新しい日常 2)
リョウは、その日、森に入った。
傍らには暇を持て余した狼達が、番犬宜しくうろうろとしている。中でも狼のアラムとサハーは格好の教師だった。
リョウの手には、自分で手作りした不格好な帳面と鉛筆が握られていた。
この辺りでは、紙は高価な部類に入る代物だった。庶民はおいそれと手を出すことは出来ない。
基本的に自給自足で現金収入の無いリョウには、身の回りの物を有効活用して代用品を自分で拵えるしかなかった。
幸いにして、ガルーシャの家には物置のようなガラクタが詰まった納戸があり、そこに何が入っているかは未知数だった。
要らなくなったものをガルーシャはそこにしまっていたようで、書斎で展開されている几帳面さが嘘に思えるほど、そこは乱雑に色々な物が詰め込まれていた。
それは知らない者から見たら、ちょっとした魔の空間だろう。
だが、そのような場所もリョウにとっては宝箱のような趣を持っていた。
よくよく覗いてみれば、何に利用するのか分からない代物に紛れて、意外と使えるようなものが転がっていたりしたからだ。
帳面は、木の皮を剥いでその繊維部分を煮詰めて漉し、木枠に入れて固めたものだった。何度か試行錯誤を重ねて紙にするのに適した柔らかい木を見つけ出した。
鉛筆も同じように手作りをした。
この国では、独立したインクとペンが主流で、ペンは羽ペンで無かっただけましなのかもしれないが、持ち運びと言う点ではとても不自由だったからだ。
核となる中心には、墨を主原料にして固めた芯を作った。そこに棒状に削った木を二つに割り、中に芯が入るような溝を削り、その部分に芯をはめ込む。そして木を接着した。
その昔、【テレビ】で鉛筆工場を取材した番組があり、その中で鉛筆の作り方をやっていたのだ。紙は小学校の社会科見学で紙漉き体験をしたことに基づいている。
思わぬ所で昔の知識が役に立った。と言っても、知識だけを持っているのとそれを実地で試してみるというのは、かなり隔絶した感があったが。
だが、この世界には術師としての技術があった。それは、以前ならば、決して想像がつかないような摩訶不思議な現象として片付けられてしまうものだが、この場所ではそれは現実として当たり前に作用していた。
それは、芯の作成時に核となる主成分を混ぜ、凝固させる過程に作用したり、木の繊維を柔らかくする為に役立った。
料理であれば「美味しくなるおまじない」―そういった類に見えるものだった。
そうやって苦労して作った筆記用具は、見てくれは悪くとも大切なものだった。紙はそれこそ茶色にくすんでいて、その手触りもごわつくものだったが、端に小さな穴を開けて太めの針と糸で綴じれば立派な帳面になった。
今、リョウが手にしているものはその内の一冊だ。
中を開けば、小さな几帳面さを窺わせる丁寧な文字でびっしりと字が並んでいる。この国の言葉の他に、時折、様々な字体の文字が躍るように並んでいた。
リョウは、何かを探すように辺りに注意を払いながら深い森の中を歩いていた。
そして、とある木の根元にかがみ込むとそこに生えている小さな草へ手を伸ばした。
「アラム、これって【ジェルーダク】だよね?」
屈み込んだリョウの手元を覗きこむように鈍色の豊かな体躯を音もなく滑らせて一頭の狼が鼻面を押し込んだ。
『ああ、そうだな』
その反対側には、もう一頭の狼がその背中に特徴的な碧い毛を一筋、波打たせていた。
『ふむ、かような所にあったか』
「お腹を下した時に効くやつだよね」
そんな効用がガルーシャの残した薬草関連の本の中には書いてあった。
『我らは身体に合わぬものを口にした時に食す』
だが、人と狼では若干その作用や使い方が違うらしい。
「整腸作用があるってことか」
―成程。
こういう意見は貴重だ。
「量は?」
『その葉一枚で十分だろう』
リョウはその草を慎重な手付きで摘み取ると小さな袋の中に入れた。
袋には予め番号が振ってある。
そして、素早く手にしているノートに番号と摘み取った薬草の名前と形状、効用を書き込んだ。
後で間違えない為である。ちゃんとした分類と整理は家に帰ってからだ。
そうやって幾度か立ち止まりながら暫く、森の中を歩いて。
人が分け入ることのないこの場所は、辛うじて獣道らしき道が細く続くだけで足場は悪かった。
リョウの額には汗が滲み、黒い髪が額際に張り付いていた。
リョウは体のバランスを取りながら颯爽と先頭を行く狼の背中にある碧い線を追う。
やがてその狼の滑らかな毛並みが立ち止まった。
『リョウ、見てみろ』
サハーに指示された場所には、岩の陰に青々とした草が群生していた。
『ストレールカだ』
「これが…………」
サハーの言葉にリョウは息を飲んだ。
それは、初めて目にする光景だった。
「凄い!」
ストレールカは、切り傷、金創(剣・刀による裂傷のことだ)火傷といった傷全般に効く薬草だった。この葉を生のまま擦ると黒みを帯びた粘液が出て来る。それを傷口に塗るのだ。
効用の仕方としては、人が元々持つ潜在的な治癒能力に大きく働きかけるものだった。
その汁は、うっかり舐めようものなら大変なことになる。
昔から「良薬口に苦し」とは言うが、その苦みとえぐみは半端ではなかった。
リョウはその時のことを思い出すと、今でも口内に得も言われぬ苦みを感じるような気分だった。
あの時はガルーシャの手伝いで保存用に乾燥させたストレールカを少量の水と一緒に乳鉢で摩り下ろしていて、跳ねた汁が間違って口の中に入ったのだ。
その時は、余りの苦さに吃驚して慌てて水を飲みに走った。そんなリョウの様子をガルーシャは可笑しそうに忍び笑いを堪えながら眺めていた。
それから二・三日は、何を食べても舌に痺れるような苦みとえぐみが残って閉口したものだった。
あの時、使ったのは乾燥させたモノだった。生の方が格段にその効力は違うとガルーシャは言っていた。
ストレールカは森の中でも見つけるのは至難の技らしく、この辺りでも貴重な薬草とみなされていた。だからであろうか、その効力は抜群だった。リョウ自身、それは怪我を負ったアッカの左足を手当てした時に確認済みだった。
あの時は、乾燥させたモノを使った。
ガルーシャは「今度、森で見つけたら、根ごと持ち帰って栽培しようか」とにこやかに笑っていた。小屋の脇に設えられた小さな薬草園のコレクションに加える積りだったのだろう。
その時の小さな野望は、結局果たされないまま、時が流れてしまった。
そのストレールカが、今、目の前にあった。
リョウは、自生しているストレールカを見るのは初めてだった。
『ほほぅ、これほど群生しておるのも珍しい』
アラムにとっても珍しいのか、その光景に目を細めている。
『リョウ、それも持ち帰るのだろう?』
サハーに声を掛けられてリョウは我に返った。
「あ、うん」
『根ごと持ち帰るのか?』
アラムに聞かれて、
「そうしようかな」
リョウは少し考える風に首を傾げた。
『気を付けろ』
『ああ、ソレには棘がある』
「分かった」
サハーとアラムの二頭に言われて、リョウは頷くと肩に掛けた鞄から革の手袋を取り出し装着した。
そして、腰のベルトに付けた鞘から短剣を取り出すと群生するストレールカの傍に跪いた。
根元の土を掘る。その場所はしっとりと湿り気を帯びていて土は柔らかいものだったので掘るのは容易かった。
手袋越しに触れたストレールカの茎には、相棒達に言われた通りびっしりと細かい棘が生えていた。
「これは凄い」
棘は意外に固かった。素手で触ろうものなら確実に人の肌などひとたまりもないだろう。
「アラムとサハー達は、これをどんな時に使うんだ?」
三株ほど引き抜いて、土が付いたまま、そっと袋の中に入れた。茎は固いが、ギザギザの形をした細長い葉は驚くほど柔らかい。
鼻先をヨモギのような清涼感のある独特な香りが掠めた。
『この葉には、気を昂ぶらせる作用がある。我らの間では、闘いの前に一枚口にする輩が多い』
と言うことは、早い話が興奮剤、気付け薬のようなものなのだろうか。
『だが、あの苦さには参る』
『ああ、我も御免だ』
そう言って相棒達は顔を顰めた。
味覚と言う点では、その程度の差こそはあれ、狼も人と変わりがないらしい。
「…………確かに」
リョウもかつて味わった苦い経験を思い出して苦笑を洩らす。生憎、人がソレを服用した時の効用に関してはまだ知らなかった。
―帰ったら調べてみよう。
リョウは、そう気持ちを新たに思ったのだった。
「さて、今日はこの位にしておこうか」
一杯になった袋を手に、リョウは立ち上がった。
「帰ったら御飯にしよう」
『うむ』
『承知』
それに二頭が続く。
そして、一人と二頭は森の中に薄らと残る獣道の彼方へ消えた。