24)女神の祝福
ご無沙汰しております。
麗らかな春の日差しが、このスタルゴラドの地に遍く降り注ぐ中。種まきを始める為に耕された湿り気を含んだ黒い大地が一面に広がっていた。遥か先、地平線には芽吹き始めた広葉樹の林と瑞々しく青さを増した針葉樹の林が交わるようにして連なり、その上には遠く霞んだ空が、たなびく雲の戯れにその色合いを刻々と変化させながら、ぼんやりとまどろんでいた。
長閑な景観だ。全ての生命が新しい命の喜びに産声を上げる春。再び繰り返される【円環】の始点。この時期の大気は、どこかのほほんと滲んだように輪郭が曖昧になる。溶けそうで溶けない。丸みを帯びた伸縮する透明な囲いの中を泳ぐような、焦点を敢えてずらした独特の空気感。それは、この大地を駆け抜ける風の匂いにも混じっていた。
芽吹き始めた柔らかな新緑の草原から黒々とした畝が縞模様を描く開墾地に切り替わろうとする境界付近、細く伸びた街道の切れ端のようなあるかなきかの道を一頭の馬が駆け抜けて行った。
馬の走りはゆったりとしたものだった。細い道筋に倣うように風を受けて真っ直ぐに伸びた尻尾は黒く長い。そして、軽快な馬蹄音を響かせて走るその体躯も黒々と艶を放っていた。
馬上には二人の人間が乗っていた。手綱を握るのは男のようだ。その背中にへばりつくようにしてもう一人、馬の尻尾と似たような黒い髪を風に遊ばせている者がいる。一見、男が背に大きな荷でも背負っているかに見えるが、近づいて見れば、それが一組の男女であることが分かるだろう。
やがて、二人を乗せた一頭の馬がひた走る街道の先に、小さな集落が見えてきた。緩やかな起伏のある土地と木々の合間に彩色に富んだ素朴な家々の屋根が点々と見える。その場所は、登記上、この国の最北端に位置する集落であるスフミ村だった。
久し振りに訪ねたスフミ村は、半年前と変わらず、ひっそりとした慎ましやかさと穏やかさに包まれていた。
簡易的な柵が設けられている村の入り口が見えた所で、疾駆していた黒毛馬が速度を緩める。すると遠く村の中ほどから伸びる一本道を灰色に白い斑模様の入った塊が物凄い速さで駆けて来るのが見えた。小さな点のようなそれがみるみる内に大きくなり、やがて毛足の長い大きな犬の形を取った。
「ナソリ!」
―――――ガフ!
黒毛が歩みを止めた所で、その尻から飛び降りたリョウが手を広げて駆け寄れば、リューバの相棒でこの村の番犬を任じているナソリが、勢いよく飛び込んできた。
たたらを踏んで体勢を崩しそうになった所をなんとか持ちこたえる。長い尻尾をぶんぶんと左右に揺らしながら、興奮したように大きな犬が舌を出し、そこらじゅうを舐め回し始めた。相当な喜びようである。
リョウはナソリから熱烈な歓待を受けていた。この洗礼も久し振りのことだ。
涎塗れになった頬をそのままにリョウは擽ったそうにからからと笑った。
「あははは。ナソリ、くすぐったい」
『リョウ、久しいな。変わりはないか?』
「うん。みんなは元気?」
『ああ』
そこでようやく最初の興奮が収まったのか、ナソリが地面に足を着いた。そして、まるで取って付けたようにちらりとリョウの後ろに立つ人馬に目をやった。
『ふん、それがお前の男か。どれどれ。まだ青い小童ではないか』
端から何やら含みのある言い方だ。
『我が主を愚弄する気か、駄犬が』
ナソリからの値踏みするような視線に腹を立てたのか、キッシャーが不満げに鼻を鳴らした。
『なんだと?』
ナソリの首の辺りの毛が逆立った。
なんだか険悪になりそうな空気にリョウは慌てて仲裁に入った。
「もう、ナソリもキッシャーもどうしたの、急に」
そう言えば、ナソリは前回、北の砦から来たナハトに対してもやけに突っかかった態度だったのを思い出した。
これは紹介が必要だと思ったリョウはすぐさま二頭と一人を引き合わせた。
「ナソリ、キッシャーとルスラン」
そのまま、今度はユルスナールと黒毛の方を向いて、
「リューバの家族のナソリ。いつもこうして迎えに来てくれるの」
低く威嚇体勢を取る大きな犬と何やら不愉快気に尻尾を揺らす己が愛馬の間に妙な空気を感じ取って、ユルスナールはもの問いたげにリョウを見た。
リョウは何と答えたものかと苦笑をしてから肩を竦めた。
「ナソリは、ちょっと……その…機嫌が悪いみたい。キッシャーもなんだか過剰反応していて。多分、初対面だから……かな。ちょっとした誤解があるみたいで………」
なにやら歯切れ悪く曖昧に濁したリョウに、ユルスナールは器用に片方の眉をくいと上げたが、何も言わなかった。
「リューバの家は、この村の外れにあるの」
「そうか」
そう言って村の中に入ったリョウに、ユルスナールは一つ頷きを返すとキッシャーの手綱を引きながら後に続いた。
ナソリはリョウの隣にぴったりと寄り添いながら、ふさふさとした尻尾を振っていた。そして、時折ちらちらと後方を歩く人馬主従を見やった。
「アクサーナは元気? お腹、もう大分大きくなったのかな?」
リョウは道々、ナソリの注意を引く為に声を掛けた。
『ああ。とんだ大食らいになったぞ。腹も大分膨れてきた』
その余りにもナソリらしい台詞にリョウは思わず吹き出した。
「そう。少しは大人しくなったのかなぁ」
『どうだかの。あの跳ねっ返りは中々治るものでもなかろうて。デニスの方が眉を顰めながらうろうろとしておるわ』
朴訥とした無口な青年は、相変わらず新妻に振り回されながらも、深い愛で新しい命を宿したアクサーナを包んでいるのだろう。その様子がすぐに頭に浮かんで、リョウは微笑ましい気分になった。
「そう」
リョウは、にっこりと笑うとナソリに促されるようにしてリューバの待つ家へと足を進めた。
半年振りに会ったリューバは、以前と同じように玄関口に立ったリョウの体を優しく抱き締めた。肉付きのよい太い腕と豊満な胸元に埋もれて、なんだか少し照れくさくてはにかんだリョウの顔は年頃の娘のそれで、リューバは、目を細めるとその頬にそっと手を当てた。
「いらっしゃい、リョウ」
「ご無沙汰しています。リューバ」
告げるべきことは沢山あるはずなのに、いや、話したいことが沢山あるからこそ、いざ相手を前にすると胸が風船のように膨らんで言葉にならなかった。何から話していいのか分からなくなって言葉に詰まってしまった。
だが、柔らかく微笑んだリューバの目尻の皺と張りのある頬を見たら、そんなことはどうでもよくなってしまった。
挨拶の口づけを頬に落とし、一頻りの抱擁を解くと、リューバは若葉のような緑色の瞳を悪戯っぽく煌めかせて口元を緩めた。
少し停滞していた空気が、直ぐに軽やかなものに切り替わった。
「もう、リョウったら。この間はとても驚いたのよ? 本当に心臓が止まるかと思ったんだから!」
リューバ特有の歌うような節回しで生き生きと言葉が紡がれる。
「私の繊細でちっぽけな心臓が余計に縮んだわ」
『鋼間違いだろうに……』
小さく異議を申し立てたナソリのぼやきに耳を傾ける者は、残念ながらこの場にはいなかった。
「晴れて術師になれたと思ったら! 結婚だなんて! でもまぁ、嬉しいお話しは心躍るばかりでもあるけれどね。本当に吃驚したのよ?」
そこでリューバは漸くリョウの後ろに控えていた大柄な男を見た。リューバとて気が付いていない訳ではなかったのだろうが、それはまぁ、少し屈折した親心のようなもの……とでも言えばいいだろうか。
リューバの瞳が少女のように輝き始めていた。
「で、そちらが噂の主ね? あのペンダントの」
仄めかされたことにリョウは大人しく首肯した。
半年以上も前のキコウ石のペンダントのことだ。かつてリョウの首に光る青い石を目敏く見つけたリューバは、『その繋がりを大切になさい』とそこに付着していた【想い】を具現化して見せたのだ。
あの時は、まだ、リョウ自身、ユルスナールとこのような関係になるとは露ほども思っていなかった。当時のことは昨日のことのようによく覚えているのに、それと同時にどこか遠い昔のことのようにも思えるから不思議だった。そんなことを感慨深く思い返した。
人好きのする微笑みを浮かべた村の術師にリョウの背後に立っていたユルスナールは、慇懃な態度で目礼をすると静かに名乗った。
「初めてお目に掛かります。リュドミラ・リュベーズヌゥイ殿。お噂はかねがね」
この村では滅多に聞かれることのない本名をそらんじた相手をリューバは見上げた。
「まぁまぁ、ご丁寧に。シビリークスの三男坊殿は、噂に違わず礼儀正しいのねぇ」
どこかからかうように生粋の軍人を見たリューバに、対するユルスナールは、小さく苦笑のようなものを浮かべた。
もしかしたら、寡黙な男は、おしゃべりなリューバに気押されるかもしれないと思ったのだが、ユルスナールは平然としていた。そこで、ユルスナールの実母のアレクサーンドラも同じくらいによく口の回る女であったことを思い出す。こういう女性には慣れているのかもしれないとリョウは密かに思った。
「さぁ、どうぞ中へ。狭くて散らかっているけれど」
以前とは違いナソリから催促をされる前に女主は客人たちを家の中に招き入れるべく体をずらした。
「はい。お邪魔します。リューバ、薬草も持って来てあるんですよ」
背中に担いだ鞄をリョウが指し示す。
「まぁありがとう。でもそれは後でいいわ。その前にちゃぁんと聞かせてもらうわよ? じっくりたっぷりとね」
―――――うふふ。楽しみだわぁ。
どうやらリューバはリョウとユルスナールの恋路の経緯について話を聞く気満々のようだ。途端に好奇心を抑えられない少女のような顔付きになったものだから、リョウはなんだか可笑しくなってしまった。
女は幾つになっても恋の話が好きなものだ。ちらりと隣のユルスナールを流し見れば、男は表情を変えることなく肩を竦めた。
前を歩いていたリューバが、突然リョウを振り返った。
「ああ、そうそう、ダルジとジューコフも来ているの。良かったのよね?」
「はい」
先に訪いの旨を伝令で知らせる為にしたためたリューバへの手紙には、村長のダルジにも出来れば挨拶をしたいと申し出ていた。今後、このスフミ村との関係も続いて行くであろうし、これまで世話になっていたことを考えれば、結婚の報告はきちんとしておいた方がいいと思ったのだ。
ここでは、【婚姻】というのは、人の一生の中で非常に大きな転機だ。とくに女性にとっては一大事である。村長のダルジとその息子のジューコフは、村の男たちの中でもリョウが女であることを把握していた数少ない村人だった。ダルジの家にも後で伺いたいと伝えてあったのだが、リューバはこの家に迎えているという。態々、出向いてくれたのだろう。
先導するナソリに続いてリューバの家の居間に顔を出せば、そこにはよく日に焼けた男らしい顔が二つ、リョウたちを出迎えた。濃いめの茶色の髪に立派な髭を生やしている方が村長のダルジで、その隣に座っている同じ色合いの無精ひげをそのままにしている方がジューコフだった。そうやって並んでいると親子でよく似ている。二人ともがっしりとした体つきで村の男たちと比べると寡黙な性質だが、長年村を取りまとめてきた統率者としての落ち着きと風格が滲み出るようにして出ていた。ダルジ一家は、代々、村人の精神的支柱だ。
この日、リョウは、生成り色のシャツの上にくすんだ空色の女物の簡素な袖なしワンピースを重ね、その下にズボンを穿いていた。足元はいつもの長靴ではなく女物の編上げ靴だ。シャツに膝丈程の長い上着を着てその下にズボンを履き、腰に帯やベルトを巻くというのは、隣国キルメクでよく見られる一般的な女性の服装だった。移動手段が馬であったので、利便性を考えて今回はそれを真似てみたという訳だ。
対するユルスナールは、腰にいつもの長剣を佩いてはいたが、簡素な男物の上下を身に付けていた。略式の軍服ですらない。一見、旅をしている傭兵のように見えるかも知れない格好だった。
スフミ村は、約20年前、隣国【ノヴグラード】との戦いが激しくなった一時期、スタルゴラド軍部が駐屯していたことがあった。その時にどうも村人との間でいざこざがあったようで、時が流れた今でもスフミの人々の間には未だ軍部への不信感が抜けきらないようであった。
リョウは詳しく話を聞いたことはなかったが、その時の苦い記憶をまだ忘れられずにいるのだろうと思った。スフミでは幸い直接的な戦闘は起こらなかったが、当時、間接的に巻き込まれて命を落とした村人もいると聞いている。村で有能な術師であったリューバの夫も軍部に協力をし、その時に帰らぬ人になってしまったらしい。
かの国との戦争は、それこそ国の民を隅々に至るまで大々的に巻き込んだのだろう。このような辺境の長閑な村にまで、いや、この場合、峻厳な自然の要害が立ち塞がっているとは言え、ノヴグラードとの境に近かったからこそ、その爪跡が残されているのだ。
そのようなことからユルスナールは少しでも村人の反感を買わないようにと配慮をしたようだった。ナソリが軍部に対して喧嘩腰なのは、もしかしたらその時の軋轢が元になっているのかもしれないと思った。
「ご無沙汰いたしております。ダルジさん、ジューコフ」
立ち上がった二人のよく似た親子にリョウは最上級の礼を持って口を開いた。
「ああ、リョウ。元気そうでなによりだ」
「久し振りだな」
其々日に焼けた逞しい体つきの男たちと抱擁を交わし、挨拶の口づけを頬に落とす。こうして頬に当たるかさついた髭の感触も久し振りのことだった。
「すっかり見違えたな」
「見ない間に随分と娘らしくなったじゃないか」
この二人に最後に顔を合わせたのは、収穫祭の時だ。その時は、村人たちに小僧呼ばわりされていたのだ。この間、リョウの身に起きた精神的な変化は、本人も気が付かない内に顔付きや物腰に微細な変化をもたらしていた。
飾り気のない、だが、温かな言葉にリョウは擽ったそうに小さく笑った。
「お忙しい所、態々御足労いただきましてありがとうございます」
今はちょうど春小麦の種まきの時期に入っていた。冬の間硬くなった広大な大地を耕し、広い畑に種を播いて行く。農民にとっては一年でも大切な時期だ。農作業についての詳しい事情はよく分からなかったが、村人たちが収穫まで多くの手間暇と愛情をかけて畑の世話をしていることはリョウも知っていたので、その忙しい合間を縫って時間と取ってくれた二人を有り難く思った。
恐縮することしきりのリョウをダルジは笑って制した。
「いや、構わない。それよりも紹介してはくれないのか?」
深い皺が刻まれたダルジの高い鼻がひくひくと興味深げに動く。
「はい。こちらはルスラン。ワタシの旦那さまになる方です」
リョウは、笑顔のまま後方を振り返るとユルスナールに村長ダルジとその息子ジューコフを引き合わせた。
それまで大人しく脇に控えていたユルスナールが一歩前に出ると、腰に佩いていた長剣がかちりと鳴った。その音を耳にしたジューコフは、その発生源へと一瞥をくれた。
リョウの紹介にユルスナールが簡単に名乗れば、小さく目礼をした男を村長は真正面から静かに見据えた。
「お前さんは、軍人か?」
「ええ」
「そうか」
短い遣り取りに何故か緊張が走った。
辺境のスフミ村までは当然のことながら王都の噂は届くはずもない。剣を佩いた男を見て思い付くのは傭兵か軍人かのどちらかだ。
ダルジは、ユルスナールを見て軍人かと訊いた。格好だけを見るならば傭兵の方があっているが、きびきびとした身のこなしと佇まいから傭兵よりも格段に上であると判断したようだった。
暫し、沈黙が落ちた。ユルスナールを前に村長とその息子は無言で対峙している。
妙に緊迫した空気を感じ取って、リョウは居心地が悪くなった。もしかしたら相手が軍人ということで警戒をされているのかもしれない。
それが顔に出てしまっていたのだろう。不安げに揺れた黒い瞳に気が付いたジューコフが、無言のまま隣に座る父親を肘で突いた。
それに気が付いたダルジは、リョウの方を見ると、直ぐに当たり障りのない笑みを作った。
「ああ、リョウ。済まない。そんな顔をさせたい訳じゃぁないんだ。お前が一緒になると決めた男だ。儂らにとっても嬉しい話に違いはないが、ガルーシャ殿のこともあってな。あの御人亡き後は、まぁなんだ、そのこういう時には、ガルーシャ殿に代わって儂が父親代わりの務めを果たそうと思っていたからな」
要するにガルーシャに代わってダルジがリョウの相手を見定めてくれるということなのだろう。まだ若い娘(と村人たちには思われている)の相手として相応しいかどうか、経験ある大人の年長者たちから見て大丈夫なのか。きっとそういうことなのだ。
ガルーシャという庇護者(兼保護者)を失ったリョウにとって、それは思ってもみなかった嬉しい言葉だった。村長のダルジがそこまで自分のことを気にかけてくれていたとは思わなかったから。身に余る気遣いに心の内がじわじわと温かくなってくる。こうして様々な人に支えられている幸福をリョウは再び噛み締めた。
「ありがとうございます。ダルジさん」
ガルーシャの名前が出たので、リョウはユルスナールがガルーシャの知り合いで、その昔、師事していた生徒であったことを告げた。
「そうか」
それを聞いた二人は、緩く息を吐き出した。【剣を佩いた屈強な軍人風の男】から一気に【ガルーシャの知人】へと格上げされていた。警戒の度合いを随分と下げたようだ。
ガルーシャの名前はここでも大きな影響をもたらしている。こうして何度助けられたかは分からない。
張りつめた空気が弛緩しようとしていた。
そこへ、お茶の用意をして戻ってきたリューバが、居間を覗いて素っ頓狂な声を上げた。
「まぁまぁ、四人して立ったまま何をやってるの? さぁさぁ、座ってちょうだいな。折角、椅子があるんだから。おかしな人たちねぇ」
微妙な空気感を掻き消す朗らかな声が響く。立ったままであった四人は、それもそうだと顔を見交わせると、この家の女主の言葉に素直に従った。
ダルジとジューコフ親子は、その後、リューバのお茶を飲んでから用事は済んだとばかりに帰って行った。ユルスナールの身上について、もっと突っ込んだ話がなされるかと思いきや、リョウが術師になれたことを殊の外喜び、真新しい登録札を見せたりしているうちにそろそろ時間だということで二人が腰を上げたのだ。
ここまでお付き合い頂いた方々には既にご存じのことかもしれないが、この世界には、厳格な【時】の概念はない。一日は日の出と共に始まり、日の入りと共に終わる。【ソンツェ】が中天に差しかかった頃合いが昼で、そこを基準に午前・午後と二つに分ける位だ。
時間に追われるようなせかせかした日常とは程遠い。緩やかな時の流れに身を任せているこの国の人たちは、皆、基本的におおらかで、細かいことには余り頓着しなかった。この国の民ののんびりとした気質は、ここに由来しているのだろう。
王都では東の神殿が女神リュークスへの祈りの時間を知らせる為に日の出、日の入りとその間にもう一回、計三回、鐘を鳴らしているが、それは神殿という特殊な場所であるからで、普通の街や村々には、大々的に時を知らせるような鐘は存在していなかった。
面白いものでこの暮らしに慣れてしまえばなにも不自由を感じなくなる。かつて、分刻みで細かく刻まれた【時】に支配された日常の中にいたリョウにしてみれば、驚くべきことで不便を感じるやもしれないと思ったのだが、その【時】を急かす相手も要因もないのだ。身体の中には生活に必要な【時】がある。その本能に近い所にある時間に今は身を任せていた。何よりもそれを自然だと感じられるくらいには、ここでの生活がすっかり体に馴染んでしまったと言えるだろう。
それはさておき。
村長ダルジは、ユルスナールをリョウの相手として問題なしと見なしたようだ。男が持つ肩書ではなく、男自身を直に見てそう判断したのだ。
リューバの元を定期的に訪れていたリョウは、この村の準一員のようなもので、そんな娘が縁づいた先は、この村にとっても係累の延長にあたるようなものである。場合によってはこの新しい繋がりが、この村にも影響を及ぼす恐れがある。それは、勿論、良いことばかりではないだろう。生前ガルーシャとどんな話をしていたのかは分からないが、ダルジは、このスフミ村の村長としてリョウとユルスナールの二人を祝福してくれたのだ。こうして受け入れてもらえたことは素直に嬉しかった。
「お茶のお代りはどう?」
村長親子がいなくなって、急に広さを増した室内の隙間を埋めるかのようにリューバが口を開いた。
「頂きます」
「あ、ワタシも」
リョウとユルスナールはお茶のお代りをもらうことにした。
ここに来た時の定位置でリョウの足元に寝そべっていたナソリも専用のハーブ水を飲んだ所だった。
「ナソリは?」
柔らかな毛並みの感触を掌の下で楽しみながら訊けば、
『儂はもうよい』
先程までの不機嫌さはどこへやら、気持ち良さそうに目を細めながら満足そうな息を吐いている。
テーブルの上には、リューバお手製の小さな焼き菓子が乗った皿が置かれていた。丸く象った薄い【ペチェーニィエ】の生地にジャムを乗せて焼いたものだった。二枚重ねになった生地の上の方には真ん中に丸く穴が開いていて、そこにジャムが入っている。木苺とスグリの実のジャムは、保存が効くようにと【サーハル】が沢山入れられて糖度を高くしているので、通常のお茶受けに【ローシュカ】で食べるには甘ったるかったが、こうして焼き菓子にするとちょうどいい甘さで美味しかった。
【チャーシュカ】に新しいお茶を注いでもらい、【ペチェーニィエ】を一つ摘んだ所で、前のソファーに座ったリューバがしみじみと言った。
「本当に人生、何が起こるか分からないものねぇ」
緑色の瞳に悪戯っぽい光を湛えながら、一組の男女を前に何やら感慨深げな様子だ。
「ね、リョウ。私が予想した通りだったでしょう?」
『それは儂の台詞だ』
かつて青いペンダントを見た時にナソリがいち早くそこに込められた【想い】に気が付き、その送り主との関係性を看破したのだ。
この家の主の言葉にリョウは半年以上も前の出来事を懐かしく思い出しながら、少し照れたように笑った。
「そういうことになってしまうんでしょうか?」
あの時は、このような未来が待っているとは想像だにしなかったというのに。
一人話の見えないユルスナールは、表情を変えずにいたのだが、ちらりと隣を流し見たので、相手の疑問を感じ取ったリョウは、簡単にあのキコウ石のペンダントの周辺事情を打ち明けた。
あの時のペンダントはもうない。王都での祝賀会の時に砕け散ってしまったから。今、その代わり、同じ鎖には虹色に光る銀色の術師の登録札がぶら下がっていた。
あの青い石には、ユルスナールの意識のようなものが付着していた。その件でユルスナールは少し驚いたようだったが、何か思う所があったのか、小さく苦笑のようなものを浮かべていた。当時、まだ具体的な形を持っていなかったはずの無意識の心の内を言い当てられて、居心地の悪さというか、面映ゆさのようなものを感じたのかも知れなかった。
そこでリューバはお茶を一口飲むと大きな息を吐き出した。
「でも安心したわ。あなたたちを見ているととても自然だから。最初はリョウが無理をしたんじゃないかって心配したのよ? だって、リョウ、あなた、どちらかというと【恋】に熱を上げるような性格じゃぁ無いでしょう? どうやって炊きつけたのかしら? 不思議なものねぇ」
そう言ってリューバは皿の上の菓子を摘むと一齧りしてから含むように笑った。
ユルスナールは一見、色事に関心がなさそうな冷めた男に見えるので、リューバが首を傾げるのも無理はなかった。
ちらりと何食わぬ顔をしている男へ視線を投げれば、目が合ったユルスナールは、小さく笑って飄々と口にした。
「女神のお導きでしょうか」
信心深い方ではないだろうに。どうにも胡散臭い。それは、リューバも同じであったようで、『まぁ』と呆れた顔をしたのだが、それを直ぐに引っ込めて。
「ましてや、あなたの方には家の事情もあるでしょうし。その辺りはもう大丈夫なのかしら?」
家の事情―――曲がりなりにも貴族の出身である男にはしがらみも多い。身分の違いは大きな障害になるだろう。その辺りのことはリューバとしても心配だったようだ。
女親(代わり)としては当然気になる事柄に対し、ユルスナールは打って変わって誠実な態度でその問いに答えて行った。
「ご心配には及びません。私は三男ですから、長男のように家に縛られることはありませんし、両親からも既に祝福をもらっています。リョウは十分適応して行けると信じていますよ」
そう言って男らしい笑みを浮かべると隣に手を伸ばし、膝の上にあったリョウの手を取った。
寄り添うように座るリョウも男をちらりと流し見ながら、幸せそうな笑みを返していた。
それだけでリューバには十分だった。この二人が互いを信頼し、想い合っていることが良く分かった。そこにあるのは、熱に浮かされたような束の間の【恋情】ではなく、これからもずっと続いて行くであろう【愛情】だった。
いつの間にそのような顔をするようになったのだろうか。穏やかに微笑むリョウは、どこから見ても女だった。ずっとその小さな身体の中で眠っていた、いや、半ば意識的に眠らされていた【女】である部分。無理に作った所の無い表情はとても自然で、リョウに似つかわしかった。頸木は解き放たれたのだ。この男によって。
リョウは、自分の手を包む大きなごつごつとした剣だこのある手の上にそっともう片方の手を乗せた。そこで何かを思い出すように小さく微笑んだ。短くも長くもあったこれまでの一年を思い返しているのかもしれない。そして、一番密度の濃かったこの怒涛のような半年を。
「始めはどうなることかと思ったんですが、あちらの皆さんも実によくして下さって。これならなんとかなるかなぁって思ったんです」
リョウの中では貴族の男に嫁ぐという意識はまだ実感がなかった。そのような外枠は、後から付いてくるのだろう。
「でも何よりも、ワタシはこの人と共に在りたいと思ってしまったから」
この男の傍に居たいと思ってしまったから。この男を支え、そして支えてもらいたい。足りない部分を補うように。そして、この男と家族になりたいと願ってしまったから。
真っ直ぐにリューバを見据えたリョウの瞳は、凪いだ中にも秘めた強い決意が煌めいていた。
迷いのない瞳だった。
リューバは、いつの間にか逞しくなった異国の娘を誇らしく思った。
「おめでとう。リョウ、そして、ルスラン。あなたたち二人にリュークスの加護がありますように」
一足早く、心からの言祝ぎがなされた。
長くなった日差しが西の窓から入り込み、村の術師の居間を照らしていた。
茜色に染まり始めた空。凪いだ夕暮れに溶けるようにして、二人の客人の柔らかい笑みを繋いでいた。
久しぶりの番外編、舞台はスフミ村に戻ってきました。アクサーナまで辿り着けるかと思ったのですが、またまたぐだぐだに、どうにも上手く行きません。もっと簡潔な文章が書けるようになりたいです。
今回が第228話なので、あと2回ほど足して、トータル230話で締めようかと思っています。次回も引き続きスフミ村の予定です。コミカルな感じになればいいのですが。最後は考え中。
最近、どうも筆が進まず、きっと次の更新も一週間くらい間が開くかと思いますが、どうぞ気長にお待ち頂けると幸いです。




