27)乾杯のアリア
ご無沙汰しております。大変長らくお待たせいたしました。番外編最終話は、エピローグで省いてしまった婚礼の宴の舞台裏。それでは、どうぞ。
紺色の詰襟の軍服に身を包んだ男が、一人、廊下を歩いていた。その腕にはここに来るまでに羽織っていたと思われる外套が無造作に掛かっている。外套の表は服の色と同じ地味な紺色だったが、その裏地は目の覚めるような鮮やかな真紅だった。カツカツと重々しく踏み鳴らされる長靴の底と共に最早体の一部のようになっている立派な長剣が一振り、その歩みに合わせて男の腰元で小さく揺れる。それに続いて男の腕に下がる紺色の光沢ある生地からは、パチパチと爆ぜる焚火の炎のようにチラチラと紅が覗いた。
男は、優に初老の域に入るかと思われる年齢だった。色艶の良い細面の顔には、人生における辛苦を知り尽くした味わい深い刻印が幾重にも施され、緩く波打った明るい茶色の髪には所々白いものが混じり始めていた。
男は背筋を真っ直ぐに伸ばしながらもゆったりとした足取りで廊下を歩いていた。
昼下がり、男が静かに歩みを進める館内は、独特の高揚感に似た空気に包まれていた。耳を澄ませば、いつもの二倍は速い足さばきで広い邸内を忙しなく行き来する使用人たちの靴音が聞こえてくるだろう。
そして、どこか浮ついた明るいざわめきも。待ち切れなかったのか、早めに到着した招待客たちの話声が、高い壁や天井に鈍く反響を繰り返し漂っていた。火を掛けた鍋の中の水が沸き立ち始めて、側面からぷくぷくと小さな気泡を発生させるような、そんな静かだが、着実に進行してゆく内なる興奮に似た空気が、この広い邸内に内側から薄い膜を張るように覆い被さっていた。
天もこの日を祝福している。外は快晴で雲ひとつない。眩しいくらいの穏やかな晩春の日差しが降り注いでいた。男が歩いていたのは、南側の庭に面した長い廊下で、等間隔に大きく切りとられた窓からは、その天からの恵みがおこぼれのように点々と足元の【ムラーモル】の床に影のように舞い降りていた。
勝手知ったる邸内を迷いのない足取りで進んでいた初老の男は、ふと庭先へと視線を投げた。この廊下をもう少し真っ直ぐ行けば、今回、招待客たちの控えの間となっている一室に当たる。その広間がある辺りからは、一足先に到着した客人たちの色とりどりのドレスの裾や降り注ぐ日差しに鈍く反射する正装の袖が木漏れ日のように垣間見えた。所々、換気の為に開け放たれた硝子窓からは、女たち、男たちの高低が入り混じった囁きが煙のようにたなびいて開放的な空間に残像のように漂っていた。
「これはこれは、イェレヴァン殿」
控えの間に顔を出して直ぐ、手にしていた外套を係の使用人に渡した所で、初老の男を呼び止める声がした。
「お早いお着きですな」
初老の男が振り向けば、そこには同じような濃紺の軍服を身に着けた体格の良い男が人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。袖の折り返しと寛いでいるのか軽く開けられた詰襟の襟元、その裏地に見え隠れする鮮やかな朱鷺色が、同じものを着ているというのに目の前の男を若々しく見せ、且つ華やいだ印象を与えていた。対する初老の男の場合は、同じ差し色の真紅が落ち着いた威厳と風格を醸し出させているのだから面白いものだった。
「ああ、オリベルトか。お前も人のことは言えんな。随分な気合の入りようじゃないか」
がっちりとした身体つきの壮年の域に入る男は、柔らかそうな焦げ茶色の髪を緩く撫で付け、色艶の良い立派な髭の合間から覗く口元を薄らと緩めた。
「それは勿論。我らが【ムーザ】の晴れ舞台ですからね」
鬱蒼とした髭の合間から紡がれた言葉は、既に一杯引っ掛けているのか、ほろ酔い加減のようにやたらと滑りよく聞こえた。いや、この男の場合は酒ではなく己の興奮に酔っているのだろう。
壮年の男は、手にしていた清涼感溢れる香りの付いた発泡酒の入ったグラスを掲げると意味あり気に片目を瞑って見せた。骨張った男の手の中にある繊細な小さなグラスが儚く揺れると爽やかな香りが男の鼻先を擽った。
「ご覧になられましたか? 芳しき至宝を」
意味深な言葉に初老の男は、どこか懐疑的な色をその青灰色の瞳に乗せた。男の形の良い眉毛が片方訝しげに上がる。
男が口にした【至宝】とは恐らく、【花嫁】のことを指しているのだろう。婚礼の宴の主役である。通常、花嫁というものは、全ての招待客が集まり、宴が始まる直前の場が整った最後の最後で漸くお披露目されるものだ。今時分は身支度の真っ最中で、こんなまだ日が高いうちからその輝かしい顔を身内以外の、しかも男が拝ませてもらえる訳がなかった。
でも一応、話の接ぎ穂として訊いてみる。
「なんだ。まさか、もう見たのか?」
「いえ。残念ながら。こっそりと手前までは行ったのですがね。見つかって追い返されてしまいましたので」
小さく忍び笑いをして、そんなことを悪びれもせずに飄々と嘯いた。
何をやっているんだか。少年のような好奇心と野次馬根性丸出しで、大の男が仕度中の淑女の部屋を覗こうとしたとは!
礼儀作法に関してはやや煩い所のある初老の男は、厳しい顔付きの中に多大なる呆れを憚らずに乗せて、自分より一回りは若い朋輩を見た。
この朋輩が、枕詞は忘れたが某【芸術愛好会】なるものを立ち上げて趣味を同じくする同志たちとなにやら類稀なる情熱をとある分野に傾けているということは知っていたが、今回、この宴の主役である若い娘と知り合いになってからは、その熱が一気に高まったように思う。その情熱の注ぎ方は、少し言葉は乱暴だが、まるで娼館の若い女に入れ上げるかの如くに見えたのは決して気の所為ではないのだろう。
「ひょっとして、お前も一枚噛んだのか?」
いや、無理やり口を出したのかもしれない。初老の男は、未だ口元をだらしなく下げている壮年の男をどこか非難がましい目付きで流し見た。
この屋敷の馴染みの仕立屋というのが、この壮年の男が常日頃から親しくしている男であったからだ。この男のことだ。一生に一度という華やかな晴れ舞台に【助力を申し出る】などと殊勝なことを口にして、その衣装の刺繍やら意匠やら色使いやらに嬉々として己が希望(いや、この場合は願望か)をそれとなく捻じ込んでいそうだ。
年配の同僚のその指摘に壮年の男は、どこか恍惚に似た笑みを浮かべた。
その瞬間、初老の男は内心舌打ちをした。嬉々として輝き始めた薄茶色の瞳に男は自分よりも年若い朋輩からその話し相手に指名されてしまったことを感じ取ったからだ。
案の定、『よくぞ聞いてくれました』とばかりに朋輩は硬く剣だこのある大きな掌を初老の男の背中にそっと当てると(逃がさないという意思表示の表れである)、盆の上にグラスを並べて招待客たちに飲み物を配り歩いていた給士の男を呼び止め、慇懃な所作で差し出されたグラスを手にするように男を促した。そして、偶々部屋の隅に空いていた長椅子の方へ相手を誘導し、二人の男たちはそこに腰を下ろした。
部屋の中にいた若い軍人たちは、広間を横切るようにしてやってきた遥か高位の上役二人に丁寧な所作で目礼をし、それまできっとこの壮年の男の趣味の話に付き合っていたのだろう、どこか安堵に似た表情をしたかと思うと、自分たちの代わりに捕まってしまった上官に対して少し憐れむような空気をその眼差しに乗せて一瞥した後、第二次、第三次的余波を被りたくないとばかりに直ぐに視線を逸らした。
―――――やれやれ。仕方あるまい。
初老の男は内心溜息を吐いた。今日びの浮かれ具合は、この男にも多分にも感染しているのだろう。しかも、花嫁衣装に己が好みを反映させることに成功したのならば、尚更だ。軍人でありながら、伊達で洒落っ気のある男であったが、単なる趣味もここまで高じれば、最早玄人の域である。今日は滅多にない【ハレの日】であるから、こうして暫しこの男の話に付き合うのも我慢しようではないか。そんな寛大な心を見せながらも、一方で早くこの男と趣味を同じくする同志たち(図らずもそれは男の友人であったりもする)がこの場にやって来ることを願いながら、促されるままに長椅子に腰を掛けたのだった。
控えの間の片隅で、この国の軍部でも高位である将軍の制服を身にまとい立派な髭を生やした男が二人、今日の主役である花嫁について少し深い所から様々な洞察を試みている間、室内には続々と招待客たちが集まり始めていた。
その顔触れは総じて若かった。同じ軍部の隊服を隙なく着込んだ屈強な身体つきの男たちが多い。
宴の主催者であるこの家は、この国の中でも古い家柄の貴族で、所謂【由緒正しき名家】の一つにその名を連ねている一族だった。なので、自ずとこの家と普段から付き合いのある貴族たちが、招待客の一覧に数多く名前が挙げられていた。
そういった貴族たちと軍人の他に、少し変わった所では、染み一つない真っ白な丈の長い上下に目の覚めるような鮮やかな色の帯をゆったりと締めた神官たちの姿が散見された。帯の色は新米の赤から高位の紫まで多様だ。そして、様々な階級の男たちの品のある落ち着いた服装の中に同伴されるご婦人方の華やかなドレスの色が文字通り花を添えるように混じっていたのだが、女性客には、別にもう一室、控えの間が用意されていたため、ここに姿を見せているのは夫に伴われたどこぞの奥方という感じであった。皆、知り合いを見つけては和やかに挨拶を交わし、今回の祝宴の主役たちを噂した。
そして、少し目を転じれば、緊張気味に硬い表情を口の端に覗かせた年若い少年たちの一団が廊下を少し出た庭先に近い所で見られるだろう。いつも無造作に手櫛で形を整えていただけの髪をきっちりと丁寧に梳いてすっきりとさせている。そして身に着けている服も所謂【一張羅】の類だった。彼らは術師養成所の学生たちで、同じ養成所の講師たちの姿を見つけると緊張を紛らわす為にかこれ幸いと挨拶に向かった。
南に面した広大な敷地の庭先には、透かし紋様の入った白い大きなテーブルが青々とした芝生の上に整然と並んでいた。お揃いの白い布張りの椅子も行儀よく収まっている。テーブルの上には、これまた染み一つない真っ白なテーブルクロスが掛けられていた。この日の為に用意された新品なのだろう。下ろしたての糊の匂いがほんのりと香った。
同じ制服に身を包んだ使用人たちは、てきぱきとした迷いのない手付きでその白いカンバスの上にカトラリーを並べて行った。優美な白に青い花模様の入った陶器の花瓶に綺麗に活けられた花が、点々とテーブルの中ほどに鎮座する。
また、少し離れた別のテーブルの上には数えきれない程のグラスが並び、その脇には酒の入った優に一抱え以上もある大きな樽が三つも置かれていた。邸内の北西にある厨房の方からも、空きっぱらを刺激するいい匂いが風に乗って漂ってきていた。この日の為に早朝から料理人たちが腕を振るった御馳走の数々が、準備万端とばかりに給士の出番を待っていた。
広々とした新緑の絨毯の上に並ぶ清潔感ある真っ白な食卓。そして、その中をきびきびと動き回るお揃いの黒い服に身を包んだ使用人たち。白い前掛けのリボンも忙しなさに揺れている。それらの様子を邸内にいる客人たちがのんびりと眺めながら、待つ間のおしのぎとして出された小さなグラスと軽いつまみを手に思い思いの話に興じていた。
それでは、再び、控室の方を見てみることにしよう。
徐々に込みあってきた室内、その大半を占めるのが光沢ある灰色の上下に身を包み、腰から下に長剣を佩いた軍人の姿だった。それは花婿の職種とこの家の立場に大きく関係している。正装に準ずるので剣を吊るすベルトも普段よりずっと煌びやかなものになっていた。このような儀礼的な場合は、典礼用の長剣を吊るすかと思われるやもしれないが、ここスタルゴラドでは軍人たちにとって長剣は飾りではなく著しく実用的な物で体の一部と化している程であるので、こういう場合でも普段から身に着けている長剣をその腰にぶら下げていた。なので各人に合わせて鍛えられた其々の得物は、使い手によって形も大きさも様々で、どこか殺伐とした荒々しさを潜めていた。
集まった軍人たちが着る詰襟は一様に同じ形だが、その襟元にある徽章の色と形を見れば、各人が所属する部隊とその肩書が分かることだろう。目立つ所では第七師団の青、第五の緑、第一の水色、第二の紫、第三の赤、そして第四の黄色といった辺りであろうか。
その中に同じような軍服に身を固めた女性兵士の姿があった。高く上に一つで結われた癖の無い金色の髪に女性らしい丸みを内包しながらも威風堂々たる立ち姿であった。襟の徽章を見れば、その者が第二師団長という肩書を保持していることが分かる。その女兵士の直ぐそばには、ふわふわとした薄い水色の綿菓子のようなドレスを着た幼い少女が立っていた。そのか細い腕の中には、上体の殆どを占めるくらいの灰色の艶やかな毛並みを持つ獣が抱えられていた。少し離れた所には、この少女に付けられていると思われる侍女が三名控えていた。
女性兵士は、その場に膝を着くと微動だにしない幼い少女を諭すように声を掛けた。
「エクラータ様、さ、あちらへ参りましょう。いつまでもこのような端近ではいけません。あちらでお座りになって待ちましょう。お飲み物をお持ち致しますから」
するとおめかしをした少女の口からは、女性兵士の言葉とは些か噛み合わない答えが返ってきた。
「ねぇ、スヴェータ。あたし、お嫁さんにお花を渡したいの! できるのよね? 絶対に渡すって決めたんだから! リーザに用意してもらったのよ。リボンも付けたの。あたしとお揃いの空色のリボン。夜の精のおにいちゃん……じゃなかった、おねぇちゃん……まだなのかしら」
ここにやって来るなり繰り返される同じ台詞に付き従っていた第二師団長は、こめかみを揉むように指を額際に当てた。そして崩れそうになる表情をなんとか取り繕う。
少女は、ずっとこの調子で興奮気味にその大きな空色の瞳を零れんばかりに見開いて輝かせているのだ。その都度、腕に力が入るのか今の所大人しく収まっている灰色の獣が苦しそうに眉間に皺を寄せる。あちこち動き回らないだけましだが、このままではいつ『花嫁を探してくる!』と探検を始め出すか分かったものではなかった。
「はい。ちゃんと承知しておりますよ。その為にここまで来たんですからね。よろしいですか、エクラータ様、今回はとても非公式なことなのですから、大人しくなさっていてください。余り目立つようですと折角お忍びでやってきた甲斐がありませんからね。驚かせたいのでしょう? 花嫁を」
「そうなの!!!」
まるで重大な任務を思い出したかのように少女は胸元で小さな手に握り拳を作った。
『…ぐぅ……』
その途端、腕に余計な力が入ったのか、抱かれている獣が呻き声を上げた。
この国の第二皇子の息女であられる王族の、ましてや幼い子供がこうして少ない供周りで外出をするだけでも一大事であるのに。その仕事柄からお目付役を仰せつかった第二師団長は密かに溜息を吐いた。
【夜の精】のおにいちゃんの結婚式に行きたい。お祝いのお花を渡したい。この国の貴族の中でも婿候補としては有力株であった軍人が、この度とうとう嫁を迎えるという噂は、後宮に勤める若い侍女たちの間でも持ちきりだったのだが、そこでの話を聞きかじったのだろう、そのお相手がまるでお伽噺の【夜の精】の如き色を持つということで、日頃から夢の世界を自由自在に行き来する少女が飛び付いたのだ。それが全く知らない相手であったならば、色々と理由を付けて参加など出来る訳がないと言えたのだろうが、今回は色々と重なった偶然から少女がその花嫁と顔見知りであったので、それを知った少女は、絶対にお祝いに花束を渡しに行くのだと頑として譲らなかったのだ。第二師団長は、警護の面からも王族としてのあり方からもその提案に盛大に眉を顰めたのだが、日頃から娘を可愛がり甘い所のある父親は、今回の祝宴の会場が軍部の将軍の屋敷であり、招待客の殆どが軍人で、その主とも親交があったことから、例外中の例外として束の間の外出を許可したのだった。
それもどうかと思うのだが。しがない宮仕えの身である第二師団長としては上役の意向に逆らえる訳がなく、こうして守り役としての荷の重い役目を仰せつかったのである。
そうして早速、奔放で無邪気な幼女を相手に格闘している所だった。
「おや、こんな所に可愛らしい花の精が迷い込んでいるかと思えば、これは、エクラータ様ではございませんか」
そこに物腰の柔らかい美丈夫が目を細めながら膝を着いた。
「シーマ!」
赤みがかった金色の柔らかい髪を結い上げて服とお揃いの大きな水色のリボンを付けた小さな頭部が喜びに弾んだ。
少女は鼻息荒く同じくらいの高さになった男の顔を見た。
「お嫁さん、見た?」、
「いいえ、残念ながらまだですよ」
対する男は、声を潜めつつ秘密を打ち明けるかのように微笑んだ。
少女の元に跪いたのは、近衛の精鋭を束ねる第一師団長を拝命する男だった。部隊は異なるが同じ近衛に属する男には、いや、この場合、ここに集まる軍人たちには、このお転婆姫がお忍びで祝宴に参加することは事前に知らされていた。この男と共にいた第一師団の顔馴染みの兵士は、傍らの第二師団長を目に留めると『まぁ、頑張れ。子守り、お疲れさん』との意味合いを込めて励ますようにその女性にしては逞しい肩を軽く叩いていた。
第一師団長は、この少女の扱いに慣れているのか(そもそも女性の扱いに慣れているのかもしれないが)実に鷹揚に相手をしていた。先程まで少女の内外に渦巻いていた興奮が、不思議なことに大分収まっていた。それを目の当たりにした第二師団長は、ほんの少しの苛立ちと安堵を滲ませたような息を吐き出した。
そうこうしている内に男の柔らかな声が続く。
「エクラータ様、あちらに美味しい飲み物がございますよ。少し喉を湿らせてはいかがでしょうか」
「うん。そうする」
何とも色良い返事ではないか。幼子といえどもやはり女であるのだろうか。
穏やかな微笑みを振りまきながら男は少女を軽々と腕の中に抱えると傍らにいたお目付役を一瞥してから部屋の奥へと足を進めたのだった。
『やれやれ。なんとも鼻息の荒いこと』
その隙に少女の腕の中から抜け出していた灰色の獣がぼやいた。
「まぁ、仕方あるまい」
女兵士は獣を一瞥するとこのまま恙無く任務が完了することを祈りながら、少女を抱えた同僚の背中を追って中に入ることにした。
このまま大人しく少女の傍に付き添うかと思われた獣は、徐に体を捻ると尻尾を振って反対側へと歩いてゆく。
「おい、ティティー、どこへ行く?」
だが、尋ねた女兵士に獣は答えることなくちらりと振り返ってから姿を消した。
ここにも気紛れが一頭。だが、この小さな獣に関しては、完全に自己完結しており、その行動は自由であったので捨て置くことにした。
招待客の喧騒から離れると灰色の獣は悠々と屋敷内を歩いていた。
『やれやれ』
元々人いきれは苦手な性質である。しかもここに集う者たちときたら随分な浮かれようで姦しいことこの上ない。話に夢中になっているので下手に近づこうものなら、うっかり踏まれかねない。ならば何故こんな所にまで付いてきたのかと揶揄されそうだが、それは、無論、親交のある着飾った花嫁の姿を一度くらいは見ておこうかと思った故である。
どれ、一足早く、花嫁御寮の顔でも拝んで来るか。そう思った灰色の獣は、馴染みある匂いがする方へと足取り軽く跳躍した。
微かに漏れる高貴なる神気を辿って、小さな灰色の獣は邸内を奥へ奥へと進んで行った。階段を軽やかに駆け上がり、優美で落ち着いた草花紋様が左右の壁や天井を象り、そして床に鈍く反射する廊下を跳ねるようにして歩く。その足取りは、どこか気取ったようにさえ見えた。この獣が普段寝起きする宮殿の一角と比べれば、この屋敷は、派手さはなかったが、それは質実剛健たるこの家の気風に似つかわしく、またその中に見え隠れする主の趣味の良さを窺わせる、言うなれば、ここに住まう人々の生活を彷彿とさせるものだった。もっと簡単に言ってしまえば、獣はこの屋敷の雰囲気を気に入ったのだ。静かで安らかな木立の下にいるように寛ぐことが出来た。
暫く行って、廊下のどん詰まりでは、扉が大きく左右に開かれていた。そこを黒い制服に白い前掛けを付けた女たちが出入りする。中からは小鳥のさえずりのような柔らかで少し高めの色合いの違う声が複数、さざめいて聞こえて来た。どうやらそこが仕度部屋のようだ。小さな獣は大柄で髭を生やしたどこぞの将軍殿とは違い、侍女たちに見咎められることなくすんなりと中に体を滑り込ませた。
一歩足を踏み入れて、そこにある光景に小さな灰色の獣は足を止めると眩しそうに目を細めた。光溢れる室内、大きな鏡台の前に腰かけて白を基調とした贅を尽くした衣装の中に今日の主役が佇んでいた。頭に乗せられた大きな髪飾りが重いのか、その顔は面映ゆそうに垂れ、紅を差した唇がはにかむように薄く弧を描いている。
物語の挿絵から抜け出して来たような厳かで美しい姿だった。
暫し、呆けたように見惚れて、『ほう』と気の抜けた息を漏らしていた。
レースと刺繍をふんだんにあしらった薄布が幾重にも重なり、花嫁の身を包んでいる。白いヴェールの中に覗く色艶の良い横顔からは、その者が薄らと身に纏う高貴な獣の気の如く、どこか神々しく神秘的な匂いが立ち上っていた。
「ティーダ?」
小さな客人に気が付いた花嫁は、入り口付近で立ち止まったまま微動だにしない獣に微笑みかけた。そこで獣は弾かれたように顔を上げ、そっと例の気取ったような足取りで、花嫁の傍に歩み寄った。
『これはなんとまぁ。見違えたぞ、リョウ。よく似合っておる』
「ありがとう、ティーダ」
掛けられた言葉に花嫁は嬉しそうに目を細めた。
そこで灰色の獣は唐突に己が不手際に気付き、愕然とした顔をした。
何たること! 花嫁御寮を前にして手ぶらでやってきたとは! 祝いの言葉と共に花の一輪だけでも銜えてくれば良かった。雄の風上にも置けぬ大失態である。
獣は咄嗟に周囲をきょろきょろと見渡して、窓と窓の間に置かれた小さな台の上に色とりどりの花が沢山活けられた花瓶を見た。獣は軽い風のような身のこなしで小さな台の上に登ると花束の中から青い可憐な花弁を付けた一輪を銜えて引き抜いた。そして、己が間の悪さを誤魔化すように小さく尤もらしい咳払いなんぞを一つしてから、花嫁の足元に近づき、慇懃な所作で頭を垂れた。
『リョウ、こたびはまことにめでたきこと。心よりお祝い申し上げ候』
その一部始終を黙って眺めていた花嫁は、小さくくすりと笑い声を漏らすと椅子に座ったまま上体を折って、獣と同じようにどこか勿体ぶった古めかしい言葉使いで返礼をした。
「これはとてもご丁寧に。身に余る勿体なきお言葉を賜り恐悦至極にござりまする。ほんによくいらしてくださいました」
花嫁は獣が口に銜えた一輪を受け取ると細い指でその喉元を擽った。柔らかな毛並みを暫し堪能すれば、獣は気持ちが良さそうにごろごろと喉を震わせた。鋭い牙を隠し持つ猛獣とは思えぬほど型なしの姿である。
「ティーダ、一人で来たの?」
花嫁がそっと囁いた。
『いや、あちらこよりこなたへは…………』
と言い掛けて、もう相手の耳には入っているのかも知れないが、お忍びで訪問し花嫁を驚かせたいと息巻いていた稚き幼女の顔を思い出して、秘密にしておいてやろうかと思い言葉尻を濁した。
『まぁ、あれだ。その他の奴等に混じって来たわ』
「そう」
花嫁には相手が珍しく言い淀んだことが分かったが、それ以上は詮索しなかった。
「下は、もうお客さんたち、沢山いた?」
『ああ、皆、そわそわとしておったわ』
「ふふ。そう」
小さな笑みがいつもとは違うことに獣はからかいの声を上げた。
『何だ。顔が強張っておるぞ。そう硬くなることはない』
「だって、何だかとても緊張しちゃって」
そんな初々しい様子も獣には、微笑ましく、そして眩しく見えたのだ。
『あの男はどうした?』
「ルスラン? ああ。別の部屋で準備をしていると思う」
『ほう。どれ。では冷やかしがてらあの小倅の顔でも拝んで来るとするかの』
何やら愉快そうに目を細めると灰色の獣は次の標的に狙いを定めてくるりと背を向けた。
「リョウ、そろそろ時間よ」
「あ、はい」
ピンと立った長い尻尾を上機嫌に揺らしてから飛ぶようにして去って行った小さな珍客と入れ替わるようにして室内に入ってきたこの屋敷の主の奥方は、すっかり仕度の整った花嫁を前に立ち止まり、暫し感じ入ったようにその目尻に薄らと涙を浮かべていた。
「まぁ、リョウ。よく似合っているわ。とても綺麗よ」
胸元で両手を組み合わせた初老の奥方に続いて、
「ええ、本当に」
「夜の精みたいだわ」
中に現れた兄嫁たちも口々に賛辞を送った。
三人ともに華やかなドレスに身を包んでいた。花嫁の義理の母親となる奥方は、淡い紫色を基調としたすっきりとしたもので、長兄の兄嫁は、ベージュ色のゆったりとしたドレスに所々、大きな花が刺繍されたもの、そして次兄の兄嫁は、淡い灰色の光沢あるドレスに瞳の色を模した緑をあしらった品の良い優雅な衣装を身に付けていた。
「ありがとうございます」
花嫁は立ち上がると照れたように小さく微笑んでから静かに軽く膝を折った。迎えに来た三人の女たちと比べても花嫁は小柄でほっそりとしていたが、今日は不思議と一際大きく見えた。
着飾ったこの家の女たちに促されるようにして花嫁は奥方に手を引かれながら、次の間へと移動した。
静々と奥方に手を引かれるようにして入室した花嫁の姿に、中で待機していたこの家の男たちは息を飲んだ。何度見ても花嫁というものは、その存在そのものが文句なしに美しいものである。ただ、そこにあるだけで室内が明るさを増し、華やいだ空気が辺りを包む。幸せに満ちたはにかむような微笑みは見るものを和やかな気分に浸らせた。この家の男たちはそれぞれ、過ぎし日の記憶を引き出して目の前の光景にそれを重ねたのかも知れない。
いつもとは違う花嫁の美しさに呆けていた花婿は、一足早く己を取り戻した一番上の兄より肘で小突かれることで漸く我に返ると、慌てて表情を取り繕ってからゆっくりとした足取りで花嫁に歩み寄った。
「……リョウ…………………」
感嘆の息と共に愛する妻となる相手の名前を呼ぶ。それ以上は言葉にならないかのように。
「とても綺麗だ。よく似合っている」
漸くにして口にした言葉は、なにか気の利いたことを言おうと思っていたのに使い古された陳腐な文言ばかりで、例えようのない気持ちの高ぶりを上手く言い表す表現が見つからなかった。
花嫁は、少し擽ったそうに男をヴェールの中から上目遣いに見上げた。差し出された男の手に小さな白い手が乗る。それを互いにきゅっと握り締めて。
普段は強面と揶揄されがちな男の表情が、今にも溶けてしまいそうな位にだらしなくく崩れているのが花嫁には分かったが、それでも白い繊細なレース越しに見えた愛する花婿は、いつも以上に髪を丁寧に撫で付けて軍人特有の詰襟を颯爽と着こなしていて、普段の何倍も輪を掛けて男前に見えた。
花嫁と花婿の二人は、暫し、時の経つのを忘れたように見つめ合った。それを周囲にいた家族が微笑ましい気分で眺めていた。
そこへこの家の執事である男が慇懃な所作で主人の所に赴き、耳打ちをすることで予定の時間が来たことを告げた。
「さぁ、では行こうか」
そう言って花嫁の手を取ったのは、この家の主だった。黒い軍服に身を包んだ初老の貫禄ある美丈夫である。この男の三男坊である花婿は、やや面白くない顔をしたのだが、しきたりに口を挟むほど狭い了見という訳でもなく(と言っても周りにいた家族には末息子の心の内は筒抜けであったが)、大人しく父親に続いたのだった。
こうして今日の宴の主役たちは招待客が待つ会場へと向かった。
この日の為に呼ばれた楽師たちによる軽やかな楽曲が流れる中、少し傾きかけた日差しを背に、仄かに甘い酒の香る成熟した生温かい風が、庭先に淀んでいた。
「いつ見ても、どんな時でも、花嫁というものは素晴らしい。なんて美しいんだ。ルー坊には勿体ないばかりだ」
なんとはなしに招待客の一人、現南の将軍がもう何度目になるか分からない繰り言を再び口に出せば、
「これでファーガスのやつもやっと肩の荷が下りたことだろう」
その隣に座っていた品の良い顔立ちの男が合槌を打った。
「ますますジジイに拍車がかかる」
仲間内の中で辛うじて現役の肩書を引っ提げた男(現西の将軍)が毒づけば、
「俺たちはもう坂道を転げ落ちるだけか? あ?」
どこか不服そうに先の南の将軍である男が、顔立ちは異なるものも弟とよく似た雰囲気で片頬だけで笑った。
「よせよ。まだまだいけるだろう。若いもんには負けないさ」
「そうだ」
直ぐそばにいた同年代の男がグラスを掲げながら仲間たちの方を振り返った。
「そうですよ。まだまだ皆さまには第一線で頑張ってもらいませんと」
男たちの言い分をするりと肯定するようにそつなく挿入された声は、まだ若い男のものだった。若人からの励まし(いや、この場合は【慰め】か)は、それを口にするのが若者という時点で、妙に白けるものである。口を挟んだは良いが、どうもタイミングを間違ったようで、その微妙さをすぐさま感じ取った若者は、やっかみは御免だとばかりに驚くべき反射神経で身を翻すと熟成された芳香を放つ(敢えて言うが、決して【加齢臭】ではない)男たちの傍を離れたのだった。
年配の集まりに茶々を入れていた若者は、発酵熟成させた果実酒である【ズグリーシュカ】が並々と注がれたデカンタを持ちながら、ゆっくりとした足取りで招待客たちの間を練り歩いた。
最初は型通り全員がテーブルに着席して、この家の主より宴の開始を告げる挨拶が行われたのだが、その後、花婿が花嫁に客人たちを証人にして指輪を贈り、恒例の【ゴーリカ!】コール(主役二人のキスを促す掛け声のこと)で盛り上がりを見せた後は、もう無礼講に近い形のどんちゃん騒ぎになっていた。
テーブルには様々な料理が所狭しと並べられ、その間を給士が忙しそうに動き回る中、客たちはこぞって酒瓶を片手に主賓の元を訪ねたり、もしくはその場から立ち上がって大声で盃を掲げることで、花婿に祝杯を浴びせていた。それが初めからひっきりなしで、客たちが代わる代わる次から次へとやって来るので相手をする花婿は実に大変だ。幾ら酒が強いと言っても、同じようにいける口から祝いの言葉と共に盃を酒で満たされるのだ。そして、花婿はそれを一息に飲み干さなければならない。だが、それは、ここに集う妻帯者の誰しもが一度は通る、男としての通過儀礼でもあった。
今の所、花婿の顔はけろりとしていた。祝杯用の盃をいつもより小さいものに変えてあるということもあるのだろうが、晴れがましい舞台ということで、心地よい緊張感と幸福感が若者を包み、昂ぶった神経が酩酊感を遠退けているのかもしれない。
花婿の周囲は大勢の仲間たちが集っていた。その顔触れは、花婿の勤務先である第七師団の部下や同僚たちが多かったが、中には同じ軍部の他師団の男たちの姿もあった。少し珍しい所では、今、花嫁に話しかけている第三師団の連中だろうか。
男にしては艶やかな顔立ちにこの日ばかりは邪気のない柔らかな微笑みで花嫁に祝いの言葉を述べているのは第三師団の長だ。どうやら二人は気の置けない間柄のようで、第三師団長から差し出された盃を花嫁はにこやかに受け止めて、目の前で飲み干した。それだけで周囲の男たちからはやんやと野次が沸く。すかさず次を注ごうとした別の男に花嫁は苦笑いしながら『少しだけですよ』と指で合図をするのだが、それが聞き入れられることはないだろう。並々と注がれた小さな盃を前に花嫁は、微笑みを浮かべながらも少し困ったように首を傾げて隣に座る花婿に一言二言声を掛けた。だが、目の前に早く飲み干せと言わんばかりの期待に満ちた眼差しに意を決すると盃に口を付けたのだが、勢い余ってむせてしまい、気が付いた花婿がその手から小さな盃を奪うと案じるような声を掛けながらも、残りをいとも簡単に飲み干した。
「リョウ、余り無理をするな」
圧力を掛けた第三師団の男を一瞥しながら花婿が優しく微笑んだ。
「ほら、少し食べておけ。朝から殆ど口にしていないだろう? そんなんでこいつらに一々付き合っていたらぶっ倒れるぞ?」
「はい。そうですね」
素直に頷いてから花嫁は小さく含み笑いをしてから意味あり気に隣に目配せした。
「あとで困りますものね? でも、その時はルスランが介抱してくださるのでしょう?」
「ああ。勿論だ」
男らしい笑みにぶつかった。
新婚夫婦の憚らずに駄々漏れる桃色の空気に周りにいた男たちが妙なこそばゆさを感じている傍らで、花婿は、幸せのおこぼれをもらいに、そして、花婿を冷やかしに集まって来る悪友たちを適当にあしらっていた。独身者はやっかみ半分、既婚者は祝福にからかいを交えて、だが総じて温かい祝辞の数々が恵みの驟雨、穀雨のように二人に降り注いでいた。とぽとぽと緩やかにそして静かに発酵をするような生温い酩酊の空気が漂っていた。
白いヴェールに包まれた花嫁は神秘的で美しかった。この日ばかりは何と言うか身に纏う空気が違う。そこにあるだけで人々の視線を惹きつけて止まない。異国風の顔立ちに気さくで朗らかな性格だ。王都滞在中、術師ということで仕事の依頼で頻繁にアルセナールの第三師団に出入りしていたのだが、そこでも新しい信奉者たちを増やしていたのだとかいないとか。ある意味、活発で、普通の貴族の奥方たちのように家で大人しくしているという性質ではないので、夫としては、言葉は悪いが、余計なものを引っ掛けてこないかと気が気でなかった……というのはまた別の話だ。
花嫁はとある招待客の一団に視線を向けるとゆっくりと席を立った。花婿が心配そうに二・三言葉を掛けるが、それを鮮やかな笑み一つでかわす。そして見た目よりもずっとしっかりとした足取りでそこへ歩いて行った。立ち上がった花嫁に客たちから声が掛かる、それににこやかに応えながら、花嫁が向かった先には養成所の学生と講師たちがいる席だった。
五人の年若い友人たちは、一斉に立ち上がり、見違えるほど着飾った友人をどぎまぎしながら迎えた。心なしか緊張している友人たちに花嫁は他愛ない冗談を口にする。それから花嫁は腕を伸ばすとまだ年若い友人たち一人一人と抱擁を交わし、その頬に掠める程の口づけを落とすという熱烈な歓迎をして見せた。
その反応は五人共に個性的だった。慣れたように挨拶を返したおっとりとした少年に、どこかぎこちなく抱擁を返した精悍な顔立ちの少年。口を半開きにしたまま直立不動で目を丸くする少年に、一見落ち着いているように見えて視線をウロウロと彷徨わせている少年。そして、余り表情が変わらないながらも目の端を若干赤く染めた少年。
「おーい、リョウ、もう浮気か?」
一通り挨拶を終えるとほっそりとした背中に大きな野太い声が掛かった。
振り返れば、椅子にふんぞり返った図体の大きな兵士が、青灰色の瞳をからかうように細めていた。
「誰かさんとは違いますよ!」
花嫁はすかさず軽やかに声を張り上げた。
詰襟の襟元を寛がせていても、見慣れた無精髭が綺麗に剃られているハレの日仕様は、野性味溢れる男をいつも以上に色気ある紳士のように見せていた。まぁ、黙っていればという注釈が付くが。
「ひでぇなぁ」
不服そうに眉をひょいと上げながらも、いつもの遣り取りに片手を軽く振り上げた。それに周りにいた男たちが囃したてるように笑いささめいた。
一度席を立った花嫁は、今度は女性客に捕まっていた。一番上義理の長兄の奥方の妹であるズィンメル家の息女が華やかな顔をして笑っている。この日の為に着飾った若い娘は、花嫁の袖をそっと聞くと第四師団の黄色い襟章を付けた男たちの集団の方をそれとなく匂わせながら、あの中の一人と話が出来ないだろうかと目の端を薄らと染めて頼み込む始末。
「もうすぐダンスが始まるから、誘ったらどう?」
小腹が満たされた所で、宴会に付きものの舞踊が始まる。基本的に男女の組みで行われる踊りは、若い男女が互いを知り合うにはもってこいのものだ。
いつぞやの街中のカフェでの積極さを思い出しながら花嫁が口にすれば、若い娘は妙に恥じらうような仕草を見せた。
「そんな………わたしの方から誘うの?」
「駄目かしら?」
「だって………そんなことしたらはしたないって思われるかも………」
お目当ての男の方を見た後、そっと目を伏せた友人に花嫁は擽ったそうに笑い、そのほっそりとした腕に手を当てた。
「ふふふ。今日のアーダは恥ずかしがり屋さんね。分かったわ。後でそれとなく誘ってもらうように頼んでみるから。それからは………頑張りなさいね」
「ありがとう、リョウ」
花嫁は去り際、手にしていた小さな花束をそっと新しく出来た繋がりの妹分に手渡した。
ああ、そう言えば。控室にいた小さな麗しき客人には、皆が見守る中で対面を果たし、この日の為に用意していたのだという可憐な花束を貰った。そちらの方は、早々に凝固処理を施して記念に取っておこうと別室に移してある。なのでここで手渡したものは別に誂えたものだった。
それから花嫁は、方々からの祝辞に応えながらすっかりと熟れて甘ったるい芳香を発する客人たちの間を自分の席に戻って行った。その途中、例の第四師団の兵士の所に寄ると、後で『踊りでも』とそっと耳打ちをして置いた。
「私とですか?」
「はい。是非」
詰襟を颯爽と着こなした実直そうな青年は、思ってもみなかった誘いにあからさまに驚いた顔をして見せたのだが、相手はあちらにいるとあの恋する若い娘の方を指示せば、周りに居た若い同僚が俄かに色めき立って、あちらの若い艶やかな友人共々一緒に誘いを掛けようと言う話になった。
これなら約束が果たせそうだ。そう安堵の息を吐いた束の間、
「リョウ、こっちへ来い」
それから、いまだ様々な客人に囲まれている花婿の元に戻ろうとしたのだが、途中で、外見はそうでもないのだが、すっかり空気がくだを巻いているような【おじ様連中】に捕まってしまった。
「リョウ、ルーシャに飽きたら家に来い」
西の将軍が、品の良い眉の下、目を細めながら花嫁にもう何度となるかは分からない台詞を繰り返した。先の北の将軍である朋輩に息子が先を越されたのがどうも悔しくて仕方がないようで、顔を合わせる度にそうからかい混じりに(と言っても本音は半分以上で)言われるものだから、花嫁もいい加減挨拶のように笑って流していた。
「ふふふ。そうですね。でもイェレヴァンのおじさま、ブコバルは大丈夫ですよ」
あの息子殿は、この見るからに紳士的で礼儀に煩い父親からは考えられないようなざっくばらんでいい加減な所のある男であるが、芯の所では実に真面目で本当は少し不器用な所がある。のらりくらりとしているのも表面的なことで、その核は意外にもしっかりとした自己を確立しているのだ。少なくとも過去の亡霊とは決別したはずだ。その痛みを抱えながらもきっと前を向いて行くことだろう。普段から父親同様博愛主義者で女性関係は手広いとは言われているが、まぁ、本当に女好きであるには違いがないのだろうが、本気の相手には、とかく不器用になりそうだ。そんな予感が花嫁にはあった。
そのようなことを掻い摘んで話せば、
「リョウ、あいつのことを良く分かっているじゃないか!」
気持ちの高ぶりのままに将軍から両手を取られて、花嫁は一瞬、その迫力にたじろいだ。
「いいえ。わたくしだけでなく、第七の仲間たちもよく分かっていますよ。ですから、ブコバルにもきっといい人が現れるはずです」
―――――だって、おじさまから見てもご自慢の息子なのでしょう?
それにあの男のことだ。持ち前の運と押しの強さと手練手管で惚れた相手ぐらいちゃんと口説き落として見せるだろう。
だからそんなに心配することはない。同じような台詞をもう一度繰り返せば、花嫁の父である男の友人が援護するように友を諭した。
「そうだ。イェレヴァン。【ジジイ】が口を挟むと碌なことがない」
「なんだと! 俺を年寄り扱いする気か、ファーガス」
男は軽口を叩いた友人を睨みつけたのだが、差し出した盃に再び並々と注がれて、それを一息に煽った。
花嫁は義父の計らいにそっと微笑んでから、その隙に酔っ払いの愚痴から解放されたのだった。
漸く自席に戻ってきた花嫁を花婿はテーブルの前で立って迎えた。差し出された大きな手に小首を傾げながらも己が手を乗せれば、口の端をくいと上げて微笑むと同時に引き寄せられて、花嫁は開放的な気分のままに小さな笑いを漏らしていた。
そのまま花婿が歩き出した方角では、流しの楽師たちによる舞踊曲に合わせてダンスが始まっていた。大きく輪になって、手を取り合いながら様々な年齢の男女が楽しそうに踊り始めていた。奏でられているのは、人々の高揚感を煽るような少しテンポの速い曲だった。
「ルスラン、踊るの?」
見上げた花嫁に花婿が答える前に、
「リョウ、一緒に踊らないかい?」
別の方角から声が掛かる。花婿に手を引かれながらもその花嫁に声を掛けた大胆な猛者は、詰襟に第五師団所属の緑色の徽章を付けたどこか柔和な顔立ちをした若い男だった。
花嫁はにっこりと微笑むと、
「ああ、ウテナさん。あちらのお嬢様方がお相手して欲しいそうですよ。イリヤさんも」
第五師団の兵士たちを噂していた若い娘たちの方を示した。
「時間が開いたら後で」
丁寧にフォロー付きで断られたのだが、その第五師団の兵士は大して気落ちした様子もなく笑顔のまま肩を竦めると、手慣れた様子で華やかな一団の輪に入っていた。その隣にいつもの相棒の姿もある。
そして、その二人から少し離れた所では、自分たちよりも少し前に結婚をした友人夫婦、第五師団長とその新妻の姿があった。濃い茶色の髪を隙なく撫で付けた威厳ある美丈夫の傍に寄り添うように立つ、ふくよかで温かい空気を持つその新妻と目が合って、花嫁は小さく手を振った。いつも顰め面をしている男の表情は、今日はとても穏やかなものだった。あの二人もきっと踊りの輪に入るのだろう。
「ルスラン、踊るの?」
再びの花嫁に問い掛けに花婿は『何を言うんだ』というような顔をした。
「なんだ? 俺では不服か?」
王都に来てから、花婿の仕事の合間に義父や義兄たちと邸内で踊りの練習をしたのだ。仕事で忙しかったからとはいえ、夫となる自分が練習に付き合えないことを花婿は面白く思っていなかった。
口調の端に拗ねたような声音を感じ取った途端、花嫁はなんだかこの男がどうしようもないくらい可愛らしく、そして、愛しくなってしまった。また、そのようなどうしようもない些細なことに幸せを感じてしまった。
花嫁はそんな幸福の余韻に浸りながら、とびっきりの笑顔で愛する男を見上げた。
「まさか。練習の成果を見てくださいな」
―――――ね、先生?
そう言って、今度は花婿の手を引く形で踊りの輪に加わった。
新しく踊りの輪に加わった今回の主役たちにどこからともなく囃し声や拍手が沸き起こる。花嫁も花婿もそれに軽く一礼してから其々の手を取り合って、ステップを踏む一歩を出した。
軽やかな曲が流れ、その合間に恋人たち、友人たちの囁きが時として飲み込まれ、そして反発し合いながら、緩やかな不協和音を奏でて行った。色とりどりのドレスの裾が、傾きかけた日差しを浴びて優雅に翻る。鈍く光る男たちの長靴と長剣の飾りの反射。煮え立った湯気の如き、静かな高揚を隠したまろやかな時が、気だるげに楽しさの中に過ぎて行った。
青い芝生と白いテーブルの合間に沢山の虹色のささめきを残して。
【完】
台詞部分以外の地の文には名前を出さなかったので、肩書きだけで誰が誰だがお分かりになりましたでしょうか。もっと沢山兵士達との絡みを出したかったのですが力尽きました。
「乾杯の歌」というとあのオペラ「椿姫」でアルフレッド(だったかしら?)が歌う同名の有名なアリアが思い浮かびます。「リビアーモ(飲もう)、リビアーモ(飲もう)!」という……どんちゃん騒ぎにぴったりの歌ですね。
それではもう一つ最後のオマケがありますので、このままどうぞ。




