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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
番外編集
229/232

25)色鮮やかな日々

大変お待たせいたしました。前回同様スフミ村での出来事です。


(ツヴェット)が、沢山……咲く……咲いて…いまし……咲いています」

 何度もつかえながら慎重に正しい言葉を繋ごうとするたどたどしい声を遮る者は、ここにはいなかった。

 とある日の静かな昼下がり。

 色とりどりの草花を手にその芳しい花弁を嬉しそうに見下ろしながら口元を綻ばせたまだ若い娘に、一人静かにテーブルの上で分厚い書物のようなものの頁を繰っていた男は、その指を止めて顔を上げると相手の言い間違いを正した。

(ツヴェティ)が沢山咲いているのか?」

 細面の男の顔には加齢による深い皺が刻まれていた。

(ツヴェト)……ちがう……(ツヴェティ)

 じっと耳をそばだたせていたその娘は、再び口の中で耳にした単語を転がした。確かめるように何度も。

「そう、【(ツヴェティ)】だ」

「花が、沢山咲いています。とても綺麗でいい匂い」

 今度は文法を間違えることなく正確に復唱された言葉に書物の前に座っていた男は、目を細め静かに口元を緩めた。

「摘んできたのか」

つんできた(ナブラーラ)?」

「ああ、摘む。花をこう手で取ることを【摘む(ナブラーチィ)】というんだ」

 男が、自分で花を摘み取る動作をしながら娘に説明をすれば、新しく耳に入った言葉を体で覚えようとしているのだろう。小さな口が開いて、繰り返し復唱がなされた。

「つむ。摘む(ナブラーチィ)(ヤー)摘む(ナベェルゥー)あなた(ティ)摘む(ナベェリョーッシィ)(オン)摘む(ナベェリョーット)あなたたち(ヴィ)摘む(ナベェリョーチィイェ)私たち(ムゥィ)摘む(ナベェリョーム)彼ら(アニー)摘む(ナベェルゥッート)

「ああ、そうだ」

 この国の言葉は、一つの動詞が人称によって6つの形に変化する。まず基本の形を覚えた後で、それが誰の動作であるかを表わす語尾の変化を覚えなくてはならない。現在の動作の場合、変化形は6つだが、過去の場合は、主語が男であるか、女であるか、中性であるか、もしくは複数であるかによって、今度は4つに変化する。こうして主語と動詞の語尾が厳格に連動(リンク)するので、語順を自由に入れ替えたり、主語の部分を省略したりすることが出来るようになっていた。


「じゃぁ、ちょうどいいから、【色】のおさらいをしようか」

 ―――――ここにお座り。

 学者風の男はそう言って、花を手にした娘を同じテーブルに着くように促した。

 摘んできたばかりの草花を手にしていた娘は、一つ頷いてから男の対面に腰を下ろした。この家の中で定位置になっている場所である。

 男は、娘に花をテーブルの上に置くように言ってから、その内の一つ、白い色のものを差した。

「その花の色は何色だ?」

 小さく頷いた娘は、微笑みながら答えていった。

「【(ベェールゥィ)】、白い(ベェールゥィ)(ツヴェト)白い(ベェールゥイェ)(ツヴェティ)

 【白い】という形容詞も名詞の形に合わせて語尾が変化する。基本的な規則は大体掴めてきた時期だった。

「ああ、そうだ。じゃぁ、これは?」

 男の骨張った皺だらけの指が、今度は紫色の花を差した。

「むぅ………ヴ、フィ…【(フィオレェータヴィ)】」

「では、これは?」

 その隣の小さな青い花弁の前に男の長い指が向かう。

「【空色(ガルゥボォキィー)】」

 そこで男の眉がくいと上がった。

「空色? 空の色か? そっちの色かな?」

 その声に娘が目を瞬かせた。そして、間違いに気が付いたのか、直ぐに言い直した。

「ううん、違う。そんなに明るくない」

「ああ、そうだ。明るくないな」

 男はゆっくり噛んで含めるように言葉を継いでいた。言葉を覚えるには反復が必要だ。沢山聞いて、沢山口にする。単純なことだが、これが一番確実で手っ取り早いやり方である。

「暗い方はなんて言うんだった?」

「ええと………【青い(シィーニィ)】」

「そうだ。【青い】だ」

「では、こっちは?」

「【黄色(ジョォールティ)】」

「正解。では草の色はどうだろう?」

「草原?」

「ああ、草でも草原でもいい。この茎もそうだな。葉っぱの色だ」

「【葉っぱ(リースチィア)】は………【(ゼリョォーヌイェ)】」

「では、土の色は? 大地の色だ」

「【茶色(カリィーチィ―)】」

「それでは【ソンツェ(太陽)】は?」

「【ソンツェ(お日様)】? あは…あか…【(クラァスヌゥイェ)】」

 【エール】の音は、少し特殊で巻き舌になり、歯の裏に舌先を付けて発音するもう一つの【エル】と区別をする。娘はこの音がどうも苦手のようだ。

 どうも上手くいかないのか、何度か繰り返して辛うじて正解に近い音を口にすれば、男は少し興味深そうに笑った。

「【赤】? お前にはあれは赤く見えるのか?」

「違う? じゃぁ【橙色(アラーンジェヴィエ)】? それとも【黄色】?」

 色に対する概念も男と娘の認識は似ているようだが違う。そんな些細な違いさえ男には興味深いことだった。

「ふむ。まぁ、どちらでもいいか」

 男は尖った顎をつるりと撫でてから、取って付けたような笑みを一瞬浮かべ、今度は自分の髪を指示した。

「じゃぁ、私のこの髪色は?」

 顎の下辺りで切り揃えられていた男の髪は、多少、薄くなってはきたものの、まだ艶々としていた。

「【灰色(セェリィ)】……灰色(セェーリィエ)(ヴォーラシィ)

「そうだな」

 それから暫く、両者の間で【色】に関するおさらい(レッスン)が続いた。




「白、赤、黄、青、水色、緑、紫、橙、茶、黒……………それから、灰色、金色、銀色、薄紅色………」

 視界に入った全ての色に名前を付けるように、小さな呟きが風に紛れて行った。歌うような滑らかな声だった。

「日の出の色。日の入りの色。透明。大地の色、草花の色。空の色。雲の色。光の色」

 言葉を覚えたばかりの小さな子供が、新しい知識を誇らしげに母親に告げるかのように、単純な色に関する言葉や表現が紡がれる。

 辺り一面には、小さな色とりどりの草花が咲き乱れていた。朝露に濡れた草原は、しっとりとした瑞々しさを湛えながら、日に日に暖かさを増してゆく春の日差しに輝いていた。


 リューバの家に泊ったリョウとユルスナールの二人は、翌朝、朝食を終えてから散歩に出ていた。午後からはアクサーナとデニスの新居へとお邪魔する予定だ。それまで少し周囲を散策しようと思い立ったのだ。

 納屋を仮小屋にしているキッシャーに新しい飼い葉と水を与えて世話をしてから、リョウはユルスナールを促すようにしてリューバの家の裏手に回り、東側へと歩いて行った。

 スフミ村は、緩やかな起伏ある土地の上に築かれている。村の西のはずれにあるリューバの家は、ちょうど村の中でも一番高い場所にあり、ここからは村全体がよく見渡せた。


「どうした、急に?」

 ぐるりと周囲を見渡しながら、呪いでも唱えるように色の名前を挙げていったリョウをユルスナールは静かに見下ろした。

「ちょっと懐かしくなったんです」

 リョウは真っ直ぐに男を見上げると小首を傾げて微笑んだ。

 ガルーシャと一緒に過ごした日々のことを思い出していたのだ。野原に咲き乱れる花を見て、【色の名前】を沢山覚えた。あの時は、耳から入る全ての【音】が新しくて、聞き慣れないもので。訳が分からなかった【音の羅列】に何らかの意味を見い出せた時は、とても感動したものだ。

 目に触れる全てのものが【音】を持ち、それが【意味】を持つ。【音】と【意味】を繋ぎ合せて覚えるのは、中々に苦労した。母国語にない【音】も沢山あったので、それを正確に聞きとり、理解するのに時間が掛かった所為もある。

 朝から晩までガルーシャの口真似をし、セレブロの口真似をした。少しでもこの国の言葉のリズムと音を体の中に取り入れたかったから。

 あの頃は本当に必死だった。でも、こうして思い返してみれば、とても密度が濃くて刺激に溢れていたように思う。そう、他愛ないはずの毎日が、ちょっとした行き違いから喜劇のように新しく繰り返されるのだ。そして、意思の疎通がままならないことで生まれるほんの少しの悲劇のようなもの。だが、それすらも直ぐに滑稽な笑い話に変わる。

 ガルーシャ・マライという男は、少し変わっていた。と言っても、リョウがそう認識するには、もう少し時間が必要で、比較対象となる事例が沢山必要ではあったが、今では、それが理解できる程にはここの常識を得ていた。ガルーシャとの日常生活は、それが良い方向に働いたり、または逆に働いたり。でも総じて、喜劇的で笑い話になるような作用をしたような気がする。

 例えばこうだ。



「ガウーシャ」

 あの頃は、まだ舌を震わせながら音を出す【エール】の発音が出来なくて、自分を拾ってくれた恩人の名前すら満足に呼べなかった。

「洗った水、どこ、流す、大丈夫?」

 洗い物をした後の水をどこに捨てればいいのか。まだ文法はでたらめで単語を繋ぐようにして取り敢えずの言葉を紡ぐのに必死だった頃にそう尋ねた時、ガルーシャは徐に手を前に差し出してすっと広げて見せた。

 そして、一言。

そこらへん(ヴェズデェー)

「【ヴェズジェー(どこでも)】? 決まった場所、ない?」

「ああ? 特に気にしてないが?」

 呑気に首を傾けた男に困惑したのを良く覚えている。よくよく注意をしてみれば、ガルーシャは使った水を本当にその辺に撒いていた。木々に水をあげるかのように気前よく。ザッパーンと。

「汚れた水、草、大丈夫? 悪いもの入ってる、ちがう? せっけん、草、悪い、ちがう?」

 シャツや布巾などの洗濯に『これを使え』といって小さな緑色の塊のようなものを渡されたのだ。これは布の汚れを取る為の【ムィーラ(せっけん)】だと言って。

 リョウの中では、石鹸を使った後の汚水は、そのまま土に返してはいけない気がしてならなかった。野菜くずなどの生ごみはそのまま外の庭先に穴を掘って埋めていたが、石鹸も同じようにしても問題ないような成分から作られているのだろうか。

 だが、聞きたいことが上手い具合に相手に伝わっていなかった。

 そう思ったリョウは、質問を変えた。まだ文法が身についていなかったので、語尾変化は適当になってしまうが、仕方がない。

「せっけん、なにから作る?」

 数回、目を瞬かせたガルーシャは、つるりと顎を撫でた。それは思ってもみないことを聞かれて考え事する時のガルーシャの癖のようなものだった。

「石鹸は、主に特定の木の実から絞った脂分を固めて作っている。だから、それを使った水を大地に撒いても問題はないぞ。寧ろ、元の流れに戻るのと変わりないからな。害はない。肥やしだと思えばいい」

 聞きとりは大分できるようになった頃合いで、リョウはガルーシャの口から紡がれる長い説明文の中から鍵となる言葉(フレーズ)を取り出した。

「害は…ない?」

「ああ、そうだ」

「土、木、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ」

「獣たち、平気?」

「ああ。あいつらは間違っても舐めたりはしない。ま、口に入れても渋いだけだろうがな」

 何度も確認するように言葉を継いだリョウをガルーシャは『何をそんなに気にしているのだ?』と却って、可笑しそうに笑った。

「なんならセレブロにも聞いてごらん。きっと同じことを言うだろうから」

 そう言われたので、後日、小屋に遊びに来ていた(と言うよりも実際は、リョウの会話の練習に付き合ってくれていた)セレブロにそのことを尋ねれば、森の長はガルーシャの言葉を肯定したので、漸く、ここでの真実を飲み込む事が出来た。

 自然に寄り添った場所での暮らしは、そこでの恵みから成り立っている。ここでの生活は、自然と同じ理の中にあるということなのだろう。そう理解をしたのだ。



 そう言えば、石鹸で思い出したが、こんなこともあった。

 それは、リョウにとってはいつものんびりと自由気ままな暮らしをしているかに思えたガルーシャが、意外に行動力があるという一面を知った出来事でもあった。

 言葉が大分理解できるようになり、その法則性(文法)にも気を使うことが出来るようになった頃だっただろうか。一度、風呂に入る習慣はないのかと訊いたことがあった。勿論、その時は、まだ【風呂】という言葉を知らなかったので、体を洗いたい時は、どうしたらいいのか。たっぷりとした熱いお湯に浸かって体を温めることはしないのかというような疑問を、身ぶり手ぶりを交えながら、ガルーシャにぶつけてみた訳だ。

 ガルーシャは、小振りの桶に川から引いて来た水を入れて、そこに手拭を浸し、固く絞ってから体を拭いていた。行水というのとも違う。水は発熱を促す補助石を使って呪いのような文言を紡いでぬるま湯にしたりもしているようだったが、大体、水のままだったように思う。冷たくないのかと聞いたら、この方が、気持ちが良いと言っていたのだ。

 この頃には、家での手伝いは率先して行っており、煮炊きなどの日常生活には特殊加工された【石】を燃料代わりに使うことは理解していた。そして、そのやり方(主に基本的な石の扱い方や温度調節)を教えてもらって、リョウ自身も使えるようになっていた。獣の言葉を不自由なく理解するリョウを見て、ガルーシャは素養があると見込んだらしかったのだが、当然のことながら当時はそれすらも理解しておらず、便利なものがあると頻りに感心した覚えはある。

 この頃、体の汚れを取るのは、湯で絞った手拭で体を拭くのが精一杯だった。もう少し踏み込んでも、湯あみまではいかないが、湯を体に掛けるくらいだった。行水をするには桶が小さかったし、湯を被ると辺りを水浸しにしてしまうので、毎日という訳にはいかなかった。

 たっぷりとした温かい湯に浸かることはしないのか。ついこれまでの欲求が溜まってしまい、そんな質問をすれば、ガルーシャは意外な顔をしてリョウの方をまじまじと見た。その時もつるりと己が顎をしきりに摩っていた。

「リョウ、お前は裕福な家で生まれ育ったのだな。確かに、その手も足も肉刺(まめ)一つない白いものだ。まるで貴族と同じだな」

 その言葉に今度はリョウの方が知らない語句に(つまづ)き、首を傾げる羽目になった。

ゆうふくイズシミイェーイバガーティイ? きぞく(ドゥヴァリャニーン)?」

「ああ、金持ちということだ。使用人が沢山いて、肉体労働とは無縁の奴等だ」

 やはり、ここでは湯に浸かると言うことは、贅沢なことなのだ。水が沢山必要だし、湯を沸かす為の労力と燃料もいるから。それに使った湯を排水処理する場所も。

 リョウは、少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。

「ワタシの家は、お金持ちではなかったです。でも、水は沢山……ええと…豊富に…あったので、【ゆうふく(裕福)】でなくても、お湯を使うことが出来ました。多分、ええと、あまり気にすることなく」

「そうか」

 これまで少しずつ、自分がどのような生活をしていたのかをガルーシャに伝えてきたが、互いにどこまで理解をしているかは分からない。言葉がままならないというハンデもあったし、そうでなくとも、ここに無いと思われるものをどうやって説明したらいいのかよく分からなかったからだ。

 ガルーシャは、一頻り考える風に目を瞑って長い息を吐き出した。

「こちらではそういうことをしないんですか? ガルーシャもしたことがない?」

 体を洗ってから湯に浸かって、心身を解すというようなことはしないのだろうか。リョウにとっては切実なことだったので、つい体に力が入ってテーブルに齧りつくようにして身を乗り出していた。

 ガルーシャはその迫力に少し驚いたのか身を引いた。そして、片手を制するように目の前に上げた。

「いや、入浴の習慣はないことはない。風呂に入ることもままある。まぁこの辺りの田舎じゃぁ湯あみや行水が精々だろうがな」

「入浴? 風呂? お湯で体を洗うこと? 綺麗になる? 浸かる? ざぶん?」

「ああ、そうだ」

 リョウは、知りたくて仕方がなかった新しい言葉に物凄い勢いで食いついた。興奮気味に声がやや大きくなる。口の中でもごもごと発音練習をしながら、早速、それらの貴重な語句を頭の中に叩きこんだ。

「ガルーシャも入った?」

「そうさなぁ、昔、子供の頃には、入れられたが……………」

 そこで、不意にガルーシャは言葉を失くしたかと思うとその皺だらけの顔が嫌なものを思い出しているかのように歪んだ。口の端がいつになく下がっている。

 そのまま何とも言えない顔をして、ゆっくりとリョウの方を横目に見た。

「別に風呂に入らんでも死ぬことはない。問題なんてこれっぽちもない」

 やけに力強く言い切るではないか。そして、テーブルに頬杖を突いたまま、もう一度、リョウをちらりと横目に見た。

 暫くの沈黙の後、ガルーシャが億劫そうに口を開いた。

「風呂に入りたいのか?」

「お風呂?」

「そう、風呂だ」

 リョウは正直に言ってしまっていいものかと思ったが、言うだけならタダかと思って素直に頷いた。

「はい。できたらで良いんですけれど。もう少し大きな桶で、熱めのお湯に浸かれたら、気持ちが良いだろうなぁって思って」

 洗面所にある桶は洗濯用の物でとても小さいのだ。足を入れたらそれでお終いだ。

「でも、それはとても【ぜいたく】なことだとは理解していますから」

 だから別になくても大丈夫だと付け加えるのは忘れなかった。ただでさえガルーシャには衣食住全てを世話になっているのだ。成り行きとは言え、半ば強引に押しかけて居候させてもらっていることになっているので、これ以上の我儘は言いたくなかった。

「ふむ。そうか」

 ガルーシャは何やら考える風に腕を組みながら、言葉少なにそう言っただけだった。


 その後、この話はお終いになったのだが、ガルーシャは書斎に引っ込んで何やらさらさらと黄ばんだ紙に一筆書いて、スフミ村に伝令を飛ばしたらしかった。

 リョウは入浴の習慣があると知って嬉しくなり、今度はそれに関した言葉を覚えようと書斎から居間に戻ってきたガルーシャを捕まえて色々質問をしようと意気込んだ。

 こうしてその後の数日は、風呂関連の話題で(リョウは)楽しく過ごしたのだが、ガルーシャは何だかとても嫌そうだった。




 それから三日ばかり経った頃、スフミ村から大工の男が森の小屋にひょっこりやってきたのだ。スフミ村にはリョウもガルーシャに連れられて行ったことがあり、そこで知り合いの術師であるリューバを紹介されたばかりだった。

 その時に顔見知りになったスメタナという大工の男だった。もじゃもじゃの長い髭が顔一面を覆う見るからに豪快そうな男だ。肩になめした革の袋を担ぎ、その腰には大工の命である小振りの斧がぶら下がっていた。

 どうやらガルーシャは、このスメタナを伝令で呼んだらしかった。どこか修理でも頼むのだろうか。挨拶をして首を傾げたリョウを余所に、スメタナとガルーシャは早速仕事の話をしている。ガルーシャの穏やかな声とやたらと大きくて野太い大工の声が、木組の小屋の中に反響していた。

 後で聞いたことだが、森の小屋を作ったのは、このスメタナを中心とするスフミ村の大工たちなのだそうだ。

 ガルーシャは、スメタナに色々と指示を出す合間にリョウを呼んだ。そして、リョウの方を差しながら、どこか大げさな身ぶり手ぶりでああじゃないこうじゃないと議論をし始めた。幾ら言葉が分かるようになったとはいえ、二人の会話はえらく早口で、特に大工は癖のあるだみ声だったので、リョウは半分ほども理解が出来なかった。


 リョウが二人の会話を耳にしながら目を白黒させている内に、大工のスメタナは頷いて外に出て行った。

 やがて、スメタナは大きな木を斧で切り出し、それを器用に小さな板の形になるように斧で削って行った。小振りの斧を器用に使い、幾つもの板を削り出してゆく。スフミ村の大工は、全ての作業を斧一本で行うのだそうだ。

 暫くするとスメタナの大きな四角い体の周囲には沢山の板が積み上げられていた。板の形は、不揃いのようでリョウが思い浮かべるような四角く平らなものではなく、とても不思議な形をしていた。

 何を作っているのだろうか。皆目見当が付かず、そんなことを思いながら休みなく続く作業をぼんやりと眺めていれば、今度は、大工がその板を組み立て始めた。

 見る見るうちにそれが六角形の大きな入れ物のような形になっていた。木と木を合わせるのに釘などは一本も使っていない。故郷の宮大工のように嵌めこみ型の工法だった。大きな毛むくじゃらの手が、器用にトントンと斧の柄の部分を使って絶妙な力加減で板同士を打ち込むことで小振りの板を繋いで行った。高さは膝ほどもあるだろうか。不思議な木組の下の方には、なにやら樋のような筒が伸びていた。

 リョウは仕事の邪魔をしては悪いと思ったが、ムクムクと湧き上がる好奇心を抑えられずに大工の傍に寄った。

「スメタナおじさん、何を作っているんですか? 大きな桶?」

「んぁ? ああ、坊か」

 大工は、傍に来たリョウを認めると生粋の職人らしい苦み走った笑みを浮かべた。太い眉毛の下にある瞳は小さくとも生き生きと輝いている。

「へへ、まぁ見てなって。こいつぁ、できてからのお楽しみってぇやつだ。しっかし、おやっさんもいってぇどういう了見(りょうけん)かねぇ。珍しいこった。ま、こっちゃぁ、仕事があるのはありがてぇがな。毎度毎度太っ腹だし」

 村人に特徴的な少し癖のある発音でスメタナが豪快に笑う。出来上がるまで秘密だと言って、結局リョウは何を作っているのかを教えてはもらえなかった。


 興味津々でその場にしゃがみ込んだリョウを見て、スメタナは『そのまま動くなよ』と言って、リョウの体を手尺で計り、何がしかの確認をしたようだった。

「まぁ、こんなもんだろ」

 そして、全ての作業が終わったのか、満足そうに息を吐き出すと首に回した手拭で額の汗を拭った。

「おーい、おやっさん、見てくれや!」

 大きな大工の声にガルーシャが小屋から顔を出した。

 ガルーシャは、長い外套を引きずるようにして戸口から外に出て来ると、周囲に木端屑が散らかるスメタナの傍までやってきた。そして、そこに鎮座する複雑な木組のものを見て、ふむふむと頷いた。

「お、中々立派なものが出来たじゃないか」

「そうだろ?」

「排水部分もちゃんとあるな。栓も付いている」

「あったりめぇよ」

「さすがスメタナ、仕事が早い」

「ハハ、伊達にこれで飯を食ってねぇさ」

 スメタナは、誇らしげに力瘤のある太い腕を叩いて見せた。

「あとは、内側に防水処理をして、おやっさんがちょちょいと加工しちまえば、いっちょあがりだな」

「ふむ。では今からこさえるか。ちょっと待っててくれよ」

「ああ」

 ガルーシャが再び小屋の中に引っ込んだかと思うと、【ガラン、バタン、ガラガラ、ズダーン】と何かを豪快にひっくり返すような吃驚するくらいの大きな音が聞こえて、リョウは何事かと慌てて小屋の中に入った。

「ガルーシャ?」

 凄い物音がしたので吃驚して中を覗きこめば、

「ん? どうかしたか、リョウ?」

 ガルーシャは何食わぬ顔をしてその手にすり鉢を持ってゴリゴリとやっていた。

 先程、とても大きな音がしたと思ったのだが。その発生源を探すべく、恐る恐る廊下の向こうを見ると、埃がもうもうと立ち込めていた。もしかしなくとも、あのガラクタが詰まった納戸のある方角だ。あの中をひっくり返したのだろうか。そう思って再度口を開こうとしたのだが、当のガルーシャは涼しげな顔をして、そちらには頓着していないようだった。

 思わず顔が引きつりそうになったリョウの目の前で、テーブルに座ったガルーシャは小さな石のようなものを砕き、そこに瓶に入った液体のようなものを注いで伸ばして行った。

 そして再び外からは、またトントン、カンカンと大工のスメタナが斧を振るう男が聞こえ始めた。

 一体、この二人の男たちは何をしているのだろうか。それにあの納戸の片づけは、きっと後で自分の仕事になるのだろう。ガルーシャのことだから、きっとそのまま放って置くに違いないのだから。 

 そんなことを思って若干憂鬱になりながら目を瞬かせていれば、いつにない大きな物音を聞きつけたのか、セレブロが森からやってきた。

『なにやら騒がしいな。何ごとだ?』

 窓際から鼻面を出してテーブルに座るガルーシャと開け放たれた扉の向こうで斧を振るう大工を順繰りに見ながらの問い掛けに、リョウは肩を竦めた。

「よく分かんない。多分………桶みたいなもの? うーん、でも違うみたいだし。なんだろうね。出来上がるまで待てだって」

『なんだ? 風呂でもこさえる気か? 大の風呂嫌いの癖に……』

 セレブロのその言葉にリョウは意表を突かれた気がした。

 ―――――まさか。

「お風呂!?」

 この間、自分が入りたいなんて言ってしまったからだろうか。

 リョウはたまげて大きな声を上げていた。作業をしているガルーシャは横目にその様子を確認して、その口元を僅かに緩めたのだが、当のリョウは気が付いていない。

 だが、セレブロはそれで何がしかの理解をしたようだった。

『なるほどな』

 かつての習慣からたっぷりとした熱い湯に心ゆくまで浸かりたい。そんな願望をつい口にしてしまったのが三日前のことだ。それがどれだけ贅沢なことであるか、ここでの生活の現状からリョウとしては十分理解をしている積りであった。

「ワタシが入りたい……なんて言ったから?」

 大変なことをしてしまった。愕然として蒼い顔をしたリョウを余所にセレブロは納得したように淡々としていた。

『ああ、そなたの為か。どうりで。ならば妥当かの』

「うわ、どうしよう。セレブロ。まさかガルーシャが本気にするなんて。しかもこんな直ぐに」

 動揺したリョウをセレブロはおかしなものを見るように流し見た。

『何をうろたえておるのだ。そなたが気に病むことではなかろう。これであの風呂嫌いが治れば万々歳ではないか』

「へ? ガルーシャってお風呂嫌いなの?」

 だからあんなにも嫌そうな顔をして風呂談義に付き合ってくれたのだろうか。

『ああ、あやつはずぼらな性質だ。顔だって放っておいたら何日洗わぬか』

「そうなの?」

 意外な台詞にリョウは吃驚してセレブロの顔を見た。

 自分が知っている限り、ガルーシャは毎朝、顔を洗っているし、体だって二日から三日に一度の割合で拭っている。下着だってこまめに取り換えている。

『ああ。そなたがやって来ぬ前は、酷い有り様だった。男の一人住まいなどおぞましきもの。目も当てられぬわな。あやつめ、独り身をいいことに趣味にのめり込むと全く身なりには頓着しない。いつぞやは余りにくそうて、鼻が曲がるかと思ったわ』

 やけに実感の籠った声にリョウは目を白黒させた。

 セレブロに言わせれば、今のガルーシャはとても身なりに気を使っているということなのだ。洗濯だってこまめにしているし。勿論、洗うのはリョウだが。それもきっとリョウという女の居候がいるからで。リョウが男だったら、そこは、もしかしたら以前のままだったに違いない。

『あやつもまだ男を捨てた訳ではないのだな。現金なものだ』

 どこかからかうようにセレブロは黙々と作業をしているガルーシャを見て鼻で笑った。

 そう言えば、初めてここに来てから暫く、洗濯をするからと言ってガルーシャの部屋に入った時、寝台のシーツなどはいつ洗ったのか分からないくらい黄ばんでいて、そして何とも言えない嫌な臭いがしていたっけ。『これは絶対に洗わなければならない!』とあの時は、妙に気合が入った気がする。その時にセレブロから細々とした生活に関わる言葉を教えてもらったのだ。【シーツ】とか【洗濯】とか【臭い】とか【男やもめ】とか。

 汚れていてほったらかしになっていたシーツやら服やらを一通り洗濯して、一頻りの達成感に拳を握り締めてから、暫くして、ガルーシャは書斎の椅子に座りながら首を傾げた。

「はて、なにやらさっぱりするな」

 そう言って己が書斎をぐるりと見渡した。

 リョウはその言葉に脱力したのを良く覚えている。

 シーツを変えたのは、三日前で、汚れた服を洗濯したのも二日前のことだ。ガルーシャは数日してからやっと、その変化に気が付いたらしかった。いやはやなんとも、妙な所で浮世離れしたガルーシャらしい口ぶりだった。

 リョウは何も言わずに口元に手を当てて、漏れそうになる笑いをかみ殺したのだった。


 結局、あの時、大工のスメタナが作っていたのは、セレブロの予想通り浴槽だった。リョウが入りたいと言った風呂を作ってくれたのだ。これには、本当に驚いて涙が出そうなくらいに喜んだ。

 スメタナは、洗面所の脇にその小振りの浴槽を置くと水回りの調整をガルーシャと共に行った。お風呂で使った湯は、汚れをろ過する簡易的な装置のようなものを通して小屋の外に溜め、それを洗濯などに有効活用する仕組みを作ったようだった。

 水を溜めるには【注水石】を使い、湯を沸かすには【発熱石】を利用した。細かい温度調整は湯の中に手を入れて行う。ガルーシャが加工をしたそれらの石は、とても使い勝手が良かった。

 一通り使い方の講釈を受けた後、リョウは喜び勇んで風呂の用意をした。そして、嬉しさと感謝を表わす為に小屋での初風呂はガルーシャに譲った。案の定、酷く嫌な顔をした男を半ば強引に引っ張り込んで、背中を流してやったのだ。あの時もセレブロと一緒に一騒動あったのだが、ここではユルスナールの手前、割愛することにする。


 今、こうして思い返してみても愉快な日々だった。共に大真面目だったからこそ、禁じえないおかしみがそこにはあった。そんなガルーシャとの暮らしぶりをリョウは思い付くままにユルスナールに語っていた。

 ユルスナールは、黙ってリョウの話を聞いていた。そして案の定、風呂の件では可笑しくて仕方がなかったのか、珍しく目の端を赤らめて笑いを堪えるように口元に手を宛がっていた。

 誰もいないのだから、思う存分笑えばいいのに。

 何に遠慮しているのかは分からないが、ユルスナールは大抵、声を押し殺すようにして笑う。豪快に声を上げて笑う長兄のロシニョールや幼馴染のブコバルとは対照的だ。でもリョウは、ユルスナールのそんな密やかな笑い方が好きだった。

「ルスラン、普通に笑えばいいのに」

 それでも相手をからかいたくて、躊躇いがちに喉の奥を小さく震わせている男をリョウは怪訝そうに見上げた。

「なんで我慢してるんですか?」

「ククク……ク……そう…だな」

 ユルスナールを見ていたら、何だか自分でも可笑しくなってしまって、気が付けばリョウもつられるように笑っていた。



別の言語のことを日本語で書いているという矛盾…と言いますか屈折。日本語の表現を当たり前のように使いながら、どうやってそれを異国っぽく見せるか。色々と悩んだら時間がかかりました。

ロシア語で【ツヴェト】という単語は二つ意味がありまして(同音異義語)通常単数で表す方だと【色】、複数で表す方だと【花】になるんです。

ガルーシャとの昔話にチャレンジしてみましたが、予想に反して余り可笑しくなかったですね。反省。そしていつもの如く長くなってしまったので、アクサーナとの邂逅は、このまま次に分けました。引き続きどうぞ。

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