生計を立てており、もう一人は鍛冶屋の方面でその技を発揮しているらしかった。
リューバにとっては自慢の息子達だ。二人はそろそろいい年らしいのだが、揃いも揃って未だ独り身で、嫁の来手がないことが母親としては悩みの種なのだと以前ぼやいていた。
その口振りは、言葉の割には余り心配していなさそうな軽いものではあったが。
約半年振りにこじんまりとした玄関に立てば、扉をノックする前に頑丈な内開きのドアが開いた。
「いらっしゃい」
滑らかに開いた扉の傍には、にこやかな笑みを浮かべた大柄な女性が立っていた。
この家の主であるリューバだ。
「こんにちは、リューバ」
目の前で大きく広げられた腕にリョウは素直に体を預けた。そのまま力一杯に抱きしめられて身体の骨が軋みを立てる。
「元気にしていたかい?」
「はい」
この国の慣習通りに頬に軽く口付けを贈り合って。
顔を上げれば、リューバのふくよかな丸みを帯びた手が、リョウの頬に掛かったおくれ毛を梳いていた。
「すっかり、短くなって…………」
襟足で揃えていたはずの黒髪も時の経過に伴い肩口まで伸びていた。それを邪魔にならない為に後ろで一つに束ねていた。括り紐から伸びる毛先は、小さな刷毛のようだった。
だが、リューバはあの時のことを知らない。彼女が比べているのは、約半年前の背中の半ばまであった長さだ。
リューバには先読みの能力があった。それを虫の知らせだなんて笑ってはいたが。占い師のようなことも仕事の一環として行っていた。
だからだろうか。リューバは、リョウが髪を切った経緯に見当が付いているのだろう。珍しく多くを語らない言葉には、いつも以上に様々な想いが詰まっているようだった。
「………大変だったわね」
ただ一言、そう言って、再び力強い抱擁がリョウの体を包み込んだ。
それだけで十分だった。
リョウも同じように腕を回して、目の前にある柔らかな体を抱き締め返した。
すると、不意にリューバが顔を上げた。
「あら、やだ、リョウ、この間よりも痩せたんじゃない? ちゃんと食べてるの? 食事は生きて行く上での基本よ? ただでさえ細いのに」
確かめるように肩から腕を大きな掌がさすってゆく。
そのまま腰を掴まれそうになってリョウは慌てた。そこは弱い部分なのだ。
『おい、リューバ、いつまでそんな所にいる積りだ』
痺れを切らしたのか、早く中に入れとばかりに尻尾を揺らしたナソリの低い声にリューバの手は止まった。
「あらあらあら、やぁねぇ。あたしったら。折角のお客様をこんなところに引き留めておくなんて」
ウフフフと含み笑いをして軽やかにスカートの裾を翻す。
「さぁ、リョウ、中に入って。晩御飯にしましょう? 沢山歩いたからお腹が減っているでしょう? 今日は朝絞めた【クーリツァ】と畑の【レープカ】を煮込んだのよ。リョウの好物だっだわよね」
丸い上気した頬に上機嫌に笑みを浮かべて促されるようにして中に入る。
『やれやれ』
目が合ったナソリの顔を見てリョウは苦笑を漏らした。
―ああ、ここの空気も変わっていない。
あちこちで目に映る【不変】の欠片に、密かに安堵の息を漏らしている自分に、リョウは気が付かない振りをしていた。