15)真実は小説よりも奇なり
大変ご無沙汰いたしております。お待たせいたしました。前回の続きです。
「あ……の…………、シーリス?」
扉の向こう側からそっと顔を覗かせた小柄な女の姿に第七師団副団長シーリス・レステナントは、視線を上げると『ほぅ』と感嘆に近い息を一つ、吐き出した。
そして、躊躇いがちに姿を現した相手に自ら歩み寄ると、真剣な表情のままに具合の悪い所はないかと全体を一通り改めた後、満足そうに目を細めて頷いた。
「バッチリですね。大変よく似合っていますよ、リョウ」
いつにも増して後光が差しているかのような華やかな笑みを浮かべたシーリスの前に立ったその女は、どこか不安を滲ませた思案げな色をその漆黒の瞳の奥に憚らずに乗せていた。
姿見に反射して映り込む柔和な顔立ちを横切る細い眉毛が、途方に暮れたように下がっていたのは気の所為ではないのだろう。
さて。ここは北の砦にあるシーリスの居室の一間である。時刻は、一日の終わり、すっかり日が落ちた頃合いだ。そこにこの部屋の主とリョウの姿があった。
鏡に映るリョウの姿は、普段とはやや趣が違っていた。パッと見の印象からは余り変化がないようにも思える似たような系統と言ってしまえばそうなのだが、そこには大きな違いが存在したのも確かだった。
その服装はというと。
ぴったりとした白いシャツの上にビスチェのようにもコルセットのようにも見える黒い生地のヴェストを重ねていた。シャツの胸元には深い切り込みが入り、胸の下で上半身を締め上げるようにヴェストの生地が重なり、その合わせを編上げるように紐が結ばれている為、いつもは大きめの服の下に隠れているはずの本来の線が余すことなく暴かれるどころか、余計に胸元が強調されるような作りになっていた。ブコバルが過日、プラミィーシュレで『意外にある』と評価した膨らみは、今、触れて確かめるまでもなく立体的にその輪郭を浮かび上がらせていたという訳だ。
それだけならともかく。
リョウはなんとも言えない複雑な気分で視線を下げた。
己が下半身を覆うのは、膝から太ももが半ば近くまで剥き出しになった巻くタイプのスカートだ。生地に厚みがあり、形も細めなもので、小さなベルトのバックルのような留め金で腰回りを調整する形になっている。無駄な飾りのない実用性重視のものだ。そのスカートの上から腰骨の辺りに引っ掛けるようにクロスした形の皮のベルトが下がり、そこに普段から愛用している大小の短剣が二本、収められていた。そして、その足元は、いつもと変わらない焦げ茶色の長靴を履いている。
これでつばの広いウェスタン風の帽子でも被った日には、【荒野のガンマン】さながらだ―――ふいにそんなことを思ってしまった。
スカートは腰の所に引っ掛ける形で履いていた。少し腰回りが緩かった所為でもある。シャツの丈がやけに短いので、ともすればへそが覗いてしまいそうな塩梅だった。
全体的にコンパクトでミニマムな作りだった。動きやすさはシャツにズボンの時と変わらない。二年弱前であるならば、このような服を着ても別段、気にも留めないのだろうが、この国、スタルゴラドでの慣習と常識をそこそこに身に付けた今では、鏡に映った己が姿は、酷く挑戦的且つ挑発的で途方もないもの以外の何物でもなかった。
だからと言って、リョウの中で羞恥心は生まれていなかった。少しスカートの丈が短すぎるきらいがあるが、全体的なバランスから言えば、妥当とも思えるような感じだったからだ。
しかしながら、この国で暮らし始めてから約二年。この装いがどれだけの衝撃を周囲にもたらすものであろうかは理解している積りだった。
リョウは鏡の中、上方に移り込む菫色の瞳をそっと見た。柔和な顔立ちの中にあるその表情は、やけに上機嫌でニコニコとしている。反射する発光石の光を浴びて、リョウの目にはとても眩しく映った。
ここまで来ればもうお分かりになるだろうが、この服は、シーリスが用意したものだった。
一体、いつの間にこのようなものを用意していたのかは知れないが、これから北の砦に駐屯する兵士たち全員を食堂に集めて、隊長殿の帰還からずっと噂になっている個人的なちょっとした新しい報せ(詰まり婚姻のことだ)に関して報告をするということで、正式にリョウをユルスナールの婚約者として皆の前に紹介すると言われたのだ。
シーリスは、リョウを捕まえるとこの服を渡して、これに着替えるように言ったのだ。
ここの基準では膝を丸出しにするようなスカートは破廉恥もいい所だった。こういう服装は女傭兵のような武力で生計を立てている女性が身に付けたりする例はそれなりにあるそうだが、そういう存在はこの国では多くはなかった。王都で開催された先の武芸大会の折りでも、リョウが見掛けたのは片手に数える程だったのだから、その少なさが窺えるだろう。
「シーリス…あの……どうして……わざわざ、これを?」
相手の意図が読めなくて、恐る恐る問い掛けたリョウにシーリスは少し首を傾げながら、実にいい笑顔でこう言い放った。
「このくらいしないとリョウが女性であることが分からないでしょう?」
―――――ですから、当然です。中々に良いアイディアではありませんか?
これまで散々兵士たちの間にいても少年であることをこれっぽっちも疑われることなく過ごして来たのだ。リョウは、この砦の中では最年少の弟分的な立ち位置で、多くの兵士たちと気の置けない交流を重ねてきていた。その所為かは知らないが、以前、プラミィーシュレで譲り受けた使用人風の女物の服を着ても、誰もリョウが女であることに気が付かなかったのだ。それどころか、シーリスの機嫌を損ねたか何かで、その仕置きの一環として女装をさせられていると思われた程だった。
シーリス曰く、普通の大人しめの服では最早、リョウが女性であることが兵士たちには上手く伝わらないであろうということだった。ならば、決定的な違いを見せつけるほかない。要するに誰が見ても一目で女であることが分かるような服を着ればよいということで、今回密かにこの衣装を用意したということだった。元より服飾関係に関心のあるシーリスは、オリベルト将軍ではないが、いつになく張り切って只ならぬ使命感に燃えていたらしい。
そして、その意欲のままに懇意の仕立屋に作ってもらったという服は、シーリスとしても満足の行く出来ばえであったようで、穏やかな菫色の瞳は今や達成感に輝いていた。
―――――大丈夫なのだろうか。
リョウの中には、当然のことながら一抹の不安が生まれていた。シーリスの言いたいことは理解出来たが、この格好で人前に、しかもあの兵士たちの前に出たら、一体どんな騒ぎが待ち構えているだろうか。
いや、しかし、女としてユルスナールの妻になると紹介される時点で、兵士たちにとっては想定外もいい所のことで、きっと絶叫の嵐が湧き起こるに違いない。どちらをとってもすんなりといかないであろうことは目に見えていた。
「キツい所はないですか? 苦しい所は?」
リョウが身に付けているヴェストは、主に腹部を覆い、腰から上にきつめに編み上げた紐で胸の下辺りまでを縛る形になっていて、その上に乗る胸元が強調されるようになっていた。シャツとスカートまではよかったのだが、このヴェストの段階で着方が良く分からなかったのでシーリスに手伝ってもらったのだ。その時にぐいぐいと締めたことを心配しているのだろう。
こうして鏡に映った女は野性味溢れる活動的な格好をしていた。まぁ、腕に覚えのある女傭兵と同じような服装であるということから、いつものシャツとズボンとは系統的には余り変わりがないのだろう。女兵士のようなものだろうか。だが、リョウは当然のことながら彼女たちのように鍛えられた肉体を保持している訳ではない。
「大丈夫です」
リョウが確かめるように腹部から腰に掛けて手を置けば、シーリスはそっと目を細めて己が指を自分の顎の下に掛けた。
「それにしても、こうして改めて見ると本当に細いですねぇ」
やたらと感心したように驚き混じりの声音で言われて、リョウは苦笑を漏らした。
「そうですか?」
お世辞にも肉付きの良い方ではないが、リョウは自分をそこまで細いとは思っていなかった。だが、やはり、この国の同じような年頃の娘たちと比べるとその違いは大きいものなのかもしれない。ましてやシーリスの中の基準は、そういった肉感的な人たちなのであろうから。
シーリスは、つと手を伸ばすと露わになったリョウの腰の線を掴むように手を宛がった。己が手を尺代わりに大体の大きさを確かめているようだ。
「ふむ。少しスカートが大きかったようですね。私としたことが。いけませんでした。腰回りは調整が出来るようにしていたのでこのくらいで良いかと思ったのですが、前身ごろがここまで来るとなると。少々計算違いでしたね」
何やら真剣な顔をしてスカートの巻きの具合を確かめながらぶつぶつと言っている。
―――――ここにも完璧主義者が一人。
リョウは、そのシーリスの呟きにオリベルト将軍に通じるものを感じてしまった。ここでもこんなことになるとは。内心、とっぷりと溜息を吐きそうになるのを堪える。
何故、こうも周りの男たちは自分を着せ替え人形のようにさせたがるのだろうか。リョウの中で男に対する深淵なる謎がもう一つ増えた。少なくともユルスナールがこっちの方面に疎くて助かったと思ったのはここだけの話だ。
それから、リョウはシーリスと二人して砦内の静まり返った廊下を歩いた。ごつごつとした石壁に発光石に照らされて伸びる歪な影が二つ映っていた。今頃、食堂は大柄な男たちでぎゅうぎゅうとひしめいていることだろう。考えただけで息苦しそうだ。
「大丈夫……ですよね」
【何を】と言うには余りにも多くのことがあり過ぎて、曖昧な問い掛けになってしまった。
どこか不安そうな色をその漆黒の瞳にちらつかせたリョウにシーリスは安心させるように柔らかく微笑んで『大丈夫ですよ』と言った。
―――――【フショー・フパリャァートケ(大丈夫)】
たった二語からなる短い言葉が、リョウの胸に何故だか沁みた。
きっとどんなにか大騒ぎになったとしても、シーリスやユルスナールがきちんと対処して事態を収拾してくれるということなのだろう。日頃から数多もの兵士たちを統率する上官としての自信のようなものが窺えて、リョウは小さく微笑みながら顔を上げた。
正直に言えば、リョウは漠然とした不安を感じていた。もし、自分が女だということが知れて、この砦の兵士たちに拒絶……といかないまでも距離を置かれたら。予想の付きそうで付かない彼らの反応が怖くもあった。これまで築いてきた楽しくも遠慮のない間柄という関係性が崩れ去ってしまったら。もしかしたら、それが妥当な本来の距離感なのかもしれないが、一度彼らの懐に深く受け入れられてしまった今では、それはとても寂しいように思えて仕方がなかった。だが、そんなことを考えるのは欲張りなのかもしれない。
そんな小さな不安を振り払うようにリョウは軽く頭を振った。
―――――【フショー・フパリャァートケ(全て上手く行く)】
大丈夫。悪いようにはならない。
口の中でそっとシーリスと同じ台詞を繰り返してみた。
一方、その頃、北の砦の食堂には最低限の見回り・歩哨の人員を除く全ての兵士たちが集められていた。皆、どこかそわそわと落ち着きがない様子だ。だが、前方に陣取る幹部連中と今回の主役とも言える団長の手前、それを表立って露わにするような輩はいなかった。良くも悪くも統率の取れた集団である。
王都からの帰還から暫く、一緒に連れてきたという噂の主(婚約者)の姿はどこにも見当たらなかった。これだけ沢山の兵士たちが興味津々で目端を利かせているというのに婚約者であるという麗しき女性の姿(兵士たちの中では既にそういう想像が出来上がっていた)は欠片程も垣間見ることが出来なかったのだ。
やはり噂は本当ではなかったのだ。こんなむさ苦しい辺鄙な所に王都から遥々若い娘がやって来る訳がない。久々の【生身の若い女性】という言葉に俄かに色めき立ったのも束の間、集まった兵士たちは徐々に一炊の儚い夢から覚めて、冷静に現実を見つめ直し始めていた。それでも『もしかしたら』という淡い期待をそっと胸内に隠していたには違いない。
その代わりと言ってはかなりの語弊があるが、えらく都会風で整った容姿を持つ男が北の砦内を闊歩していた。王都から遥々団長たちに付いて来たという第三師団の長である。ゲオルグの噂は、この北の砦にも届いており、一般の若い兵士たちは初めて目にする噂の伊達男の登場に興味半分、恐々と様子を窺うような素振りを見せていた。
「リョウのやつぁどうした?」
のっしのっしと大きな体を揺らしながら長い脚を音もなく繰り出してやってきたブコバルの問い掛けに、ユルスナールは無言のまま、傍に控えるヨルグを見た。
「シーリスと一緒に準備をしているとのことです」
団長の意向を受けて卒の無い返答をしたヨルグに対し、ブコバルの男らしい眉が怪訝そうに跳ね上がった。
「準備? 何の話だ?」
そう言ってブコバルは幼馴染の方を見たのだが、
「分からん」
当のユルスナールも相棒の尤もな質問に同じような顔をして肩を竦めて見せた。
「なんでも非常に重要なことらしい」
―――――ルスラン、少しリョウをお借りしますよ。
ユルスナールの脳裏には、少し前に交わしたシーリスとの会話が思い出されていた。
決して悪いようにはしないから。まぁ、楽しみにしていらっしゃい。そんな風に意味深な台詞を口にして、やけに足取り軽く踵を返したものだから、うっかり事の詳細を聞きそびれてしまったのだ。
「へぇ? 準備ねぇ。着飾るつもりか?」
ブコバルが呑気に首を傾げた傍らで、ユルスナールはシーリスから何か聞いてはいないだろうかとその副官でもあるヨルグを見たのだが、有能な補佐官もこの件に関しては何も知らされていないようで、いつもの鉄仮面的無表情のまま、小さく肩を竦めて見せた。
「ルスラン」
そこへ、シーリスとはまた違った意味で迫力のある笑みを浮かべながら、今回この北の砦の客人となったゲオルグがやってきた。ヨルグの当初の心配を余所に、この都会風な王都の貴族は、驚くほどの柔軟性を見せ、この北の砦の一員のように寛いだ様子をしているものだから、さすがとしか言いようがない。
「私としては明日辺りにでもガルーシャ殿の庵へ行きたいと考えているのですが」
ゲオルグは組んだ肘の上、その指先を己が顎の下の辺りに当てて、どこか思案げにユルスナールを斜交いに見下ろしていた。
「………何故、俺に聞く?」
ユルスナールの眉が寄って眉間に深い皺が出来た。
だが、ゲオルグはそのようなことを気に留めることなく、鷹揚に言葉を継いだ。
「リョウはいつでも構わないと言ってくれたのですが、一応、あなたにも確認をしておいた方が良いかと思いましてね」
そう言って男にしては艶やかな面に人好きのする笑みを浮かべた。大抵の相手ならば、これで全てが恙無く進むようになっているのだが、無論、ここにいるユルスナールたちがそのような影響を受ける訳はない。
「ヨルグ、明日の予定は?」
「現段階では火急を要するものはありませんが」
と一旦区切った所で、ヨルグは徐に己が上官を見た。
「ルスランもあちらへ?」
その問い掛けにユルスナールはちらりとゲオルグを横目に見た。
「ああ。無論、その積りだ。リョウとゲオルグを二人きりにさせる訳にはいかないだろう。男手があった方が良いだろうし」
「おやおや。随分と棘のあるもの言いですねぇ。あなたが心配するようなことはありませんよ?」
「馬鹿を言え。何かあったら困る」
「私としてはガルーシャ殿の書斎を拝見することが出来るのですから、もう天にも昇るような心持ですよ。今から待ち遠しくて仕方ありません。本当に夢のようです」
ゲオルグが一人、両手を合わせて歓喜に満ちた顔をした横で、『そう言えば』と何かを思い出したようにブコバルが声を上げた。
「ああ? てか、あのガルーシャのじじぃんとこには結界があるんじゃなかったか? おめぇみてぇな胡散くせぇヤツは弾かれんじゃねぇか。おい?」
そう毒付いて、からかうようにゲオルグを見たブコバルであったが、当の本人はそれをあっさりと無視して、ユルスナールの方を見ていた。
「おや? リョウから聞いてはいませんか? 結界は解かれたそうですよ」
―――――ちょうどリョウが術師の試験に通ったあの日に。
「ですから、あそこは今、丸裸なんです」
その言葉にブコバルはほんの少し目を瞠って、確かめるような眼差しを幼馴染の方へ投げた。
ユルスナールは一つ頷くと緩く息を吐き出した。
「ああ。だから、護衛がいた方がいいだろう?」
リョウが、影の諜報部隊である【チョールナヤ・テェニィ】の長、【アタマン】と会談を持ったということは聞かされていたので、万が一のことを考えてあちらの方でも手駒を使って何らかの対策を講じているだろうとは思ったが、ユルスナールとしても己が領域ともいえるこの北の砦近辺で、大切な生涯の伴侶に不足の事態が振りかかるということは避けたかった。
「ああ、でもよぉ」
ブコバルが不意に悪戯っぽい顔をしたかと思うとその口元に人の悪そうな笑みを刷いた。
「あそこにはもう一人【ジジイ】がいるじゃねぇか。最強にうるせぇ小舅殿がよ」
そんなことを嘯くと何を思い出したのかは知らないが、苦いものを噛み潰したような顔をした。
もしかしなくとも、セレブロのことを言わんとしているのだろう。当のヴォルグの長が耳にしたら、大いにどやされそうだが、本人がいないのをいいことに相変わらず言いたい放題だ。
そこにゲオルグはしたり顔で合槌を打った。
「ああ。そうでしたね。あなたのような邪な心を持つ輩にはヴォルグの長は鬼門でしょうからね」
「あ? んだとコラァ」
「本当のことを言ったまでですよ。ねぇ?」
ゲオルグはにこやかに同意を得るべくヨルグやユルスナールの方を見た。
厭味を言ったつもりなのにすかさず相手から返されて、ブコバルとしては面白くなかった。
「なんだと? お前だって同じようなもんじゃねぇか」
「嫌ですねぇ。あなたと一緒にしないでくださいよ」
「あ? こっちこそ、お前と一緒は御免だ」
そのまま低次元の子供染みた言葉の応酬が続きそうになったのだが。ちょうどいい具合に食堂の入口にシーリスの顔が現れて、おしゃべりは中断となった。待っていたリョウもシーリスの後ろからそっと顔だけ覗かせた。
これで役者は揃ったようだ。
この時、ユルスナールはリョウの顔が現れたことに安堵して、その姿をよく見なかったのだが、そのことを後で後悔する羽目になった。
「お待たせいたしましたね。どうぞ始めてください」
シーリスの合図にユルスナールは浅く腰を下ろしていたテーブルから立ち上がると徐に食堂前方の真ん中付近へと足を進めた。
―――――【ヴニィマーニィエ】!
ユルスナールが片手を上げて、食堂のカウンター前、中ほどに立った時、それまでざわざわとしていた室内の雑音がぴたりと止んだ。集まった多くの兵士たちの意識が前方真ん中に立つ団長へと瞬時に集約していった。動から静へ切り替わる。こういうメリハリの効いた所はさすがよく訓練された男たちであると言えるだろう。
食堂を埋める様々な兵士たちの顔触れをざっと見渡して、ユルスナールは、一つ取って付けたような咳払いをした。いかに威厳ある隊長殿といえども自らのことを話題にするのはやはり少々面映ゆくもあるのだろう。
「既に聞いていると思うが」
そこで小さく言葉を区切る。食堂に集まる部下たちは、この時が来るのを今か今かと待ち構えていたのか、不意に落ちた沈黙に誰かがゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。中にはこれから口にされる言葉を一言も聞き漏らすまいと前傾姿勢を取るものも大勢いた。
張りつめた感さえある沈黙の中、
「妻を娶ることになった」
決して大きくはないが透明感のある低い声が淀みなく室内に反響した。団長の言葉は、静けさの隙間に瞬時に沁み込むように兵士たちの間に浸透していった。
その直後、どっと食堂内が轟いた。
「オメデトさ~ん!」
「やったな、隊長!」
「よ! 色男!」
「ヒュー!!!」
「さらば灰色の独身時代!」
「おめでとう!」
「お相手は?」
「どんな女なんすか?」
「出会いは?」
「美人すか?」
「やっぱ、貴族のお嬢さま?」
それからは息を吐く間もないような嵐の如き怒涛の質問攻めだった。多くの兵士たちが一斉に声を上げて、野太い轟きが広いはずの食堂の天井にぐわんぐわんと反響していた。
そんな遣り取りを一人恐々と食堂の入口に齧りついて端から聞いていたリョウは、まるで渦中の有名人に対する記者会見のようだとまたまた詮方ないことを思ってしまった。これもちょっとした現実逃避の一環だ。
「奥さんになる人、美人ですか?」
一人が良く通る声を張り上げれば、
「あったりめぇだろうがよ、なんてったって隊長の嫁さんだぜ?」
当人が答える前に別の方向から野次が沸く。
ガヤガヤと様々な憶測が飛び交う中、セルゲイが勢いよく挙手付きで立ち上がった。
「ハイ! 隊長! 奥さんになる女をここに連れてきたってのはマジですか?」
それは、ここに集まった兵士たちの誰もが聞きたかった問いだった。
ここで若者たちの心は一つになったかのようにそれまでの騒ぎが静まり、事の次第を問うべく隊長を見た。
再び、不可思議な沈黙が食堂内を支配しようとしていた。興味津々を通り超して爛々とした色とりどりの無数の瞳に迫られて、ユルスナールは、ほんの少しだけ―――団長の名誉の為に繰り返すが―――ほんの少しだけ、たじろいだ。騒がれるとは思っていたものの、その反応が予想以上に大きかったことに今更ながらに驚いたのだ。
その微かな動揺のようなものを的確に感じ取ったブコバルは、愉快そうな顔をして幼馴染の横顔を眺めていた。
ユルスナールは、思わず、ちらりとシーリスの方へ視線を走らせた。そして、その向こうに息を殺すようにして潜んでいる未来の妻の姿を目に留めた。
余りのやかましさに(兵士たちの喰いつきようとも言う)既にリョウの口元は引き攣っていた。
その姿を見た途端、ユルスナールの冷たいきらいのあるその横顔に微かな笑みが浮かんだ。
己が恋人の万事控え目過ぎるほどの性格を思う。あれでは出るに出られまい。
ユルスナールは顔を正面に戻すといつもと変わらぬ堂々とした態度で穏やかに口を開いた。
「ああ。ここに連れてきている」
漸く明らかになった隊長直々の肯定の頷きに、続いて絶叫のような雄叫びがそこかしこで上がった。
「よっしゃぁ!」
「ほぉーら、俺の言った通りだろうがよ!」
「やられた~!」
「マージかぁ~」
「いやっほーぃ!」
その叫び声は、悲喜交々入り混じるといった具合であった。噂の真偽の程は恰好の【賭け】のネタにもなっていたのだろう。純粋に若い女性が見られると喜んでいる者もいれば、反対側に賭けてしまったと頭を抱えている者もいる。
一言ユルスナールが言葉を発する度に一々外野が途方もない反応を返すので、中々話は進まない。
そこで、脱線して収拾がつかなくなる前にとでも思ったのか、シーリスが一歩前に歩み出るとパンパンと手を打ち鳴らした。
「いい加減になさい。何故、あなたたちがそんなに興奮する必要があるんですか。これでは話がちっとも進まないですよ」
にこやかに笑みを浮かべながら、ぐるりと居並ぶ兵士たちを見渡せば、それまでギャーギャー騒いでいた若い連中は、中途半端に拳を握り締めたり、腕を上げたりしている体勢のまま不意に口を噤んで、立ち上がっていた腰を再び静かに椅子の上に戻した。
「やれやれ。あまり煩いようでは出るに出られないじゃないですか。ねぇ?」
ぐさりと小さな吹き矢のようなもの(勿論毒は塗ってある)をお見舞いするのを忘れなかった。
「ルスラン。こんな所で大事な婚約者を紹介する積りですか?」
「そんなぁ~」
若い連中の残念極まりない呻き声が漏れ聞こえてきた。
半ば呆れたように態とらしいことを言い放ったシーリスに、ユルスナールは苦笑を漏らした。
「隊長! 折角、未来の奥さんを連れて来たんですよね? 見せてくださいよ」
「紹介してくださいよぉ!」
「お願いします!」
「後生ですからぁ!」
兵士たちからの催促にユルスナールは少し勿体ぶるように食堂内を流し見たのだが、そんな態度が自分でも可笑しかったのか、小さく口元を緩めた。
「何を期待しているのかは知らないが、騒ぎ立てる程のことではないぞ?」
そう言って、小さく喉の奥を震わせる。
「グハァー、余裕たっぷりじゃねぇですか! 淋しい独り者には絶対出て来ない台詞っすよ」
「さっすが隊長、言うことが違うぜ」
「彼女さん、どんな女ですか?」
「貴族の出身すか?」
「許嫁ってやつですかい?」
鼻息荒い若い連中の問い掛けにユルスナールは腕を組むと首を少しだけ傾けた。
「いや、貴族ではない。それに、こう言うのもなんだが、お前たちもよく知っているぞ?」
「へ?」
「え?」
「は?」
「はい?」
最後に軽く付け足された言葉は余りにも部下たちの意表を突いたものであったようだ。
不意に落ちた沈黙の合間を縫うようにユルスナールが小さく笑った。
「まぁ、色々口で言うよりも実際に見た方が早いか」
驚いた顔や呆けた顔を晒している兵士たちの前で、一人、そんなことを呟くと、ユルスナールは徐に後ろを振り返り、食堂の入口の端に齧りつくようにして小さく顔を覗かせている婚約者に目で合図を送った。
―――――【イディー・シュダー(おいで)】
未来の妻を呼ぶ強面団長の想像以上に甘ったるい囁き声に集まった兵士たちが内心身悶えている間、リョウは戸口に齧りついたまま『無理無理』と首を小刻みに横に震わせていた。いつもより高めに結えられている黒髪が馬の尻尾のように左右に揺れる。予想以上の盛り上がりにかなり萎縮してしまっているようだ。戸口に掛かるリョウの指に小さく力が入っていることが遠目にも見て取れた。
リョウの緊張を感じ取ったユルスナールは小さく笑い、優しく言葉を継いだ。
「大丈夫だ。心配はいらない」
それは、リョウにとっては魔法のような呪文だった。徐々に大きさを増す野太い男たちの騒ぎ声にユルスナールの声はリョウの所にまでは届かなかったのだが、相手が何を言っているかはその口元から読み取ることが出来た。何よりも優しく細められた瑠璃色の瞳が雄弁に語っていた。
柔らかく微笑まれて、もう一度大丈夫だと繰り返される。『おいで』と手を差し伸べられてリョウは覚悟を決めると一歩足を踏み出した。
そうして。並々ならぬ好奇の視線が降り注ぐ中、颯爽と現れた小柄な女性の姿に食堂内に集まった男たちは度肝を抜かれた。いや、魂を抜かれたと言っていいかもしれない。広い室内には、その女性の履く長靴の踵から繰り出されるカツカツとした音のみが響き渡るだけで、全ての音が止んでいた。
人間、本当に驚いた時というのは声が出なくなるものである。
余裕たっぷりに己が婚約者を呼んだはずのユルスナールも、そこに現れたリョウの姿に思わず息を飲んだ。
―――――なんで、そんな格好をしているんだ!?
冷静沈着を看板の一つに掲げる隊長殿は心の中で絶叫した。だが、ここで驚きの声を上げなかったのはさすが日頃から己を律し自制心を鍛えている賜物なのだろう。
鋭く恨みがましい視線をこの企みの張本人であるシーリスに向ければ、この砦の実質的な支配者とも言える副団長は、満足げに微笑んで腰の辺りで握り締めた拳の親指を突き上げていた。シーリス的には大成功といいたいのだろう。
だが、内心の動揺を直ぐに隠して、ユルスナールは己が傍に近寄って来た華奢な身体へ腕を伸ばすと引き寄せ、当然のように肩を抱いた。
その口元に薄らと紅を刷いたリョウは、どこか決まり悪げな恥ずかしそうな顔をして、そっと目を伏せた。
余すことなく眼前に晒された本来の女性としての滑らかな輪郭。引き締まった腰回りと骨格の割には豊かな胸元をこれでもかというほどに強調して。何よりもそこに浮かんだ表情は男の劣情を煽るような艶めかしいものだった。ユルスナールの心臓は、形容し難い情動の矢によって貫かれていた。
本来の体格に合ったぴったりとしたシャツに前を編上げに合わせたのヴェスト。そして、足を剥き出しにした短いスカートに長靴。
客観的な服装は腕に覚えのある手練の女傭兵のそれだ。だが、同じような簡素で実用的な服装と雖もリョウが身に付けるとそれは全く違った印象を与えた。それは図らずも未来の妻の新しい魅力を発見してしまった瞬間でもあった。オリベルト将軍ならば、ここで拳を固く握り締めたことだろう……というのは蛇足だが。
どこからどう見ても、それは一人の女性の姿であった。間違えようがない程に。
思わず見惚れていたユルスナールにリョウは顔を上げると小さく照れたように笑った。
「シーリスが、この方が良いだろうって」
―――――これなら間違いようがないだろうって。
そう言ってどこかばつが悪そうに微笑んで小さく肩を竦めながら小首を傾げた
高く結えられた真っ直ぐな黒髪がさらりと揺れ、露わになった胸元の膨らみが左右に揺れた。大きく開いた胸元とシャツとスカートの合間から図らずも覗いたへそに本能を刺激されるままにゴクリと唾を飲み込む。
これまで数え切れないほど体を重ねてきた未来の夫であるユルスナールでさえそうなのだから、ここに集まった他の兵士たちの心の内はいかばかりであっただろうか。驚愕を通り越して、視界から入る状況を脳が上手く処理できないのではないだろうか。真っ白く灰のようになった脳みそが崩れ落ちるかのように。砂上の楼閣がさらさらと吹き寄せる風に散ってゆく。
「よく似合っている」
第一陣の衝撃から早々に立ち直ったユルスナールは、そう言うと引き寄せた肩から腰に手を滑らせて、男を見上げて露わになった額に小さく口付けを落とした。
「ふふふ」
対するリョウはどこか擽ったそうに、それでも幸せそうに笑った。
そのまま完全に二人だけの桃色的で甘ったるい世界に突入しようとした所で。
―――――ンンン。
態とらしい咳払いが一つ後方から入った。
振り返ればシーリスが拳を口元に片目を閉じていた。
「おいおい、そのくらいにしとけよ、ルスラン」
ブコバルがニヤニヤしながら片手を一振りして、ユルスナールとリョウの隣に並んだ。それを合図にシーリスとヨルグが一歩前に出てきた。
「おやおや。これは刺激が少し強すぎましたかね」
この原因を作った大元でもあるシーリスは、固まったままの兵士たちの方を見て呑気に笑った。
ゲオルグは壁際で一人、この成り行きを愉快そうに見守っていた。リョウが女性であることを知る王都帰還組の兵士たち(アッカ、ロッソ、グント、アナトーリィー、ヤルタ)や事情を知っていたキリルも改めて目にするリョウの際どい感のある格好に度肝を抜かれていたようだ。
静まり返った室内。
「改めて紹介するまでもないが」
そう前置きをして、
「婚約者だ」
ユルスナールはリョウの背中を前に押した。
対するリョウの方もここまで来れば開き直ったもので(土壇場で胆が据わるのは長所でもあるだろう)、晴れやかに笑った。
「ええと、何から話せばいいか。手短に言えば、色々とありまして、この度、ルスランと一緒になることになりました。改めて、よろしくお願いしますね」
予想だにしなかった青天の霹靂的知らせに兵士たちは雷にでも打たれたかのように固まったままだった。その中に顎が外れそうな程にぽっかりと大きな口を開けたまま立ち上がりかけたのか、腰を浮かしているオレグの姿を発見して、リョウは少し悪戯っぽく笑うとさもおかしそうに高らかに声を張り上げた。
「もう、みんなどうしたんですか! そんなに驚かなくてもいいでしょう?」
―――――ねぇ、オレグ?
突然、馴染みある声に名指しで呼ばれて、この砦で下から数えて二番目に若い兵士、オレグは、大きく開けた口を魚のようにパクパクとさせて、わなわなと震えながらリョウの方を指さした。
「ななな……リ、リョウ!? う…えぇぇぇぇぇぇ~!!! ウソだろぉ~!!」
―――――【ゴースパジ】!!!
そして、この食堂内はおろか、堅牢な石壁で覆われているはずの砦全体を揺るがすような大きな絶叫が響き渡ったのだった。
そこへ食堂のカウンターの奥から料理長のヒルデが、その逞しい肩に大きな酒樽を抱えて現れた。
そして未だ動揺の冷めやらぬ男たちの中に入ると真ん中辺りにある固い木のテーブルの上にその酒樽を置いた。
ヒルデは振り返るとしたり顔で樽の上をトントンと叩いた。
「めでたいことこの上ない。……ってぇことは祝杯を上げるべきだろう? なぁ、ルスラン?」
太い人差指で己が首筋を数回弾いたヒルデに、ユルスナールは晴れやかに笑った。
「ああ。そうだな」
「おっ! おやっさん、そいつはぁ、ひょっとして!」
「ああ、こんな時でもなきゃぁ、開ける機会なんぞ、なさそうだからな」
良い酒に目がないブコバルが身を乗り出し、樽にある酒の刻印を確かめようとして、歓喜の雄叫びをあげた。
「まさかの十年もの!」
その声に周りにいた酒に煩い兵士たちが一斉に沸いた。
「マジすか!!!」
「うぉ、太っ腹!」
「さすが大将、分かってる!」
先程までの動揺が嘘のように生き生きとし出した若い兵士たちの変わり身の早さに、リョウは呆れ半分、ユルスナールやシーリスと顔を見交わせると、それでも楽しそうに笑った。
そして、いつの間にやら用意された様々なグラスや器(全員に行き渡るにはそもそもカップの数に限りがあった)に、行儀よく順番に各人がヒルデの所から酒を注いでもらった。
「ルスラン、それからリョウも」
こうして最後にユルスナールとリョウの元にもシーリスから酒の注がれた小さなカップが手渡された。
気が付けばここに集まった全員が総立ちで大小様々な形のグラスやらカップやらを手に上方へ掲げていた。
こういう時の行動力の素早さと団結力は目を瞠るものがある。
「それでは我らが隊長殿の幸せな未来を祝して!」
サラトフの大きな掛け声に、
「我らがリョウが、良い奥さんになることを願って!」
セルゲイが調子を合わせるように合いの手を入れて、
―――――乾杯!!!
轟くような男たちの野太い唱和の後に、集まった兵士たち全員が即席の盃の中身を一息に飲み干した。
「「「「「ウラァァァー!!!」」」」」
こうして北の砦の食堂では、予定外の祝宴が開かれることとなった。男たちの夜は今、始まったばかりだ。
バタバタとしておりましたら、大分更新に間が空いてしまいました。イラストを描いて脇道に逸れていたということもあるのですが、思いの外執筆に手間取ってしまいました。
「お酒を飲もう!」というジェスチャーは、日本ではよく手の指でおちょこ(もしくはコップ)の形を作ってくいくいと揺らしますが、ロシアでは人差し指(+親指の爪)で自分の首筋の辺りを弾く仕草をします。料理長のヒルデがとったのはそのジェスチャーでした。
前回の更新の後、第七の兵士たちがワイワイと騒いでいるイラストを描いていました。活動報告の方にもお知らせを入れましたが、もしご興味がございましたらご笑覧下さい。
http://3415.mitemin.net/i39930/
ほとんどが初描きの兵士達です。Who's Who みたいな感じになりました。
それではまた次回に。




