19)一雫の慕情
タイトルは「ひとしずくのぼじょう」
前回と時を前後して「森の小屋」での続きです。それではどうぞ。
あなたがこの手紙をお手になさっておられる頃、わたくしは住み慣れた王都より発ち、恐らく隣国【セルツェーリ】の地を踏んでいることでしょう。馬車に揺られながら眺める景色は、鄙びた長閑な農村のそれで、どこまでも続くなだらかな田園と地平線を横切る森の木々ばかりで、わたくしは退屈の余りに欠伸を漏らしているかもしれません。
母の故郷であるその土地は、わたくしには馴染みがなくとも、すぐに新しい生活の基盤となることと思います。
あなたもよくご存じの通り、わたくしは大変柔軟な思考の持ち主でございますから、繊細で傷つきやすいと錯覚されがちな外見を隠れ蓑に、図太くも生きてゆくことでしょう。
そして、新しい場所で新しい愉しみを見つけ、過ぎ去った日々など欠片も思い出さぬやも知れません。ええ、きっとそうに違いありませんわ。
あなたは清々しておられるかもしれませんね。あなたを悩ませていた煩わしい種が一つ減ったことになるのですから。
ですが、それは、わたくしとて同じこと。これで漸くわたくしは長年の悩みから解放されるのです。わたくしの心は、馬車から見える車窓の風景に重なり、きっとあの美しい碧空に羽を伸ばしていることでしょう。
相変わらず性悪だと御思いになりましたでしょう? それでよろしいのです。わたくしは、あなたにとっては面倒な頭痛の種。いえ、もしかしたら、そこまで気を配る程のものではなかったかもしれませんわ。だって、わたくしはいつも門前払いでしたから。
ただ一つ、心残りがあるとすれば。
あなたに面と向かってお別れの挨拶が出来なかったことでしょうか。勿論、元々湿っぽい空気がお好きでないあなたは、わたくしの訪問をお受けにならなかったでしょうから、それは、やはり、わたくしの中での想像でしかないのでしょうが。それでも最後に一言、言葉を交わしたかったというのは、わたくしの正直な気持ちです。
そうは言っても、あなたのことですから、わたくしとは話すことなどないと仰ったかもしれませんね。
ですが、わたくしと致しましては、これより他国に(といってもこの血に流れる半分はわたくしにとっても故郷と言うことになるのでしょうが、正直な所、わたくしにはなんの感慨もありませんの)嫁ぐことになったわたくしの覚悟を知ってもらいたかったのです。
わたくしは、全てを諦めたわけではありません。この巡り合わせ(人は時として運命と呼ぶものです)を呪ったこともございません。
ただ、最後に。そうですね。あなたに出会えたことを、運命を司る女神【リュークス】に感謝したくなってしまったのです。柄にもないことをしていることは自覚しておりますわ。それでも最後に、わたくしは己の気持ちに正直になってみたかったのかもしれません。それが、あなたに反発してばかりであったわたくしの唯一の良心。
今回のことは、わたくしが自らの意思で下した決断です。そこに嘘偽りはございません。
ですが、また、もし、全てが全く違っていたらと夢見る幼子のように莫迦げたことを考えてしまうことも確かなのです。
泰然自若としておられるあなたは、この先、何があっても揺らぐことがないでしょう。それは、わたくしにとっては誇りであると同時に、わたくしの中にある弱く浅はかな心を刺激し、苦しめることでもありました。
それでもわたくしは、自由に羽ばたくことの出来る翼をこの背に持っていると信じております。わたくしは、一時は籠の中の鳥になるやもしれませんが、生まれ育った故郷である森を忘れたりはしないでしょう。それを今後は唯一の誇りとして生きて参る所存です。
気が付けば長くなりましたね。そして、また、しょうもないことであなたを煩わせてしまうのでしょう。
でもきっとこれが最後ですから。どうぞ大目に見てくださいませ。
あなたにリュークスの加護があらんことを。遠く離れた異国よりお祈り申し上げます。
敬愛するガルシーク・マルメラードフ さまへ
あなたの出来そこないの生徒 F・C より
すっかり赤茶けた紙の上に綴られていた青黒い文字は、その表面に揺らぎ始めた淡い緑色の光の中に徐々に溶け出して行った。滲むように全てが結合し、そして、ぼんやりとした光の渦が沸き上がる。縦に長い楕円形上になったその表面に、雑音の多い切れ切れの映像が浮かび上がっては消えた。
深い孔雀石のような緑色をした瞳の奥に、懐かしい灰色の瞳が映っていた。記憶の中にあるよりも格段に若々しい男が、人を食ったような笑みをその口元に刷く。それを向けられた若い娘は、一見、腹立たしそうな顔をしたが、すぐさま挑戦的に相手を見つめ返した。
二人の男女は話をしているようだった。木漏れ日が点々と鮮やかな影を落とす木立の中で。林の中を散策しているのだろうか。女が手にした白い日傘が、眩しいくらいにくるくると回る。
どこかの別荘地かなにかだろうか。どんな情景なのかはなんとも判じ難かったが、そこに流れる空気は、ほんのりと温かで優しくて、そして、何故か、胸の奥が軋むくらいに切ないものだった。
―――――安らかな眠りを。
【ザクリィーチィ】
小さく呪いの言葉が紡がれた。翳した掌の中でぷらりぷらりと揺れていた雫の形をした緑色の石をそっと小さな手が握り込む。
やがて、ぼんやりと軽やかに笑う男女の姿を模していた虚像が掻き消えた。そして、その場所は、所々埃を被った様々な古い本が乱雑に積み上げられた雑然とした空間に戻っていた。
それは、森の小屋に二人の客人を迎えて三日目の出来事だった。目下、ガルーシャの書斎の蔵書類の分類と目録作りをリョウは手伝っていた。主導権を握るのは、術師としての資格を持ち、幅広い専門知識に旺盛な探究心をもつゲオルグだ。
ゲオルグは、ガルーシャの書斎へ足を踏み入れた瞬間、雷に打たれたように目を見開いて、それから舐めるように壁を埋め尽くす様々な書物の背表紙を見て行った。その瞳は言い表しようのない歓喜に輝いていた。男にしてはか細く繊細な指が一冊の本を取り出す。そのままパラパラと頁を繰りながら、
「これは……すごい」
静かなる興奮に彩られた声が憚らずに漏れ出ていた。そして、その本を手にしながら、もう片方の手はまた別の本へと伸びていた。
やはりここには見る人が見れば、宝の山とも言うべき貴重な書物類で溢れているのだろう。ここにあるものは、その価値を知る人が利用してこそ、活かされるのだろう。ゲオルグのような術師が遥々やって来てくれたことにリョウは心の中で感謝した。
元々ガルーシャは、己が書斎に関しては病的なまでの神経質さを発揮して、それらをガルーシャなりのやり方で分類し、整理していた。一見、雑然とした空間に見えるこの場所は、驚くほど緻密に仕分けられ、整理されているのだ。
この小屋の中では一番広い部屋の天井から床まで伸びた棚一杯に様々な書物が並んでいた。この国スタルゴラドのみならず様々な国の歴史書、古い伝説の類を集めたものから動植物に関するもの。地質学の書物。人の体や病に関するもの。それから術師の様々な能力とその発現に関するもの。総論から多岐に渡る専門分野を掘り下げたものまで。それらは全てガルーシャ・マライと呼ばれた稀代の一術師(学者)が、己が興味と情熱のままに蒐集したものだった。勿論、これらの中にはガルーシャ自ら記したものも紛れている。
リョウがこれまでの短い共同生活の中で見せてもらったのは、文字を覚える為に使ったこの国の神話の類と風習や生活様式を簡単に纏めた民俗学的な本、そして薬草関係の書物だった。あとはこの地域の地図ぐらいなものだろうか。
ガルーシャは大抵この書斎の大きな机に座って、前屈みになりながら肉付きの薄い骨張った指先で頁を繰っていた。リョウはその傍にある椅子に座って、ガルーシャがこの国の知識を得る為にと選び出した書物を読み、疑問に思ったことをその都度質問して行った。自分の考えを言葉にして(言い間違いはすぐに指摘される)声に出すことで、この国の言葉、言い回しを学んだ。そこで数多もの語彙と語句を沢山覚えたのだ。
地道な積み重ねの途方もないくらいの時間、時に絶望しそうになったり挫けそうになったりする心を宥めすかし、時には鼓舞しながら。そうやって一つ一つ小さな階段を上って行った。吸収することに一生懸命であったことも幸いするだろう。そして、ガルーシャが寛容で辛抱強く付き合ってくれたことが何よりも大きかった。
ガルーシャは、いつも淡々とそこにあった。徒に励ましたり、楽観的な言葉を吐いたりはしなかった。それがどんなにかリョウの心の支えになったかは知れない。焦らなくてもいいのだ。自分の速度でやっていけばいいのだとガルーシャは教えてくれた。
ガルーシャの書斎にあった書物は、大まかに五つに分けられた。主に毒草などの薬草関連の書物は、ゲオルグが所属する第三師団へ。歴史書、雑学、術師に関する一般的なものは、王都の術師養成所へ。リョウが自ら勉強の為に残しておきたいと思うものを手元に。そして、人目に触れてはいけないと思われる類のもの。この四番目に関しては、書物の一つ一つにガルーシャ自ら術を掛けていたようで(封書に使われる印封を更に強固にしたようなものだった)その術を解かない限り、中を見ることは出来なかった。
この四番目に関しては、リョウとゲオルグが術式を具現化させる呪いを唱えながら触れれば、ぼんやりと青白い光を纏って反応を返した。その選別は意外に早く終わった。元より禁書と目されるような類のものは多くなかったからだ。
そして、これら四つのどれにも属さない、要するに直ぐに分類訳が出来そうにないものは、五番目の保留案件として纏めて置くことにした。
そうやって取り敢えず五つに分類したものを精査してから、振り分け、最終的にその目録も作成しておくことになった。
そうして、一冊一冊その中身をざっと改めながら、付いた埃を拭ったりしている時のことだった。
リョウが何気なく手に取った書物の中から一枚の紙が滑り落ちてきたのだ。その本の表題には【過ぎし日の物語】と書かれてある。中を捲って確認すれば、この国・スタルゴラドに伝わる古い伝承を集めた一冊のようだった。リョウにとっては馴染み深い【夜の精】について記した項目もあった。
はらりと落ちた紙をリョウは手に取った。経年に赤茶けてごわついたものだった。四つ折りにされていたものを何気なく開いてみる。ガルーシャのメモのようなものかと思って中を見れば、それは手紙のようなものだった。
リョウはそのまま文面に目を通してみた。所々インクが掠れ、達筆な程に癖のある字が流れるように綴られているので、その内容を読み取るのは中々に至難の技だった。
顰め面をしたり、所々言葉を口に出してみたりしながら最後まで目を通す。そして宛名の部分にリョウは目を留めた。
ガルシーク・マルメラードフ様とあった。送り主は、F・Cという名前の頭文字だけ。それでも中の文面(動詞の過去形の部分)から、この書き手が女性であることは分かった。
ガルーシャ宛ての手紙だろうか。ここにこうして挟まっているということは、恐らくそういうことなのだろう。手紙の内容は、何だか屈折して回りくどいような感じで余り要領を得なかったのだが、他国に嫁ぐことが決まった女性が、敬愛するガルーシャに別れを告げる為にしたためたもの。そんな風に思えた。
だが、どうしてだろう。強がって憎まれ口のように辛辣さえある言葉が紡がれているかと思いきや、その底辺には、このガルシークという男を慕い、叶わぬ恋に身を焦がす切ない女心のようなものが滲み出ているような気がしてならなかった。
ガルシーク・マルメラードフというのは、もしかしたらガルーシャ・マライという男の本名なのではないだろうか。ガルーシャのような術師は、皆、徒にその本名を口にはしないのだと言っていた。名前と言うのは、その者を縛る唯一の認識符号であるから。相手に都合よく利用されない為にも、本名は決して名乗らない。それが術師の基本的姿勢だと教わった。
「リョウ? どうしました?」
広くはない室内で書籍の選別を行っていたゲオルグが、不意に静かになった背後を振り返れば、そこには、床の上に膝を着き小さな赤茶けた紙を手にしているリョウの姿があった。何か真剣な表情で考え込むように口元に手を当てている。ゲオルグの声は、どうも素通りしてしまったようだ。
そうこうするうちに、
「ゲオルグ、養成所向けの方は向こうのテーブル下に置いておいたぞ」
専ら、ここでは書物類を運んだりといった主に力仕事の雑用をしているユルスナールが顔を出した。
「ああ。ありがとうございます」
半ば事務的に答えを返していたゲオルグの視線は、床に腰を下ろすリョウに向けられていた。そこでユルスナールもいつもとは違う様子に気が付いた。
「リョウ? どうかしたのか?」
「あ、そう言えば」
「おい、リョウ?」
だが、リョウは深く己が思考に囚われていたのか、急に顔を上げると立ち上がり、ガルーシャの書き物机にある右側の上から三番目の引き出しを開けた。
「あった。これ…………」
リョウがその手に取り出したのは、小さな楕円形の形をしたペンダントだった。差し込む日の光に反射して鈍く輝く金色は、所々錆びかかっていた。親指の爪程の大きさのそれは、ロケット型になっており、中が二つに開くようになっていた。
リョウは目を閉じ、小さく息を吸い込むと開封の呪いを口にした。そうして、小さなロケット部分を左右に押し開くと、その中からは鎖の付いた小粒の雫の形をした孔雀石のような濃い緑色の石が揺れて飛び出して来た。
リョウの目の前でその石が緑色の強い光を放った。そして、拡散しかけた光りが再び中央に集まって来たかと思うとぼんやりとした映像のようなものを切れ切れに浮かび上がらせ始めたのだ。
そして舞台は冒頭に戻る。
そこに現れた映像は、雑音が多く所々掠れていた。大きく揺らいで膨張と収縮を繰り返す。その中に描かれていたのは、にこやかに微笑むどこか勝気な顔をした若い女性とその前で飄々とした顔をして肩を竦めた記憶の中にある男の格段に若い姿だった。
「…………ガルーシャ?」
リョウの口からは故人の名前が漏れていた。皺が全くない艶やかな目元に口元。それでも少し吊りあがり気味の灰色の瞳とそれを挟む高い鼻梁は間違えようがない。
王都での術師の最終試験の時よりも格段に若い姿だった。もしかしたら、今のユルスナールや自分よりもずっと若いかもしれない。
やがて、その淡い光は収縮し、掻き消えていった。
立ち尽くしたまま、ぼんやりと消えて行ったその光の跡を見つめていれば、リョウの後ろにユルスナールが立ち、両腕を前に回してそっと抱き寄せられた。
「リョウ?」
案ずるように囁かれた己が名前に、リョウは我に返って後ろに立つユルスナールの顔を見上げた。
「どなたかの【記憶】に触れたんですか?」
同じように静かに近づいてきたゲオルグに、リョウは手にしていた赤茶けた手紙と深い緑色の雫型をした石がぶら下がるロケット型のペンダントを掲げて見せた。
「多分………そうかも知れません」
リョウが差し出した手紙をゲオルグは開いた。その中を一読すると、男にしては繊細で艶やかな顔にどこか苦笑に近い微笑みを浮かべていた。
「これは、もしかしなくとも恋文の類でしょうねぇ。しかも、かなり古い」
そう言ってユルスナールに渡す。ユルスナールもその中身をざっと流し読んでから、同じような結論に至ったらしかった。
「だろうな」
「ガルシーク・マルメラードフというのは、ガルーシャの本名でしょうか?」
リョウの問い掛けにゲオルグとユルスナールは高い位置で顔を見合わせてから微妙な顔をした。
「だろうな」
「ええ。これは憶測の域を出ませんが、この手紙がここにあるという時点で、そのように考えるのが妥当でしょう」
「ま、ガルーシャにもそういう時代があったと言うことだろう」
リョウは、なんだか触れてはいけないものに触れてしまった気になった。あのガルーシャがこうして本の合間に挟んでおいた手紙。不要な物ならばすぐにでも焼却処分するであろうに、それをせずにこうして本の間に挟んでいた。しかも【過ぎし日の物語】という表題のこの国のお伽噺の中に。
そして、ガルーシャが机の中にしまっていたこのペンダントもそうだ。これを見つけたのは、偶々のことだった。ガルーシャが旅立ってから後、ちょうどスフミ村でアクサーナの婚礼が開かれる前辺りに探し物をしていて、ガルーシャの机を開けた時に発見したのだ。その時、引き出しの奥の方にこのペンダントが剥き出しのまましまわれていた。その時は別段、気にも留めなかったというのに。不意にこの手紙を読んで、リョウはそのペンダントを思い出していた。
光の粒子が描く映像の中に現れた女性は、このペンダントの中にあったような深い緑色の瞳をしていた。もしかしたら、これはあの女性の贈り物であったのかもしれない。他国へ嫁ぐことが決まった女性が、最後にしたためたガルーシャへの手紙。当たり障りのない挨拶の言葉の下に幾重にも塗りこめられていたのは、紛れもない思慕と恋情だった。
そして、これを捨てずに取って置いたガルーシャ。
リョウは、そこで緩く頭を振った。もうそれだけで十分だろうと思ったからだ。若かりしガルーシャとその女性の間に何があったかは分からない。だが、それは、リョウが詮索するようなことではないと思った。
その日の夕食も同じように和やかにテーブルを囲んだ。森の奥深くにある己が住処へと帰ったセレブロを抜いて、リョウとユルスナール、そしてゲオルグの三人でささやかな夕餉を囲む。
ミルク粥の【カーシャ】を煮詰め、【ロージィ】の粉を水で捏ね円盤状にしたもので包み、上から【シィール】をたっぷりとかけてから【ペーチカ】で焼いた【ピーラッカ】をパンの代わりにして、【カプースタ】が沢山入ったスープ【シィー】を主采にした。以前、小川で釣った白身魚を干したものを出汁に入れてあるので旨味もある。後は、塩漬けにしておいた保存食の【グリビィ】に薬草園に生えている香草を混ぜたサラダ。茹でた【カルトーシュカ】を潰して、【ソーリ】と【マースラ】で合えたもの。素朴だが、ここでは精一杯の持て成し料理だ。
台所でリョウが食事の準備をしていると先程からユルスナールは所在無げにうろうろとして、何か手伝うことはないかと言った。
リョウは器用にガルーシャから引き継いだレント特製のナイフを手に【カルトーシュカ】の皮むきをしていた。直ぐそばの鍋には【カプースタ】がほんのりと甘い匂いを出して煮えている。その下の【ペーチカ】では【ピーラッカ】の上にたっぷりと振りかけられた【シィール】が焼ける香ばしい匂いがしていた。
「お腹が空きましたか? もう少しですから待っててくださいね?」
「何か手伝うことはないか?」
「大丈夫ですよ」
そわそわとどこか落ち着きの無いユルスナールをリョウは笑った。図体ばかり大きいが、その様子は腹を空かせた子供のようであったからだ。
水は汲んでもらったし、必要な野菜類は畑から取って来て既に洗ってある。後は、今皮を剥いている【カルトーシュカ】を茹でて味付けをするくらいだ。
「ゲーラさんは?」
「ああ。まだ書斎だろう」
「そうですか」
ゲオルグは、ここに滞在中、その殆どの時間をガルーシャの書斎で過ごしていた。そうやって時の経つのを忘れてしまうぐらいガルーシャの痕跡に熱中しているようだ。
ゲオルグは、初め、ここでの滞在期間を十日位に見積もっていたようだ。書斎の整理と目録作りをする傍ら、王都方面(恐らく第三師団のある【アルセナール】と術師養成所だろう)に伝令を飛ばしていた。きっとここで振り分けた書物を運ぶ算段をしているのかも知れなかった。
「ルスランは、まだ大丈夫なんですか?」
鍋の中に剥き終えた最後の【カルトーシュカ】を入れると、リョウは手にしていたナイフを洗い、まな板を軽く濯いだ。
今日の昼間、第七に所属する伝令の鷹のイサークが、ここにやって来たのを思い出したのだ。イサークの話では、ユルスナールを呼び戻す為の連絡であったと言うことだ。
くつくつと煮える鍋の下に置かれた発熱石の温度をもう一段低く下げ、小さな皿でスープの味を見た後、振り返ったリョウに、ユルスナールは、どこかばつの悪そうな顔をした。
「イサークが飛んで来たでしょう? 向こうで火急の用事が出来たようですものね」
「ゲオルグは、まだここにいるんだろう?」
「ええ。恐らく、元々【デシャータク】は予定していたようですし。でも思いの外、捗っているようですけれど」
不意に黙りこくったユルスナールにリョウは小さく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ルスラン。ゲーラさんはあの通りですし、ワタシも色々とやることがありますから」
淡々と同じような日常が続いて行くだけだ。
呼ばれているのだろう。戻って来いと。恐らくシーリス辺りに。ユルスナールはそれらを無視してここに残っていたいのかも知れないが、あのシーリスが態々伝令を飛ばすくらいだ。それは北の砦にとっては、のっぴきらぬ状況であるのだろう。
ユルスナールとてそのくらいは十分承知しているのだろう。だが、頭では分かっていても、後ろ髪引かれる部分が多々あるのかもしれない。
「なんだ、リョウ。随分と素っ気ないな。俺に早く帰って欲しいのか?」
拗ねたような顔をしたユルスナールをリョウは笑った。
「もう、どうしてそんなことを言うんですか。仕事なら仕方がないでしょう?」
リョウとてユルスナールと一緒に居たいのは山々だが、仕事が絡むのならば仕方がない。物事の優先順位はしっかりと把握している積りだ。業務は完遂してこそ然るべき。そう、いつも言っているのはユルスナールの方だ。
だが、簡素な木の椅子に長い脚を持て余すようにして組んでいる男から漏れてくる空気は、駄々をこねている子供のような不機嫌さそのもので、リョウは、内心、『仕方がないなぁ』と思いながらも穏やかに微笑んだ。
「ワタシだって、ルスランがいなくなるのは淋しいですよ。とても。でも、お仕事は大切ですからね。シーリスが態々伝令で知らせて来たくらいですから。ね? だから、そちらで用事を済ませて、まだ時間があるようでしたら、ここに戻って来てください」
―――――待っていますから。
そう言って微笑めば、男と言うのはかくも単純な生き物である。
「そうだな」
ユルスナールは、見事なまでに方針転換をして、リョウが言う通りにあちらでの用事を直ぐに済ませてから、またここに戻って来ようという風に決めたようだった。
リョウは、余りにも単純すぎる男の気持ちの変化に内心笑いを堪えたのだった。
その後、食事の準備が整い、テーブルの上に並べられたささやかな料理を前に夕食を取っていると、刻んだ白身魚と【カプースタ】の入ったスープ【シィー】を啜りながら、ゲオルグが、思い付いたというように顔を上げた。
「そう言えば、さっきからずっと引っ掛かっていたんですけれど」
そう前置きをしてから、ゲオルグは対面に座るユルスナールを見た。
「ルスランは、【マルメラードフ】という家名に心当たりはありませんか?」
ガルーシャ宛てと思しき手紙の中に書かれていた家名だった。
ユルスナールは、熱々の【ピーラッカ】を手で摘み一口、熱に伸びた【シィール】をそのままにゲオルグの問い掛けに眉を潜めた。そして、伸びた【シィール】を器用に口の中に入れて咀嚼をし、【チャーシュカ】の中に入ったお茶を飲む。男らしい太い首の喉仏がゴクリと動いた後、
「そう言えば……………」
「ええ」
「宮殿での噂ならば……耳にしたことがある」
「ええ」
ユルスナールが慎重に言葉を選ぶ中、ゲオルグが穏やかに合槌を打つ。
「確か……女系の一族だと言う……あそこか」
「ええ」
「…女系?」
「ああ」
ユルスナールとゲオルグの話では、当主は代々女性が立つということだった。代々、男(長子)がその一族を継ぎ、束ねるというこの国の貴族の風習から見ればかなり変わっていると言えるだろう。
その一族は、王都の貴族の中では余り表舞台には出て来ないのだと言う。当主が代替わりをする時に、【ツァーリ】への謁見をするそうだが、その多くは謎に包まれている。何でも歴史ある古い一族ということだが、宮殿への出仕は、普段していないようだ。東側の隣国【セルツェーリ】と大きな川を隔てて国境を接する辺りに広大な所領を持ち、平生はその所領に建つ館で暮らしているらしい。全てが【らしい】【ようだ】という憶測の中に留まっている。
「女性が当主となり、家を継いで行くのですか?」
「ああ。そうらしい」
リョウの問い掛けにユルスナールが静かに首を縦に振った。
「では、そこで生まれた男の子は………」
他家へ婿養子に入ったり、その所領で一生を終えるのだろうか。
「……恐らく」
いつになく歯切れ悪く、曖昧に微笑んだゲオルグを見遣れば、ゲオルグはすり潰した【カルトーシュカ】を木の【ローシュカ】で口に入れ、『美味しい』と笑みを深くしてから、首を傾げた。癖の無い金色の髪がさらりと揺れる。
「殆ど王都の政治には関わりを持たない為、謎の多い一族とみなされているのですよ」
「表に出てくるのは、女当主だけで、そこで生を受けた男たちについては、殆ど情報がない」
「でも、貴族ならば専門の学校や術師養成所に通ったりはしないのですか?」
リョウの問いにゲオルグとユルスナールは顔を見交わせた。
「いや、俺たちの時は、そういう話を聞かなかったな」
「ええ。そうでしたね」
すると、その一族の出身であるというガルーシャは、きっとその生い立ちも含めて、一般的な貴族たちからは謎めいていたのだろう。
そこでリョウは、不意にこの国の影の諜報部隊である【チョールナヤ・テェニィ】の受領【アタマン】の顔を思い出していた。
あの時、【アタマン】はガルーシャと血の繋がりがあると言っていたのだ。と言うことは【アタマン】も【マルメラードフ】の一族にその名を連ねているのだろう。
「そう……ですか」
その謎に包まれた一族に生を受けた男と交流を持っていた女性。そして、その女性の遺した一枚の手紙が、ガルーシャ・マライという謎の多い男の人生をまたほんの少しだけ明らかにしてくれた。
「今も昔も、ガルーシャは謎の多い人だったんですね」
リョウは【シィー】を啜りながら、小さく微笑んだ。自分のスープが入った器の中、その具沢山の上澄みの向こうに、『してやったり』と言う顔で微かに笑う馴染み深い男の顔が見えた気がした。
だが、何よりも、リョウにとってガルーシャは、家族のような存在だった。懐深く、情に厚い男だった。命の恩人、いや、それ以上の存在だ。王都の一部の貴族たちが思うような想像上の伝説の男ではなく、確実にここにあった血肉を持つ温かい人間だ。
「まぁ、そうとも言えるが、偏屈で型破りな男でもあっただろう。それでも人一倍研究熱心で、何よりも己の心に正直だった」
そうだ。ガルーシャは己が心に真っ直ぐだった。
昔を懐かしむように目を細めたユルスナールに、
「そうですね」
リョウも同意を表わすべく微笑んでいた。
ゲオルグは、時期は異なれどもガルーシャ・マライと深く交流を持った目の前の二人をどこか羨ましそうに思いながら、それでも、こうしてその教えが引き継がれてゆくであろう存在を頼もしく感じたのだった。そして、また、自分もそこに連なるべく、更なる精進をして行こうと気持ちを新たにした。
こうして、この日の夕食の時間は、三者三様、ガルーシャ・マライという大いなる存在を偲びながら、慎ましやかに過ぎて行ったのだった。
ガルーシャの書斎を整理していたら、ラブレターを発見してしまいました…の巻。
漸く、念願の料理シーンを入れることができました。ウロウロするユルスナールとそれを上手くあしらうリョウ。ここでその力関係の一旦が見えた気がします(笑) 【】内のカタカナ(ロシア語)には一応ルビを振ってはいますが、まぁ似て非なるものという風に考えて頂けると有難く(と言っても今更ですが)
それでは次回も引き続き「森の小屋」での模様をお伝えする予定です。ありがとうございました。
そういえば、この「森の小屋」での一日目の夜の話を「Insomnia」 の方で更新しています。