12)恋の予感
本格的に北の辺境に戻る前に。
もう二回ほど王都滞在中のエピソードを加えることになりました。今回はその第一弾。久しぶりにあの人のご登場です。それではどうぞ。
「ねぇ、リョウ」
その日、前触れもなくシビリークス邸にやって来たズィンメル家のうら若きお嬢様、アリアルダは、乳母のポリーナと庭先で摘んだ薬草の選り分けを行っていたリョウを捕まえると、にこやかな笑みを浮かべて高らかに宣言した。
「わたくしと街歩きをしましょう?」
辛うじて誘いの為の疑問文の形を取っていたのだが、それは紛れもない決定事項だった。
「街歩き……ですか?」
余りにも突然のことで面食らった顔をしたリョウの目の前で、アリアルダは艶やかに微笑んだ。
「ええ。わたくしと二人で」
リョウは思わず隣にいたポリーナを見た。その眼差しは、果たして自分がこのやんごとなき貴族のお嬢様のお誘いに乗ってしまってもよいものかという素朴な疑問の是非を判断してもらいたいと雄弁に語っていた。
屋敷勤めの長い経験豊富な使用人であるポリーナは、さすが、動じた所を見せず、さも合点したように鷹揚に頷いて、口を開いた。
「馬車をお使いになられますか?」
「ええ。【ファンタンカ】の所まで」
【ファンタンカ】というのは、宮殿から真っ直ぐに伸びる大通りの中ほどにある大きな噴水広場だった。この広場には周囲を囲むように大きな木立が植えられており、傍には簡易的な【スカメイカ】が点々と置かれ、街の人々のちょっとした憩いの場所になっていた。
そして、王都市街はこの【ファンタンカ】を中心にして放射線を描くように大小様々な通りが伸びていた。通りには其々名前が付いており、どこどこ通りと言えば、王都に暮らす市民には直ぐに分かるようになっている。
また、この【ファンタンカ】の周囲には、乗合馬車や賃馬車を営む馬車屋が軒を連ね、人々の移動手段の一つとなっていた。と言っても普通の庶民の交通手段は専ら己が足で、この国の人々は男女ともにかなりの健脚を誇るので、専らの利用者は裕福な商人の奥方や下級貴族の婦女子といった所が多かった。上流階級の貴族は、大抵、己が屋敷に専属の馬車と御者を抱えているものなので、余程のこと出ない限り、このような賃馬車を利用したりはしない。と言うのは、蛇足であるが。
アリアルダとポリーナの会話では、アリアルダがここに来るまでに乗って来たズィンメル家の馬車を使い【ファンタンカ】の所まで乗りつけるということなのだ。
「リョウ、折角だから着替えましょう。そのままでは具合が悪いわ。あなたに合うかは分からないけれど、わたくし、服を幾つか見繕って持ってきたのよ」
要するに御洒落をして街中を歩こうということなのだろう。
「ワタシは……このままでも構わないのですけれど……」
態々着替える必要性を感じなかったリョウはそのように申し出てみたのだが、アリアルダは信じられないとばかりに目を丸くして見せた。その仕草は、どこか芝居掛かって見えたのはここだけの話だ。
「まぁ、それではわたくしとの釣り合いが取れないじゃないの。それにあなただっていつまでもそんな男のような格好ばかりしている訳にはいかないでしょう? 今日はわたくしと同じようにするの。そうして二人して街を歩くのよ。ねぇ、素敵じゃなくって?」
貴族のお嬢様の突拍子もない思いつき………と言う程、それは、リョウにとっては別段驚くべき申し出ではなかったのだが、リョウは薬草採取で草の露塗れになった己が手と泥まみれになったズボンの膝頭を見下ろして、苦笑のようなものを滲ませた。
―――――何もワタシをお誘いにならなくても。
喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、
「では、まず手を洗ってきますね」
そう断りを入れると厩舎近くの水場がある方角へ背を向けた。
「部屋で待っているから!」
シビリークス家の中でアリアルダが遊びに来た時に専ら通される応接間のことを差しているのだろう。
背中に掛かった若い娘のやけに上機嫌な弾んだ声に、リョウは徐に振り返ると片手を軽く一振りして、了解の合図を送ったのだった。内心、一体、どんな風の吹きまわしだろうと首を傾げながら。
それから暫く。
王都中心部にほど近い石畳の敷かれた大通りを、腕を組んで歩く二人のまだ若い娘の姿が見受けられた。その少し後方には、御付きの男が控えめな面持ちでさも前を歩く二人とは関係がなさそうな振りを装って、付かず離れず付き従っていた。
名門と謳われる貴族の未婚の娘が一人で街中をほっつき歩くことなど有り得ない。それは貴族の常識では【あるまじきこと】という認識がなされている。それでも偶にはこうして普通の娘らしく自由に散歩を堪能したいという欲求を満たす為に、ズィンメル本家より付き従ってきた腕っ節にはそれなりに心得のある御付きの男に少し離れた後方から付いてくるようにと頼んだのだ。そして、さも関係がないように装うようにという何とも難しい課題を与えたという訳である。
まぁ、同じく街を歩く人々が見たら、その男もどこぞの家の使用人らしくそこそこ立派な衣服に身を包んでいるので、そのような振りはどこか態とらしく、見る者によっては滑稽に映るのかも知れないが、当人たちがそれでよいと言っているのだから、外野がとかく口を挟むようなことではないのだろう。
アリアルダは薄紅色のドレスを身に纏っていた。草花を模した細かい繊細な刺繍が縫い込められ、レースで幾重にも縁取りがされている贅を凝らしたものだ。その上から腰下辺りまでの白いケープを羽織り、首にはドレスと同じ淡い紅色のショールを巻いていた。ショールの先には、丸く刈った貂の毛がボンボン飾りのように付いていて、軽やかな歩みに合わせてぷらんぷらんと揺れた。
「ねぇ、アーダ」
意気揚々と歩くアリアルダの隣から、どこか困惑を滲ませたような控え目な女の声がした。青灰色の柔らかな色合いの長いドレスの裾からは、幾重にも重なったたっぷりとした白いレースが歩みに合わせてちらちらと覗いていた。灰色の丈の短い外套に毛足の長い白いショールを首に巻いているのは、皆さまの御想像の通り、我らが主人公、リョウである。
リョウが身に付けている服はアリアルダが持参したものだった。アリアルダはリョウよりも上背があり、体格も良い。これはアリアルダがまだ今よりも線の細かった少女時代に着ていたものなのだそうだ。生まれながらの骨格の違いから肩と腰回りが大分余るが、そこは着つけを手伝ってくれたポリーナが上手く合わせてくれたのだ。
こうして根っからのお嬢様と些か年を取った似非お嬢様という珍妙な組み合わせが出来たという訳だ。
リョウは、アリアルダを愛称であるアーダと呼んだ。ユルスナールを巡る一連の恋の騒動があってから次第に心解れた両者は、少しずつ親交を持ち、互いに愛称で呼ぶくらいまでには打ち解けるようになっていたのだ。いや、この場合、劇的に態度を軟化させたアリアルダの方に負うところが大きいのかもしれない。
リョウとしては、よもやアリアルダが、ここまで自分に心を許すようになるとは思ってもみなかった。武芸大会辺りから始まった確執に似た嫉妬に燃える炎のような瞳の色は、今でも目裏に焼き付いていたからだ。
だが、あの騒動以来、アリアルダは憑きものが落ちたようになった。まるで別人のように。心の中にはまだまだユルスナールへの初恋を諦めきれない乙女心と若い娘らしい情熱的な恋心が燻るようにして残っているのであろうが、元より高い自尊心が、それを表に出すことを良しとしなかったのだ。
「なぁに?」
密着するように組んだ腕を引きながら、声を掛けられた本物のお嬢様がやや下にある張りのある白い頬を見下ろせば、リョウは、その口元に何とも言えない複雑な笑みを刷いていた。
ひらひらとしたレースがふんだんに使われた、まるで人形のような格好したまま外出をする羽目になるとは思ってもみないことだったからだ。少女趣味とは程遠い所にあった自意識が外見と中身との差を如実に引き立てて、どうにも恥ずかしさと居た堪れなさが勝ってしまう。文化の違いと言ってしまえばそれまでなのだが、この認識と意識の差は、中々に埋めがたいものなのだ。
リョウは仮装をしている気分だった。これもこれから少しずつ慣れて行くしかないのだろう。ユルスナールの妻となるからには、今後、このような華やかな世界も自らに付いて回ることになるのであろうから。
だが、そのようなリョウの複雑な内心はともかく。意外にもそのドレス姿はリョウの良さを引き出していた。長く垂らした細い【ノーチ】の糸のような黒髪に少しくすんだ初春の空を思わせる青灰色の服地はよく映えていた。それは、凛として、どこか異国情緒溢れる神秘的なリョウの雰囲気を上手い具合に引き立てていた。アリアルダの趣味の良さとその見立てが的を射ていたということでもあるのだろう。
「これからどこに向かう予定なの?」
乗り込んだ馬車の中でも、アリアルダはただ街歩きがしたいと言っただけで、その行き先を明確には告げていなかった。当て所なくぶらぶらとおしゃべりに興じながら歩くのは、リョウも女であるからその楽しさを理解できなくはないのだが、それにしてもアリアルダの歩みは目的を持って歩く者のそれのようで、しっかりとしているように思えたのだ。
「ふふふ。それは…着いてからのお楽しみ」
さり気なく問い掛けた積りだったのだが、アリアルダは小さく含み笑いをするだけで、確固たる答えはくれないようだ。内緒にしてリョウを驚かせたいのだろうか。
でこぼことした石畳を歩きながら、石造りの重厚な街並みに嵌めこまれたガラス窓に反射する着飾った娘の横顔をちらりと盗み見て、北の砦の兵士たちがこんな姿の自分を見掛けたら、きっと大笑いするに違いない。リョウは、何故か、不意にそんなことを思ってしまった。
そろそろ北の辺境が恋しくなってしまっているのかも知れない。少しずつ本来の赴任地である北の砦に戻る準備をしているユルスナールを見ている所為か、リョウの中でもこの場所を発つ心構えができつつあった。既に心はあの森の小屋に飛んでいる。そして帰宅してからのあれこれを考え始めていた。
敢えて口にはしないが、アリアルダもその辺りのことを思って、リョウと女同士、最後に二人きりの時間を持ちたいと思ったのかもしれない。
「まぁ、見て、リョウ。ほら、あそこ」
アリアルダが指で指示した方角には、流しの楽師たちが演奏を行い、それに合わせて軽やかにステップを踏む【スカモーロフ】の姿があった。【スカモーロフ】は手にタンバリンを持ち、大きな熊を模した被りものをしていた。そして軽快な音楽に合わせて、滑稽な仕草で踊っていた。
その周りには人だかりが出来ていて、街行く人が次々と『何だ何だ?』と足を止める為、ちょっとした演奏会のようになっていた。
「ねぇ、リョウ。ちょっと覗いてみましょうよ」
アリアルダにとってももの珍しいことであったのか、ぐいぐいと片方の腕を引っ張るようにして足を進めてしまう。リョウも今日は始終このお嬢様のペースで物事が進行するだろうことを思い、早々に腹を括って、大人しく付いて行くことにした。その際、一応、後方を振り返って、ズィンメル家の使用人兼護衛である男、通称パーシャに目配せをすることは忘れなかった。
体を軽快なリズムで揺らしながら三弦の弦楽器である【バラライカ】を奏でる楽師と長い縦笛を吹く楽師、そしてその楽曲に合わせて踊る【スカモーロフ】の周りには、子供から大人まで多くの見物客があった。その殆どがこの界隈に暮らす庶民だった。
この国では人々の服装から大体の立場が分かる。身に付けている服や物腰は、その者が属する階級毎に明確な違いがあるからだ。この界隈に集まっていた人々は、色合いは其々個性的ではあるが、飾り気の少ない素朴な生地の服を着ていた。その中で、リョウとアリアルダのような上品な娘たちの姿はかなり浮いていたと言えるだろう。
「おい、【ミーシャ】、今度はなんか歌えや!」
ぴょんぴょんと跳ねる熊の面を被った【スカモーロフ】にだみ声の野次が飛んだ。どこかで一杯引っ掛けてきたような男の野太い声だった。
【スカモーロフ】は観客からの申し出に応えるようにさも慇懃に一礼をすると、そこで【バラライカ】弾きの奏でる曲調が変わった。それに合わせて縦笛の音も変化を見せる。
そうして、熊の面を被ったまま、件の【スカモーロフ】から実に朗々とした深みのある声が響き始めた。
惚れたあの子に会いたくて
やってきましたスタリーツァ
深い森から出てみれば
そこはまるで別世界
みんな素敵なべべを着て
面白おかしく笑ってる
そこでおいらは気が付いた
惚れたあの子の名を知らぬ
さーぁて どうして尋ねよか
ソレ
そこでおいらは思い出す
あの子は長い黒髪を
風に靡かせ笑ってた
黒い瞳の別嬪さん
小さな口を尖らせて
熊男は嫌よと突っぱねた
ふふふと口に手を当てて
しなを作って手を振った
そこで、不意に【スカモーロフ】は胸ポケットに差していた小さな花を一輪手に取ると、集まった見物人の中で一際目を引く二人組の所(もしかしなくとも、リョウとアリアルダのことである)の所まで足取り軽くやって来た。
そして、まるで手品のように小さな花を別の見事な花に瞬時に変えて、それを薄紅色のドレスを着た娘に恭しく差し出した。
アリアルダは感激した面持ちでその花を受け取った。その瞬間、今度はリョウの方が何故か、その【スカモーロフ】に手を引かれて、人だかりの真ん中に出る羽目になってしまった。
何が起きたのか分からずに目を白黒させているリョウの周りを熊の面を被った【スカモーロフ】は軽やかにステップを踏みながら、歌の続きを歌い始めた。
その手は、何故か繋がれたままだ。
やぁやぁ これはお嬢さん
ここで会うたが 百日目
名前を教えてくだしゃんせ
噂に違わぬ黒髪に
夜空のようなその瞳
きっと あなたに違いない
おいらを振った 別嬪さん
ここで会ったが運の尽き
想いの丈を楽に乗せ
おいらは歌う 恋の歌
甘く切ない 春の歌:
【あなたに焦がれた わたくしは
ふるさと捨てて 旅に出た
これもあなたに会うがため】
さぁさぁ 教えてくだしゃんせ
どうして おいらを捨てたのさ
リョウの手を握っていた【スカモーロフ】は、そこで、その手を恭しく持ち上げると手の甲に触れるだけの口づけを落とした。
段々と熱を帯びてきた歌声に周りにいた観客たちが沸き立った。
「【ミーシャ】! しっかりしろ!」
「そうだそうだ。ここで男を見せてみろい!」
歌の歌詞が即興なのか、それとも元々このような囃し歌があるのかは分からない。それでも一々歌詞と一致する己が外見に、リョウは内心、冷や汗を垂らしていた。
観客たち(その多くが年配の男たちだ)は、偶々居合わせた見物人の中にその歌の台詞と同じ色合いを持つ娘を見つけて大いに喜んでいる。その顔に困惑に似た曖昧な微苦笑を浮かべながら、リョウが周囲を見渡せば、アリアルダがさも愉快気に手を叩いている姿が見えた。
―――――【ゴースパジ】!
お嬢様はすっかりこの三文芝居のような寸劇がお気に召したようで、連れであるリョウの窮地を救ってくれる積りはなさそうだ。となると、ここは自力で何とかするしかないのだろう。
相変わらず熊の面を被った【スカモーロフ】はリョウの手を掴んだままだった。思いの外、しっかりと握る手には力が込められて、さり気なく振り解こうとしても上手く行かない。
リョウは、途方に暮れながらも口を開いていた。
まぁまぁ これは奇なること
一体 何の話でしょう?
わたしがあなたを袖にした?
とんと 記憶に ござんせん
あなたのような毛むくじゃら
一度会うたら 忘れまい
かわいい かわいい ミーシェンカ
森へお帰り ふるさとへ
パーパとマーマが待ってるわ
あなたは夢を見ているの
長ーい 長い おかしな夢を
どうか早く解放してくれ。そんな意味合いを込めてリョウは繋がれたままの手を見、それから【スカモーロフ】を見たのだが、それは、とんだ逆効果だったようだ。
【スカモーロフ】は『待ってました!』とばかりに足取り軽く飛び跳ねると、歌うような節回しで言葉を継いだ。
何ともつれない御返答!
あなたはおいらを忘れたと
楽しき日々を 川に捨て
すっかり水に流すとは!
遥々都にやってきた
おいらを見ても 知らん顔
あああ! なんと憐れな熊男
恋に破れし 駄目男
寝ても醒めても 夢に見し
焦がれたあなたの面影に
全てを捨てたと言いやるに
そこで悲劇を煽るかのように【バラライカ】の弦が掻き鳴らされた。そして甲高く澄んだ笛の音が響き渡った。それに合わせるかの如く、【スカモーロフ】は嘆き悲しむように顔に手を当てて、よろよろと芝居っ気たっぷりにたたらを踏む。
両手で額を覆った【スカモーロフ】にリョウは今だと思った。
するりと手を引き抜いて、リョウは微笑みを浮かべて真似るような足取りで軽やかにステップを踏むと、人だかりの中心から飛ぶように離れた。
それはとんだ御愁傷
あなたは一人で勘違い
とんだ ミーシャの早とちり
他を当たってくださいな
あなたが惚れた別嬪は
わたしなんかじゃぁ ござんせん
あなたが恋いした娘御は
どこか 一人で もの想い
きっと どこぞで 待っている
焦がれたミーシャが来ることを
それでは 皆さん 御機嫌よう
そんな台詞を上手い具合に節に合わせながら、リョウはアリアルダの元に戻った。
さも芝居掛かった仕草でリョウを引き留めようとした【スカモーロフ】に片手を一振り。
そのつれない仕草にとんだ色男を袖にしたと見物人たち(中でも男たち)はやたらと盛り上がり、やんややんやと野次を送る。
最後は少し悪乗りした感が無きにしもあらずであるが、精神的に消耗した気分でなんとか振りきれたと思ったのも束の間、アリアルダが感激したようにリョウの腕を掴んだ。
「リョウ! すごいわ。あんな芸当をもっているなんて。もしかしてあの【スカモーロフ】と知り合いなの?」
やや興奮気味な様子でその橙色の瞳を好奇に輝かせたお嬢様に、
「…………アーダ…………」
リョウはなんともいえない複雑な顔をして笑ったのだった。
そんなちょっとした余興を挟んでから、漸くアリアルダはリョウを目的の場所に連れて行った。
それは小さな小間物屋だった。若い娘たちが喜びそうな品々を集めて売っているようだ。繊細なレース編みのハンカチから髪留め、小物入れなどなど。華やいだ雰囲気の中に小さな物が品よくショーケースの中に展示されていた。
きっとオリベルト将軍はこういった小さくてかわいらしいものに心躍らせるに違いない。リョウは可憐な小物繋がりで、たっぷりとした髭面の生粋の軍人の顔を思い出していた。
そんなことに気を取られている間に、
「ようこそいらっしゃいました。ズィンメル様のお嬢様」
店の女主人が柔らかな物腰で新しい客人を持て成そうとにこやかに挨拶をすれば、アリアルダは、その華やかな顔立ちに貴族の婦女子らしい気品ある笑みを浮かべた。
「この間、頼んでいたものを引き取りに伺ったの。もう出来上がっているかしら?」
「はい。勿論でございますとも」
どうやらここはアリアルダの個人的な用事のためであったようだ。それなら何も秘密などにせず、小間物屋に行きたいのだと言えば良かったであろうに。
そんな他愛ないことが頭の隅を掠めたが、小さくとも贅を凝らした繊細な小物たちにリョウの意識は早速奪われて、女主がアリアルダの用事を務めている間、店内を見て歩いた。
エナメル細工と思しき金属に七宝焼きのような丸い楕円形の石だろうか、それとも陶器だろうか、そこに繊細な草花が描かれているブローチやペンダント、ブレスレットが置かれた一角があり、リョウの目はその美しさに釘づけになっていた。
【フィニィフティ】と言っていただろうか。確かそのような名前であったように思う。スフミ村の収穫祭の時に姉のエレーナから結婚祝いにもらったのだとアクサーナが嬉しそうに見せてくれたのだ。
アクサーナから見せてもらったものは丸い形をしたペンダントで、そこに描かれた花の紋様は一つ一つ職人が手描きで描いているものなのだそうだ。完全なる一品物である。こういう品物を見るにつけ、数多もの手軽な複製もので溢れていたかつての環境を思い出しながら、リョウは、失われてしまったかつての常識を偲びつつも、手作りの温もりを大切にするようにそれらを目で愛でた。
そうこうするうちに奥にいた女主が件の品物を手に戻ってきた。衝撃を吸収するように天鵞絨を敷き詰めた【タレールカ】の上に恭しく小さな物が乗っていた。
「まぁ、素敵だわ」
両手を合わせて感嘆の声を上げたアリアルダに小間物屋の女主は、品よく微笑みながら合槌を打った。
アリアルダの好み通りのものが出来上がったのだろう。嬉しそうに微笑むアリアルダが何だか少女のようで、微笑ましく二人の女性の遣り取りを眺めていたリョウにアリアルダがこちらに来るように呼んだ。
「リョウ、こちらにいらして」
リョウは素直に頷いた。
アリアルダの手の中にあったのは髪留めのようだった。銀細工だろうか。マルカジットとシードパールの組み合わせを思い出させるような、リョウにとっては少し古風なデザインだ。緩やかな楕円形を描く掌半分程の大きさで、表にはびっしりと小さな貴石が埋めつくすように紋様を描いていた。色合いはセレブロの虹色の瞳を思い出させるような綺麗なグラデーションだった。
「うわぁ、……きれ…い」
その漆黒の瞳を見開いたリョウにアリアルダは嬉しそうに微笑んだ。
「さ、リョウ。ちょっと後ろを向いて頂戴」
「アーダ?」
有無を言わせぬように促されて、リョウが大人しく後ろを向けば、リョウの脇に流れた黒髪を手櫛で掬い上げたアリアルダは、その髪留めをリョウの髪に留めた。
「ふふ。思った通り綺麗だわ。この素敵な黒髪に映えている」
―――――わたくしの見たても中々のものでしょう?
そう言ってどこか得意げに振り返ったアリアルダに女主も相好を崩した。
「ええ。とてもお似合いでいらっしゃいます」
「あの………アーダ?」
狐に抓まれたような顔をしたままのリョウにアリアルダは茶目っ気たっぷりに笑い、驚きに見開いた夜空のような瞳の前に小間物屋の女主から手渡された手鏡を二枚差し出した。合わせ鏡のようにして後頭部を見てみろということなのだろう。
リョウはその鏡を手に取ってアリアルダが付けた髪留めを見てみた。
「わたくしからのちょっとした餞別よ。リョウ、あなたのことだから、こういった髪を飾るものなど持っていないでしょう? これからは女を磨かなくっちゃ。ねぇ、そうでなくって?」
―――――いつまでも少年と間違えられているようじゃ、ルーシャに呆れられてしまうわ。
それは自尊心の高いお嬢様であるアリアルダ特有の少しツンとした物言いであったが、リョウはアリアルダなりの気遣いに感激して、心の琴線が揺さぶられたような気がした。辛辣に聞こえるような言葉もそれは表面だけでアリアルダの気持ちを十分理解出来たからだ。
「ワ…タシ…に?」
感動の所為か、少し声が掠れた。鏡の中に反射する驚きに満ちた女の顔の横にちょっとした【シュルプリーズ】が成功したことを喜ぶ若い娘の悪戯っぽい顔が映り込んだ。
小さな手鏡に映った二人の娘たちは、そのまま互いに顔を見交わせて幸せそうに微笑んだのだった。
アリアルダの用事とはこの小間物屋のことであったようだ。そのまま、リョウはアリアルダと小間物屋の女主に礼を述べ、髪留めを付けたまま店を出た。
ここに来るまで大分歩いたので少し休憩をしようかという話になり、王都で若い娘たちに評判だという喫茶店に向かうことになった。
リョウは道々、貴族の婦女子たちの日常や嗜みについてこれまで気になっていたことを尋ねたりした。
そうやって他愛ないお喋りをしながら、上機嫌で様々な人々でごった返す大通りに戻ってきたのだが、ここですんなりと目的地に到達しないのが、我らが主人公の主人公たる所以である……のだが、当然のことながら、当人たちはそのようなことは分かっていなかった。
賑やかな大通りに出てくるとリョウとアリアルダのような華やかに着飾った貴婦人たちの姿もちらほらと見受けられるようになっていた。そのことについ安堵の息を漏らしてしまったことがいけなかったのだろうか。張りつめていた気を少し抜いた所で、アリアルダが前から歩いてきた男とぶつかってしまったのだ。それだけならともかく、どうやら男が腰に佩いた長剣がアリアルダのスカートの裾に絡み、引っ掛けてしまったようだった。余裕を持って歩いていた積りであっても、帯剣する男たちとの間合いを掴みかねてしまったようだった。
軽い接触だけならば、『申し訳ない』と謝れば済んだのだろうが、ここでリョウのような庶民の想像の斜め上を行くのが、お嬢さまのアリアルダである。
ぶつかったことに剣を佩いた男はムッとした顔をしたのだが、それも一瞬で、若い娘の二人組を見ると黙殺するように歩き出したのだが、それにアリアルダが黙っていなかったのだ。
「ちょっと、そこのあなた。お待ちなさい!」
突然、声を上げたアリアルダにリョウは仰天した。
「アーダ!」
慌てて口を噤むように言ったが、深窓の令嬢でもあるアリアルダは怖いもの知らずな所もあって、リョウの狼狽を感じ取ってくれなかったのだ。
「ぶつかってきたのに素通りなんて酷いわ。礼儀に反するとお思いにならなくって?」
あからさまに非難の声を上げたアリアルダに、呼び止められた男はゆっくりと振り返ると剣呑そうな顔付きで、声を上げた若い小娘を見下ろした。
「あ? ぶつかってきたのはあんたの方だろうが」
その男は見るからに強面の傭兵のような格好をしていた。リョウは思わず頭を抱えたくなった。アリアルダは完全に喧嘩を売る相手を間違えたのだ。
「あなたのその剣がわたくしのドレスに引っ掛かったのよ。もう少しで破れる所だったのに。謝罪の言葉が一言もないなんて………」
上体を逸らして剣呑な顔をした男を見上げたアリアルダと生意気な小娘からの罵倒にあからさまに機嫌を悪くした大柄の傭兵の間に、リョウは慌てて体を滑り込ませるとアリアルダの口を塞ぐように男に対峙した。
「申し訳ございません。こちらも余所見をしておりましたから。ぶつかってしまったのはお互いさま。どうぞこのまま、平にご容赦を。お願い致します」
ドレス云々は不問にするから、このまま行ってくれ。そう半ば懇願するように相手を見上げたリョウに、男は下卑た笑みをその口に浮かべた。
「あ? 何だって? とんだ言い掛かりをつけてきたのは、てめぇらの方じゃねぇか。よう、お嬢さんよう」
「その点は申し訳なく」
謝罪を表わす為に淑女の礼に則り顎を下に引いて小さく膝を折ったリョウに、
「ちょっと、リョウ」
アリアルダが抗議するように声を上げたのだが、
「いいからアーダは黙ってて」
それを直ちにぴしゃりと跳ね退けた。
「因縁つけてきたのは、あんたらの方だろうが? あ?」
そう言うと男はゆっくりと辺りを見渡した。
そこには突然通りの中で始まった奇妙な組み合わせの遣り取りに、恐々と成り行きを見守っている人々がいた。娘二人が無頼漢に絡まれた。そのような面持ちでチラチラと視線を送るものの、その娘たちの盾になろうという度胸のある男は、残念ながらいなかった。
強面の男は周囲の視線を煩わしそうに一睨みしてしてから不服そうに漏らす。
「とんだ恥晒しだ」
呆れたように肩を竦めたかと思うと、無精髭の伸びた顔をずいとリョウに突き付けた。
元より身長差がかなりある為、男の方は屈強な体を屈めるようにしている。
「このおとしまえ、どうやって付けてくれるんだ? あ?」
リョウはなるべく穏便に事が運ばれるように祈りながら微笑んで見せた。
相手は見るからに柄の悪い傭兵のような男だが、リョウとしてはただ気押されている訳でもなかった。それなりに修羅場のようなものを潜り抜け、強面の男たちの中で揉まれてきた経験があるからだ。ここでおどおどとすれば、このような男はそこに付け込もうとするだろう。そのような隙を与えてはいけないことは、これまでの経験上、理解できていた。
だが、それは不幸にも男の更なる興味を引いてしまったようだった。
その着飾った女にしては珍しい凛とした物怖じしない態度に男の方が器用に片方の眉を跳ね上げた。
「はっ、こいつはとんだ気の強いお嬢さんたちだ。悪くねぇな」
―――――気のつぇぇのは好きだぜ?
そう言ってぺろりと薄汚れた己が親指の腹を舐める。
「そうですか。お褒めに預かりまして恐縮の次第。ではこれに免じて、もう失礼してもよろしいでしょうか?」
そう言って、そのままアリアルダと共に踵を返そうとしたのだが、
「待てや。まだ話は終わってねぇ。だろ?」
大きな男の手がリョウの腕を掴んでいた。
リョウは、アリアルダに傍を離れるように囁いた。
「アーダ、パーシャの所に」
そこで漸く後方から付き従っていた護衛の男の姿が見えた。パーシャは苦虫を噛み潰したような顔を一瞬浮かべたが、直ぐに表情を改めた。そのパーシャに目配せをして、少なくともアリアルダだけは安全な場所に避難してもらうようにする。
「どうして? リョウはどうするのよ!」
漸く事態の深刻さのようなものに思い至ったアリアルダは、顔色を青くしたのだが、リョウとしてはアリアルダと二人でこの男に絡まれるよりも一人の方がまだ事態打開が出来そうな気がしたので、早く、護衛の男の方へ逃げるように言い放った。
「いいから。早く」
「分かったわ。見回りの騎士団を呼んで来るわね」
そう言って体を反転させたのだが、腹を空かせた猛獣がそう簡単に目の前に転がって来た獲物を逃がす訳はなかった。
男は、俊敏にもう片方の手を伸ばすとアリアルダの腕を掴んでしまった。
「痛い!」
力の加減がなかったのか顔を顰めたアリアルダを庇うようにリョウはその前に出た。
「どうかその手をお放しください。ぶつかってしまったことは謝ります。それでも故意ではなかったのですから。小娘相手に力で当たるお積りですか?」
「あ? 何だと? 気に喰わなねぇなぁ」
無精髭の男はリョウの腕を掴む手に力を込めてめんちを切るように凄んだ。
「その小娘が俺に説教かよ?」
男が吐く息には酒の匂いが混じっていた。そこでリョウは理解した。アリアルダがとんだ貧乏くじを引き当てたということを。
「いいえ。これはお願いと提案です」
―――――実に友好的かつ平和的なやり方ではありませんか。
リョウも負けじと微笑んで見せた。
相手の出方を窺って見つめ合うこと暫し。
すると男が不意に下卑たように口元を歪ませる。
「お願いってんなら、もっと可愛くしてみろよ。てめぇが誠意を見せるってんなら、ここは引いてやってもいい」
「そうですか」
軟化した男の態度にほっとしたのも束の間、
「ああ。精々楽しませてくれるってんならいいぜ? 勿論、こっちの方でな? 面ぁ貸しな」
舐めるようないやらしい目付きで全身を見下ろされて、リョウは思いっ切り顔を引き攣らせた。
「気がつえぇ女は嫌いじゃねぇぜ?」
「申し訳ございませんが、ワタクシには既に決まった相手がおりまして。貴公の御提案には乗ることが出来ません。ですから、この手をお放しください」
リョウは空いたもう片方の手でスカートの下、太ももの部分に忍ばせていた短剣を探った。もしもの時のことを考えて護身用にと身に付けてきたのだが、出来ることならば、このような刃物など使いたくない。
探るように動いたリョウの手に男が注意を向けた。その刹那、一息にスカートを蹴り上げるようにたくしあげて素早く短剣を抜く、不意を突かれた男は反射的に両手を放した。
リョウはそこで小さくとも鋭い声を上げた。
「アーダ、お逃げなさい!」
その隙にアリアルダは驚くほどの反射神経の良さを見せた。
見事逃げおおせたアリアルダに男が舌打ちをする。それでも直ぐに視線を目の前のリョウに戻した。
「あ? なんだ? その細腕で何の真似だ、お嬢さん?」
男が苛立たしげに地面に唾を吐いた。
ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべる男をリョウは睨み上げるように見返した。左手で短剣をその刃が水平になるように構えた。
「それ以上、近づかないでください」
じりじりと間合いを測るように後退をする。
「刃物をちらつかせるたぁ、穏やかじゃねぇなぁ、おい。こいつはとんだじゃじゃ馬だ」
男の方は余裕綽々といった態度だ。
だが、リョウの方も負けてはいなかった。いや、それだけ必死だった。
「ええ。そうですね。ですが、こうでもしないと手を放して頂けないようだったので」
リョウは無事アリアルダが護衛の男の所に辿りついたのを目の端で確認した。
あとは自分が逃げるだけだ。上手く行くだろうか。手探りで鞘を抜いておく。直ぐに剥き出しの刃先をしまう為だ。逃げる途中怪我をしないように。
「言うじゃねぇか、おい」
男の手が腰に佩いた剣の柄に掛かる。あれを抜かれたら、こっちは一貫の終わりだろう。大けがどころでは済まされない。
極度の緊張に足が震えそうになった。リョウは唾を飲み込んだ。
男が剣を抜いたら状況的に引くに引けなくなる。
「ワタクシがこの短剣を収めれば引いてくださいますか?」
女相手に剣を振るうなどとは男としてもみっともないことに違いない。その辺りの男の自意識を擽るように言葉を継ぐ。この論理が男に通じることを祈りながら。
「嫌だと言ったら?」
男の口元が吊り上がった。
このままでは平行線を辿りそうな気がして、リョウは短剣を前に掲げたままゆっくりと鞘にしまった。視線は男に向けたままだ。
男がニヤリと笑みを深くして、大きな手を伸ばそうとしたその時だった。
「何をしている!?」
騒ぎを聞きつけたのか、運よく見回り途中の兵士たちがやって来て、リョウは事なきを得た。その腕に黄色の腕章を巻いていることから街の治安維持を担う第四師団の兵士たちのようだ。
リョウと男の元にやってきたのはスタルゴラド騎士団の平時の隊服に身を包んだ三人の男たちだった。その中の一人にリョウは見覚えがあった。イースクラの一件で世話になった【班長】と呼ばれていた男だ。
兵士の登場に絡んでいた無頼漢のような男は、あからさまに面倒臭そうな顔をして舌打ちをした。
「バルトー、またお前か」
どうやらこの男は、揉め事の常習犯のようだ。
「あ? なんだよ」
「いえ。ワタクシどもの方も悪いのです」
元はと言えば、アリアルダが必要以上に突っかかったのがいけないのだ。
リョウは、この場合とんだとばっちりを受けた一番の被害者になるのであろうが、事を荒立てない為にそう進言した。
そこで兵士たちの視線が青灰色のドレスを着た娘、リョウの元に注がれた。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
「はい。お騒がせして申し訳ありません。セイラムさん」
三人の兵士の中心にいた男にリョウが微笑みかければ、班長は少し目を見開いて、そこで改めてリョウの顔をまじまじと見たかと思うと、急に合点したように頷いた。
「あなたは、あの時の……いや、ルスランの……」
「はい。その節はお世話になりました」
そこでセイラムは、大きく溜息を吐いてさらさらとした髪をかき上げたかと思うと、何とも言えない顔をして、バルトーと呼ばれた傭兵風の男を見た。
「バルトー、お前、命拾いしたな」
「あん?」
その台詞にリョウは苦笑い。不可解な顔をしたままの男をそのままに、セイラムは軽くバルトーの肩を叩くと共に連れた二名の部下に簡単な事情聴取をするように命じた。
「リョウ!」
そこで漸くこの騒動の元凶とも言えるアリアルダと御付きの男パーシャがやってきた。
「申し訳ございません」
役に立てなかった事を詫びた護衛の男にリョウは気にすることはないと微笑んだ。
「いいえ。パーシャさんの所為ではありませんから」
自由な気分を満喫したいからという理由で二人と距離を置くようにと言ったのはアリアルダの方なのだ。元はと言えばこちらの我儘。その責任を護衛の男が徒に感じる必要はない。
「ごめんなさい、リョウ。わたしが……わたしが……」
パーシャに体を支えられながらその白い顔を青くさせたアリアルダにリョウは心配はいらないと穏やかに微笑んで見せた。
「ワタシは大丈夫。それよりもアーダ、顔色が悪いわ」
その色を失くした頬にそっと手を伸ばせば、アリアルダはリョウの手に静かに己が手を重ねた。
「もう心配はありません。どうやら怖い思いをされたようですね」
そこへセイラムが紳士然りとした物腰で歩み寄ると優しく声を掛けた。それは以前とは違う丁寧な口調だった。相手によって変えているのだろう。
「どこかで少し休みましょうか。温かい飲み物でも口にして、少し落ち着かれた方が良さそうだ」
そこでリョウはアリアルダとお茶をする為に【カフェ】に向かっていたことを思い出した。
「【ザラトォーイェ・カリィツォー】へ行く途中だったんです」
「ああ。あそこは評判の店ですからね。お茶も美味しいですし、最近は焼き菓子が人気だとか」
セイラムは、スタリーツァの治安を守る兵士として情報通らしく鷹揚に頷いた。
「では、そこまでお送り致しましょうか」
「あの、ワタクシたちに聴取はしなくてもよろしいのですか?」
先程のバルトーとの一件について、リョウは自分たちも軽く事の経緯を問い質されるだろうと思っていたのだ。
その問い掛けにセイラムは穏やかに微笑んだ。
「あなた方のようなご婦人を詰所に連れて行ったら別の意味で大騒ぎになるでしょうし、第七の方からどんな横槍が入るか分かりませんからね」
そう言って茶目っ気を滲ませながら片目を瞑って見せる。
言われてみれば尤もだ。着飾った若い娘があのような兵士たちで溢れる男所帯に姿を見せれば、仕事どころでは無くなるだろう。
その時の様子が簡単に思い浮かんで、小さく笑いながらリョウは言葉を継いだ
「では、後でワタクシがお伺い致しましょうか」
いつものようなズボンを穿いた格好をしていれば問題はないだろう。
「とんでもない。あなたに御足労いただく訳には」
顰め面をしたユルスナールの顔でもちらついているのだろうか。頻りに恐縮するセイラムをリョウは笑って制した。
「いいえ。そのようなお心遣いは無用です。こちらも悪かったのですから。詰所には他にも用事がありますから」
リョウがこの間のザイークとの一件を思い出しながら口を開けば、セイラムは一度、引いて見せた。
「では、後ほど。勿論、第七経由での伝達でも構いませんので」
「はい」
そんな遣り取りの間、やけに静かになった隣をふと見遣れば、アリアルダは何故か食い入るようにセイラムの方を見ていた。仄かにその頬が赤みを差しているのは気のせいだろうか。
リョウは、思わず吹きだしそうになった。
そのまま【カフェ】へ送ろうと再び申し出たセイラムにアリアルダは頬を染めて恥じらうように頷いていた。そして、恭しく差し出された手に繊細な白い手を乗せた。
その打って変わった娘らしい態度にリョウは思わず御付きのパーシャと目を見交わせて苦笑した。
その後、セイラムのエスコートを受けてリョウたち一行は目的地であった喫茶店【ザラトォーイェ・カリィツォー】に辿りついた。
さすが王都の人気店、テーブルは既に多くのお茶を楽しむ客たちで埋まり、おしゃべりの声がささめいて賑やかなことこの上なかった。
そして、ここでリョウには思いもよらない事態が起きた。
アリアルダが、何を思ったのかセイラムをお茶に誘ったのだ。大胆すぎる振る舞いに驚くのも束の間、だが、思慮深く真面目な班長は、軽く微笑んで、
「折角のお誘いですが、勤務中ですので」
そつなく若い娘の誘いに断りを入れた。
そして、颯爽と踵を返した班長の後ろ姿をアリアルダはどこか熱を含んだ眼差しで見送っていた。
それは、うら若き深窓の御令嬢の新しい恋の予感のようなものだった。
こうしてアリアルダは、先程の無頼漢に絡まれた恐ろしい記憶をあっさりと塗り替えて、温かな飲み物と美味しい焼き菓子を手にほくほくとした心持ちで、爽やかに微笑む班長の穏やかな顔を思い出していたのだった。
その後、このやんごとなきお嬢様との街歩きは、無事終わりを告げた。
予想外の副産物をもたらして。
お付き合いいただきありがとうございました。
スカモーロフの歌は、三味線片手の小唄のお師匠さんを思い浮かべながら捻りだしました。都都逸的…でしょうか。本当はもっと韻を踏めていたら楽しいのでしょうが、kagonosuke にはそこまでの文才はなく……。
ミーシャというのは一般的なコグマの愛称です。
それではまた次回にお会いいたしましょう!




