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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
番外編集
227/232

23)風のような男

ご無沙汰しております。今回のエピソードは少し趣向を変えて。前回と対になるようにと書き進めました。それではどうぞ。


 王都【スタリーツァ】をぐるりと囲む堅牢な外壁には、大小併せて八つの門がある。大きな門は、東西南北に位置する四つだ。それらは、戦時下、兵士たちが人馬共に隊列を組んで通行できるようにと広く設計されていた。

 門は、日の出と共に開けられ、日の入りと共に閉められる。日中、開け放たれている門の脇には、長い槍をその手に持ち、完全武装した兵士が、見張りに立っている。その間に設けられた四つの門は、専ら人が通る為の小振りのものであるが、同じように騎士団に所属する兵士たちが交代で門番の任に就いていた。

 この街は基本的に開かれており、出入りに特別な手形などは不要だ。だが、決して警戒が緩い訳ではない。要所要所を引き締めた緩急の付いた警備をしていると言えるだろう。門番に立つ兵士たちは、勿論、お飾りはではなく、少しでも怪しいと思われる人物や荷が通れば、誰何(すいか)し、改める。門の脇には簡単な尋問の為の詰め所が用意されていた。

 それらの門は、全て王都を起点とし、放射線状に伸びる街道に面していた。この国スタルゴラドは、この王都を中心に国内の隅々に至るまで街道が整備されている。



 今、その西門から、土煙を上げて複数の馬が飛び出して行った。王が住まう宮殿を中心にその西側は貴族の邸宅が並ぶ区画になっている。そのような地理的配置から西門を利用するのは、専ら貴族たちが多いと見なされていた。

 勢いよく飛び出して行った馬は、門から西に延びる街道を大きく北方方面に迂回していった。ひぃ、ふう、みぃ、よぉ、いつ。全部で五頭。其々には人が騎乗していた。

 先頭を行くのは、逞しい栗毛。その馬には、茶色の癖毛を長く伸ばした男が乗っていた。そのすぐ後ろには、白に黒い斑の入った馬が付き、乗り手は明るい茶色の癖の無い髪を後ろで一つに結えていた。その後ろには赤毛が続き、長く伸ばした焦げ茶色の髪をすっきりと一つにまとめた者が手綱を握っている。その次には、やや明るい茶色の髪を同じように一つに結えた男が、茶色に白い斑のある立派な馬の鞍に収まっていた。そして、駆け抜けて行った最初の四頭からやや遅れて、一際逞しい黒毛が続いた。そこに乗っているのは、降り注ぐ日差しを浴びて銀色に輝く髪をこれまた同じように長く伸ばし、無造作に後ろで一つに結えた男だった。

 騎乗した男たちは、皆、随分と若々しい顔立ちをしていた。成長過程にある少年のようだ。もしくは、漸くその域から抜け出そうとしているかのような奔放で明るい瑞々しさが垣間見えた。

 五人の若者たちは、どうやらこの国の騎士団に所属しているようだ。彼らが身に着けているのは、騎士団の中でも見習いの制服だった。官給の白いシャツに海老茶色の上下、そして黒い皮の長靴が続く。鐙を踏む其々の腰元には、長剣がぶら下がっていた。

 五人の若者たちは、草原を暫く走った後、そのまま北東の方角に馬の鼻を向けた。そのまま街道をひた走る。馬の蹄が土を蹴る轟きが高らかに響き渡っていた。

 季節はちょうど秋が深まり、実りの時期を迎える頃合いだった。街道沿い一面に広がる【ロージィ(ライ麦)】の畑は、黄金(こがね)色に色づき、その穂が重そうに頭を垂れ、刈り入れを今か今かと待っていた。収穫の時はもう間近に迫っている。


「俺が一番だぜ!」

 ―――――ハイヤッ!

 威勢の良い掛け声と共に先頭の若者が愛馬の腹を蹴った。それを合図に栗毛馬の速度がぐんと上がる。

「そうはいくかな!」

 だが、直ぐに背後から白に黒斑の馬身が横に並ぶように距離を縮めた。

 若者たちが目指しているのは、王都の北東部を緩やかに蛇行して流れる川べりだった。見習いとして騎士団に入団してから約半年、初めての休日を気の置けない仲間たちと遠駆けに行こうと思い立ったようなのだ。目的地へ誰が一番に乗り込むか競争しているようだ。


 馬に乗って先を急ぐ若者たちの顔触れは、総じて若かった。五人の若者たちは、皆、一様に髪を長く伸ばし、それを後ろで一つに束ねていた。そこから、この国の貴族階級の男子であることが見て取れるだろう。

 貴族の男子には成人する時にそれまで長く伸ばしていた髪を切る習わしがあった。かつて(まだ、世の中が不安定で戦乱の絶えなかった動乱の時代の頃のことだ)、初めて男子が戦いに出る時(初陣の時)にその髪を落として大人の仲間入りをしたという風習に端を発するのだが、時代が下り、世情が安定してきた現在では、正式に職に就き一人前と見なされた時点で、髪を切る者が殆どだった。家によっては、その年齢を厳格に定めている所もあるようだが、騎士団に入団し、軍籍に就いてそこで身を固めようという者は、大抵、見習いの二年間が終了し、各部署への配属が正式に決定した時点で、成人とみなされ、髪を短くすることで大人の仲間入りすることが通例だった。


 ―――――ハッ!

 鋭い掛け声と共に先頭を飛び出したのは、ザパドニーク家の次男だった。代々西(ザーパド)の守護を自任する軍部の家系だ。五人の中では一番覇気があり、競争や勝負ごとには真っ先に食らいつく性質である。その次に馬首をぴたりと横に付けたのは、レステナント家の長男だった。傍系だが、代々神殿に仕える神官を輩出する家系の者が騎士団に志願したということで入団時に何かと噂されたのは、関係者の記憶に新しいだろう。一見、穏やかで柔和な顔立ちから争いごとを忌避するかのように思われるこの少年が、実は意外に好戦的で負けず嫌いな所があるというのは騎士団の宿舎で寝食を共にする見習い連中の間では知られていたことだった。

 その二頭に続いたのは、(ユーグ)を守護するナユーグ家の次男と有力貴族フラムツォフ家の長子だった。ナユーグ家の次男坊は、長じてからはいつも眉間に皺を寄せて顰め面をしていると思われがちであったが、この頃はまだそこまで苦労人としての人生の悲哀が刻まれている訳でもなく、少年らしい溌剌とした陽気さが目の端と口の端に見いだせるくらいには、若かったと言えるだろう。フラムツォフ家の長男は、伸び伸びと育ったらしく、朗らかで自由闊達な雰囲気を持ち、その出自特有の育ちの良さを窺わせる若者だった。

 そして、その四頭から少し遅れて、一馬身差で茶色に白い斑が入った馬を追い掛けているのが、漆黒の馬に跨った若者だった。こちらも軍部とは深い縁を持つ(シービリ)を守護する家系、シビリークス家の三男坊である。

 五人は、大抵、似たり寄ったりの体格をしていたが、シビリークス家の三男は、その中でも比較的小柄な方だった。一時期は美少年との評判が高かったようなのだが、そこに漸く男臭さが加味されるようになってきた頃合いだった。父親譲りの髪色は、この若者の出自をよく表わしているだろう。生来の目付きの悪さにともすればいつも不機嫌そうだと第一印象ではとかく損をするきらいがあるが、付き合いを深めてゆくうちにその印象は変わる。口数は多くないが、心優しく思慮深い性質であることが分かるだろう。涼やかで冷めた外見の割には、その中身が熱い男であることは、見習い連中の中ではそこそこ知られていた。


 遅れがちであったシビリークス家の三男坊は、一行が街道から再び草原へと進路を変えた所で勢いよく己が馬の腹を蹴った。

 少年が操る黒毛は、騎士団への入団が決まった時に父より譲り受けた立派な駿馬だった。少年は、幼い頃からこの父の馬を憧憬と共に眺めていた。そして、少しでも大好きな馬との共有時間を持ちたいと率先して馬の世話をしていた。堂々たる体躯に艶やかに光る黒い毛並み。漆黒の瞳は澄み、類稀なる聡明さを覗かせる。勇敢で非常に賢く、少年にとっては美しさと力強さを体現する憧れの存在だった。

 物心付いた頃よりこの黒毛に心奪われていた少年は、自分が成人した暁には、あの馬が欲しいと父親に願い出ていた。厳格な躾の下、物欲とは無縁の所にあった少年だったが、唯一、それが子供時代に父へ口にした望みであった。

 十になるかならないかの頃だったろうか。上に年の離れた兄が二人いるということもあるのだろうが、大人びた願いを口にした少年に、父親は、良く似た硬質な面差しに立派な髭で覆われた口元を僅かに吊り上げて、愉快気に大胆な申し出をした三男坊を見た。

 そして一言。

 ―――――お前が乗りこなせればな、と。

 馬は、その乗り手を選ぶ。特にその黒毛は気位が高いことで有名で、己が主に値しないと判断されると決して鞍を付けさせようとはしないのだ。以前、長兄が試みたことがあったが、文字通り、馬が合わなかったのか、険もほろろに突っぱねられてしまったと聞いている。

 少年は父親や上の兄たちと同様に獣の言葉を理解することは出来なかったが、それでも馬とは十分に心を通わせることができると思っていた。そして、せっせと時間を見つけては、甲斐甲斐しくその黒毛の世話を焼いたのだ。

 と言っても、初めから上手く行った訳ではない。始めは見向きもされなかったが、根気よく厩舎通いを続けた甲斐あってか、黒毛は少しずつ少年に心を開くようになった。何よりも馬に対する少年の眼差しが真っ直ぐで純粋であったからであろう。

 そうして、念願叶って、正式な成人を待たずして、父親より黒毛への騎乗許可をもらえたのだ。許可を言い渡された時、少年は珍しく大声を上げて喜びを顕わにした。勿論、一人になってからのことだ。

 だが、馬の世話をするのとそれを乗りこなすというのは些か具合が異なる。目下、少年はその乗り手になるべく、黒毛からの試験を受けている最中だった。ここで黒毛が少年を将来の主として認めなければ、少年の努力は全て水の泡となってしまうのだ。

 先を行く四頭に比べて、まだどこか人馬の関係に幾ばくかのぎこちなさが残る所為で出足は遅れてしまったが、前を行く馬たちと比べてもその黒毛は俊足であった。後は風のように心を一つに添わせることが出来るか否かだ。



 街道から広い草原に入った所で、脇から銀色の長い髪が馬の尻尾のように一直線に伸び、先頭を捕らえた。そのまま軽やかに集団から抜け出そうとする。

「クッソ、負けるかよ!」

 幼馴染であるザパドニークの次男がすかさず速度を上げれば、

「ルーシャ! 今回は俺がもらう!」

 フラムツォフの長男も負けじと前傾姿勢を取った。

「それはこっちの台詞だね」

 そして、そこに並ぶようにレステナントの長男も気合の声と共に馬の腹を蹴った。

「ドーリャがペケか?」

 ―――――フゥッラァア!!

 高揚感を解放させる奇声を放ってから、前を向いたままからかうような大声を上げたザパドニークに、

「ふん、言ってろ、馬鹿ビーカ」

 赤毛に跨るナユーグの次男は、にやりと挑戦的な笑みを刷いて鞍から腰を浮かせた。


 互いを挑発しながら、五人の若者たちは、実に楽しそうに馬を操り疾駆した。秋深まり、枯れ始めて柔らかくなった下草が、馬たちの蹄の音と衝撃を吸収する。彼らが目指している川べりはもう目と鼻の先だ。前方、緩やかに蛇行する幅の広い川面が、穏やかな秋の日差しを浴びて輝いているのが見えてきた。

 もう少しで今回の競争の勝者が決まる。このまま黒毛が逃げ切れば、シビリークスの三男坊に軍配が上がるだろうか。


 だが、ここで思わぬことが起きた。

「あ、おい、キッシャー! そっちじゃないだろう!」

 先頭を切っていた黒毛が、突然進路を左に取ったのだ。

 黒毛は瞬く間に集団の軌道から逸れてゆく。

「どうした? おい! キッシャー!!」

 どうやら乗り手の試験合格への道はまだ遠いようだ。

 逞しい黒毛は嘶きを一つ上げると馬首を左に巡らせた。ここで少年が獣の言葉を解すれば、また事態は少しは違ったのかもしれないが、馬の意図が読めない少年には如何ともしがたかった。

 手綱を繰ってなんとか主導権を握ろうとするシビリークスの三男を尻目に四人の若者たちは、目的地を目指して疾走した。

「お先~!」

「ルスラン!?」

「ゆっくり来い!」

「大丈夫か?」

 其々の性格を表わす四者四様の言葉が掛かる。

 乗り手の意思を離れて疾走する黒毛に抵抗が無駄だと悟った少年は、見る見るうちに離れて行く仲間たちを視界の端に留めながら、腹立ちを紛らわせるかのように大きな声を張り上げた。

「先に行っててくれ! 後で合流する!」

「了解!」

「無理するなよ?」

「ああ!」

 こうして五頭の集団から一組の人馬が離れて行った。




「おい、キッシャー、どうした? 何なんだ?」

 突然、まるで何かに導かれるようにして仲間たちから進路を違えた黒毛に、少年は手綱を握り締めながら半ば途方に暮れたように顔を顰めた。

 こういう時、まだまだ自分が正式な乗り手としてこの馬に認められていないことを思い知らされる。堪らずに悔しさが込上げて、少年は奥歯をギュッと噛み締めた。

 通常、獣たちは優に人の2倍から3倍の寿命があり、種族によってはそれ以上の長寿のものもいて、馬もその例外ではない。父親以上に老獪で手練のこの馬は、少年がこのように腹を立てたとしても痛くも痒くもないのだろう。寧ろ、幼子の癇癪かと相手にしないに違いない。立場的には遥かに馬の方が少年より上位にあった。

 このような時、自分が獣の言葉を理解することができたら………。

 貴族男子の習いとして三年前から二年弱術師養成所で指導を受けたが、やはり、シビリークスの血を引く少年には目立った素養の開花は見られなかった。当時、少年を受け持った講師は、『その事実を受け入れ、能力がないことに拘るな。気落ちする必要はない』と言ったが、頭ではそれを理解している積りであっても、こういう事態に直面すると、やはり自分にも能力を引き出す力が欠片でもあればと思わずにはいられなかった。

 が、ここでそのようなことを思ったとて詮方なきこと。いかにしてこの黒毛と意思疎通を図るかが現時点での最重要課題である。直ぐに頭を切り替えた少年は、黒毛の行動を注意深く観察することにした。

 気紛れを起こすようなむらっ気のある性質ではないと父や厩舎番の下男から聞いている。少年自身の数少ない経験からもこの馬が粗暴な性質ではないことは分かっていた。この行動には然るべき理由がある筈だ。愛馬(と言っても、今の所、その愛は少年の側からの一方通行であったが)が、大きく嘶いて進路を変えた時、共に居た他の四頭の馬たちに合図を送ったようにも思えた。これは少年の勘のようなものだった。


 暫く走ってから、少年を乗せた黒毛は速度を落とし始めた。当初の目的地であった葦原の揺れる川面からは随分と離れ、草原を突き切り、雑木林の近くまでやって来ていた。

 林が始まろうとする辺りで黒毛が足を止めた。そして、ちらりと乗り手を流し見たので、少年は大人しく鞍から降りた。

「キッシャー、一体なんなんだ? こんな所に何の用だ?」

 手綱を取り、思わずぼやきながら黒毛の鼻面辺りを宥めるように(もしくは懇願するように)撫でていた時だった。

 かさりと小さな音がして、上手く口では言い表せないのだが、そこに流れている空気が変わったように少年には感じ取れた。だが、隣に立つ黒毛は平然としている。『なんだ、気の所為か』と思い直して、ふと少年が後方を振り返った時、目の前、3【サージェン(約6メートル)】も離れていない距離に【ソレ】がいた。

 見たこともないくらい大きな白い獣だった。馬と同じくらいはあるだろうか。形は狼に似ていたが、その大きさが規格外だった。

 少年は咄嗟に腰に佩いていた長剣の柄に手を掛け、腰を低く落とした。

 警戒心を顕わにした少年とは対照的に黒毛馬は落ち着いていた。いや、寧ろ、(こうべ)を低く垂れ恭順の姿勢を取っているようにも思えるのだが、前方に意識が釘付けになっていた少年は、そのことに気が付いていないようだった。

 この国では、獣たちは人と同様(もしくはそれ以上に)高い知性を持つと見なされている。彼らは総じて人よりも長命である。そして、人とは違った独自の理の中で暮らしている。術師や獣の言葉を理解することのできる限られた人々のみが獣たちと交流を持ち、彼らは皆、獣たちを尊重し、対等な立場で接していた。大地の恵みと共に生き、圧倒的な力でこの世界に君臨する勢力だ。そして、それは人が自らの意思で離れ、置いて来てしまった世界でもある。

 そういう素地(この国の一般常識だ)の下で育った少年は、相手を獣風情と侮ったりすることは決してなかった。

 しかしながら、今、目の前に燦然と輝く【未知の存在】に対して、条件反射の如く身構えていた。

 敵か味方か。害をなすものか否か。相手が少年よりも遥かに強大で、森に暮らす狼のように鋭い牙と爪を持つ猛獣と目される姿形であったから。

 少年は、言い知れぬ緊張に奥歯を噛み締めた。目の前の獣より発せられる厳かで圧倒的な気に胃の腑がちりちりと反応を返し始めていた。

 そうして神経を研ぎ澄ませつつ相手の出方を窺った。もし、その獣が否応なしに少年と馬に牙を剥くというのであれば、本能的に敵わぬ相手だと分かっていても、ただではやられまいと思った。この剣で一突き、いや、掠り傷を負わせるくらいは辞さない。若者特有の豪胆さと無鉄砲さが、少年を奮い立たせていた。


 そのような只ならぬ空気を打ち破ったのは、獣の方だった。

『そう威嚇せんでもよい。小童(こわっぱ)が』

 ―――――威勢だけはよいのう。

 白い獣が余裕たっぷりに鼻で笑ったように少年には思えた。

 だが、そのようなことよりも。

 手を柄に掛けたまま、少年の瞳は大きく見開かれた。全身を雷に打たれたような衝撃が走り抜けていた。

 今、獣が言葉を話した。いや、その言葉が自分にもしっかりと聞こえたのだ。

 初めての出来事に少年の心は感動にうち震えた。

 その時、静かに隣に並んでいた黒毛がぶるりと鼻を鳴らし、その音に少年の意識が引き戻された。

「あ……なた…は……」

 神々しいまでに白く光輝く毛並みを前に少年の第一声は掠れていた。

 少し冷静さを取り戻せば、対峙した相手から殺気は感じられなかった。なによりも傍にいる聡明な馬が、その獣を前に動じていないのだ。

「いえ………」

 剥き出しになった警戒心を一先ず減らしてみる。だが、零に戻す訳ではない。

 少年は静かに深呼吸をした。落ち着かなければならない。今にも浮足立ちそうになる心を宥め、考えをまとめようと緩く息を吐き出した。

「貴公が、この黒毛を呼んだのですか?」

 自分が制御していたはずの馬が、己が手の内から脱した経緯を問えば、深みのある不可思議な【音】が言葉という形を取って耳に届いた。その事実に少年は、獣と言葉を交わしているというこの状況が夢ではないことを理解し始めていた。

『呼んだというわけでもないが。そこな黒毛は義理堅い』

 ―――――我が気配にいち早く訪いを入れたということだろう。

 その声に呼応するかの如く、少年の隣にいた黒毛は、小さく鼻を鳴らしてから緩く(かぶり)を振った。

 もしかしたらその馬も同じように(いら)えを返していたのかも知れないが、残念ながら、その音を言葉として認識することは出来なかった。

「では、特に用事があったという訳ではないのですね?」

『まぁ、そうさな』

 その言葉に少年は一気に肩の力を抜いた。

「……そうでしたか」

 吐き出されたのは、安堵に似た感情だったかもしれない。そこで漸く少年の方にこの対峙する規格外の獣を観察する余裕が生まれた。

 穏やかな秋の日差しを浴びて、その白い毛並みは艶やかに光を反射させていた。黄金(こがね)色に輝く【ロージィ(ライ麦)】の畑とも違う。そう、どちらかと言えば、川面に反射する(しろかね)色の煌めきのようだ。とても静謐でしっとりとした深みのある。

 少年の目は、真っ直ぐに獣の眼差しを捕らえていた。灰色に見えたかに思えたその双眸に虹色の光が混じり合っているのに気が付く。そして、その色合いが時と共に刻々と変化をしていることが見て取れた。

 飲み込まれてしまいそうだと少年は思った。たった二つの小さな双眸に。少年はその呪縛から逃れようと視線を横にずらした。


 それからどのくらいの時が流れたのだろうか。長いように思えたそれも、実際はほんの瞬きにも似た短い間であったかもしれない。

 沈黙の中、気が付けば、白い獣が口を開いていた。

『おぬしは、シビリークスか』

 (はらわた)に沁み入るような声音だと少年は感じた。問い掛けというよりも断定するような口調だった。

 少年は瞳を瞬かせた。

「我が一族を御存じなのですか?」

 不思議そうな色がその瑠璃色の瞳に浮かんでいた。

 獣は小さく笑った(ように思えた)だけで、その問いには答えなかった。

 そこで不意に、少年は、かつて養成所で学んでいた時に師事していた講師から教わった言葉を思い出していた。

 ―――――獣と会話をする時は、まず自らの心を開くことが肝要だ。彼らに虚飾は通用しない。彼らは我々人とは違う思考回路を持つ。投げた問い掛けに思うような返答が得られずとも苛立ってはいけない。人の意識を唯一のものとは思うな。時間を掛けて認識の違いをすり寄せて行けば、自ずと答えは得られるだろう。

 獣の言葉を理解する能力のない少年には、いまいち師が語った言葉に実感が湧かなかったのだが、今なら、それが分かりそうな気がした。

 そこで少年は確かめてみたくなった。

「あの、私には獣の言葉を聞きとるだけの素養が開花しなかったのですが、何故、貴公の言葉は分かるのでしょう?」

 もしや、たった今、能力が発現したのかと淡い期待を抱いたりもしたのだが、確かめる為に傍に居た黒毛の方を窺って、そこで視線が合っても、その声は、やはり響いて来なかった。

『それは、我が、我であるからだ』

「………貴公が、貴公であるから?」

『我が言葉は、最も古き形。人が操る【言葉】よりも【念】に近い』

「【念】………ということは、耳から入る【音】とは違うのですか?」

『さぁてな。我が発する【波動】をそなたら人は【音】として変換し、受容するのだろうて』

 ―――――そなたらのことは我には分からぬ。

 そう付け足した獣は、空を見上げたかと思うと不意に少年の方を見た。そこでなにやら意味あり気に笑ったように思えた。

『かような小難しきことは、あの男にでも聞くのだな。その為の師であろうが』

「………あの男………?………師?……」

 少年は、小さく独りごちて再び首を傾げた。意味を捉えようと自然に眉間に皺が寄る。そのような顰め面はお世辞にも愛嬌があるとは言えなかったのだが、目の前の獣は全く気にかけていないようだった。

『ああ。あやつの縄張りだろうて』

 その時、少年の脳裏には、長い外套を引きずるようにして歩く、少し猫背のひょろりとした男の姿が思い浮かんだ。淡い茶色の髪を緩く一つに束ねた男。どこか神経質そうな目鼻立ちの割に全体を見れば、ぞんざいでいい加減な空気を身に纏う不思議な男。それでも講師としては、人一倍真面目で熱心でもあった。

 あの男は、少年が騎士団へ入隊するのと時を前後して、養成所を後にしたと聞いている。

 少年の中で一つの等式が出来上がった。この獣の差す【男】とは、自分の想像と同じ人物なのだろうか。

「貴公は、(せんせい)を御存じなのですか?」

『奇特な男だ』

「ガルーシャ・マライ殿を?」

『風のような男だ』

 少年が発した師の名前に白き獣は目を細めた。どうやら正解であったようだ。

『気ままで。いけ好かない小生意気な輩』

 最後に発せられた言葉は、普通に解釈すれば相手を貶めるようなものであったにも関わらず、少年にはとても温かい憎まれ口のようなものに聞こえた。それだけ、この獣と師匠が心を通わせているかのようだった。

 かつての恩師は、養成所を辞めた後、この国の遥か北方のど田舎へと隠居を決め込んだのだとか。そのようなことを風の便りに耳にした。

 ―――――達者にしているのだろうか。

 王都を発つのならば、散々世話になった礼として最後に挨拶くらいしておきたかったのだが、少年がその報せを知った時には、もう養成所の講師室はもぬけの殻だった。

 何も言わずに行ってしまった。だが、それは非常に恩師らしいやり方だった。

 そうやって暫し少年がかつての師を思い出していると、

『ああ、そうだ。あれもおぬしのような目をしていた』

 白き獣は、なにやら愉快気に笑った。

『師と弟子、相似る……か』

 何かを思い出すかのように独りごちると、用は済んだとばかりに颯爽とその場に背を向けた。

 そして、少年が何か言葉を発しようとする前に、草原を吹き抜けた一陣の風に紛れるようにして、白い巨体は姿を消していた。


 気が付けば、圧倒的な気を放っていたはずの獣の姿は消えていた。

 ―――――白昼夢を見ていたのだろうか。

 まるで幻影を見ていたかのように頻りに目を瞬かせた少年の耳には、だが、はっきりとした【音】が意味を持って刻まれていた。

 ―――――では、またな。小僧。

 少年は、その場に立ちすくんだ。やがて傍に居た黒毛が止まっていた時を開始させるように少年の頭に鼻面を押し当てた。

 そこで少年は我に返った。

 そうだ。仲間が待っているはずだった。先に川面へと辿りついた四人の友人たちは、今頃、川で遊んでいるだろうか。

「行こうか、キッシャー」

 顔を上げた少年に黒毛がぶるりと鼻を鳴らした。

 目の前にあるその鼻先をそっと撫でて。

 何故かはよく分からない。だが、さっきよりは格段にこの馬と気持ちが通じ合っているような気がした。

 そして、再び馬上の人となった少年は、友人たちに合流するべく威勢の良い掛け声と共に馬の腹を蹴り上げたのだった。




 そんなことがあってから程なくして。まるで示し合せたかのような巡り合わせで辺鄙な田舎に移り住んだという恩師から一通の文が少年の元に届いた。

 大きな鷹を伝令にして届けられたその手紙には、懐かしい筆跡で次のような文面がしたためられていた。


 * * * * *

 

 達者にしているか? シビリークスの小倅よ。

 生ける伝説との邂逅を果たしたと聞き及び、お前の出来の悪さを思い返すにつけ、驚くべき快挙だと半ば驚きながらもこうして筆を手にしている。ここはまぁ、素直に【おめでとう】と言っておこうか。何に対してかって? それは、お前の【引き】の強さだろうな。【運】というのも人生の中では重要な要素だ。 

 過去の歩みは着実に【今】に通じている。そのことを今一度思い返すいい機会になったならば儲けものだろう。

 こちらは実に快適だ。煩わしいことは何一つない。

 今日もいい風が吹いている。


 ああ、それから。あのヴォルグの長は、一風変わっていてな。実に好奇心が旺盛だ。そっちには知己がいるということで、今後もひょっこり顔を出すやも知れぬが、その時は気紛れに付き合ってやってくれ。

 まぁ、あれだ。気にするな。深く考える必要もない。お前の頭でっかちな脳みそは、たちどころに熱を上げるだろうからな。

 これも経験だと思えばいい。良い修行になると思うぞ? 勿論、【人生】のな。     G・M


 * * * * *


 内容は、至極簡潔の割に要領を得るような得ないようなものだった。文面も驚くほどいい加減だ。

 でも、それは非常に【らしい】ものだった。まるでかつての師が目の前で自分に語っているかのような錯覚になった程に。

 どこか人を食ったような独特の乾いた毒のある言い回しを懐かしく感じながらも、少年の目は、そこに記されたとある言葉に釘づけになっていた。

 ―――――ヴォルグの長。

 そう、あの伝説の中に生きる獣の一族の名が、取って付けたように記されていた。

 少年はもう一度、手紙を頭から読み直した。うっかり、さらりと流してしまいそうになるが、その文言は、少年の心を射抜くように真っ直ぐ突き刺さっていた。

 ヴォルグの長。あの白い獣が、そうだったのか?

「【かのもの 森の守り人 古の約定に従い天と地の理を説く】………【その身にまとうは】………【白銀の衣】…………」

 少年の薄い唇からは、有名なお伽噺の一節が紡がれていた。


 暫し呆けたように手紙を片手に持ちながら固まっていた少年は、緩慢な動作で空いたもう片方の手で己が顔を覆った。

 そうして緩く息を吐き出す。

 だが、その肩が小刻みに震え始めるまで、そう時間は掛からなかった。

 いつしか少年の口元は笑みで象られていた。少し皮肉を込めたような、やけに大人びた表情だった。


 これが、若きユルスナール・シビリークスと白銀の王セレブロの初めての出会いだった。


ユルスナールの見習い時代、セレブロとの初遭遇のシーンを取り上げました。前回ガルーシャとセレブロの初対面を書いたので、やはりユルスナールの方も欠かせないかと思いまして。

五人の若者たちは、ユルスナールにブコバル、シーリス、ドーリン、そして第一師団長のマクシーム・フラムツォフ(シーマ)です。

当初の設定から行くとシーリスは年齢的に少し無理があるかと思ったのですが、ここでは一緒に登場させてしまいました。

15~16歳くらいの少年時代。こんな時代もあったのですね。


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