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Messenger ~伝令の足跡~  作者: kagonosuke
番外編集
221/232

17)かくも美しき世界

前回とは少し時間が前後します。少々趣向を変えて。


 初めて目にするかつての師の住処は、予想以上に質素で素朴なものだった。農家の納屋のような粗末な小屋。だが、木組はしっかりとしているようで、建てつけは頑丈に見える。長年風雨に晒されたその木肌は、鬱蒼と茂るこの森の木々の中に溶け込んでいた。その表面は所々苔むし、屋根の上には小さな草がひょっこり顔を覗かせている。その傍では鳥たちが戯れ、ご機嫌な様子で歌を(さえず)っていた。


 肉体労働とは無縁な所にいた筈の男の姿を思い浮かべた。

 ひょろりとした上背のある男だった。少し猫背の背中。いつも分厚い書物を前に机に向かっていた為、前屈みの癖が骨に沁みついてしまったのだろう。

 顔立ちは、王都に暮らす貴族たちのように端正で品のある作りをしていたように思う。その表面を覆う細かい皺は、男の口元から目元を幾重にも谷のように縁取り、それらは、男が持つ生来の頑なさと突き抜けた孤独を表わしているようにも思えた。

 男には、昔からどこか浮世離れした空気があった。人を食ったような微笑みを仮面のように張り付けていた。そして、いつも常人とは違う高みからこの人の世を眺めている。そんな気がしてならなかった。




 初めてあの男に出会ったのは、王都にある術師養成所の教室だった。教師とその他大勢の生徒としての対面だ。

 いい加減なように見えて、その実、教師としては人一倍熱心だった。但し、それは生徒の方から能動的に直接働きかけをした場合にのみ限る。研究一筋の学者肌で、その頃には既に奇人変人の名を(ほしいまま)にしていた。だが、誰もがその男に対しては一目置いていた。それが、その男の比類なき素養の高さと研究への情熱の為であるということを知るのは、もう少し後のことだった。


 質問をすれば、それがどんなにか瑣末で莫迦げていると思われてしまうような問いであっても真面目に答えてくれたものだった。

 かつて、こう聞いたことがある。

「どうして全ての人が【素養】を持っているとされるのに、その力を使える者と使えない者がいるのですか?」


 この世の中には、大まかに分けて、【素養持ち】とそうでない人の二つの種類があった。その【素養】とは、人であるならば必ず誰しもが潜在能力として持っているものなのだが、一生の内、その能力を自由に引き出して使うことの出来る人間というのは限られていた。そういう意味で、その能力を使える人間をここでは【素養持ち】と呼んでいる。たとえ、その力を持っていたとしてもそれを使えないのであれば、それは無能(もしくは【持たぬ者】)と同じであるからだ。

 大人たちは、この【素養】を意のままに使うことの出来る人間を【術師】と呼び習わしていた。昔は畏怖を込めておどろおどろしく【魔術師】、【妖術師】と呼ばれた時代もあったという。

 この【素養】は、その可能性のある者は、必ず幼い頃に開花するものだと言われていた。具体的な定義はなかったが、延びても成人前ということだ。

 この【素養】と呼ばれるものの中には、獣の言葉を理解する能力、日々の生活に利用される様々な【石】を精製・加工する能力、それを有効に活用する能力、はたまた人の怪我や病を快方に向かわせる為の手助けをする能力などなど、一口に【素養】と言ってもそれが関係する分野はかなり広範囲で多岐に渡っている。現在では、人々の日常生活のありとあらゆる場面に浸透しており、この国の人々は、日々、その恩恵に預からない日は一日たりとてないと言っていいほどである。だが、まぁ、簡単に言ってしまえば、それは、人が昔ながらに持ち続けてきた能力、若しくは、本来、人として備わっていた能力と呼ばれるものだった。


 当時(今でも同じなのだが)、貴族の子弟は、ある一定の年齢になると【学問所】とは別に【術師養成所】で学ぶことを義務付けられていた。そこで素養の開花があるかないかを専門の術師たちに見極めてもらうのだ。

 ユルスナールの属するシビリークスの家系では、昔から素養を開花させることできた者は殆どいなかった。直ぐ上の二人の兄たちも、父も、その上の祖父も、男たちは代々その力を引き出す術を持たずに来ている。一族の中では唯一、祖母が獣の言葉を理解するという段階にまでは達していなかったが、それに近いものとして獣たちから非常に好かれるという性質を持っていた。

 一人、庭先でお茶を楽しんでいた祖母の傍には、いつも小鳥たちが寄って来て、小さな歌を聞かせていた。祖母曰く、それは楽しいお喋りの時間であったのだそうだ。祖母はその小鳥たちに名前を付けて見分けていたようだった。幼いユルスナールにはどれも一緒に見えた小鳥たちも、祖母に言わせれば、其々に個性的で愉快であるらしい。

 この子は食いしん坊で、この子は恥ずかしがり屋。この子は威張りん坊。そんな風に手に乗った小鳥たちを愛でながら楽しそうにしていたものだった。

 ユルスナールが覚えている限り、一族の中で素養持ちに近かったのはその祖母だけで、母も兄嫁たちもそちらの方面はからっきしだと聞いている。シビリークス家の使用人たちを含めた中では、母の侍女であり、ユルスナールにとっては乳母であったポリーナが、唯一【術師】としての資格を持っていた。

 当時、ユルスナールが養成所で学んでいた時分には、既に国規模、若しくは世界規模で【素養持ち】の数は減少していると囁かれていた。ちょうどその数年前には大きな戦争があり、その戦禍に巻き込まれ、命を落とした【術師】たちも数多くいたと聞いている。


 全ての人間には、生まれながらに能力が備わっている。それなのにそれを使える者とそうでない者が存在するというのだ。今や、国中が喉の奥から手が出るほどに欲する【能力者】。その素養を開花させる、させないの違いはどこにあるのか。幼い頃のユルスナールには、不思議で仕方がなかった。

 そして、どうやら自分も一族の試しに漏れず、その能力を引き出す術を持っていないということが次第に分かってきた。その事を知っても、兄たちも両親も別段、肩を落としたりはしなかった。寧ろ、『さもありなん』という具合だった。

 ユルスナール自身は、特に【素養持ち】になりたいとは思わなかったが、あの大空を羽ばたく鳥たちと言葉を交わしてみたいと幼心に思ったことは何度かあった。

 シビリークスの家には、当時現役の軍人であった父や叔父の元に軍部から鷹や鷲、隼といった猛禽類が伝令として頻繁にやって来たからだ。

 この国中を大きな翼で飛び回る猛禽類たち。彼らに【人】の作る国境は関係ない。まぁ、その獣たちも軍部と契約を結ぶ時点で、この国に縛られることにはなるのだろうが、それでも、獣たちは基本、自由な意思を持ってこの大空を滑空していた。遥か高みからこの大地を日々見下ろしていたのだ。


 この世の中には、素養を使える者とそうでない者がいる。それは、既に当たり前すぎる程の暗黙の了解事項で、誰もその所以を疑問に思ったり、声高に尋ねたりはしなかった。

 当時、少年時代のユルスナールが投げかけたのは、そんな問いだった。普通の教師であれば、何を今更なことを聞くのだと鼻で笑われたかもしれない。

 だが、稀代の変人と揶揄されていた講師、ガルーシャ・マライは、それを笑わなかった。

 じっとユルスナールを見つめると意味深に目を細めた。その時、初めて間近で対峙した教師の眼光の鋭さに鼓動が一つ妙な具合で飛び跳ねたことは、今でもよく覚えている。

「何故だと思う?」

 漸く10を一つか二つ越えたばかりの少年に、ガルーシャ・マライは大人と同じような紳士的な態度で向き直った。

 そこでユルスナールは、当時、自分が考えられる限りのことをこの教師に打ち明けた。所々つっかえながらのたどたどしい語りであったが、ガルーシャは辛抱強く終わりまで耳を傾けてくれた。


 能力が発現しないということは、それが必要ないと見做されたからではないだろうか。大地の中で生き、獣たちと共生していた遥か昔では必要とされた能力も時代が下った現在では、その価値がなくなってしまったから。

 遥か昔、お伽噺の中では、人と獣は同じ存在であったという。同じ土地に生き、交わりながら暮らしていたという。だが、いつの頃からか、人は獣たちとの交流を捨て、人のみの暮らしを築くようになっていった。堅牢な城壁を築き、街を囲み、自ら幾重にも渡る【境界】を作っていった。やがて、人は獣の言葉を忘れた。人の中での暮らしには必要のないものであったから。それから、人は人同士の争いに明け暮れた。新たなる土地を求め、富を求め、兵を出し、領土を拡張し、まるでこの世界の唯一の主のように君臨する。

 そして、次第に獣たちは峻厳な頂きを持つ山脈とその裾野に広がる太古から続く深い森の奥に追いやられて行った。こうして人と獣の暮らしが分断されたのだ。


「必要がなくなったから……ですか?」

 吊り上がり気味の険のある眼差しは、人によっては涼やかとも凛としているとも言われるのだろうが、ともすればそれは、どこか尊大で小生意気に見えたことだろう。代々軍人を輩出する躾の厳しい家系に育ったという背景から、控え目で節度ある態度を保ってはいたが、教師を真っ直ぐに見つめるその眼差しは、小さな挑戦者のようでもあった。

 そんなともすれば先走りがちな潔い瞳に対して、ガルーシャ・マライは小気味良い笑いを漏らしていた。中々気骨のある生徒が現れたというところだろうか。

「きみは………確か」

「ルスランです」

「ああ、ルスラン。きみは確か、素養がまだ開花していないということだったか」

 ユルスナールは小さく頷いた。

 ガルーシャは、目の前に立つ少年の肩へペンだこのある大きな手を乗せると、そこから徐に拳を握りしめ、その手の甲の部分で少年のまだ薄い胸板の左側の部分、ちょうど心臓がある辺りに触れて、軽くノックをするようにトントンと小突いた。

「きみの能力は、未だここに眠ったままという訳だ。きみは、残念ながらこの場所に眠る大気の流れを感じる術を忘れてしまっている。いや、その血の中にやり方を引き継いでいないのかもしれないな」

「それは、私がシビリークスの人間だからですか?」

「ああ、そうだ。軍人である者には余計な能力として早い段階で切り捨てられたということなのだろう」

 その代わり、人は失ったものを補うかのように新しい能力を身に付け、そしてそれを発達してさせていった。それは戦における智略であったり、剣を扱うことに適した肉体であったり、素養を引き出す為に使われる労力(エネルギー)を別のことに利用したということなのだろう。

「きみの能力は、もしかしたら発現しないままかもしれないが、それを憂う必要はない」

 これも人が自ら繰り返して来た選択の蓄積によるものだ。大きな流れとして既に形作られてしまっているのだ。滔々と流れる大きな川の流れを堰き止めることができないのと同じように、一度作りだされてしまったその【流れ】は、もう誰にも変えることが出来ない。それもまた、この世の自然の法則である。

 だから、気に病む必要はない。

 そう口にしたはずの教師の表情は、だが、どこか憂いに満ちたものだった。内なる哀しさを秘めた灰色の瞳は、出来そこないのガラス玉のように鈍く曇っていた。

「ですが、【素養持ち】は我が国にとっても貴重な存在なのですよね?」

 どうして、そのような悲しい目をして憂う必要がないと言い切れるのか。

 幼いユルスナールが真っ直ぐに問いを放てば、ガルーシャは、少年のその言葉にどこか遠い目をして、暫し、無言のまま窓の外を眺めた。

 開け放たれた窓からは初夏を思わせる生温い風が悪戯をしかけるように入り込み、教師の髪と少年の頬を舐めて行った。

 ガルーシャは再び少年を見つめた。

「ルスラン、きみは、日々生活してゆく上で素養がないことに不自由を感じたことはあるかい?」

「いいえ」

 幼いユルスナールは即答していた。能力が開花しないことを負い目に思ったことは、一度たりとてなかった。

「では、それでいいのだよ」

「ですが、先生は、その失われつつある能力を守る為にここにいらっしゃるのですよね?」

 隣国【ノヴグラード】との戦の後、国は、必死になって【術師】になるべき人材を集め、育てようとしていた。ならば是が非でもその能力が花開くようにする為の術を探すはずではなかろうか。

「ああ。そういうことになっているな。あくまでも、建前上は……な」

 そのどこか他人事のような口振りは、良くも悪くも軍人気質で、幼さに特有の正義感溢れる少年には理解し難いことだった。

「その能力が失われてしまうことは、悲しいことではないのですか?」

 挑むような静かな問い掛けに、教師はどこか自嘲するように小さく笑った。緩く(かぶり)を振る。

「悲しいとか、悲しくないとか、そういう感情論の話ではないのだよ」

 ガルーシャはそう言うと体を椅子の背もたれに預けた。

「いいかい。この国の連中は『素養持ちは貴重だ。だから国で手厚く保護をしろ』と言うが、それは詰まりこの国の利益の為に過ぎない。だがね。本来、我々一人一人がもつ素養というものは、そういった国の政治からは外れた所にあるものなんだよ。それでもまぁ、一方で、この国における我々の生活がこの【術師】たちの生み出した便利な物で溢れていることも確かだ。中央が無視できない程にね」

 ガルーシャはそこで少し前傾姿勢を取ると己が指をピンと前に掲げて見せた。

「例えば、石の加工処理をする者が全てこの世からいなくなってしまったら。我々は日が暮れた後に灯す明かりも、お茶を飲むのに湯を沸かす為の熱も、地下から水を汲み上げる術も失い、きみの父上が腰に佩く剣を鍛えることもできなくなってしまうだろう。それだけではない。獣たちとの繋がりもなくなる。我々は直ぐにまともな生活が出来なくなる」

 そう言ってガルーシャが再び窓の外へ視線を走らせると、ちょうど一羽の伝令が少し離れた窓枠の桟のところに降り立った所だった。

「このように獣たちに急ぎの報せを頼む事もできなくなってしまう」

 ガルーシャは椅子から立ち上がり、伝令の傍に歩み寄るとその足に結えられていた文を手に取った。そして、懐の中からスグリの実が入った袋を取り出し、それを労いの言葉と共に使いとしてやってきた大きな鷲に手渡した。

「いつも済まないな、ヴィー。よろしく伝えてくれ」

 ―――――あ? 馬鹿を言うな。そこまで面倒を見られるか。

 それから二言・三言世間話のような短い言葉(ユルスナールには愚痴のようも聞こえた)を交わし、白い頭部を持つ大きな鷲は、再び上空へと飛び立っていった。

 幼いユルスナールには獣たちはピーキーと甲高い声を上げていただけで、それを言葉として認識することはできなかった。


「あの先生、獣の言葉はどのように聞こえるものなのですか?」

 教師と伝令との遣り取りを興味津々に観察していた生徒に、ガルーシャは振り返ると肩を竦めて見せた。

「なんと説明したものか………」

 そう言って首を小さく捻り、骨張った大きな手で顎の辺りをつるりと撫でた。

「私には昔から【音】として聞こえているからな。敢えて言えば、【念】のようなものだろうか。魂の部分で発現する【感情】だ。形としては見えないが、それを交換しているようなもの……と言えばいいか」

 聞こえる者にとっては、聞こえない世界を想像するのは難しいものでもあるのだ。またその逆もしかり。

 当然のことながらその喩えは非常に曖昧で、幼いユルスナールには正直よく理解が出来なかった。

「先生、では、私はどうしたらこの胸に眠る自分の能力を呼び覚ますことが出来るのですか? それとも、私にはもう無理なのでしょうか?」

 これまでに受けた【術師養成所】の中の講義では、自分が講師たちの言葉を、身を持って理解できないことには早々に気が付いていた。知識として捉えられても、それを実践することが全く出来なかったからだ。ユルスナールが早々に(つまづ)いたこの最初の段階は、能力を引き出す力を見極める為の授業であると聞いていた。

 勉強も剣の腕前もこれまでは努力をすればどうにかなると思っていたのだが、その努力だけではどうにもならない事がある。自分が、養成所で同じように机を並べる仲間たちの中では落ちこぼれの部類に入ることは、幼いユルスナールが直面した初めての挫折のようなものだった。悔しい気持ちがどこかにあったに違いない。

「ふむ。この能力は基本的に遺伝すると考えられているからな」

「【イデン】?……とはなんですか?」

 恐らく初めて耳にする未知の言葉に眉を顰めた少年に、教師は、その表現をより分かり易いものへ言い換えた。

「ああ、言葉が難し過ぎたか。要するに、父親・母親から子供へ、その血を通して受け継がれるということだ」

「では、能力者のいない私の家系では、それは土台無理な話だということですか?」

 諦めろということなのだろうか。

 下で小さく握り締められた拳にガルーシャは気が付いた。

「ああ、まぁ、理論上はそうだな。だが、それはあくまでも一般論に過ぎん。必ずしも全てがそういう訳ではない。例外もあるということだ。きみの力は今、その小さな胸の奥にある引き出しの中に大事にしまわれているんだ。ご丁寧に頑丈な鍵まで付いている。だが、その引き出しを開けようにも、その肝心の鍵を失くしてしまったというわけだ」

 ガルーシャは、少年の現状を噛み砕くように比喩で諭した。

 その鍵は、自分で見つけなければならない。ユルスナールの場合はその形状はおろか輪郭すら掴めていないのだから、ぴったりと鍵穴にあう形を見つけ出すのは、随分と大変なことだろう。

 だが、可能性が零な訳ではない。

「少し頑張ってみるか?」

 本来ならば、他の講師たちが見て、【能力が開花せず】と見做された生徒たちには、素養持ちに対する一般論を知識として説くだけなのだが、ガルーシャは自ら時間を割いて、ユルスナールに再度能力を開花させる余地がないかを見てくれるというのだ。

 己が体内に流れているはずの力を探る練習(鍵探し)をしてみるか。

 思ってもみなかったことなのだろう。その申し出にユルスナールは目を見開いて、喰いつくように身を乗り出していた。

「本当ですか!?」

 シビリークスの家に特有だという深い紺碧の瞳をきらきらと輝かせて。そういう表情は年相応で微笑ましく見えたに違いない。何と言ってもまだ10を一つ二つ越したくらいの少年だ。

 ガルーシャの口元にも知らず微かな笑みが浮かんでいた。

「ああ。但し、通常の講義が終わってからの空いた時間になるが、それでよければだな。勿論、私の都合を優先させることになるが」

 勉強嫌いの子供ならば一目散で逃げ出すであろう条件を出せば、

「はい。よろしくお願いします!」

 きびきびと元気よく返事を返されてしまった。その余りにも前向き過ぎる程の態度にガルーシャは、何とも言えない気分で苦笑いを零していた。

 全てが思い通りに運ぶとは限らないからだ。そして、ガルーシャはもう一つ、条件のようなものを示していた。

「まぁ、そう急くな。但し、きみの能力が開花しなかったとしても、気を落とさずにそれを受け入れることだ。それもこの世に生まれ落ちた人としての定めであるからな」

 ―――――それでよければ、明日からでもおいでなさい。

 こうして、以後、幼いユルスナールとガルーシャ・マライの一対一での臨時個人授業が始まったのだ。




 その後、幾ら頑張ってみても、ユルスナールは能力を開花させることが出来なかった。己が内に眠る気の流れを感じ取る為に、鉱石の原石を使って、そこに眠る気を探し当て自分の中に手繰り寄せようとする実践も多々行った。ユルスナールがガルーシャからもらった【キコウ石】がついたペンダントは、その過程で見本を見せる為にガルーシャが鉱石処理を行った時の副産物として作られたものだった。

 一通りのことを行って、どうしてもその感覚を掴めないと悟った時でも、ガルーシャはユルスナールを見捨てたりはしなかった。逆に今度は、【素養を持ち】がどういったものなのか。当時の時点で体系的に纏まりつつあった理論を噛み砕いてユルスナールに教えてくれた。

 それは、ともすれば当時のユルスナールにはまだまだ難しいことでもあったが、ガルーシャは飽きることなく、許す限りの時間と労力を掛けて、己が知識を教授してくれたのだ。

 この国の中で必要なのは、単なる【素養持ち】であるよりも、それを理解できる人間だと言って。

 発現すべき能力を持たない人間は、それを持つ者を特別視したり、忌避したり、排除したり、理解を出来ないということに胡坐をかいて、【術師】たちとの溝を埋めようとしないことが、現段階での問題だと切々と語った。その能力を利用するだけ利用して、それが不要になった場合にはあっさりと切り捨てる。この国の中央、為政者たちの中に根付く【術師】たちに対する軽視、もしくは蔑視の風潮を少しでも改善しなければ、この国に未来はないと言った。その考えが改められないようでは、今後、この国で【素養持ち】がその能力を最大限に発揮することはできないだろう。

 元より、【術師】はその能力で食べていける。よって特定の国への帰属意識は高くない。己が能力を適正に評価し、それを受け入れてくれる場所に集まるだろう。この国が古い考えを捨てられなければ、やがて特定の分野で、この国の発展は止まる。それは、この国全体の発展を大きく阻害する程のものになるだろう。すると今度は【能力者】を巡って、再び戦争が始まるかもしれない。莫迦げた政治の為にこの地に暮らす人民が巻き込まれ、犠牲になるのはもう二度と耐えられなかった。

 そうならない為にも能力を持たない者たちにこそ、【術師】がどのような存在であるか、その成り立ちを含め理解することが肝要なのだと語った。

 ガルーシャは、素養を持たないユルスナールに【術師】への良き理解者となることを願ったのだ。

 こうして受け継がれた教えは、いまだその身の中に刻まれ、息づいていた。そして、ユルスナール・シビリークスという男の核を作ることにも繋がっていた。王都に暮らす他の大貴族たちのように【術師】全般に対する偏見を持たずに済んでいるのは、この時の個人授業のお陰でもある。


 だからこそ。ガルーシャは、自分にリョウを託したのだ。この世の理から外れていた途方もない存在を。それでいて、奇しくも、元々この地にあったはずの【人】としての【理】を一番よく理解し、その身を持って体現していた稀有な存在を。

 そして、その存在は、ユルスナールにとっては何ものにも代えがたい唯一無二のものになった。

 かつての師が、どこまで先のことを見越していたかは分からない。だが、ガルーシャが【王都】を離れてからも尚、自分のことを忘れずにいて、その旅立ちの間際に掌中の珠とも言うべき存在を預けた。その繋がりと信頼が、とても誇らしく、そして、代えがたいものだと思えたのは確かだった。




 そうやって暫し、幼い頃の懐かしい光景を脳裏に思い出していれば、素朴な小屋の頑丈な木戸が勢いよく開いた。

「ルスラン! いらっしゃい!」

 そして、そこから顔を覗かせた愛しい恋人の晴れやかな笑顔の向こうに、ユルスナールは、かつての師の姿を見た気がした。

 ―――――大丈夫。約束は必ず守ります。

 最後に託された遺言とも思える手紙の末尾には、ただ一言、『リョウのことをよろしく頼む』とだけ書かれていた。

 ―――――必ずや一生、この命に懸けても。

 眩しい初春の日差しが差し込む中で高らかに己が名前を呼ぶ声に、ユルスナールは一人、心の中で誓った。

 そして、再び、師と過ごした大切な数年間を胸内に反芻させながら、その名残が色濃く息づく場所、言うなれば精神の聖地へと足を一歩踏み出したのだ。



 ―――――いかに【人】の世が混沌に満ちようとも、こうして眼前に広がる世界は、かくも美しい。獣たちはそれを教えてくれるのさ。


 大空へと飛び立つ伝令の鷲を見送りながら、そう言って小さく口の端を吊り上げた苦み走った笑みは、ユルスナールの記憶の中に残像のように焼き付いて離れなかった。


 今日も世界は美しい。

 かつての師の教えを踏襲するように残された教え子は、一人、胸内でひとりごちた。


リョウがガルーシャと暮らしていた森の小屋に初めてやってきたユルスナールの視点で、かつての師ガルーシャとの関係を回想してもらいました。

以前、「ガルーシャとユルスナールがどんな関係を持っていたのか」が気になるというご感想を頂きまして、今回はその辺りのことを意識してみました。いかがでしたでしょうか。

いつも以上に堅い話になりましたね。もしかしたら少しくどい感があったかもしれません。これまで本編では同じようなことを繰り返してきたので。

本編のキーであるにも関わらず謎の多い「ガルーシャ・マライ」の輪郭をほんの少しだけ明らかに出来た気がします。


本当はもっとユルスナールやゲオルグが、リョウを交えて森の小屋で書斎整理やら色々やっているお話を入れたかったのですが………。次回以降に持ち越しになりそうです。


お知らせ:本作のR18の短編集であるInsomnia の方をおととい更新しました。少し遡って北の砦でのエピソードとなっております。もしよろしければご笑読ください。

ありがとうございました。

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