28)いつかどこかの昼下がり
約五年後ぐらいのとある情景。
「マーマシャ!」
甲高い声が上がったかと思うと庭先を勢いよく幼子が駆けて行った。染色されていない柔らかそうな生成り色のシャツにズボンを穿いている。どうやら男の子のようだ。さらさらとした癖の無い黒い髪が日差しを浴びて緑色の艶を反射させる。
小さな男の子はその手に何かを持っていた。閉じられた小さな手は泥んこ塗れ。土遊びでもしていたのだろうか。幼子特有の福々しい頬にも指で拭ったのか、茶色の土の線がお伽噺の中で描かれていた異国の誉れ高き戦士のように伸びていた。
「つかまえたぁ! みてみてみて!」
何やらしきりにはしゃいでいたかと思うと途中、蹴躓いてペちゃりと前に転んだ。
それを少し離れた薬草園から見ていた母親と思しき女性は、慌てて立ち上がると男の子の傍に駆け寄ろうとしたのだが、男の子は直ぐに立ち上がり、痛かったのだろうが、それよりも早く手にしている【何か】を見てもらいたくて仕方がなかったようで、しゃがみ込んだ母親の胸元に駆け込んだ。
「リューシャ、大丈夫?」
母親の心配を余所に男の子は父親譲りの瑠璃色の瞳をきらきらと輝かせて跪いた母親に両手を差し出した。
「見つけたの」
母親は小さく笑って頬に張り付けた男の子の黒髪を撫で付けてから、その小さな手の中を覗き込んだ。
「トカゲ」
「あら、本当。まだ小さいから生まれたばかりかしらね」
小さなふよふよとした柔らかい掌の上にまだほんの小さい【とかげ】が乗っていて、息も絶え絶えに腹を膨らませたり萎ませたりしている。
母親は、小さく頬笑むと男の子に諭すように口を開いた。
「リューシャ、あんまりぎゅっとしちゃだめよ。とかげさんはとても小さいから力を入れたら潰れちゃうわ。リューシャだって苦しいのはいやでしょう?」
「うん。分かった」
そう言って男の子は自分の掌に顔を近づけて観察しようとしたのだが、不意にとかげは跳ねると勢い余って男の子の鼻の上にぺちゃりとへばり付いた。
突然のことで吃驚したのか、男の子は『わぁ!』と声を上げて、慌てて顔を左右に振った。すると小さなとかげはすかさずそこから地面に着地して、もの凄い速さで逃げて行った。
男の子はどこに行ったと辺りを見回すが、すっかり地面と同化している小さなとかげを見つけることができなかった。母親はそっと周囲を見回して、少し離れた所に『どうだ。思い知ったか!』とでも言わんばかりのどや顔で首をもたげた小さな存在に気が付いたのだが、そのことを男の子には告げなかった。
「逃げられちゃったみたいね」
きょろきょろと周囲を探し回る男の子に母親が言った。
「あ~、せっかくつかまえたのに!」
男の子は小さく口を尖らせていた。それは母親譲りの表情だった。
それを見た母親は、どこか可笑しそうに口元を緩めた。
こういう所は、小さくとも男の子だと思う。既に長じた本家の他の甥っ子たちと比べてもこの男の子はとにかくやんちゃな性質だった。一つ所にじっとしていることがなくて、気が付くといつも外で遊び回っている。母親が術師を生業にしているので、敷地内に増設された薬草園は、小さな男の子にはちょっとした秘密の隠れ家のようで、よく手入れをする母親の後を付いて回っていた。
不意に男の子は、顔を上げると再び庭の中を走って行った。また、気になる【何か】を見つけたのだろう。
「リューシャ! そっちへ行ってもいいけど、気を付けてね。棘のある木もあるんだから!」
「わかってるー!」
母親の声に男の子はやけに元気のいい声を張り上げたのだが、それを聞いた母親の顔には微苦笑が浮かんでいる。
「もう」
あれはきっと空返事だ。
母親は傍に居た二頭の白い犬を呼んだ。
「カッパ、ラムダ。お願いね」
『任せておけ』
『ああ、とんだやんちゃは今更だ』
二頭は慣れた様子で軽やかに体を翻すと男の子の後を追いかけて行った。
今、男の子の世界は、全てが興味深く、きらきらと輝いているのだろう。果敢に冒険者の如くあくなき挑戦を毎日続けている。元気の塊のように男の子はよく遊び、よく食べ、そして、よく寝た。この分だと今日もぐっすりに違いない。そんなことを思って、母親はほんの少しだけ困った笑みを浮かべた。最近は父親が帰って来るのを待てずにいつも夢の中なのだ。ただいまの挨拶が出来ないことに父親は密かに拗ねていた。
だが、これも仕方がないことだ。いつまでもこのようなことが続く訳ではないし、朝はちゃんと送り出すことが出来るのだから。
今度、アルセナールの第三師団へ頼まれていた薬草類を届けに行く時に息子を連れて行こうか。序でに夫の執務室がある第七の方に顔を出してみるのもいいかもしれない。突然、現れた幼き珍客に夫は吃驚するだろうか。でも直ぐに相好を崩すかもしれない。ああ、でも、それはそれで他の第七の同僚たちに気味悪がられそうだ。それから事前にシーリスやゲオルグには承諾を貰っていた方が良いだろう。そんなことを思って母親は小さく笑った。
母親の血を色濃く引き継いだのか、男の子は獣たちの言葉を理解していたのでセレブロやティーダと遊んでもらうことも出来るだろう。ブコバルに遊んでもらうのもいいかもしれない。男の子は意外にも父親の幼馴染である男が大好きなようで、ブコバルが屋敷に顔を出すといつも嬉々としてはしゃいでいた。
父親と同じくシビリークスの血を引き継いではいるが、男の子は随分と父親とは性格が違うようだった。父親の幼い頃と比べてそんな話を聞く度に母親は自分の子供の頃を思い出した。そして、もしかしなくとも自分に似ているのかもしれないと思った。
外見もそうだ。母親と同じ癖の無い黒髪。瑠璃色の瞳は父と同じだが、顔立ちはどちらかというと母親の方に似ているだろう。シビリークス特有の切れ長の目はしていない。青い円らな瞳とさらさらとした黒髪は、まるで人形のようでこの国では少し珍しい組み合わせなので、子供を抱えて街中を歩くとよく声を掛けられた。
大きくなったら何になりたいと言うのだろうか。父親のように兵士になりたいと言うのか、それとも母親のように術師になりたいと言うのか。それとも全く異なる道を進むのか。それは分からないが、やりたいことをやらせてあげたいと母親は思っていた。
子供が出来たことで一年一年が、着実に成長や上昇と共に刻まれてゆくことになった。
遠くて近い、近くて遠い、そんな光溢れる未来を思い描きながら、母親は再び薬草園へと足を向けた。好奇心が旺盛で何でも一通りは体験してみないと気が済まない息子のことだ、今頃、棘のある木に指で触れて、『痛い』ということを確認しているだろう。
さて、腕白リューシェンカの様子を見がてら途中になっていた薬草の手入れを再開しようか。そう思った母親は、腰にぶら下がった手袋を片手に白い二頭の番犬の尻尾が見え隠れする辺りへと歩いて行ったのだった。
それは、とある未来のいつかの昼下がりの景色。
これにて本作「Messenger」 を「完結」にしたいと思います。
一年半以上という長きに渡り、お付き合いくださいまして本当にありがとうございました。
あれ? ブコバルは? ドーリンは? という皆さまには、どうぞ、ご心配なく。彼らのエピソードは別立てで考えていますので。詳しくは今後の活動報告に載せたいと思います。
作者である私自身、リョウやユルスナールたちとともにこの世界を大いに楽しんでまいりました。
いつかまた、どこかでお会いすることを願いつつ。それではみなさん、【ダ・スヴィダーニヤ(また逢う日まで)】!!!




