21)禁断の果実
「想像していたよりもずっと豊かな暮らしをしていたのですね」
朝早くから、代わる代わるひっきりなしに顔を覗かせる様々な姿形の一風変わった客人たちを横目にスタルゴラド騎士団・第三師団長、ゲオルグ・インノケンティは呟いた。
「そして……とても賑やかな」
―――――羨ましい限りです。
最後に漏れたその言葉は、都会育ちのゲオルグの本音のようなものであったのだろうか。その心は分からない。
人とは異なる時をその身に刻む獣たちの古めかしい言葉が、広くはないこの森の小屋の木組に反響する中、リョウは、穏やかな顔をして目を細めている白皙の麗人の横顔をそっと盗み見た。
ユルスナールが、シーリスからの呼び出しに渋い顔をしながらも北の砦へと帰った翌日、リョウが暮らす森の小屋は、これまでとは違った意味で賑やかなことになっていた。というのも、森に暮らす沢山の愛すべき友人たち(しかも皆、程度の差こそあれ艶やかな毛皮を身に着けている)が折につけ、顔を覗かせるようになったからだ。
森の獣たちも小屋の方から漏れてくるこれまでとは違う真新しい【人】の匂いに興味を持ったようだった。ユルスナールが滞在中にも小鳥たちが朝の挨拶に来たり、外で洗濯ものを干しているリョウを見つけては、木立の中から丸々と太った栗鼠が声を掛けたりとしていたのだが、厳めしい体つきをした強面の男がいなくなった途端、様々な獣たちが小屋の中にまでやって来るようになった。
獣たちの言葉を解さないユルスナールが身に纏う気は、たとえ男が寛いでいたとしても、小さな彼らには不思議と威圧感のようなものを与えていたらしかったのだ。高潔さを謳う第七師団長の誉に相応しく、ユルスナールの心は真っ直ぐで、清いことは感じ取れたが、かといって気安く近寄れるような感じではなかったらしい。
その一方、引き続きガルーシャの書斎整理の為に残ったゲオルグは、彼らの言葉を理解するので、ユルスナールに比べると獣たちにとっては取りつき易かったようなのだ。そのようなことを、ひょっこり顔を出した貂から聞いた時、リョウはその獣たちが持つ独特の感覚を面白いと思った。リョウにしてみればユルスナールよりもゲオルグの方が癖があると思っていたから。
それはさておき。そんなこんなで、森の小屋には今日も朝から色々な獣たちが出たり入ったりをしていた。窓は開け放たれているし、空気の入れ替えの為に玄関の木戸も開けている。長閑なものだ。
そして、この日、リョウの元を森の憲兵でもある狼のアラムとサハーが、訪ねてきていた。この灰色に青みがかった体毛を持つ大きな二頭の狼は、リョウにとっては薬草採取の師匠だ。
『リョウ、森に入らぬか?』
二頭の内、年嵩であるアラムが言った。その隣でサハーもどこかそわそわと尻尾を揺らしている。
『そろそろスフミへ顔を出す頃合いだろうて』
「そうだね」
アラムの言葉にリョウははたと思った。
王都で晴れて術師の認可を受けてから、スフミ村のリューバにはまだきちんとした挨拶をしていなかった。森の小屋に戻ったことと術師の資格を得たことは、顔馴染みの鷹であるイーサンに伝令となってもらい報せてはいたが、リョウは近いうちにスフミ村に顔を出さなければならないと思っていた。ユルスナールと共に。
リューバは、リョウにとっては母親のような大いなる存在だ。ガルーシャからだけでは得られない生活に根差した様々な慣習やしきたりなどをリューバから教わったのだ。先の手紙の中で、ユルスナールと一緒になることを最後に書き加えていたので、きっと驚いていることだろう。王都に出掛けて術師になったかと思いきや、急に結婚話が降って湧いたのだから。この報せを、もし、アクサーナが耳にしたならば、いや、きっとそうに違いないのだろうが、あの円らな橙色の瞳をこれでもかと見開いて、素っ頓狂な大声を上げたことだろう。
―――――リョウが、結婚ですって!?
相手はどこのどいつだ。立派な男なのか。まさか騙されたのではないか。
早とちりで暴走気味な所のあるアクサーナのことだ。きっと余りある想像力を逞しく展開させながら、鼻息荒く、リューバに詳細な情報を求めて詰め寄ったのではないだろうか。
そう言えば、この間の秋にデニスと結ばれたアクサーナは、この度、目出度くも懐妊し、母親になるのだそうだ。返す伝令で受け取ったリューバからの手紙の中には、お腹の中の赤ん坊が動くのが分かるようになったと記されていた。出産予定日は、順調に行けば今年の夏の初め辺りだろうということで、まだまだ先のことではあるが、アクサーナの家では大騒ぎ。特に最愛の末娘が嫁いですっかり涙もろくなった父親のクルスクは、祝い酒と称して村の男たちから酒宴の席に呼ばれることが多くなったようで困っているのだとか。アクサーナの嫁ぎ先のデニスの家でも両親が初孫の誕生を今か今かと待ち構えているらしい。
母親になるということで、アクサーナのお転婆が鳴りを潜めればいいのだろうが。リョウの元に届けられたアクサーナからの一筆書きの文面は、相も変わらずの調子だった。
今は、これから生まれてくる子供の為に産着作りをしている最中なのだとか。そして、新しい命を授かった喜びと慣れない新米夫婦のてんやわんやの日常が、特徴的な丸みを帯びた字でしたためられていた。
行儀よく並んでいるかと思えるその文字が、所々跳ね上がったり、滲んだりしている。そこにリョウは、アクサーナの興奮と喜びを行間から感じ取った。
王都滞在中にリョウは、レースやらリボンやら綺麗な色合いの刺繍糸、そして飾り釦、飾り紐などを買い集めていた。リューバとアクサーナへの土産にしようと思ったのだ。年に一度から二度やって来るという行商人を取り囲む村の女たちの乙女のように上気した艶やかな頬を思い出したからということもある。
スフミ村の女たちは皆、手先が器用で裁縫が得意だ。その晴れ着に施される刺繍の素晴らしさは、スタルゴラド国内でも有名だった。なので、こういった原材料の方が喜ばれるだろうと思ってのことだった。
近いうちにスフミ村に顔を出したい。出来れば一緒に。ユルスナールが北の砦に戻る前にリョウはそう訊いていた。その申し出にユルスナールは一つ返事で頷き、あちらでの仕事を調整してから、リョウが日頃から世話になっているという村の術師であるリューバの元に挨拶に行こうと約束してくれた。
それはさておき。
リューバの所に顔を出すとなると薬草を見繕っておかなければならないだろう。ここの薬草園で栽培しているもので十分足りるのだろうが、またいつぞやストレールカを見つけた時のように新しい発見があればと思い、アラムとサハーの誘いに乗ることに決めた。
「ゲーラさんもいかがですか?」
一緒に薬草採りに森の中に入らないか。道案内は、この二頭の狼がしてくれる。この所ずっと書斎に籠りきりだったので、偶には気分転換に散策をしてみてはどうだろうか。
試しに誘ってみれば、ゲオルグは小首を傾げた後、鷹揚に微笑んだ。
「それは実に興味深いですね。是非、御一緒させてください」
「はい」
こうして、リョウとゲオルグは二頭の狼たちと共に森に入ることになった。
あるかなきかの獣道を生い茂る草木を掻き分けながら進んで行く四つの影。二つは横に長く、残りの二つは縦に長い。だが、全長だけを見ればその長さは大体似たり寄ったりだった。
役目を終えて次の世代に道を譲った枯れ枝、枯れ葉を踏みしめる軽い乾いた音が、しっとりと湿り気を帯びた青い空気の中に響き渡る。一見、静寂に満ちているかに思われるこの森は、実に豊かな音で溢れていた。生命の息吹そのものが、どっしりとした密度を持ってこの森中を満たしているのだ。
木々が地下から水を吸い上げる音、下草が僅かな光を求めて葉を伸ばす音、風に揺れる梢、無数の葉のささめき。そして、懐深い豊かな森を住処に生きる数多もの獣たち、鳥たち、虫たち。生きとし生けるもの全てが同じ理の中にあって、天文学的な程に長い時間(それを人は【悠久の時】と呼ぶ)の中で命を繋いで行くのだ。そこかしこで新しい命が生まれ、そこかしこで古き命が旅立って行く。一度として同じものなどない【死と再生】の無限円環。その理由を尋ねるものは、【ここ】にはいない。
森に入ったリョウは、いつもと同じ簡素な出で立ちだった。着古したシャツ、ズボン、そして上着の上から外套を羽織って、使い古した鞄を斜めがけにして背中に担ぐ。腰には愛用の短剣がベルトで固定され、右の太もも部分にもそれよりは一回り小さい短剣が巻かれている。鞄の中には、シャベル、ごわついた帳面に筆記用具、大小の布袋、水筒。薬草採りの際の必需品だ。それから上着のポケットには皮の手袋が無造作に突っ込んであった。
リョウの手には小振りの木の棒が握られていた。それで道なき道の下草を掻き分けたり、視界を遮るように伸びる枝を避けたりするのだ。
リョウの前には二頭の狼の姿がある。濃い灰色の艶やかな毛並みを持つのがアラムだ。そして背中に一筋、濃い青みがかった毛を持つ方がサハーだ。リョウの後ろをゲオルグが続いた。
王都で見掛けた時のような略式の軍服を隙なく身に着けた洗練された空気は、今のゲオルグにはなかった。着ているものは、農夫のような洗いざらしのシャツに上下。その上に外套代わりに少し地の厚めのストールを巻いている。そのストールの上に乗る横顔は、優美な印象を与えるもので、直ぐ下にある素朴な衣服とはどうもちぐはぐな感じを受けるようだったが、その微妙な違和感も不思議とこの男には似つかわしく思えるようには、リョウの目にも慣れてきた頃合いだった。
森に分け入る一行は、言葉を発することなく黙々と進んでいた。他愛ないお喋りをすることは躊躇われた。奥へ奥へと進むにつれて、冒しがたい厳かな空気が濃さを増して行く。どこか神聖すらある大気に自然と心が寄り添い、同調し、そして大いなる見えない力に頭を垂れる。体中の細胞が畏怖と歓喜に打ち震えるかのようだ。圧倒的な力を持ってこの場に君臨する森の木々。自分はここでは侵入者で、とても矮小な存在であることを強く意識させられる場だ。ここに分け入る者は、この場を統べる【人ならざる存在】にお目零しをもらっているに過ぎない。上手く口では言い表せないのだが、リョウはいつもそのような気分に陥った。
その感覚をゲオルグも今、感じ取っているのだろう。
「とても……気が濃い……純粋で、とても力強く………ここにある」
掠れたような囁きからゲオルグの興奮が伝わってきた。
この国の人々には、この森は神域だ。いや、徒に触れてはいけない禁域だろうか。この場には、人知では計り知ることのできない不思議な力が働いているのだ。邪な心を持つ侵入者は弾き返される。欲を持って荒らしに入ろうとした者には、容赦なく牙を剥く。苛烈な程に厳しい。
「ええ。この空気に慣れるのに、ワタシも少し時間が掛かりましたから」
リョウも同じく囁くように返して小さく微笑んだ。
本能に訴えてくる無性の懐かしさとここから弾かれてしまったという恐怖と悔恨。この身体に流れる血の部分が覚えているのだろう。感覚が時に理性を凌駕する。
ガルーシャに拾われてから初めてこの森に向き合った時のことをリョウは思い出していた。その時の感覚は、今でも意識の奥底に流れている。決して忘れてはいけない戒めのようなものとして。
だから、リョウにはゲオルグが感じているであろう形容し難い気持ちを恐らく全てではないが、理解出来た。
「なんというか………身が引き締まる思いですね」
―――――それも文字通りに。
そう言ってどこか苦笑を滲ませたゲオルグに、リョウは同意を示すように小さく微笑み返していた。
『リョウ、あそこを見てみるか?』
「ああ、そうだね。それはいい」
ちらりと後方を振り返ったアラムの声にリョウも喜色を浮かべて頷いた。
この道をリョウは知っていた。これまでこの二頭の師に伴われながら何度も踏んだ場所だ。鳥たちの鳴き声に混じって微かな水音が聞こえてくる。空気が一層湿り気を帯びてきた。むせ返るような青い匂い。野趣溢れる剥き出しの匂いだ。
森の中の空気は澄んでいる―――かつてはそのような言い方を耳にすることがあったが、実際の森は、【人】にとってはとても雑多で深い匂いの集合体だ。花の蜜の香り。風に漂う花粉の匂い。下草の匂い。土の匂い。木々の匂いもその種類によって香りが異なるのだ。
そして、ここからもう少し先に進んだ所にあるのは………………。
「ゲーラさん」
リョウは、ちらりと後ろを振り返ると、前方に見える大きな岩とそこに絡みつくように根を張る巨木の影の部分を指示した。
そこには、すらりと伸びた草が繁茂していた。特徴的な細いぎざぎざの葉が太い茎の周りに付いている。ヨモギに似た(と言ってもゲオルグには分からないだろうが)独特の青く甘い匂いが鼻先を掠めた。
「これは………まさか………」
ゲオルグは、ゆっくりと歩み寄るとその葉にそっと指を滑らせた。信じられないという顔をしている。
「はい。【ストレールカ】です」
柔らかく微笑むリョウの言葉にゲオルグは息を飲んだ。
「あ、気を付けてください。茎には硬い棘が沢山付いているので」
繁茂する茂みの中に手を入れようとしたゲオルグに注意を促す。リョウは持参していたもう一つの頑丈な皮の手袋をゲオルグに渡した。
「これを使ってください」
「ありがとう」
ゲオルグは、手袋をはめると群生する【ストレールカ】の葉を手に取り、検分を始めた。真剣そのものの術師としての顔が、そこにはあった。
小屋隣の薬草畑に生えているものは、ここから株分けをしたものなのだ。そう明かしたリョウにゲオルグは感嘆の息を吐いていた。
「元々は、こうして生えているのですねぇ」
ゲオルグのような王都の術師たちが扱うのは、専ら乾燥させた薬草だ。それも葉だけだ。薬草が生えているのは、大抵森の中や川の傍で、当たり前のことだが、人が集まるところには自生しない。この国で流通している薬草の殆どは、薬草採りを生業にする人々が採取し、それを然るべき店や問屋、取次の商人に売ったものだ。王都には、そういった薬草を専門に集め販売する薬種問屋が軒を並べていた。リョウが養成所で一緒に学んだリヒターもそのような問屋の息子であった。ゲオルグの所の第三師団では、然るべき入手先が確立されているだろうことは想像に難くない。そして、彼らも独自に研究の一環として栽培をしていることだろう。
この【ストレールカ】は、全ての富が集まる王都でも珍しい類に入る薬草だった。乾燥されたものでも滅多にお目に掛からない。金創(刃物による傷一般のことを指す)に良く聞く薬とされているので、とある筋では高値で取引されているらしい。軍部では広く知られているものでもあるだろう。毒草とされる【ジョールティ・チョールト】と同じようなものかもしれない。
ゲオルグも自生しているものを目にするのは、初めてだったようだ。
「ワタシも初めて見た時は驚きました」
これまで数株がひっそりと生えていたのは何度か目撃したことはあったが、このように群生する様はここで初めて出会った。アラムやサハーたちでさえ、珍しいと言っていたのだから、この場所を発見できたことはかなりの幸運だったのだろう。
「ゲーラさんの所では主に薬草の研究をなさっているのですよね」
そこでは勿論、このストレールカも対象として含まれているのだろう。
「ええ。最近では専ら薬草というよりも毒草の方に傾いていますが」
ゲオルグは地面に片膝を着くと手袋を脱ぎ、直接土を触ってその感触を確かめていた。それからゆっくりと周囲を見渡す。
「成る程。湿り気の多い場所。しかも日影が本来の生育場所ですか」
確認するように呟く。
「はい。強すぎる日差しの下では上手く根付かないようですね」
薬草畑の中でも影が濃く湿気の多い場所に株分けしたものを植えてある。繁殖は地下茎で、日が良く当たる場所では新芽が出ても直ぐに枯れてしまった。
その事を話せば、ゲオルグは顎に手を当てて何やら真剣に悩み始めた。もしかしたら、これを標本というか研究材料として持ち帰りたいと思っているのかもしれない。それも生のまま王都へ。そして、あわよくば第三師団管轄の薬草園に加えたいのだろう。
「凝固処理を施したら、もしかしたら大丈夫かもしれません。少し強めに呪いを掛ける必要があるかとは思いますが」
根丸ごとまでは分からないが、葉単位なら今の所有効であることは立証されている。
リョウの説明にゲオルグは相好を崩した。
「ああ。その手がありましたか。なるほど。試してみる価値はありそうですね」
そうこうするうちにふらりとどこかへ姿を消していたサハーが、何やら赤い実が沢山付いた蔓のようなものを口に銜えて戻ってきた。赤い色をした実は、縦長の球形で親指と人さし指で作った輪ぐらいの大きさだ。それが青い茎に重そうにたわわに実っていた。熟れているのだろう。ほんのりと絡みつくような重厚な甘い匂いが漂う。
果物でも見つけて来たのだろうか。
サハーは、リョウの傍まで来ると銜えていたものを地面にそっと置いた。
「サハー、それはなに?」
木苺の類とは違うようだ。随分と大きい。そっと指を伸ばそうとしたリョウの傍にアラムもやってきた。
『おお、これは【ニィジェーリ】の実ではないか。旨そうだ』
『ああ。よく熟れているのを見つけた』
『どれ、一つもらうか』
『ああ』
器用に蔓から実を食いちぎってそのまま咀嚼し始めた二頭の狼を前にリョウは虚を突かれた顔をした。
「【ニィジェーリ】の実?」
リョウはそれを知っていた。その実を乾燥させたものを。
その時、リョウはふいに思い出した。【ニィジェーリ】の実は蔓系の植物であると以前、ヨルグに教わったことを。そして、そのかなり特殊な使用用途を。
乾燥させた実は、この国では一般的に避妊に使われているのだ。そして、この実の成分には僅かながら催淫作用があることをリョウは身を持って経験済みだった。その時の一連の体験を思い出して、リョウは何とも言えない気分になった。
むしゃむしゃと音を立てて、二頭は上手そうに食べている。狼には関係がないのだろうか。それとも【生】であれば違うのか。
ごくりと嚥下してからアラムが顔を上げた。
『ああ。何だ、そなたは知っておったか。旨いぞ』
その隣で食い意地が張っているサハーは、もう二つ目を食べている。
リョウは、戸惑いの表情を浮かべていた。
「え、でも、それって【人】が食べても大丈夫なのかな?」
疑問を口にしても【人】でない狼たちには分からないだろう。案の定、返って来たのは呑気な声だ。
『さぁな。それがしは知らぬ』
『試してみればよかろう。大方、平気なのではないか?』
「アラムやサハーたちはなんともないの? その実を食べても?」
乾燥させたその実が人の間ではどのように使われているのか。その用途を口にすれば、二頭は顔を見交わせた。
『ほう? 催淫作用とな』
『なれど、それがどうして子種を絶やすことに繋がるのだ?』
「ああ、それはね。この実の中にある成分が、人の体内の生殖機能を一時的に低下させるんだって」
あの後、リョウは、ヨルグからその実際の効用を聞き、軍医のピョートルにもその辺りのことを確かめた。そして、小屋に戻ってからは、ガルーシャの書斎の中にあった植物図鑑と薬草関連の書物で確認もした。だが、その実に関する記述は、薬草として人が用いる場合は乾燥させたものについてばかりで、生のものを食べたらどうなるか、同じ作用をしてしまうのか。その辺りについては、どこにも書かれていなかった。
『人には獣のように発情期が定まっておらぬからな』
『ふむ、そのようなことなど初めて聞いたぞ』
むしゃむしゃと果汁を滴らせながら言ったサハーの口周りは、赤い汁塗れになっていた。何とも芳しい甘い匂いがする。美味しそうな匂いだ。
『面白きものだな』
「そうだね」
咀嚼を繰り返すアラムの口元を見て、リョウも思わず生唾を飲み込んだ。
『旨いぞ。ほれ』
目の前に艶々とした赤い実をぶら下げられて、リョウは食べてみたい欲求に駆られた。だが、ここで欲望に忠実になる訳にはいかない。干した実には催淫作用があったからだ。乾燥させたものは、生のものよりその成分が凝縮されているのだろうが、それでもリョウの場合は、通常の人よりも作用が強く出る傾向がある。ここでそんな事態になったら大変だ。なにせ頼りになるユルスナールは北の砦に戻ってしまっているのだから。
躊躇っているリョウをからかうようにサハーまでもが目の前に赤い実を銜えて突き出して来た。
鼻先に赤い実を二つぶら下げられて、リョウは、口を尖らせて低い唸り声を上げた。恨めし気に二頭を代わる代わる見る。
「ううううぅ、アラムもサハーも意地悪だ」
『何を言うか。毒ではないぞ』
『ああ、旨い。残念だな。かような美味を食せぬとは』
「………サハー」
そうして二頭と一人で妙な攻防をしていると、【ストレールカ】に夢中になっていたゲオルグが根ごと掘り返した数本を手にしながら振り返り、そこで展開されている光景に目を瞬かせた。
「何をやっているんですか?」
だが、直ぐに狼たちが銜えている赤い実に気が付いた。
「おや、それはもしかして。【ニィジェーリ】の実ではありませんか」
さすがゲオルグは一目でそれが分かったようだ。
「しかも生のものですね。珍しい」
そう言って蔓に絡まる実を手に取った。
『旨いぞ』
アラムの声にゲオルグは微笑むと躊躇い無くその実に齧りついた。
「ゲーラさん!?」
吃驚するリョウの傍でゲオルグは咀嚼を繰り返した。そして、ご丁寧にも指に付いた果汁をぺろりと舐める。
「だ、だ、大丈夫なんですか?」
「中々美味しいですね。甘くて瑞々しい」
ぎょっとしたリョウの鼻先でゲオルグは呑気に微笑んだ。信じられないとばかりに唖然としたリョウを前にゲオルグは小首を傾げて見せた。
「リョウ、あなたもおひとついかがですか。美味しいですよ?」
「え、いや、その、生なら…その…平気なんですか?」
動揺の余りにしどろもどろになれば、ゲオルグは急に悪戯っぽい顔をした。
「どうでしょう?」
「はい?」
灰色の光彩がきらりと怪しく光った……気がした。思わずあとじさった小さな身体にゲオルグはからりとした笑いを零す。
「冗談ですよ。生のものはその効果がないと言われています。あの効用は熟成されていないと出て来ないのですよ」
どうやらからかわれたようだった。
通常は、森や林の奥に生息する蔓化の植物なので、人が生のまま食べる機会に接するのは稀である。だから生に関しては殆ど知られていないのだ。
そう補足的な説明を加えたゲオルグは、手に取った赤い実をリョウへと差し出した。
「どうぞ」
「あ、りがごうございます」
リョウは、恐る恐る赤い実を手に取るとそれを眺めてみた。艶々とした表面は、日の光を浴びて輝きを放っている。鼻先を熟れた果実特有のまったりとした甘い匂いが掠めた。
次の瞬間、リョウはその実に齧りついていた。どうやら大きな種があるようで、直ぐにガリと硬い感触に当たった。種を避けるように周りの果肉部分を歯で削いで行く。もったりとした舌触りのやや酸味のある不思議な味だった。匂い程、美味しいという感じはしない。
『お、当たりを引いたか』
リョウの掌の中に残った親指程の種を見て、アラムが愉快気に口にした。そう言えば、二頭の狼たちはこの実を丸ごと食べていたが、種を噛み潰すような硬い音はしなかった。
「ワタシのには種が出て来たよ」
『これまたえらく大きいな』
サハーもそんなことを口にする。
二頭の話では、実の中には種があるものとそうでないものがあるのだそうだ。そして、実の熟し具合によってその種の大きさもまちまちなのだとか。リョウが口にしたのは偶々、大きな種を持っていたものだったようだ。ゲオルグが食べた実にも種は無かったらしい。
リョウはその種を暫く眺めてから、鞄の中に入れてある小袋の中に入れた。小屋に戻ったら、畑の端にでも植えてみようかと思ったのだ。
「育ててみるんですか?」
その様子を端から見ていたゲオルグは、どこか可笑しそうに言った。
「はい。芽が出てきたら面白いかと思いまして」
「そうですか。この実は成長が早いと聞きますし。確かに沢山あった方が便利ですものねぇ」
―――――まぁ、その必要もない気がしないでもありませんが。
ゲオルグは感情の読めない曖昧な笑みを浮かべると意味あり気に片目を瞑ってみせた。
リョウは咄嗟に何を言われたのかはよく理解できなかったのだが。種が入った小袋をいそいそと鞄の中にしまい込んだ所で、唐突にゲオルグが仄めかしたことに思い至った。そして、決まり悪げにゲオルグを斜交いに見上げた。
「いや、別に………そういう目的の為に……ではなくてですね」
これを乾燥させて使う為に植えようと思ったのではない。
「ええ」
「主に植物学的と言いますか………薬草学的な見地から………ですね」
主に学術的な興味だ。
「ええ」
否定をしようとして言葉を紡ぐとどうも言い訳がましく聞こえてしまう。対するゲオルグは、全てを見通していると言わんばかりの生温い笑みを浮かべていて、リョウは益々居た堪れない気分に陥ってしまった。
リョウは、気分を変える為に態とらしく咳払いを一つした。
「まぁ、とどのつまり………そういうことです」
「そうですね」
ゲオルグは、からかうような笑みを更に深くしただけだった。真面目くさった顔をしていたリョウも次第に芝居掛かった自分に可笑しさが込上げてきて、気が付けば二人して顔を見交わせて、小さく肩を震わせていた。
それから二頭の師匠に伴われながら、もう少し森の中を散策して歩いた。その後も収穫はそこそこあって、用意していた大小様々な袋は直ぐに薬草で一杯になった。春の初めに新緑を出す柔らかな新芽【ノーヴィンキィ】を少々採取することが出来て、リョウは顔を綻ばせた。この薬草は、お茶に混ぜると清涼感溢れる喉越しになるのだ。
ゲオルグとは道々薬草談義をしながら歩いた。そこにアラムとサハーたちが狼たちの意見を加えてくれる。ゲオルグとしてもリョウとしても中々に有意義な時間を持てた。
小屋に戻ってから、昼食を挟んでゲオルグは書斎整理を再開し、リョウは採取した薬草の整理をしてから、ゲオルグの手伝いをした。
こうして森の小屋での和やかな一日が過ぎて行った。
今回は「森の小屋」での様子をお伝えしました。【ニィジェーリ】の実は、「幕間~北の砦にて~」の中の「補佐官のかくも難儀な一時」で登場したものです。
元々は術師同士の薬草談義を掘り下げた話にする予定だったのですが………やっぱり違う流れになってしまいました。




